あの時の膝枕について
脳幹 まこと
もう戻らない機会
以下に記す文章を気持ち悪いと思われる方もいるかもしれない。
だがこれはどうにも自分の正体を明らかにするために必要なプロセスのように思えたので、私は今のこの釈然としない気持ちをなるべく出してみようと考える。
・
膝枕をしてもらったのは子どもの頃に一回きりで、してくれたのは母親だった。
私はその時寝ていて、微睡みのなか、いつの間にか枕の上にいた事を知る。その時の母はデニムを穿いていたことをなぜか印象深く覚えている。
居間の白く、ほんのわずか薄暗い照明。テレビの声。母はテレビを見るほか、何か作業をしていただろうか。そんな中で視界が開ける。確か、ブランケットか一枚の布が自分の上にかかっていた。
私は恥ずかしかったのか、煩わしかったのか、母の膝枕から抜けた。起き上がる際、母の手が頭に当たった……
記憶はそこまでだった。
私はその光景を忘れることができない。
それを振り返る度、憧憬と果てしない後悔が胸の内に拡がる。
どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
「ずっと母の上でうずくまっていればよかったものを」と苦々しく思っている。
母に申し訳ないと思ったわけではないのだ。
母のことは心から尊敬しているし、今でも自分の人生を懸命に生きていらっしゃる方だが、それでも、私は母に精神的に依存しているようなことはない。
家族としてある程度の協調と、ある程度の身勝手を互いにしてきたつもりだが、目立った喧嘩もなく、目立った接触もなかった。
飛び抜けた好意も、飛び抜けた嫌悪もなかった。
母も父も、他人の人生や将来にはあまり介入しない人達だったのもあって、目立った欲求のない自分は、そのまますんなりと時間を通り過ぎてしまった。
(いや、正確に言えば、欲求こそはあったが、身のまわりのもので代替出来ていたからかもしれないが)
となると、母……というよりかは「母性」に惹かれているのだろうか。
膝枕とは肉体の接触(スキンシップ)であり、お互いに自分の身体の一部(それも片や頭部、片や脚)を委ねることになる。更に言えばその上で眠ることさえある。これ以上ないほどの無防備だ。
双方ともにそれなりの信頼関係、進展がなければ出来ないことだ。
その性質を、そこまでの、膝枕をするまでの、性質を形容するとするなら、それは「母性」としか表現できない。偉大で温かで大切な感覚。
私は過去、その関係を持っていた。母が持つ「母性」が樹の幹だとして、私の精神はきっと、その樹の先に付く一枚の葉だったに違いない。
そして今は失われてしまった。もはやコンクリの上に散っている。
一度散ってしまった葉が、今更、樹に戻ることは出来ない。戻れたとしてそこに居場所はない。
自分の燃費の良さに腹が立つことがある。
孤独に耐える力、欲求を抑える力、自分で解決できる力、自分で解決しようとする力。
子供時代から培ってきた経験や土壌が、自分の身体も精神も、あまりに一人向きに変えてしまった。
その決断はきっと悪くはなかった。ホームシックはあまり強く出なかったし、一人で生きられる利点は少なくない。
が、もはや自分は「母性」の砂浜から随分と遠い沖へと……流されてしまった。
みんなが砂浜に佇んでいる。両親や、クラスメートや、地方のみんなが、あのまんまの当時の姿で。
デニムのような青と白のなかで、学校指定のスイムキャップを被った自分がぷかぷかと浮かぶ。
ぼくはどうして、こんなところにいるんだろうか……
そのきっかけのはじめてが、あの日やってしまった膝枕からの逃亡だと浮かび上がって、とても苦しいのだ。
あの時の膝枕について 脳幹 まこと @ReviveSoul
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます