夜宴の面/代理役者/魔術師の末娘たち(3)
不意に笛太鼓がぴたりと止まる。耳のいい楽士たちはみな一様に何かに気づいたように顔を上げた。大風だ。大風が吹き来たったのだ。夜に吹く丑寅からの大風だ、そのすさまじきことは語るまでもない。うんと視野の広いものがあれば、伽藍へ続く回廊の火が、順に吹き消されていくのを見て取れただろう。伽藍に瞬時、闇が走った。一番大きな火が消えたのだ。舞台のすぐ脇に座っていた小坊主たちが、篝火が舞台へ及ばぬように慌てて覆いをかぶせたのだと知れるのは、もうしばし後のこと。鈴が舞台上へ転がる音は鐘にも似て、耳鳴りに似た疼痛を生じさせる。正体を失った顔のない――怪人の身体が後ろに傾いだのを、少年探偵はとっさに引き戻した。
実際のところ、灯りが失せていた時間はほんの瞬き数度の間、風の強さにみなみな視界を閉じていたほんのわずかの間だけ。カンテラの蝶は風も知らずに未だ目覚めず、夢の中にあるはずが、ほんのわずか薄らいで、また元通りに青く炎を、足下を照らす分だけの灯りを揺らした。
それで彼らは、しばし顔を見合わせた。
舞台上では一呼吸分の混乱を置いて、何事もなかったかのように演目が再開されようとしていた。篝火に息を吹きかけて熾す鳥に、土台を見回る鼠。木の葉を集めて面にした筆頭楽士は、横笛を高らかに鳴らして、再度の衆目を惹いた。場面は川のほとりを船頭が過ぎる場面から。しかし衆目はといえば、酒がすすんで気もそぞろなのもあるだろうが、ただいまの演目にはとうに飽いていた。定番のといえば聞こえはいい。だが多くのものにとってこれはすでに何度目かの演目だ。同じような演目は他にもあって、真新しいものもなく、すっかり見飽きている。最前に詰めている野分の面たちは、内容よりもむしろ魔女の声の伸びがどうの面がどうのと、論評のほうに熱を傾けている。欠伸猿の奇妙な面が、伸びをしながら彼らの横を通り過ぎた。少年と、顔のない男の隣を。
「ねえ、それでいまはどんなお芝居なんだい」
少年探偵は場面を仕切り直すように尋ねた。尋ねられたほうの怪人は未だ酩酊状態の頭をぶるぶると振って、いかにも気分が悪そうに口元に手をあてた。いまにも吐きそうといった面持ちだ。ねえ、と横から催促され、恨めしそうに少年探偵へ目を向ける。
「なんだって?」
「芝居だよ。見てたんだろう?」
「きみはそういうのは興味ないだろ」
「そうつれないことを言うなよ。興味ならあるとも」
「どうだろうね。その話、いまじゃないといけないか」
「だって公演は待っちゃくれないだろ。主役はあそこにいる女かい」
「そうらしい」
「亡霊?」
「かもしれない」
「じゃ、死んだ人間が化けて出て過去を語るって例のあれかい」
「死んじゃいない。化けて出てくるだけだよ」
「きみはこの話をよく知っているようだね」
少年はひそめた声で、しかし酔った頭に噛んで含めるように繰り返す。
「きみはこの話をよく知っている。ねえ、そうだね?」
「僕がこの話をよく知っている、と」
怪人は乱痴気も酩酊もすっかり冷めた様子で、呻きまじりに答えた。
「それは、ああ、どうだろうな。だってまだそのころは、僕はまだいなかったから。もちろん、きみだってそうだ。むかしの話だ、聞いた話だ、知っているといえるかどうか」
「そんなのはどっちだって同じことさ。ひとつ聞かせてくれよ、きみの知っている話を」
「どうしてそう知りたがるんだよ」
「だって、なんだか他人事のような気がしないんだもの。事件というものに目がなくてね。だって探偵ってのはそういうもんだろ?」
少年の唇がにっこりと笑みを浮かべたのを見て、怪人はフンと鼻を鳴らした。
「ずいぶんと知ったような口をきくじゃないか。
「それはぼくが決めることじゃない。それで、きみは知ってるんだね」
「どうだか」
怪人はそう言うと、手の中でさっきから冷たく汗をかいているカップをぐびりと飲み、顔をしかめた。炭酸が抜け、氷が溶けきった糖蜜だ。もうひとくち飲み、底にたまった暴力的な甘さが喉にからんで咳きこみ、だれだこんなの買ってきたのは、というところで、にこにこと見つめている少年探偵の視線に気づく。知っているとも。嫌々ながら口を割った。思い出されるものは思い出す、だから彼もまた思い出すことができた。
「知っているとも。僕らがくる前の話だ」
それはおそらく、仇討ちの話であるという。
おそらくとつくのは、誰も正確な話の筋を知らない、覚えていないからだ。物語は失われて久しい。台詞の断片から、先祖の仇討ちなのだろうということはわかる。では親が無念の死を遂げて、子が復讐を為す話なのか? 少し違う。
この話の主役は、仇討ちを為そうとする子のさらに子供、娘だ。
この話は、復讐鬼の父親に深く恐れをなす、娘の話だ。
父は魔術的手腕を持つ復讐鬼だ。先祖の仇討ちをのみ悲願とし、やつばらめを一人残らず誅殺せんと計略を立てている。復讐、それも並の方法ではない。首を切って衆人の前にさらす、手品に見せかけて四肢をバラバラに切り刻む、密室に水を入れて窒息死させる――一人ずつ、恐ろしい方法で血祭りに上げるつもりだ。ひと息に殺したのでは胸がすかない。一人殺しては驚かせ、二人殺しては次は自分かと恐怖させ、己が一族が犯した罪を骨の髄まで思い知らせてやらねばならぬのだ。そしてその悲願は今しも果たされようとしている。もしくは、すでに果たされてしまった後だ。
娘は、父の悲願を知っている。知った上で加担している、させられている。口では父の命令に従いつつも、反面、父が抱える業と悪の深さを心底恐れている。そしてまた後悔している。止められるものであれば止める。だがすでに、ことは自分の一存で止められるところにはない。ゆえにあってはならぬと思いながらも、想定外の出来事が起きて、仇討ちが阻止されることを期待している。
――親不孝を許せとは言わぬ、やつばらをも無辜とは言わぬ、されど血のつながりただ一つのあるにて、子孫らを誅するになんぞ理あらん、心あるもののこれを聞かば、どうか事の成就より先に父を捕らえよ、必ずや破滅させん、と。
語るのは娘の亡霊だ。これらはすべて、船に揺られる旅僧が、現れた娘の亡霊の訴えを聞くという形で語られる。過去に止められなかった復讐を嘆く、あるいは未来に起こる復讐を阻止せんと願う。矛盾しているようで両立しうる。物語はこの娘を亡霊であって狂女とは解釈しない。亡霊は亡霊だ。亡霊とは、元より時制の狂った過去を反芻するもの。足もあれば顔もある、訴えるための声はあって息もある。影だけがない。だから娘は、時制の一致しないただ一点にのみ現れる、実体のない亡霊だ。
最後には、話を聞き届けた旅僧が亡霊に経を上げてやる、というところで話は終わる。
「魔術師の娘、悪魔が育んだ一粒種、冷酷を求められてなお賊になりきれぬ、地獄の道化師のなり損ない。年若く、それでいて芯の通った桔梗の花、肺病みの一輪挿し」
呪文のように呟いた。
「あの
だがここに探偵はいない。いないのだ。いつの日かを境に姿を消し、消えたことに気づいたときには名前すら思い出せなくなっていた。だから彼らは――怪人と少年探偵のふたりは、名前のない亡霊になって、無謀にも消えた探偵を呼び戻そうと探している。
「本当は、というのも変だけれども、ここで船に乗っているのが先生だったらね。お坊さんなんかじゃない。だって亡霊は復讐を止めてもらいたがっているんだから。いくらお経を唱えられたって成仏できるもんか。あの
と言いかけて、怪人は話を途中で止めた。少年が両手を伸ばして顔に触れてきたのだ。顔のない顔を、頬から唇から鼻へと小さな手でまさぐられ、怪人はくすぐったそうに首をひねってのがれようとした。
「やめないか。なんだいやぶからぼうに」
「いえ、ね。ずいぶんと悪い酒を浴びたものだと思って」
「だれのせいだと。だいたい、話を聞きたいと言ったのはそっちだぞ」
「言ったけれども、それでもねえ」
少年は苦笑まじりに言って、鼻筋から目元にかけての彫りの深さを確かめるようにして親指で揉みこんだ。
「晒し首、人体切断、溺れ死に、ね。たしかに先生の好みそうな猟奇事件だ。いつもそう血なまぐさくっちゃ、たまらないね。殺し方を考えるにも一苦労だろうなぁ。ぼくらにゃいかにも不似合いじゃないか。ね、そうだろ」
言葉の内容に反して、少年の声はどこか弾んでいる。怪人はされるがままにされながら、両膝をついた少年が食い入るように自分の顔を弄んでくるのを眺めた。やはり違いない。この少年は楽しんでいる。小ぶりな両手は、熱でも見るかのように眉から額をゆっくりとすべり、そのままもじゃもじゃとした前髪を後ろへ撫でつけていく。
「……きみ、なにか悪だくみをしちゃいないだろうね」
「悪だくみだなんてそんな。きみじゃあるまいに」
「おい、どこ行く気だ」
「話を聞いてると、なんだかやっぱり、他人事な気がしないもんですから」
立ち上がった少年は、りんごのように赤らんだ頬でにっこりと笑った。
怪人はその意図を即座に汲んで、演技らしく言葉を続けた。
「観客じゃ我慢できないってかい。きみも物好きだねえ。だが聞いたろう、復讐だよ復讐。きみみたいに可愛い子供がひとり駆け込んだところで復讐が止まるもんか。どころかやつらめ、平気で子供を復讐の道具に使うような連中だ。おれはああいう血なまぐさいのは好かない、そうだろう?」
「でもここで黙ってるほうがらしくないですよ。きみのよく知る僕(少年探偵)であれば、こういう飛び入りは挨拶代わりってなもんでしょう」
「だがどうする坊や、まさかきみが先生の代わりに名推理でもぶつつもりじゃないだろうね」
「まあ、見様見真似だね」
少年はあっけらかんと、しかし不敵に答えた。
「待ちぼうけってのも退屈でしょう。同じ演目じゃ見る側だって飽きちまう。たまにはアッといわせるようなできごとが起こってもいい。きみだってそう考えるんじゃないかな?」
「おれが?」
怪人は目を白黒させた。舞台の上で、台本にない台詞をいきなりぶつけられた役者のように、詰まりながら答える。
「どうだろうな。おれはそれこそ、人の復讐になんて興味がない、ほうがいいんじゃないか」
「そんならきみは見物だ。さっきまで一番舞台で百面相を演じてくたびれているでしょう。ここで少し休んでいたらいいよ」
「きみいったいそんなことして、」
何か言おうとする口を制して、少年探偵は怪人の支那服のポケットから二、三道具を抜き取ると、なぐさめるかのように手の甲で胸をぽんぽんと叩いた。
「いいから見ていてごらんよ。きみにできることはぼくにだってできるのだ。お話の途中に突然現れて、勝手気ままに塗りかえていくようなのはね!」
にっこりと、小兎の面を浴衣の懐へ入れ、くるりと身を翻す。
文字通りの勝手気ままだ。止める間もない。追おうにも、浴衣の背は軽い足取りで舞台の袖へと姿を消してしまったところ。保護者じゃないのだ、守護者じゃないのだ、少年探偵はただ少年探偵として自由に振る舞う。怪人は難しい顔をして、少年が撫でつけていった黒いくせっ毛をくしゃくしゃと乱した。ここに鏡でもあれば、少年探偵が先生と呼ぶその人の顔にそっくり似ついていることに気づいたのかもしれないが、あいにくと人は自分で自分の顔を見ることはできないもので、彼がそれを知るのはもうしばし後。だから結局は足を伸ばして、そんならお手並み拝見しよう、とふてぶてしく言い捨てた。
さて、思わぬ大風に中断させられた芝居の途中から。
舞台はちょうど亡霊が船に現れた次の場面から。
亡霊、面は小面の若き娘なれども衣は黒々として喪に服すがごとく。さながらいまにも赤頭に変じんとするとらつぐみ。うつほ舟より、櫂の代わりに打杖を手に持ち現れ、二三の問答ののち厳かに、恐ろしき復讐の数々を旅僧に語り終えた。漕ぎ手のない舟に立ち、どこへ向かうかどこぞへなりとも浮き流れるままに任すか。いずれにせようつし世のものにやあらず。人ならざるはたしか。ならばこれはいかなるものぞ。旅僧より名を問われて答える。
「これは先代の仇を討たんとするにつけ、父がためにある魔術師が一人娘の亡心にて候。朽ちながらうつほ舟の、月日も見えず、冥きより冥き道にぞ入りにける。先刻語って聞かせ申せしは、我が父の執心の深さの由縁。世におぞましき。必ず世の広く知るところとならん」
「ええ、もちろん、存じ上げています」
亡霊の台詞を継いで、舞台下手より声のある。髪黒く頬紅をさした、世にも希なる童子の登場。旅僧の方より進み出で、――いいえ、まだるっこしいのはよしましょう。ここに一人の利発そうな少年が、暗がりから現れたのです。彼はまっすぐに舞台の真ん中へ歩みを進め、亡霊の前で立ち止まりました。この登場には旅のお坊さんも驚いて、にこにこと船首へ進む少年をおそれるように奥へと下がりました。いったいこの少年は何者なのでしょうか。彼はにこにことして口を開きました。
「はじめまして。ぼくはさる有名な探偵事務所から来たものです。ああ、探偵その人ではありませんよ。その助手のほうです。名乗るほどのものではありません。言うまでもないことでしょうが、この場においては軽々しく名前を口にしてはいけないようですから。ですからぼくも、あなたの名前は尋ねません。あなたもきっとそうしてくれますね。ありがとう。さて、先生はある重大な事件のために、外国へ出張中ですから、いつお帰りともわかりません。それでぼくがうかがったのです。ぼくは先生から、留守中の事件をすっかりまかされているのです」
少年は胸に手をあて、自信たっぷりに言いました。
「そうです。ぼくは先生の代理でここへうかがったのです。たとい遠くにいらしっても、重大な事件とあらば先生はお見通しなのですよ。だからご存じなのです、あなたのことも、あなたのお父さまのことも。ぼくは子供だけれど、けっして無茶なことは考えません。これでも先生の一番弟子なのです。ですからお嬢さん、どうか安心してぼくにおまかせください。きっとあなたのお力になります。ええ、きっとですよ」
そう言って、手を差し出しました。握手を求めているのです。
それにしてもお嬢さんとはなんてませた言い回しでしょう。少年のほうがいくらか子供ではありませんか。しかし、子供だからといってけっしてあなどってはいけません。この少年は探偵の助手として、早くから大人たちにまじって世渡りを積んだものですから、こうした大人びた言い方が自然と身についているのです。一番弟子という言葉にまったく嘘はないのです。
少年はにっこりと人懐っこく微笑みました。
この手をとればきっと少年は、淑女の手を引く紳士よろしく、舟から船へとエスコートすることでしょう。
ところが相手のほうではいっこうに少年の手を取りません。それどころか、少年をこわがってか警戒してか、じりじりと後ろに下がりました。と、くるりと身を翻し、挨拶もせずに舞台袖へと引っ込んでしまいました。肩ごしに少年を気にかける様子ではありましたが、それでもかける声はないと見え、足早に姿をくらまします。決められた言葉以外を口にしてはならない、ト書き以外の文句はいけないと厳しく言いつけられているのでしょうか。
少年は予想外の態度に目をぱちくりとさせましたが、だからといって怒る様子はなく、握手の形に浮いたままの手を気まずそうにひらひらとさせました。
「おや、ふられてしまった。それじゃあしかたがない。こちらのおじいさんに話を聞くとしようかな」
と反対側の川面をのぞきこむと、大声で呼びかけました。
「おおい、じいさん、聞こえるかい。ぼくの声が聞こえているね」
反対側には船なんてありません。
少年はいったいだれに話しかけているのでしょうか。
少年の視線をたどれば、川面にはなんと老人らしい頭が浮かんでいます。ええそうです、〈翁〉の面です。それもすいすいと船と並走しています。とはいっても、老人が泳いでいるわけではありません。川面には刺身の舟盛りにでも使うような、小さな小舟がぷかぷかと浮いていて、その小舟に老人の首から上だけが乗っかっている状態なのです。生首です。見れば小舟の船首にあたる部分には、『獄門舟』などと仰々しい字で書かれています。まさにさらし首です。少年は老人のさらし首に向かって、「おいじいさん」とご近所さんに言うような調子で呼びかけているのです。
「聞こえているね。聞こえているとも。きみは首ひとつで晒し首にされているつもりだろう。だが、なんだか冷たくないかい。手足が震えてブルブルしてるんじゃないかい。それともとうにそんな感覚もなくなったかい。だって秋とはいえもうじき十二月になる川だものねえ。そんな首から下だけ水の中に沈められたんじゃ、寒くてたまったもんじゃないだろう。どうだい、助けてやろうか。ぼくに協力するってんなら助けてやっても構わないよ。火にでもあたれば、手足を切り落とさなくたって済むかもしれないよ」
「あの、すでに亡くなっているのではないですか」
少年の後ろで、旅のお坊さんがおずおずと言いました。このお坊さんはさっきまで娘の亡霊に相対していたのですが、とつぜん現れた少年の勢いに気圧されて、いままで口をはさめずにいたのです。少年は、いぶかしむようなお坊さんの言葉に首を振りました。
「いいえ。そんなはずはありません。あのおじいさんの首は、生きています。青白いのは寒さのせいですよ。なんといったって、先生の助手であるこのぼくが言うのです。ぼくは捜査のためにいくつも死体を見たことがありますが、あんなに血色の良い死体は見たことがありません。ほら、まぶたがぴくぴくけいれんしているでしょう。いまにもひらきそうでしょう。あのおじいさんは寒さで気がもうろうとしているだけですよ」
少年は自信満々に言いますが、本当でしょうか。
悪ふざけではありません。少年にも考えがあるのです。
「やい、どうするね。おおい! 聞こえてるなら返事をしないか」
少年が
声の持ち主は少年でもなければ、お坊さんでもなく、船の後方で櫂を持つ船頭でもありません。声は、獄門舟に乗せられている生首から発せられているのです。
そうです、首は生きているのです!
本当に首を切られているのであれば、声なんて上げられるはずもありません。しかし、生首はさっきまで気を失っていたのか、苦しそうにうう、ううう、とうめきはじめました。
まったく、なんという手品でしょう。一見すると小舟の上に首だけが置かれているように見えて、実は人間が小舟から頭だけを出している状態なのです。首から下の手足は拘束されて重しでもつけられているのでしょう。木でできた小舟が浮き輪の役割を果たしているために、沈まずに済んでいるのです。しかし首から下を水につけられ、身動きもできずに引っ張られるのですから、とんだ拷問には違いありません。
そこからはお坊さんと船頭さんに手伝ってもらい、どうにかおじいさんをこっちの船のそばまで引き寄せました。少年は船から身を乗り出しておじいさんの首を持ち上げると、膝に乗せてあたためてやりました。幸いなことに、発見が早かったおかげか大事はないようです。おじいさんはガタガタと声を震わせながら、何度も何度も少年にお礼を言いました。
いったいだれが老人にこんなひどい仕打ちを与えたのでしょう。こんな目に遭わせたのはだれなのかを尋ねてみますと、老人は犯人の顔は見なかったと答えました。こんなことをする相手にも覚えがない。どころか人付き合いが好きではなく、商売もやめて早々に隠居の身で、商売上の敵はあるやもしれませんが、これほどの目に遭わされるような心当たりはないというのです。
「しかし、なんの前触れもなかったわけではありません」
老人はいくらか落ち着きを取り戻した様子で言いました。
「実は数日前から、奇妙な脅迫状が届いていたのです。毎朝起きてみると布団の上に、数字が書かれた紙が置いてあるのです。それが十四から、次の日は十三、十二、十一というように一つずつ減って、ずいぶん気味の悪い思いをしたのです。家の人間たちはだれもそんなことをしないと言うし、窓にも扉にもしっかり鍵をかけたのを確認しても、目が覚めればどこからともなく紙が置かれているのです」
「それは定めし予告状ですね」
少年は〈翁〉を自分の顔の高さに持ち上げると、ウフフと笑みを漏らしました。
「さあ、忙しくなるぞ。ぼくが味方でよかったですねぇ、おじいさん。よければこのままお送りしましょう。ぼくをそのご自宅まで案内してくれますか」
「それはもちろんです。あなたはわしの命の恩人ですからな。存分におもてなしをせねば気が済みません。なにせあなたのおかげでこのとおり、腕も足もつながって――おや、首だけでしたな。まあ首だけでも健康綽々、かえって身軽なものです。なんなりと恩返しいたしましょう。自分で言うのもなんですが、これでも金には不自由しない身なのですよ。帰ったらたんとごちそうさせてください」
「いえいえ、そういったおもてなしは結構です。お金やごちそうを目当てに人助けをしたわけではありません。ぼくにはお役目があるのです」
年少のわりになんと謙虚な少年でしょう。きっぱりとお返しを断る少年に、おじいさんは自分の発言を恥じ入る様子で「それは失礼なことを」と言いました。
「人を助けるのがお役目とは、なんともご立派なことですな」
「おや、そうは言っていませんよ。人助けのためではありません」
「はて。というと」
「正義のためです。古今東西、少年探偵は正義のために行動するものと相場が決まっているではありませんか」
せせら笑うような言い方が気にかかりましたが、ほかならぬ命の恩人の言うことですから、おじいさんのほうも「探偵さんでしたか。道理で、道理で」と驚いてみせるほかありません。
「それはよほど重要なお役目なのでしょうな」
「ええ、ええ、そうなのです」
少年はその反応に気を良くしたように、二度三度とうなずきました。
「それで、おじいさんにはぼくに協力してもらいたいのです。まずは味方が必要ですからね。ぼくはそのために冷たい水からあなたをすくいあげたのですよ。味方になったからには、ぼくを子供とあなどらず、ぼくのために働いてもらわねばなりません」
「わしはなにをすればいいのでしょう」
尋ねる声は小さく震えていました。しかし今度は寒さのためではありません。自分をすくいあげたこの恩人が、なんだか得体の知れないものに感じられて、恐ろしくなってきたのです。少年はそんな恐れを指先から感じたのか、〈翁〉へ向けてにっこりと微笑みました。まだあどけなさの残る、かわいらしい笑みです。しかしみなさま、それをまるで天使のようだと気を許すには、まったく早すぎるというものでしょう。
少年は笑みを浮かべて言いました。
「なあに。首ひとつあればできる簡単なことですよ! 手荒なまねをしようってんじゃありません。ぼくの武器は腕力ではありませんからね。知恵です。知恵の使いかたによっては、ほとんど、この世にできないことはないですからね。ハハハハハ……」
そうとも悪魔だって笑うのです。
それもぞっとするほどにうつくしく、人を魅了する笑みを。
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