その井戸を埋め立ててはいけない

秋色

Pure Water

 眼の前の椅子に座り、話している女を見て、心の中でため息をついた。

 ここは都会の高層ビルの一室。

「ホープフル」という悩み相談室、それが僕の職場だ。

 客の悩み、相談を聞いて何らかの回答を出し、ついでに天然水も売る。ただの天然水でなく、特別なパワーストーンで浄化された水だ。

 そうしながらも、机の下で右手の指をくねらせ、何かを捕まえようとするクセがつい出る。だが、それが神秘的な力を持っているように客に勘違いさせるらしいから不思議だ。


 これは、前の職業の名残り。消化器系の医師だった時、内視鏡で胆管、膵管を探る時にガイドワイヤーを操っていた時の手付き。ある事情により、医師として仕事を続ける事は出来なくなった。

 それは、医師免許を剥奪される程の事件ではなく、かと言って褒められたような事でもない不祥事のためだった。医師免許はあっても、まともな病院では雇ってもらえない。医者としては、すでに終わってしまっていた。




 眼の前の女の悩みは、行きつ戻りつで一向に進まない。彼女の学生時代から一家には悪い事が続いていて、ある近所の人の話では、良い霊能者が通り掛かった際にこの家に不穏を感じたのだと言う。この庭には昔、井戸があったがそれを埋め立てていて、その事が全ての原因だと。

 自分で染めたと思われる彼女の赤茶色の髪に、窓から入る五月の陽の光がキラキラ光ると、不格好だった色のムラも消え去った。踵の高い銀色のサンダルにも陽の光が当たると、安物っぽく見えなくなるのかな、と思った。




 心の中で僕は呟く。

 ――つまり貴女のお父さんの不倫や、失望したお母さんが家を出ていったりした事の全てが、井戸を埋め立てたせいだと?――


「それに、弟の足に腫瘍が見つかったんです」


 それは絶対、井戸のせいじゃないよ、腫瘍が出来る過程は医学的にあって……と言いたかった。でも言えない。水を売らないといけないから。


 女は言う。「若い頃から良い事がなくって。普通、十代って青春真っ盛りなのにね。家事や弟の面倒をみなきゃいけなかったの」


 ――同情してほしいのかよ。十代だから青春真っ盛りなんて誰も決めてないんじゃない? 成長過程っていうだけで――


「とにかく井戸は関係ないと思います。でも水で浄化したいなら、浄化された良い水があります。たかが水と思うと少々高く感じられるかもしれませんが、長い目で見ると、すごくお買い得ですよ」


「でもやっぱり井戸のせいという気がするので、もう少し考えさせて下さい。水を買う決心がついたら、また来ます」


 女が帰ると、水を買って帰らなかった事に、心の中で舌打ちする。手にしたのは僅かな相談料だけ。今回も時間を無駄にした。また指が動き出す。ああ見えないGW《ガイドワイヤー》よ。ガイドワイヤーを使って結石を見つけ、除去したり、砕いたりしていたあの頃は、毎日が充実していた。僕は問題の原因を突き止め、解決する能力に優れていた。もう取り戻せない時代だ。消化器的に言うと、非代償性。



 大体、ここを訪れる客の多くは、若い時代に幸運に恵まれなかった事を過剰に嘆く。若いから良い事があるなんて偏見に、どうして人は惑わされるのだろう? まだ大した人生経験も能力も兼ね備えてないのに、そうそう良い事が起こるわけがない。

 ふと中学時代の歴史の授業を思い出した。聖徳太子が中国の皇帝だかに手紙を送る。その冒頭で、日出処の天子、日没する処の天子に書を送ると書いた事で、皇帝が激怒した、という話。


 その時も自分は陽が昇る方角の方が良くて、陽が沈む方角が悪いという感覚がよく分からなかった。別にいいじゃんと。単に東と西。朝日と夕陽のどちらが良いかなんて決められないだろ。


 僕は気を取り直して次の客を呼び入れる。




 中年を通り越した初老の上品な女性がそこにいた。グレーのスーツに白のハイネック、そして控えめなネックレスを身に付けている。


「こんにちは。どうぞ、椅子にお掛け下さい。リラックスして、ご心配な事についてお聞かせ下さい」


「私はこの世界に身の置き場がないような気がして仕方がないんてす。どうしたら良いのでしょうか?」


 素直そうな印象。これはすぐにでも水を買わせる段取りでいきたい。それはあんまりか。


「それは具体的にどういう事でしょうか」


「私は35年前にお見合い結婚をしました。以来、不器用ながら主婦としてやってきました。姑は、家事一切について、勝手にやり方を変える事を許さず、姑のやってきた事をそっくりそのまま同じようにする事を、求めました。だから結婚して以来、そのように同じ事を続けてきたんです」


「それで?」


「子どもも成長し、長男は結婚し、その下の娘も独立しました」


「良かったんじゃないですか? じゃあゆっくりできますね」


「でも心が落ち着かないんです」


「何が落ち着かせないんですか?」


「私は言われた通りの家事を続けてきたけど、息子の嫁は家事は時短で、ほとんど何もできず――仕事を続けているのでそれは仕方ないんですけど……――でも周りは、それを要領がいいね、さばけるねと言い、私の事は要領が悪い、出来が悪いと言うんです」


「周りって誰がですか?」


「主に夫です」


 ――きっと出来るヤツじゃねーな、その夫。おだててやる気にさせれば良いようなものを。それか、この女は自分の元を離れていくわけないって確信かな。そんな確信、あっけなく崩れ去るのに――


「娘さんと出かけたりしないんですか? そうすれば気晴らしになるでしょうし」


「娘とは最近、会話もしていないです。仕事で認められているみたいで。キャリアを積んでいる?……と言うんですかね? お母さんとは会話にならないって。私は今どきの事を知らないし、面白いこと、話せないし」


「そういう意味なんですかね?」


「じゃ、ダンナさんには、『そんなに出来が悪いと思うんなら、自分で代わりに何でもやってみたら?』と言ってみてはどうでしょうか?」


 イライラした僕の手はまた、見えないガイドワイヤーを操っていた。


「それに近い事を言ってみた事があります。でもそうしたら適当にやって、『ほら出来ただろ』って」


 ――うわっ。自分がこの女性なら離婚確定だな。でもなんでこの人、こんなにオドオドしてるんだろう――


「何か、特技で見返すとかしたらいいんじゃないですか」


「でも特技と言えるものは何もなくて。

 夫は言うんです。私に出来るのはワイヤーを指でクルクル回す事くらいだって」


「え、わ、ワイヤー? ガイドワイヤーですか?」


「ガイドワイヤーって何ですか?」

 女性は怪訝そうな顔をした。


「ガイドワイヤーでなくて、何のワイヤーなんですか?」


「クリップのワイヤーです。私、子ども達が学校のプリント等で使ったゼムクリップを保管していて、あまりにも数が多くなったのでそれをよく色々な形に変形させていたんです。アヒルとか、木とか……」


「はぁ……?」


「姪は、『おばちゃん、これすごいね』と言って、自分のインスタ?……って言うんですかね。それに取り上げて『バズった』と言っていましたが……」


「へえ、バズったんですか? 見てみたいものです」


「見ますか?」


「見れるんですか?」


「姪が撮った画像を私のスマートフォンに送ってくれたので」


 そう言ってラベンダー色のスマートフォンの上に指を滑らせて、画像を出した。

 そこには元がゼムクリップだったとは、とても思えない鳥や木やチューリップが色とりどりに並んでいた。


「これはすごい! 色も銀色だけじゃないんですね」


「ゼムクリップはカラフルな物がありますよ」


「もうこんな芸術的な作品は、姪御さんが言うように、自分で楽しむレベルで済ませては勿体ないですよ。貴女自身、SNSのアカウントを持ち、皆に見てもらった方が良いですよ。ぜひ姪御さんに協力してもらってそうしましょう」


「こんな物が? バズる?……ってそんなに意味があるものなんですか? 今どきの波が分かりません」


「分からなくても波には乗った方がいいですよ」


「それは、私の身の置き場になるでしょうか?」


「それは貴女次第です。ただ……思ったのですが、貴女は井戸を埋め立てています」


「え? 井戸?」


「貴女はまだ水の湧き出る自分という井戸を埋め立てて、そこに生活しているから、うまくいかないんですよ」


「は、はぁ……」


 その時、受付をしていた大学生バイトがそっと声をかけてきた。

「先生、さっきのお客様が戻って来られましたよ。やっぱり水を買いたいって」


 僕は机上のメモパッドから一枚メモ用紙を切り離し、ペンで走り書きをした。

「水はいいから、これを渡して」


 それは軟部腫瘍を専門分野とする医師の友人の名前と勤めている病院の名前だった。後で友人には連絡を入れておこう。


 暫くして、ドアの向こうへ消えるハイヒールの音が聞こえた。


 眼の前の婦人は、スマートフォンの中の自作のイエローグリーンの木の葉と白いパラソルのクリップの画像を大切そうに指でなぞっている。


 僕は瞬間、このビルを抜け出して外の舗道にいる自分を空想した。パリのカフェみたいに舗道に置かれた白いテーブルの前でくつろいでいる自分の姿を。見上げると、彼女の作ったイエローグリーンのメタリックな木の葉が頭上を彩り、パラソルは初夏の陽光を受け、眩しい白さで。


 こんな幸せな気分に浸るのは久し振りだ。充足感というのだろうか。

 そう、昔、味わったような。かつて、患者の胆道内の結石を除去した時と同じ感じか? 久々に自分の手にしたガイドワイヤーが正しい場所に自分を導いた。そんな気がしていた。





〈Fin〉




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