薄氷のバーカウンター

頭野 融

第1話

 バーって好き。バーってあれね、飲み屋さん。バーテンが居て口頭で注文する感じの。メニューなんて無くて、適当に飲みたいものを言えば出てくるみたいな、そういうバーが特に好き。


「どうしましょうか」


 新規開拓をしてみてるんだけど、多分ここは当たり。おそらく今日のマスターであろう人は優しく私の目を見て話しかけてくれた。これが丁寧すぎると逆に居心地が悪いんだけど、ちょうどいい塩梅だった。

 優しく湛えている笑みは経験の豊富さを語っている。


「甘いので何かお願いします」


「甘いのですね、分かりました。何が苦手なものとか、こういう果物がいいとかそういうのはございますか」


 好きなものと嫌いなもの、人生を形作るその二つを同時に訊いてくるなんて、今の問いかけだけで人生が完成されてしまう。


「ライチとかありますか?」


「あー、ライチのリキュールだと良いのが、ラスト一杯分ありますね。風味は落ちちゃってるかもしれないんですけど、その代わり多めにお出ししましょうか」


 多めにってのは、つまりロングで出してくれるってこと。よくあるカクテルグラスじゃなくて、ストンとサッパリとした形のグラス。余計なものは無くて引き算の美学の結実。おそらく、ロングだけど、ロングじゃない値段で出すよって意味だと思う。


 私が無言で頷くと、少し笑って


「ウォッカベースでいいですか」


 またしても優しく訊いてくれる。私も頷く。


 ライチのリキュール、昔好きだった。でもだんだん甘いのが嫌になってきて、ここ何年かはほとんどに手を出していない。ウィスキーをストレートで飲むか、せいぜいカクテルでもシャンディガフくらい。奥からリキュールの綺麗な青い瓶を手に取るマスターの後ろに、ぼてっとした瓶で琥珀色のものが光った。


 ウィスキーだ。割と年代物な気がする。訊いてみて味が好みだったら頼もう。


「お待たせしました、こちらライチリキュールをウォッカで割っております」


 決して軽くはないはずのグラスをふんわりとカウンターに置いてくれる。乾いた色の木目調が店内に合っている。グラスを一瞥して、くくっと口に運ぶ。ぱぁあっと香りが鼻に抜けた後ちゃんとウォッカのスッキリさが主張する。これは美味しい。


 バーが好きな理由の一つはこの暗さ。手元が見えるように、と入るとキャンドルを持ってきてくれて、ライターでささっと火を付けてくれた。顔がぼやっとして見えないでしょ。それが好きなの。束の間の逃避行って感じで。


 そんな青臭いことを言いながら一口、二口と体の中に入れていく。さっきと同じ優しさでこちらも、と言って水の入ったグラスを置いてくれる。彼も私もチェイサーの出番は無さそうだ、と分かっているけど、建前として出すし、私も礼を言う。


 青臭いといえば、アブサンなんて良いかもしれない。いや、それともイェーガーマイスター、か。どっちも薬草で作ったお酒で養命酒の一面もある。


 そろそろ次に、と思ってウィスキーの話を聞いてみる。


「あの瓶って何ですか?」


 そう訊くと待ってましたと言うように、右手で瓶の首をギュッと掴んで前に出してくれる。何とかの12年です、銘柄の英語は流暢すぎて聞き取れなかったけれど12年だというのは分かった。やっぱりある程度の年代はあった。重ねて味を訊くと、スモーキーだと言う。私の好みもそれである。


「ストレート」


 首を捻りながら訊いてくれる彼は如何にも飲みたいという感じで、ついつい私も


「ご一緒してほしくて」


 と言う。こんなセリフ、久しぶりに吐いた。


「本当ですか、うれしいです」


 目を細めて喜ぶ彼に釘付けになるところだった。ストレートでグラスにたぷたぷと注ぐ。一応、彼は小さなグラスらしい。


 私が冗談めかして、きみの瞳に? と言ってグラスを掲げると、ちゃんと乾杯と返してくれた。楽しい。


 腕と手が目の前に現れると、やっぱり男の人なんだと思う。丸みは無く骨ばった腕と関節が目立つ指。私は自分の右手と見比べる。


 あ。


 ウィスキーのスモーキーさが消えるか消えないかのタイミングで気づいた。彼の爪には色が付いている。それも割と派手なピンク。お酒で言えばロゼ。もう桜をイメージしたロゼなんかは市場から姿を消した頃だろうか。


 頑張って思考をお酒に向けようと思うけれど、上手く行かない。私は苦手なのだ。男の人のネイルが。


「飲食なのにネイルしててごめんなさい」


 一瞬、私の顔が曇ったことに気付いたのか、彼はグラスを揺らしながら、謝る。違うんだけど、違うとわざわざ言うのも面倒だ。この店に来ることは、おそらくもう無いというだけで。


 さっきから好きとか嫌いとか、そういう事ばかり、そういう強いことばかり言っているけど、私がネイルをしている男が好きちゃうんは、理由があって、元カレは、よーネイルをしてはった。家には本棚の上にずらーっと、マニキュアとかベースコート、トップコート、除光液と染み込ませるためのコットン。そんなのが綺麗に整列していて、その几帳面さが好きだった。


 彼は指も細く長く魅力的で、ベッドの中だと私はよく舐めた。


「お次、何か」


 他の客が少ないからか、彼は私の手元をよく見てくれているらしい。この歳になると自分のことを気にかけてくれる人なんていない。親も他界した。


「あー」


 BGMのジャズサックスに負けないように言葉を発する。


「ロンリコありますか?」


 私はネイルへの嫌悪感を示さないようにしつつ、しごく冷静に訊く。


「はい、ご用意できます。ショットでのご提供ですが」


 何も言わなかった私からイエスの返事を読み取って、ショットグラスを彼は準備する。


「お好きなんですか?」


 もちろん、ロンリコのことなんだけど、ちょっと心がグラついた。色んな好きなものと嫌いなものが頭の中を巡っていたから。


「ええ。75度とかあるから、勧めても敬遠されるんですけどね、友人には」


「流石に簡単には手、出せないですよね」


 手を出すジェスチャーを数秒した後グラスを置いてくれる。私の反応を見る前に彼はウィスキーを煽った。


「あの、今日雨でしたよね」


「はい、道中も降ってました」


「じゃあいっか客足遠のくし」


 彼は急にくだけた特徴になって、手元のスイッチを押した。どうやら、それは入り口横の“OPEN”のネオンのものらしい。


 昔は本当にネオンガスを封入した管が使われてたけど、今はもう見ない。これも昔は有って、今は無いものの一つだ。


「僕も落ち着いて飲みたくなっちゃって。あの人たちは友達だから帰ってもらった」


 いつの間にか、入り口付近で飲んでるサラリーマンたちは確かに居なくなっていた。


 バーテンの彼がこっちを向いて、グラスを握ったところで目にネイルが飛び込んできて、私は席を立った。


「会計で」

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薄氷のバーカウンター 頭野 融 @toru-kashirano

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