夜宴の面/代理役者/魔術師の末娘たち(4)
この状況をどうにかしてくれるなら、悪魔にだって喜んで教えを乞うだろうな。
そんな考えとともに、少年はぼんやりと壁に寄りかかった。
早朝の淡い太陽の中で、探偵事務所の室内はまだ薄暗い。あたりは静かだ。静かで人の気配もない。鳥も鳴かない。往来を行き交う車の音もしない。あまりにも静かなせいで、少年はじんわりと眠気がにじんでくるのを感じた。眠気、虚脱、あるいは疲労と言い換えてもいいかもしれない。朝一番のなにもしないうちから、まるで一晩中踊りあかしでもしたかのように、全身がだるくくたびれていた。それに相変わらず、二日酔いでもしたように頭が痛む。昨日よりはいくらかましになったが、身体に問題でもあるのだろうか。
……それとも、年をとると毎日こんな感じなんだろうか。
ふと浮かんだ恐ろしい考えを、少年はぶるぶると首を振ってかき消した。同時に脳裏に、おれはきたえてるんだ、年寄りあつかいなんて失礼な、名誉にかかるぞと訴える怪人も浮かぶが、ついでにそれもかき消しておく。
さて、あれから丸一日が経過した。
あれから、というのは、少年と怪人の中身が入れ替わってから、という意味だ。
夜が明けて朝になっても、少年と怪人は入れ替わったままだった。
別に少年のほうでも、このままの状況をよしとしたわけではない。だがこうなった原因にまったく心当たりがない以上は、いくら少年が優秀な探偵でも手をこまねく他にはしようがなかった。そもそもこの状況はいったいなんなのか。魂が入れ替わったのか。魂ではなく精神や心と呼ぶべきか。もしくは一晩のうちに肉体だけが相手のものに変容したのか。あるいは入れ替わってなどおらず、互いに互いのことを自分だと思いこんでいるだけなのか。
じっくりと考えてみた。
が、まるでわからない。
少なくとも、自分は自分で、怪人ではない。そしてそれを考えている自分は怪人の身体にいる自分であり、元の少年の身体にはいない。自分は名探偵の助手であり、弟子であり、少年探偵だ。そのことだけは譲れない。むしろそこを譲るとただでさえ不確かな存在が根本から揺らぎかねない。ゆえにことの解決に対しては真剣なのだ。なんならぜんぶ夢であってほしいとさえ思っている。でなければ、なんの因果で仇の身体に乗り移って、仇の顔で生活せねばならないのか。いい迷惑だ。
一方の仇――怪人はというと、こちらはさほど深刻に捉えていないらしい。昨日はいくら少年が真剣に意見を出しても、返ってくるのは適当な返事ばかりだった。他人の足がよほど珍しいのか、ソファに座って半ズボンの足をパタパタとやりながら、
「ちょっとこのまま出かけるってのはどうだ。顔をつきあわせてたってしかたないだろう。それよりは気分を変えるのが大事じゃないかね。買い物なんてのはどうだ。服だとか、靴だとか、鏡もなしに自分の姿を拝めるなんてのはそうないことだぜ。試着するそばから他人の目線で見られるんだ。これぞ究極の客観的目線ってもんだ。ねえ、どうだい。面白そうだろう。ご一緒しないかい」
もちろん却下だ。
どうも怪人のほうではこの状況を楽しんでいるらしい。ここしばらくは事務所にいても展開のない日々が続いていたから、トラブルをイベントと誤認している節すらある。少年としてもその感覚がわからないでもないから嫌になる。自分だけでもまともでいないと、歯止めがきかなくなりそうだ。怪人は少年の顔で唇をとがらせると、
「じゃあ銭湯にしよう。そこの角を曲がった先の通りに煙突屋根があっただろう。そんなものがあったかって? きみでも見落とすことがあるんだねぇ。あったよ。あると思えばあった。古めかしいけども立派なのが一軒。湯につかればいい気分転換になるよ。いいアイデアも浮かぶってなもんだよ。どうだい。さすがに湯浴みくらいはいいだろう」
さすがにもなにも、もちろん却下だ。
大方、怪人はこのまま他人の身体でどんな遊びに興じてやろうか、と算段しているに違いなかった。意見を交換しようにも、早々に切り上げてしまいたいのが目に見えているものだから、これでは話し合いにならない。どうにか理由をつけて目の届くところにつかまえ続けたはいいが、昨晩はもうそれ以上、行き詰まってお開きとなったのだ。
それが昨日の話。
なにが「そんならもう床に就くくらいしかないな。寝て起きたらこうなってたんだから、もう一度寝て起きてみたら案外すんなり戻るかもしれないねぇ」だ。ちっとも好転していないじゃないか。
「早いとこ戻らないかしら」
少年はのそのそとソファに座った。
他人の身体に入り込むというのは、サイズの合わない着ぐるみを無理やり着させられているような、奇妙な違和感を常に伴うものだった。まず、見える景色がずいぶんと違う。床までの距離が遠い。座ると足が余る。まるで竹馬にでも乗せられたような心地だ。それも、竹の代わりに肉でできた、触れば感覚もあって、動けと念じれば意のままに動かすことができ、馬鹿に力が強い竹馬。小柄が売りの少年探偵としてはまったく持て余さざるを得ない。起きてからここへ来るまで何度つまずいたか知れないし、さっきだって肘をぶつけて食器棚のガラス戸を割るところだった。ものの縮尺が違って距離感が狂う。
「便利なこともなくはないけれど……」
棚の上のものを取るのに台を持って来なくてもいいのは、たしかに便利だ。いまだって、ソファに身体をあずけたままでも、ちょっと腕を伸ばせば、テーブルの真ん中に置いたマグカップも楽々とつかむことができる。だがそれだけだ。そしてそれだけなら、ちょっとの労力をはらうほうが万倍もまし。ううん、とうなる声も他人の声では、落ち着けるはずもない。
少年は少しぬるくなったコーヒーをすすった。いつもと同じように淹れたはずが、感じる味が普段と違う。ほろ苦く、酸味が舌に残るような感じがして、あまりおいしくない。淹れるときに失敗してしまったのか、はたまた他人の舌だから違って感じるのか。
「そういうもんかなあ」
「なんの話?」
「うわっ」
視界の外から声をかけられ、少年は飛び上がった。
「もう、せんせってば大げさですよ」
振り返って見れば、黒髪に詰め襟の小柄な少年――すなわち、怪人に乗っ取られた少年探偵の身体が、すぐ真後ろで両手を口にあてて、くすくすと笑っていた。いつのまに。
「おどろくじゃないか!」
「だってきみがあんまり油断しているもんだから」
怪人は少しの悪びれるところもなく言った。
「それともなにか、後ろから抱きついて『先生、おはようございます!』くらいやったほうがそれらしかったかい」
「それらしいってなに」
「だから、先生に対するきみが」
ソファの背にぽんと手をつく怪人を警戒しながら、少年はコーヒーで濡れた手の甲をぬぐった。もしも熱々のコーヒーが入っていたら危うくやけどするところだった。この身体がけがなんてして、戻ったときに困るのは自分のほうだぞ、とにらみつけてみるが、話を広げることに夢中な怪人にはまったく効果がない。
「……から、おれがせっかく普段からやつに変装してやってるのに、きみときたら全然乗ってこないんだもの。恥ずかしがる気持ちもわかるけれども、そんなんじゃいざ仲むつまじい師弟を演じるってなったときに困るでしょう。だからおれが、いやぼくが、代わりにお手本になってあげようじゃないですか。それで? ぼくはいつも先生とどう過ごしましたっけ? ぼくにひとつご教授くださいよ、ねえ、せんせ」
「知るもんか」
わざとらしい作り声を無視して、少年は台所へ向かった。このままここで自分の顔だけど自分じゃない自分と話していたら、気が変になりそうだ。話していると背筋がぞっとする。
台所は作業途中で小休憩に出たせいで、水につけたボウルや木べらが流し台に置かれたままになっている。少年はコーヒーを飲み干すと、手洗いがてら蛇口をひねった。流しの横に置かれたスポンジに水をふくませ、軽く揉んで洗剤を泡立てていく。
後ろをとことことついてきていた怪人は、調理台をのぞいて、へえ、と感心の声を漏らした。
「スコーンか、いいねぇ。おれのぶんはジャムを少なめにして、クリームをたっぷりそえたのにしてくれよ」
「注文が多いなあ。朝からそこまで用意してないよ」
「そうかねえ? おれはてっきり、きみがあんまり寝つけないもんだから、朝早くから起き出して、気晴らしに菓子作りでもしているのかと思ったのに」
とぼけた調子の憎まれ口も、自分の顔でやられると腹立たしさがいっそうだ。なにより、寝つけず気晴らしに――明け方にどうしても目が冴えて作りはじめたもの――というのは図星だ。少年は内心ではどきっとしたが、態度には出さずに答えた。
「そんなんじゃないや。前に材料を買ってあったのを、朝食用に作っていただけさ。この身体で普段の用事が務まるのか試したくてね」
「ははは、そりゃさぞかし出来の良いのが作れただろう。おれの手指は器用だから、きみには持てあますくらいじゃなかったかい。ひとつご相伴にあずかりたいねぇ。クリームならほら、おれが前に冷蔵庫に買っておいたのがあるじゃないか、あれを使ったらいいよ」
「なら自分で用意するんだね」
「ねえ奥村くん」
「なに? 僕はそんな名前じゃないけれども」
「じゃあ玉村くん。ちょっと」
「玉村でもない。なに?」
しつこく呼びかけられ、少年は首だけを声のほうへ向けた。
「届かないよ」
ほら、ほら、ふふ、とおかしそうに言いながら、怪人は背伸びをして冷蔵庫の一番上の段に手を伸ばしている。てっぺんの段の奥のほうに、ジャムやらバターやらの器が見えた。少年はもうなにもかもうんざりして、反り返った学生服の背中に言った。
「……そっちの踏み台を使えばいいでしょう」
「きみも色々と大変だねぇ」
「背が小さくて悪かったね」
「いやいや、ねぎらってるんだよ。手なんてこんな小さいのにあれこれお手伝いをして、きみはえらいねぇ。……ああ、これは困ったぞ」
「まさか今度はビンの蓋が固くて開かない、なんて言わないだろうね」
「ハハハ、さすが名探偵だ。なんでもお見通しだ。そんじゃこいつは先生にまかせて、おれはスコーンでもあっためるかな。きみのぶんもあっためてあげようね。いくつにする?」
怪人は鼻歌まじりにスコーンをトースターに並べていく。
……いったいなんのつもりだ?
少年が真っ先に感じたのは、違和感よりもまず不気味さだ。
怪人が上機嫌なのは口数の多さ、声色からも明らかだ。今日は馬鹿に機嫌が良い。普段は朝からこれほど浮かれていない。ふたりとも、朝はどちらかといえば一日の中でも静かに過ごすほうで、今朝のやつはなんといえばいいのか、そう――はしゃいでいる?
少年は自分の姿をした怪人を横目でこっそりと観察した。
怪人はいま、洗い物をする少年の横にぴったりとついて、布巾を手にして濡れた食器を待ち受けている。しかも、なんだか上機嫌に。本物の少年探偵の視線に気がつくと、少年探偵の偽者はりんご色のほっぺを照れ笑いするようにはにかませた。
「ふふふ、いやあ、相手は自分で中身はきみとわかっちゃいるが、その格好じゃあ、先生に給仕をさせているようで、なんだか悪い気になるねぇ。お客さんになった気分だよ。これじゃいけないねぇ。よくないねぇ。ぼくも助手としてひと働きしないと、先生に叱られるからね」
「そ、そう」
「そうそう」
と少年が渡したボウルをくるくる回して拭いていく。
傍目にわかるような変化はない。いや、あるといえばある。妙に身なりがきちんとしている気がする。普段は「探偵なんて毎日ネクタイを締めてきびきびする身分じゃないんだから」と背広の前すら締めようとしないのに、今日は詰め襟を一番上までとめている。髪にもちゃんと櫛も通しているらしく、朝の光がつむじの周りに天使の輪っかを作っている。そのさまはどこからどう見ても、詰め襟服の可愛らしい少年探偵助手だ。
……なにか悪だくみをしちゃいないだろうな。
少年はやはり素直にそう感じた。鏡のなかの自分が鏡の向こうから話しかけてきたとしたら、というのは、前に三人の自分と密室に閉じこめられたときにも思ったことだが、怪人のこれは、悪魔が自分の姿を借りて鏡の中から出てきたら、だ。
と、少年が――いや、少年探偵のガワをまとった怪人が顔を上げた。
「そうだ、ぼくお茶いれますよ。先生はなんにしますか?」
妙にはずんだ声で、こちらへ笑みを投げかける。
怪人がこれで自分のふりをしているつもりらしいのが、少年には何より不気味だった。
「それで、きのうはおとなしく過ごしたんだろうね」
朝食の席についた少年は、なるべくなんでもないふうに尋ねた。よからぬことをたくらんでいないだろうな、と尋ねなかったのはせめてもの良心だ。
「うん?」
「ゆうべは、くたびれたから休みたいって言って、早めに引き上げたじゃないか。あのあとよく眠れたのかい。ちゃんと部屋でおとなしくして休んだんだろうね」
「なんだい、気づかってくれてるのかい、きみがおれを? 珍しいねぇ」
そわそわと浮つく口の端に対して、別におまえを気づかっているわけじゃないぞ、自分の身体のことだからね、と釘をさす。向かいに座る怪人はそれでも構わないようで、「そうだねぇ、きみの身体だからねぇ」と紅茶のカップを置き、ほっぺを両手で揉みこんだ。
「やっぱりきみも夜更かしには気をつかうかい。肌には出てないと思うけれども」
「じゃ、あまり眠れなかったの」
「身体が違うと寝つきが悪くてね。きみはどうだい。よく眠れた?」
「まあ、そうだね。あんまりね」
この身体だとベッドがあんなに窮屈だとは思わなかった、手足を縮めて横たわったせいで全身の筋肉が軋みをあげている、おかげで背広に腕を通すのも一苦労だった、散々だ、と口にしないのは強がりだ。
「じゃあ夜はずっと部屋にいたんだね」
「どうだろうねぇ」
「どうだろうねってのはなんだい」
「散歩だよ散歩。ただの散歩」
「それじゃ外に出てたのかい?」
「怖い顔だな。子供じゃあるまいに、散歩くらい別にいいだろう」
そう言われても少年のほうでは、眉間にしわが寄るのをおさえることができない。夜はいけない。良くないのだ。事務所を取り巻く環境は、前よりは少しましとはいえ、ひどく曖昧だ。日のあるうちはまだいいが、歩いている間にも通ってきた後ろで街灯の数が変わるような町だ、来た道を戻ろうとして目印を見失ったら戻れなくなる。どこにいるのかわからなくなるならまだしも、ここにいるのが自分なのかまで曖昧になっては、恐ろしいまでの暗闇にひとりで取り残されることになる。
「夜はふるいぼくらの友人じゃないか」怪人はさも当たり前のことだとばかりに、くどくどと言った。「なにが恐ろしいもんか。魂を灯りにすればどこへいったって帰ってこられる。夢の中で夢を見るなんて芸当は造作もない、それこそ朝飯前ってね」
「何度も言うようだけれど、それは僕の身体なんだからね。持ち主に断りなく勝手をしないでくれよ」
「心配性だねぇ。きみが心配するようなことはしちゃいないよ。ほんのすぐ近くまでだ。ちょっと川を渡って、すぐ戻ってきたじゃないか。しっかりおれを見張らなかった以上、きみにしかられるおぼえはないぜ、せんせ」
「どうだかね。きみのいうことだもの」
怪人が紅茶をすするのにつられて、少年もまたティーカップを持ち上げた。湯気こそ立っていないがちょどよい飲みごろだ。少年は目だけを相手のほうへ向けた。
「……どうせ最初から、きみがおとなしく過ごしたなんて思ってないよ」
「聞きたい?」
怪人はりんごほっぺを両手で包み、自慢話でもするような調子で言った。
「だって、きみの身体なわけだろう? そんなら色々と、ほら、色々とあるじゃないか。おれも顔はいくらだって変えられるが、身体ごと丸ごとなんてのはさすがに初めてでねぇ。いてもたってもいられなくってつい、ついはしゃいでしまったよ。さすがのおれもくたびれたね。ふふふ」とにやにやと不気味な笑みを浮かべ、聞いてもいないうちから「ああ、心配したかい。きみの不利益になるようなことはしちゃいないぜ。きみの名誉に誓ってね」と付け加えた。
怪人が話し続ける合間にも、少年は無心を唱えてスコーンを半分に割る。一口目はなにもつけずに頬張る。ほんのりと甘いがこれだけでは味気ない。紅茶で一度口の中を潤して、割った断面に苺のジャム、それからクリームを乗せ、スコーンにはジャムとクリームを塗る順番があった気がするなと思い出し、もう半分は逆の塗り方を試すことにする。
「でも……ウフフフフ、きみってば可愛らしいねえ。前々から思ってたけども、華奢で色も白くってなにを着ても似合うんだもの。今日のこの服も、どれか一着に決めるのが悩ましくて、朝から何度も着替えてしまったよ。けれどもやっぱり詰め襟が一番だと思ってね。いつ戻るかわからないんだから、やっぱりオーソドックスなのを着ておきたいじゃないか。おい、どうだい。おれもなかなか気がつくだろう。きみの身体をこんなふうに見おろす日がくるとは思わなかったけども、これもこれで悪くはないねえ。そうだろう?」
「聞きたくない」
少年はポットを傾けてお茶のおかわりを注いだ。
「今日もこのまま戻らなかったら、晩は縄でつないで寝てもらうからな」
自分でも驚くほど平静なのは、予想できていたからだ。上機嫌の理由はこれかと腑に落ちた。むしろ夕べのうちに身柄を取り押さえておかなかった自分を悔いてさえいる。自分の身体にそこまでするのはさすがにどうだろうか、と手心を加えたのが悪かった。
「きみも冗談を言うんだねぇ。おれに縄だって! おれがどんな縄ぬけの達人か知っているだろうに。そういうきみのほうはどうだい、きみもゆうべは楽しんだかい?」
「しないよ。するわけないだろう。おまえと一緒にするな」
「そう照れなくたって、ぼくは咎めたりしないのに」
「一緒にするなってば」
「なんだいそんなこと言って、」
怪人は冷やかしの言葉を交えつつ、丸々としたスコーンにかじりつこうとして、口を開けたところで逡巡した。半分に割ってはいたらしいが、それでも一口でかぶりつくには大きすぎたらしい。その場でもう半分に割って、さらにもう半分にして、それでもまだ少年の口には大きいくらいなところを、なかば押しこむようにして口に詰めこんだ。
「……『僕』はものを食べるときに、そんなふうにぼろぼろこぼさないぞ」
「しょうがないだろ、なれてないんだから」
怪人が口を押さえてもごもごと言う。その胸元はスコーンの白いくずだらけだ。黒い学生服に星座のように点々としている。口の中のものを飲みこむのに忙しいのか、怪人はそれ以上なにも言わなかった。
……こんな姿、とても先生には見せられないな。
あんな口の利き方をして、食べ方をして、もしも先生の目に入ったら弟子が不良になったと思われるかもしれない。そうでなくとも、怪人がこのまま先生に会ってみろ、『少年探偵』の見た目を利用して先生にどんな罠をしかけたものかわからないのだ。ここに先生がいなくてよかった。いたとしても、先生ならこっちは偽者だと気づいてくれるだろうけれど。
少年は頭を掻いた。耳の後ろでもじゃもじゃとした縮れ毛が指に引っかかり、それでふと夕べからの疑問がよみがえる。
「ねえ」
「うん?」
「この顔は本当に変装なんだろうね?」
「おかしなことを言うね。変装じゃないならなんだっていうんだ?」
怪人は紅茶をぐびりと飲み干すと、いかにも物わかりの悪い子供に言い聞かせるような口振りで講釈を垂れた。
「おれが探偵の先生になりすます。きみがそれに乗ったふりをしておれを支える。それで偽者の様子を見に現れるであろう先生をおびきだす。そういう作戦じゃないか。まさかもう忘れちまったってんじゃないだろうな?」
「そうじゃなくて」
少年は自分で自分の頬を引っ張ってみせた。
「これだよこれ。これ本当に変装なのかい? 今朝なんてうっかり顔を洗ってしまったけれど、顔がくずれたりしなかったよ。化粧やマスクじゃないだろ。髪だってかつらにしては地肌が引っ張られる感覚があるよ。いくら変装にしたって、こんなによくできてるのは変じゃないか」
「まさかこのおれの変装を、そんじょそこらのお化粧のように思っちゃあいるまいね。だとしたらとんだ侮辱だぜ。水をひっかぶったくらいでだめになるもんか。肌や髪だって、おれの魔法で顔になるようにしてるんだもの。顔と顔の近さで突き合わせたって見抜けない、それがおれの変装だもの」
「それにしては違和感がなさすぎるよ。ただの化粧だって、どんなに薄くてもドーランを塗れば肌が突っ張るし、丸一日同じまま過ごすなんて難しい。変装なら僕も多少の心得があるからね。こいつはいったいどんな魔術なんだい。昨日はたしか、このまま風呂に入っても平気なようなことを言っていたね」
「なんだい、そんなにおれの顔が気になるのかい」
怪人は少年の顔をニヤリと不敵にゆがませた。
「ウフフ、不思議だろうねぇ。このおれの身体を好きにできるんだ。さぞいろいろと調べたんじゃないか。ひとりであちこち身体をまさぐっているきみの姿を想像すると滑稽だよ。いいともいいとも、好きにするといい。探られたって痛い腹はないからね」
「そうやってはぐらかそうとしたって駄目だよ」
少年はソファの背に深く身体をあずけた。
「いまこの身体はおまえのじゃなく僕の身体だ。僕が好きに操れるんだ。きみだってその身体を好きに使ったらいいさ。人質にしたらいい。けれども、人質だっていうならきみだって同じ条件だ。まさか忘れてやしないだろうね。僕だって好きにできるんだ。僕がこの身体でなにをするか、きみ、知らないぞ」
「言うじゃないかチンピラ小僧。それで脅しのつもりかい。ええ? いい度胸じゃないか」凄んでいるつもりらしく、声を低く下げて言う。「それでおれにいったいなにをしてくれるってんだ。ひとつ聞かせてもらおうじゃないか」
「警察署に出頭する」
少年は至極真面目に答えた。
「腕っぷしならいまは僕のほうが強いからな、どんなに止めても無駄だよ。警察署に入るなり、思い出せる限りのきみの悪行を大声で並べ立てて、どれほどの悪人が来たか堂々と自白してやる。みんなきっと肝をつぶすだろうね。大騒ぎだ。手錠でも捕り縄でも縛ってもらって、すぐ牢につながれるだろうね。それでもいいんだろうね?」
腕を組み、つとめて横柄に言う。
最初はきょとんとして聞いていた怪人だが、とうとう堪えられなかったと見え、結んだ口の端から笑みがこぼれた。ゲラゲラ笑い転げる怪人を無視して、少年は早口で続けた。
「言っておくけれど本気だからね。僕は脱獄なんてやったことがない。きみの変装の秘密だってなにひとつ聞いてないんだ。一度捕まったらそのまま牢の中だろうね。裁判になったら困るぞ。きみの本名なんてちっとも聞いたことがないんだもの。適当な名前をつけて、それを本名だって通すしかないだろうな。希望があれば聞いてあげるけれども、なにかあるかい」
もちろん、真面目なのは口だけだ。少年は腕に加えて足まで組んで返事を待った。怪人がよくそうやってふんぞり返っている理由が今ならばわかる。足に対してソファのほうがいくらか低いから、たまにこうやって足を上げておかないと膝のあたりが疲れるのだ。
怪人はひとしきり笑って息の整わないまま、
「それはたしかに、人質だ。困ったなあ。まったく困った」
と大きく息を吸った。
「だがおれがそれでもいいって言ったらどうすんだい、きみ、おとなしくお縄につくのかい」
「そうしてもいいけれど、やっぱり困るのはきみのほうだと思うね」少年は肩の力を抜いてにこにこと笑った。「だっていつ戻るとも知れないんだもの。牢の鍵が閉まったその瞬間、またきみに入れ替わるかもしれないじゃない」
「おれは牢なんて少しも恐ろしくないぜ」
「仲間もいないのによく言うや」
「フン、おれくらいの悪党になると、獄中にいたって手下のひとりやふたりくらい、あとからいくらでもついてくるもんさ」
どこからそんな自信が湧いたものか、怪人は得意そうに大見得を切った。いくら偉そうにしてみたところで、かわいらしい少年の顔つきでやるのだから、悪党というよりは悪ガキだ。目の当たりにさせられる少年としても、我ながらとことん、凄みをきかせるには不向きな顔つきだなあ、と感心する気持ちさえわいてくる。
「とにかく、僕に変装の秘密を教える気はないってことだね」
少年はバターをすくった。スコーンはすでに人肌程度に冷めていたから、バターを塗るというよりは載せただけだ。
「そんならいいさ。僕だって好きにするもの」
「そうすねるなよ。誰も教えないとは言ってない。言ってもきみが信じないだろうと思って、あえて言わないでやったんだ」
「なんだい、ばかにもったいぶるね」
「魔法使いはおいそれとタネを明かしたりするもんじゃないだろ」
怪人はジャムだけをスプーンですくって口に運び、「首だよ」と言った。
「首?」
「その顔はねぇ、きみの言うとおり、実は変装じゃないんだよ」
怪人は意味深そうに微笑んだ。
「おれの魔術で首ごとすげ替えたんだ。サーカスでよくやるだろう、神秘の人体解剖術! 首を切って別な首を載せた。そのほうが変装よりも長持ちするからね。だから洗ったって平気なんだよ。どうだい驚いたかい」
「なんだいそれ」少年は鼻白んだ。もったいつけておいてまた冗談だ。「それならまだ、これがきみの素顔だって言われたほうが納得できるよ」
「冗談。おれがそんな癇に障る顔なもんか」
「冗談はどっちだ」
「おれが冗談なんかいうもんか」怪人はいかにも心外とばかりに言った。「いいかい、このおれをだれだとお思いだね。おれの顔である以上はそう簡単にくずれるもんか。おい、その面は借り物だってことを忘れるんじゃないぞ。おれはきれい好きなんだから、借りている間は清潔にしてもらわなくちゃ困る」
「なら僕も、あんまりおかしなことをしてもらっちゃ困るね」
少年は冷ややかに言って、ポットの紅茶をカップの縁まで注ぎきった。ミルクを足す余裕がなくなってしまったので、仕方なく渋くなってしまった濃い色の茶をすする。
場にしばしの沈黙が流れる。
目の前で、怪人が学生服の襟首を窮屈そうに広げているのを見て、自分もネクタイの締め付けが気になり始める。正確には、首の付け根が、だ。首のすげ替えなどという軽口を信じるわけではなかったが、得体の知れない身体に入れられたのかと思うと気分は良くない。
テーブルにはまだ手つかずのスコーンがひとつ、怪人の前に残っている。飽きてジャムをジャムのまま食べているのを見るに、普段と同じ調子の個数を温めておいて、いざ食べはじめたら途中で満腹になったというところだろうな、と少年は推測した。あの身体は燃費がいいのだ、こちらの身体よりもずっと。
「……ちゃんと戻るといいけれど」
少年は何度目かの嘆息とともに、もじゃもじゃの髪を指で掻いた。こういう仕草はまるで「本物の探偵殿を見てるみたいだな」と怪人が先回りして言った。
「やっぱりそうかな?」
「まあ、かもね」
「こんなときに先生がいらっしゃれば、きっとお知恵を貸してくださるのにね」
「どうだか。やつだって万能の神様じゃない、知恵っていってもたかが知れてら。やつのことだから面白がりはするだろうけれど。事情をすっかり話してやれば、きっとにこにこしながら詰め寄るぜ」怪人はスコーンの皿を横によけると、机に肘を突いて演技っぽく言った。
「これはどうしたことだろうねぇ。人間の中身がそっくり入れ替わってしまうなんて、名探偵のぼくにもさっぱりわからないよ。お手上げだ。いったいやつは今度はどんな魔法を使ったものだろうねぇ」
「……まさか僕を欺くために、きみたちが仲良く手を組むなんてことはないだろうね」
少年もまた長い腕で同じように肘をつき、黒いどんぐりまなこを正面から見据えた。少年探偵の姿をしたものは、相手が自分の意を汲んだことを悟ると、にっこりと唇の端を持ち上げた。
「そうだ、脳交換というのがあったじゃないか。たしかどこだったかの誰かが、自分の脳みそをゴリラに移植した科学者と捕り物を繰り広げていたね。ぼくはあれを思い出したよ。ちょうどあのように、人と人の脳、きみたちの脳をそっくり入れ替えたのだ」
「いったい、そんな大がかりなことをするとは思えないね。見たまえ、この頭のどこにそんな縫合痕があるんだい。傷ひとつないきれいなものじゃないか。僕が考えるに、答えはもっと単純なものだよ。悪戯にしたって、きみたちが手を組むのはちょっと考えられない。僕の助手はきみのことをにくんでいるからね。きみと仲良く悪戯になんて来やしないさ。なら、こっちの子供はいったいだれなんだろうねぇ。ハハハ……、実にうまく化けさせたものじゃないか。おかしな演技をさせなけりゃ、僕もこの子供を本物の助手くんだと信じてしまったかもしれないね。けれども、むださ。そうやって、僕を罠にかけようとしているのだね」
「……フフフ」
怪人はこらえきれなくなったのか、笑みの形の口から声を漏らした。
「うまいうまい。そうやって真似すると先生そのものだな」
「そうかな?」
「さすがは一番弟子。よく見ている。おれも舌を巻くよ」
変装の達人にほめられるとまんざら悪い気はしない。少年は得意な気持ちになった。だから怪人の「これなら当面は問題なさそうだ」にも、特に深く考えずに「そうかもね」と答えた。どんなときでも前向きな方向へ切り替えられるのは、少年探偵に備わった特性だ。問題ないかもしれないと口にすれば、たしかに問題はない気になってくるのだ。よし、と口に出した勢いのまま皿をつかむ。まずは片づけ、それからだ。
「じゃあ、僕はこのあと書斎で調べ物でもしてみるよ。なんにもしないでは落ち着かないからね。きみはどうするんだい」
「おれはよしておくよ。あんな埃っぽいところごめんだ。おれはおれで、きみの想像もつかないような方法を試みてみるとするよ」
それにしても、と怪人の少年探偵はにこにことした笑みとともに頬に手をあてた。
「もっとも、もうしばらくこのままでもいいね」
「どのみち戻らないんじゃそうなるだろうけど」
と、そうは言ってみたものの。
両者ともこの状況に嫌気がさすのにさほど時間はかからなかった。
怪人にしてみれば、宿敵と同じ顔がつきまとうのだ。もちろんそれが少年の入った自分の身体で、顔が変装だとはわかっていても、宿敵と同じ空間に閉じこめられているようで落ち着かない。たしかにかつては部下を変装させて本物の探偵と成り代わらせることはあった、ように思うが、作戦と日常とではまるで違う。監視するのでもない、成り代わるのでもない、目的も必然性もなくそこに探偵の面をした人間がそこにいるのだから、もうすっかりうんざりしてしまった。自分が探偵になるのはいいのだ、その面を拝みたくないときはいつでも鏡に閉じこめておける。だがいるのだ、錯覚でもなくそこに、実体を持った探偵が、戸を開ければそこにいる、なんなら話しかけてくる。すっかり嫌気がさしてしまう。
三日もすれば戻るだろう。一旦はそんなふうに考えていた少年のほうでも、怪人が変装した探偵の身体に入り込む、という頭が痛くなる状況だ。もとより落ち着けるはずもない。この身体ときたら手も足も全身がやたらと長いのだ。喉を通る声も、作っていないのに勝手に低い声が出る。一晩で急に大人になってしまった。それが少年の感想だ。だが、それでも、悪いことはないのが形だけ、表面だけを見れば、いまの自分の姿は探偵そのひとなのだ。敬愛すべき、尊敬すべき人物の顔がそこにある。父のように、兄のように、それ以上に親しむべき人の顔だ。怪人がたまに鏡を相手にチェスだの将棋だのをやっているが、一人勝負に興じる気分もいまなら理解できそうな気がした。鏡をのぞけばいつでもそのひとの顔(たとえそれがイメージの産物でしかなかったとしてもだ)があるというのは、まるでその人を鏡の世界にそっくり閉じこめてしまったような、独り占めしているかのような、不思議な支配感を伴った。
が、それが少年にとってはいけなかった。緊張するのだ。先生の見た目をした自分が、どう見られるのかを意識するたびに自然と背筋が伸びた。怪人のように先生の姿のまま、事務所のソファに寝転がるなんてだらしないのは論外だ。少年は少年で、完璧な先生を演じようとするあまり、気の休まるときがなかった。
二度とごめんだ、こんなことは。
座っているのも落ち着かないので、事務所の掃除でもしようと少年は扉を開けた。
そこで奇妙なものが視界に入った。
張り紙だ。
壁掛けの振り子時計に紙が張られている。もちろん少年には心当たりがないから、張ったとしたら怪人のほうだろう。文字盤を覆い隠すようにして、白い紙の真ん中、上下を二分するように引かれた毛筆の黒。
「一?」
三、二、一!
カウントダウンとともに象の巨体が鼻高らかに、身体の半分近くもある大玉に乗り上げます。軽業師が蜘蛛を思わせる動きでするすると縄をのぼり、空中ブランコに飛び移ります。綱渡り芸人が小粋な傘を傾け、ヒールの足で宙返りを披露します。火吹き女の炎が夜を食み、テントの内側に張り巡らされたベルベットに、奇妙に歪んだ道化師の影を結びます。そうです、サーカスです、みなさま、サーカスです! さあ手をたたいて! パチパチ!
ここではすべてのものが存在を許されます。サーカスの夜にはなにもかもが起こり得るのです。音楽に耳を傾けて、ほら、華やかな舞台に欠かせない、サーカス団きっての楽団員たちにも目を向けてください。ヴァイオリン、アコーディオン、マンドリン、音が次第に減っていきますね、トランペット、おや、ドラムまでもが止まってしまった。残っているのはフルートだけ。なんともいえぬもの悲しい、細々としたアドリブの、ただなんとなしに、でたらめにこの横笛を吹き鳴らすのは誰でしょうか。スポットライトの先にご注目ください。ピエロです。ピエロが楽団員にまじってフルートを演奏しているのです。見つかってしまった! 舞台にあがってご挨拶!
みなさまはちょうど良いときにお席に戻られました。
このピエロこそ、我らがサーカス団の座長。次の演目はこの座長がつとめる、当サーカスきっての演目なのです。間もなく照明が薄暗くなりますよ。あなたがたは運がいい。みなさま、さあ、おのおのお好きに仮面を身につけたみなさま。どうぞ仮面の奥の両目をしっかりと見開いて、恐怖して! お見のがしのなきように、一部始終を目に焼き付けてお過ごしくださいますように。
不在の探偵 深夜 @bean_radish
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