~比翼連理~
トム
~比翼連理~
ねぇ、置いて行かないでくれよ――。
ベッドに静かに横たわる君の顔を見つめ、その瞬間に思った事は、ただそれだけだった。頬を伝う涙は止まることもなく、ずっと喉が切れそうなほどに痛む。どんなに眉をひそめて目をしばたかせても、目の前の状況は変わってくれることはなく、君は閉じた目を開かず、細くなった首筋にはその鼓動を示す脈動は感じられない。
彼女の傍に有るたくさんの機械がけたたましい音を鳴らしてすぐ、駆けつけた医師たちの奮闘も虚しく、彼女はその息を吹き返すこともなく、眠ったまま。一言の挨拶も交わせずに逝ってしまった。
「……午後2時18分、死亡を確認しました」
医師がそう告げると、看護師たちが一斉にこちらへ頭を下げる。通り一遍等な哀悼の言葉は、
僕の周りには親族たちも居る。機械や器具をすべて外され、身綺麗になった彼女に、その彼や彼女たちは一斉に嗚咽をあげ、ベッドにしがみつく者、ただ彼女の名を呼ぶ者、様々だ。そんな悲嘆な場の隙間を縫うように、頭を下げた医師や看護師たちは、次の持ち場へと足早に去っていく。彼や彼女たちにとっては、見慣れた光景のひとつなのだろう。一人の看護師が、親族の一人に話しかけ、今後の対応と事後処理の話を進めているが、当然聞こえることはない。周りの状況は刻々と進み、常に状況は動いているのにも拘わらず、ただ目の前で静かに眠る君だけを、ずっと見続けていた。
――
どんなに辛いことが有っても、歩みを止めず。前を見つめて進んでいく。
――振り返り、こちらを向く時はいつだって笑顔だけを見せて。
その背を見続けた僕が、知らないと思っているのだろうか。
君の足元に落ちる涙の雫を――。
時に見える食いしばった口元を――。
真っ白な陶磁器に長い箸を使って、小さくなった欠片を拾って詰めていく。周りの者に支えられ、それでもなんとか掴んだそれは、確かに君の一部だと思って詰めては見るけれど、現実感は全くない。只々、場面を映す、切り取り写真のようで……。記憶はどんどん曖昧になる。そうして何時しか映像は途切れ始め、色すら薄れて影が大きく滲み始めた。
「……ドーナツは君が好きだったんじゃないか」
気がつくとそんな言葉がポトリとダイニングテーブルに落ちる。目線を移せば、ガランとしたリビングがやけに広く感じる。二人がけのソファとローテーブルが置かれた向こうには、大きな観葉植物が見える。背丈は僕と同じ程に高く、その葉は広く大きいが、何という品種なのかは分からない。掃出し窓から見える小さな庭には君の趣味だったガーデニングの成果が今も誇らしく咲いているが、どれも主人のいなくなった事を知っているのかすべての花がまるで頭を垂れている。手入れの仕方もわからない、早々に彼らは枯れてしまうだろう。そう思って、申し訳ないと自責の念に駆られていると、カサリと茂みに動く影。
「……猫?」
そこには、産まれてまだ間もないと思われるほどに、小さな茶トラの仔猫が「ミィ」と今にも消え入りそうな声で花の間から現れた。足元も覚束ないのか、ふらふらとまるで這いずるように花壇を這い出すと、僕の目を見てじぃっと動かない。
「……え? これって、どうすれば……」
そう言ってつい、君に答えを求めようと振り返るが、そこに誰もいるはずはなく。ぽっかり開いた胸の穴に風が吹き抜けていくのを感じた。
「……ミィ! ミィ!」
その声にはたと庭を覗くと、仔猫は窓の直ぐ側にまで近づいて、しきりに僕を見て鳴いてくる。オロオロしていても仕方ないと考えて、結局猫を拾い上げた。
***************************
……てし、てし。
「う、ううん」
……てし、てしてしてしてし!
ベッドで死んだように眠りこけていると、何かがずっと頬にあたってくる。それは、ふにふにとして柔らかい。だがその気落ち良さに至福を感じていると、不機嫌にでもなったのか、まるで叩くようにだんだん力の籠もったてしてしに変化してくる。……は! マズい!
バリッ!
「うあぁ! 爪は立てないでぇ!」
「……うにゃぁ」
一拍遅れて気がついた時には、既に彼女が振り下ろした後だった。綺麗に三本筋ができ、じくりとした痛みが寝起きにキツイ。
「なおさん」が家に居着くようになって、もう何年も経っている。拾った翌日、動物病院へと連れていき、様々な検査やら処置を施してもらった後、「この子は保護されるんですか?」と聞かれ、思わず「はい」と答えてしまった。植物すらまともに育てられない自分に動物なんてと思ったが、胸に空いた穴を気にする時間を持ちたくなかった。仕事以外で忙しくできれば、時間は過ぎてくれると考えたのだ。自分たちに子供でも居ればまた違っただろうが、僕と彼女の間には生憎出来なかったから……。
「はいはい、ご飯ですね。すぐ用意しますから」
ベッドから這い出てスリッパを履くと、彼女もストンと音も立てずに僕の前に降り立つと、振り向きもせずに部屋を出ていく。しっぽをピンと立て、威風堂々と進むその後ろ姿はあの茂みから這いずってきた頃の面影は微塵も感じられない。寝室を出て通路を進み、ダイニングのドアを潜ると彼女はいつもの場所に立ち止まってこちらを向く。すぐにパントリーから、彼女のお気に入りのカリカリを皿に盛ると、その音に「早くよこせ!」と声を上げる。常温にしてあるペットボトルに入った水を横に並べると、すぐさま彼女はカリポリと小気味いい音を鳴らしながら食事を始め、その音を聞きながら僕はマグを二つ手に持ち、珈琲を淹れる準備を始めた。
何気ない日常の始まり。
数を減らしたガーデニングスペースには、花ではなく幾つかの野菜がその葉を茂らせており、小さな実を実らせ始めている。リビングに置かれていた大きな観葉植物は遺品整理の際、欲しがった親族に渡した。代わりに今そこには大きなキャットタワーが鎮座している。二人がけだったソファは入れ替え、一人がけのソファを二脚、隙間を開けて置いてある。一方は僕、もう一方は「なおさん」がベッド代わりに使用している。
様変わりした部屋を眺めていると、コーヒーメーカーが滴下を始めるコポコポという音を鳴らし始め、その音を合図に、ポップアップトースターに山形食パンを一枚放り込む。冷蔵庫から牛乳とバターを取り出してダイニングテーブルに置き、ふと足元を見やるとなおさんがちょうど食べ終えたのか毛づくろいをして前足をぺろりと舐めあげていた。
「……おかわりは?」
その声にチラとこちらに目線を寄越した後、「不要」と言うようにそっぽを向くと、リビングに向かいソファに座り目を閉じる。
「お粗末さまでした」
そう言って彼女の皿を片付け、水だけを入れ替えて、コーヒーを淹れ始める。一つは牛乳で割るために半分ほど、もう一方は適量を。淹れ終わると同時にトースターが跳ね上がり、それにバターを塗ってテーブルに並べてから椅子を引いた。
「……おはよう、なおこさん。いつものアメリカン。僕は変わらず牛乳入りです」
二人用のダイニングテーブルの向かいの席には小さな写真立てが置いてあり、隣には小さなコップに一輪挿し。写真の君は若いまま。眩しいほどに綺麗な笑顔だ。そんな彼女に話しかけ、珈琲を一口啜ってからトーストを頬張ると、バターの香りと小麦の香ばしさが口いっぱいに広がった。
「聞いてよ、今朝もなおさんにやられちゃった。こないだは腕だったから良かったけど、今回は顔だよ。もう痛くて――」
――君のもとへはまだ時間がかかると思う。
――今も目を閉じれば辛いけど。
――出来る限りは頑張るよ。
――同居人も出来たしね。
――天にあっては願わくば比翼の鳥となり、地にあっては願わくば連理の枝とならん――。
「……にゃぁ~」
~完~
~比翼連理~ トム @tompsun50
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