農業と、環境破壊と、贖罪の言霊
夢神 蒼茫
農業と、環境破壊と、贖罪の言霊
さて皆様、“農業”というものに対して、どのようなイメージを持たれているでしょうか?
イメージは人それぞれでしょうが、牧歌的な穏やかな生活か、あるいは“3K”などと呼ばれる過酷な労働か。まあ、それは色々ございましょう。
かくいう自分も、元は都会で調理師としてサラリーを食んでいた身の上。農業などと言うのは縁遠い存在であり、どこかの田舎で土をいじくって、野菜やなんかを作っているお仕事、くらいの認識でした。
しかし、そんな縁遠い存在に自身が身を転じて農家となり、毎日泥だらけになって畑を駆けずり回って過ごすことになろうとは、ほんの十年くらい前には思ってもみませんでした。
稼げるし、楽しいから、別にいいんですけどね。農家って悪くないですよ。
そんな農家になってみて、つくづく思う事がある。かれこれ丸五年を農家として過ごし、ようやく一端になれたかなと思う今日この頃。一つの結論に達しました。
すなわち! 農業とは!
『極めて深刻な環境破壊の上に成り立っている』
この事実に気付いてしまった。
皆さん、思い浮かべてください。例えば、水を
一直線に規則正しく並木植えされた稲穂の苗! ああ、なんと美しいのでありましょうか!
空を映す水鏡と、ささやかに添えられた緑のコントラスト!
遥か昔より続けられた光景に、日本人としての美意識が刺激されてしまう!
だが、これは明確な“環境破壊”である。
そもそも、人の手が加えられていないものを“自然”と定義するのであれば、水田とはまさにその真逆。人の手が加えられた“人工”の空間に他ならない。
人は狩猟・採集の生活を捨て、農耕・牧畜を糧を得る手段として選んだ。
いつどこで食料を確保できるか分からない不安定な狩猟生活よりも、農耕の方が気候の変化に応じて食料を調達でき、安定した生活を営めるというものだ。
それはいい。人の発展には、食料の安定確保が絶対条件であり、狩猟生活では限度がある。
一部族が数十人単位で収まるのがせいぜいだ。
しかし、農耕は違う。耕作地を広げていけば収穫物も増えていき、食料の確保もまた進むというものだ。
人が増えれば、また耕作地を増やしていく。この繰り返しで、人口は飛躍的に増えていく。
だが、それは“環境破壊”なのだ。
耕作地を増やす時、その現場となる場所の“草木”はどこへ行くのか?
答えは当然、“伐採される”である。
刈り取られ、建材や燃料に代わり、あるいは焼き畑農法で、灰を肥料として扱う場合もある。
だが、糧を得るために、間違いなく“環境破壊”をするのが農業なのだ。
言ってしまえば、農業や畜産とは『自然界では決して有り得ない密度で植物や動物を集約し、それを食料に変えてしまう』というビジネスモデルに他ならない。
畑にしろ、水田にしろ、自然界では絶対にありえない密度や、あるいは並び方で圃場に存在し、人間と言う哀れな存在を“奴隷化”することによって成り立つ。
農業に従事する者は
考えても見て欲しい、農家の暮らしというものを。
作物に適した圃場を整備し、その邪魔となる“雑草”を排除し、病気や虫を消し去って、肥料と言う名の食事を提供し、汗水たらして働いている。
これを奴隷と言わずに何というのか?
だが、これによって人類は繁栄し、同時に“一部”の植物もまた繁栄を謳歌している。
数を増やすことを繁栄のバロメーターとするならば、“人間の家畜化”に成功した一部の農作物は、間違いなく地上の全生物における成功者と言えよう。
霊長の王たる人間を、こき使ってこれでもかと言うほどに数を増やしている。
否! そもそも、霊長の王と言う認識すらおこがましい。
過去一万年において、哺乳動物はおおまかに絶滅種も含めて四千種いたとされるが、家畜として飼育しているのは、たかだか二十種程度に過ぎない。
全体の0.5%を制して王などと、思い上がりも甚だしい。
しかも、農業が“作物の奴隷”であるならば、畜産は“家畜の奴隷”なのである。
小屋を建て、せっせと餌や水を与え、ブクブク肥え太らせて、初めて肉や乳を得られる。
動植物のご機嫌伺いをせねば、生きていけない罪深き存在こそ、人間なのだ。
狩猟・採取を捨て、農耕・畜産を主舞台に移してより人間が背負うことになった業、あるいは原罪と呼ばれるものだ。
自然豊かな田舎暮らしなどない。そもそも、農業それ自体が自然を潰す、環境破壊に他ならないからだ。
自然界に水路などと言うものが存在するのか?
ない、水路は人の手で水の流れを変えさせた人工物だ。
あるいは、
ない、畦道は水や表土が出て行くのを防ぐための人工物だ。
のどかに見える水鏡も、それは環境破壊の結果に過ぎない。
水稲が育つための最適解の環境を用意した結果、そこの生態系や環境を破壊し、水田とした。
人の手が入らねば、そこはすかさず自然と言う名の雑草に浸食される。
現に、一年放置すれば田畑は草に覆われ、五年もすれば木も生える。
それほどまでに、“自然”とは脅威であり、勢いがあるのだ。
人間様の浅知恵なんぞ、すぐにリセットしてしまえる。
畜産動物にしてもそうだ。
野生を失い、人の手を借りなければ、他の動物に負けてしまうほどに弱い。
密集化し、餌を与えられ、それでようやく生存が許される程度の力しかない。
羊も毛を刈らずに放置すれば、二、三年でとんでもない毛玉になってしまい、まともな身動きが取れなくなってしまう。
人間は安定した食料確保や衣料資材のために一部の動植物の奴隷となり、その一部の動植物は人間と言う奴隷が存在しなくては生存すら危うい状態にまで、品種改良と言う名の極端な強制的進化を遂げた。
農業も、畜産も、明確な環境破壊なのである。
自然を破壊し、環境を変え、それでようやく実りを得られるビジネスモデルなのだ。
何度でも言おう。それが人の持つ業であり、原罪だ。
ところが、その現実から目を背けたがる輩が一定数いるのもまた、人間のエゴと言うべきなのだ。
極端なまでの
家畜を屠畜して肉を得ることを禁じ、それどころか卵や乳、果ては毛の入手すら禁じる連中だ。
はっきり言えば、私はこの手の連中が大嫌いである。
一言で言えば、“傲慢”なのだ。
人間を高みに置いている気がしてならない。
人間なんぞ、それほどご立派な存在でもないのにである。
人の営みもまた、人の視点で見ればエゴと言う名の環境破壊ではあるが、地球と言う視点で見れば、その自然発生的に生まれた以上、“自然”の一部でしかない
だが、連中はそれを無視し、基本的に上から目線だ。
人は神から選ばれた存在だとでも言わんばかりの態度が鼻につく。
屠畜風景を見て、ショックを受けて肉を食べれないと言うのは、まあまだ理解はできる。実際、自分の母親も子供の頃の鶏を絞めるのを見て、肉類が苦手な人でもあるからだ。
人類は増え過ぎてしまったがために、農耕・牧畜という手段を手放せば、たちまち社会は崩壊する。人口維持が不可能であるからだ。
では、農業一本に絞ればどうか。実際、ヴィーガンはそうした畜産物以外の手段を以て食事をしている。
自分に言わせれば、これも傲慢な発想だ。
まるで植物が生物などではなく、“命を奪う”ことを忌避する連中でありながら、“命を奪う”ことにまるで無頓着だ。
はっきり言おう、植物は立派な生命体である、と。
伸びて成長もするし、痛みも知っている。農家である私は、それを毎日見ているからだ。
極端な話、動物との違いなんぞ、足が生えて歩き回れるかどうかの違いしかない。
血が吹き出さない? 色が分かりにくいだけで、液は普通に飛び出すぞ。
生きている。ゆえに、人は常に殺戮者である。
他者の命を奪わねば決して存続することの許されない、果てしなく罪深く、そして脆弱な存在だ。
その現実を直視せず、命のランク付け、殺す対象の選別化、無意識にそれをやっている。
これを傲慢と言わずに、何と呼べばよいのだろうか。
敢えて口にするのであれば、それは“信仰”ではなかろうか。
未だに頭の中では十字軍でもやっているのだろう。
自己の正義を信じて止まず、他者にそれを押し付けようとするのが何より気に入らない。
ほっとけよ。君らが菜食主義を貫くのは構わないが、それを押し付けるのはやめて欲しいものだ。
この偏狭さこそ、まさに十字軍時代に見られた、傲慢なる信仰そのものだ。
信仰とは、人間の感情の中でも、特に理解しがたい。ものによっては理解不能でもある。
その前では、科学的根拠を示したデータも、それどころ目の前の現実にすら目を閉ざしてしまう。
クジラ愛好家もその類だ。
一時期クジラ種の個体数が減っていたのは事実であるが、個体数がむしろ増え過ぎた現在においても、なお捕鯨再開を頑なに認めようとしない。
増え過ぎて餌となる魚が食べられず、餓死して死んだ個体が浜に打ち上げられようとも、その現実には目を瞑っている。
しかも、世界的漁獲不順が拍車をかけ、個体数の保持が危うくなっているにも関わらずだ。
間引きは重要だ。良質な環境を保持するために、あえて破壊するのである。
ちなみに、農作物で言えば、蜜柑などがその代表例だ。
蜜柑は実を生らせるままに放置すると、鈴生りに実ができ、一つ一つが小さくなってしまう。
程よく間引いてやらねば、美味しくて形の良い蜜柑など出来はしないのだ。
自然そのままに、と言うのであれば、魚が減るのも、クジラが餓死するのも許容すればいい。
まあ、もちろん、自分はそのどちらも嫌だと拒絶したい。
魚もクジラも食べたいから、どっちも程よいバランスの上で、命を奪うことを許容したいと考える。
自分が何より嫌っているのは
クジラを保護しろと最も声高に叫んでいるオーストラリアが、その口でカンガルーの大量虐殺を行っているからだ。
年百万頭もの間引きを行っているのが、オーストラリアと言う国なのである。
理由は簡単。農作物への被害が尋常ではないためだ。
ゆえに、国のシンボルマークにもなっているカンガルーの抹殺にも容赦ない。
農家をやっていれば分かるが、畑に侵入するシカやイノシシ等の害獣は本当に質が悪い。柵を壊し、作物を食い荒らし、被害をもたらす厄介者だ。
仕留めてジビエとして売り出すのも、当然の帰結である。実際、美味しいし。
ちなみに、カンガルーもオーストラリアでは普通に売られている。日本にも輸入され、ドッグフードなんかの原材料にもなっている。
厄介な存在には鉄槌を!(ミンチ的な意味で)
そういう点では、オーストラリアの農家の皆さんの苦労も分かると言うものだ。
こちらとは、畑の広さが段違いであるから尚更である。害獣駆除も規模がハンパない。
だが、カンガルーの間引きを許容しながら、同じ口でクジラの間引きを拒否するのはいかがなものか。
個体数が少ないから保護すると言うのであれば分かるが、そうでないから始末に負えない。
結局、感情を、すなわち“信仰”を優先しているからなのだろう。
ゆえに理解に苦しむ。
命は等しく命であり、大なり小なり奪うことでしか個体を維持できない。
まして、可愛いから殺すな、賢いから殺すな、などと言う文言は狂気以外の何ものでもない。
少なくとも、自分にはそうとしか思えない。
逆しまに言えば、不細工なら殺してもヨシ! 頭が悪ければ殺してもヨシ! としか聞こえない。
人間を含めた地球と言う揺り籠の中に存在する以上、一種族に過ぎない人間の傲慢さで、命を選別するのはエゴでしかない。
だが、その傲慢さこそが人の活力の源であり、今目の前には美味しい食材がスーパーの店先に並んでいるのである。
傲慢は人の犯してはならない七つの大罪の一つにも数えられるが、これなくして人の世界は成り立たないのは自明だ。
節制を怠らず、純潔を守り、寛容を旨とし、忍耐を心得、勤勉に行動し、感謝を忘れず、謙虚に生きる。
人の理想とは、かくあるべきなのだろう。
だが、人間の本質は違う。
暴食に耽り、色欲に溺れ、強欲を抑えず、憤怒のままに攻撃し、怠惰に身を落とし、嫉妬を吐き出し、傲慢に振る舞う。
それこそ、人の本性である。
そのことを忘れよう、逃れようとするからこそ、そこに矛盾が生じる。
逃げるのではなく、向き合わねばならない。
だと言うのに、自分だけがいい子ちゃんでいたいという狡さこそ、“信仰”に耽る連中の浅ましさではないかと、個人的には思うのだ。
農業は優し気なイメージを持たれている人もいるかもしれないが、現実は違う。
環境を破壊し、他を排斥することにより、農作物や畜産物を得る行為なのだ。
そのことを、決して忘れてはならない。
自分もまた、傲慢であり、強欲でもあるのだ。なにしろ、大切に育てた
度し難い程の所業である。農家とはかくも罪深い。
自然破壊の申し子、人類の尖兵が農家なのだ。
だが、自然破壊もまた、自然の中の一側面であり、人の行いもそれに含まれる。
人が存続する以上、これは決して避けられないのだということを、胸に刻んでほしい。
形は変えても、収奪と破壊なくして糧を得ることはできない。
農業とは、畜産とは、そういうものなのである。
ゆえに、自分は読者の皆さんに魔法の言葉を教える。
これを唱えてさえいれば、そのことを忘れずに済む。
傲慢になることなく、僅かばかりの謙虚を得られる魔法の言葉だ。
言霊、そう呼んでも良い力ある言葉なのだ。
さて皆さん、席にお着きください。お食事の時間です。
目の前の料理の数々は、一皿、一品の例外もなく、環境破壊と命の収奪の賜物です。
気を病むことはありません。
それが生きる者として、当然の行いなのですから。
手は洗いましたか?
卓を囲む顔触れに欠けはないですか?
胃袋をキュ~キュ~鳴らせて、
さあ、皆さん、魔法の言葉をご唱和ください!
『感謝していただきます!』
~ 終 ~
農業と、環境破壊と、贖罪の言霊 夢神 蒼茫 @neginegigunsou
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