自殺警備員

南蛮蜥蜴

自殺警備員

「自宅警備員になりたくねぇ……」


 人でごった返した慣れない街中で俺は肩を落として呟いた。


 今日は大事な面接の日。 二十三十社と受けて未だ一つも勝ち知らず。 運悪く顔見知りになった者からは既に疫病神、ウンコ、ブタ野郎と揶揄されるまでになったが知ったことではない。


 世の中、自分から折れるか死ぬかしない限り負けることなど無いのだと、自分を奮い立たせながら見慣れぬ通りを歩く俺だが、足下から聞こえた甲高い声に引き留められ反射的に足を止めた。


「あー! 見て! ブタさん! 大きなブタさんだよ!」

「こ……こら! 知らない人にそんな失礼なこと言っちゃいけません!」


 偶然すれ違ったちびっ子が俺の顔を笑い、それを聞いた母親が瞬間的に顔を青ざめさせた。 我が子が突然恰幅の良い野郎を罵り始めたのだから当然だろう。


「まぁまぁ奥さん、ちびっ子ってのは丸いのが好きだからしょうがないさ。 俺はどうでもいいが違う人にはそうするなって言っておいてくれよ」


 人様に頭を下げさせるのはガラじゃないし、今はそんなことをしている暇もない。 これ以上面倒ごとに巻き込まれる前に俺はなぁなぁとその場を収めると、目的地である駅を目指して足を早めた。


 その様をはたから見ていたのか、通りすがりで噴き出すように笑った女子高生が何人かいたが別に何一つ気にしてもいない。ちびっ子が言っていたブタという呼び名も、女子高生達の好奇の視線もある意味何も間違えていないからである。


 俺の名前は武田三弦。 田舎のさらにド田舎出身、貧乏家族の次男坊。

 知り合いでちゃんと名前を呼んでくれる奴は一人もいない。

 幼稚園から大学卒業に至るまでアダナは必ず“ブタさん”だった。


 タッパと筋量こそ自信はあるが、どれだけ厳しく鍛え上げても一定以上締まらない顔に腹、愛嬌があって可愛いと言われるのと引き換えに全く威厳のない顔付き、そしてデブ特有の異臭を発さぬよう清潔を心がける習慣。


 名前の読みを省いても全てがブタそのものであり、返す言葉が無いと幼い頃からほぼ自認していた。


 だが今はそんなことどうだっていい。


 このままどこにも働くアテが無ければ実家スネかじりの愛玩家畜のブタ野郎になってしまう。


 漢の沽券を賭けて何としてでもそれだけは避けるべく急ぎ、駅の構内を目指す。


 多少迷子にもなったが、この調子なら目的の電車までギリギリ間に合うだろうとホッとして駅前広場を通り過ぎようとした。


 刹那、背後から突如感じた強い寒気が、俺の全身を凍り付かせるようにして動きを止めた。


「なんだ?」


 山の中でスズメバチの群れや、子連れイノシシや、逃走中の闘犬に出くわした時以上のレベルで、俺の本能が警告を発しているのを感じる。


 今すぐここから逃げろ、殺されるから早く逃げろと言わんばかりに心臓が早鐘のように鳴り、冷や汗が頬を伝っていく。


 しかしここは人目も多い昼間の街中。 それも鉄道警察の事務所から目と鼻の先にある広場。 頭の悪いチンピラですら犯罪を躊躇うような場所で、異常な危機感を放つものに出くわすはずがないと、俺は辛うじて残っていた勇気を振り絞り、振り返った。


 人がまばらに行き来する広場の中。 予想通りそこに極端な異常性を感じるものは何一つとして無い。 唯一あったとすれば、自分と同じ世代と思わしい女性が広場のど真ん中で苦しげに蹲っていたことだけ。


 身体の線が分からないふんわりとした印象の服を身に付け、ウェーブのかかった長い髪で顔を隠した暗い雰囲気の女性。 彼女は寒さにかじかむように身体を丸くし、訳も分からずただ身を震わせ続けていた。


 こんな真っ昼間から誰かに危害を加えるような馬鹿がいなかった事に、思わず俺はホッと深く息を吐いて緊張を解くが、新しい疑問が胸の底から溢れ出てくる。


「何故誰も彼女に声をかけない?」


 白昼堂々、人が集まる所で苦しげな様子を見せているにも関わらず、誰もが女性に一瞥すらくれず歩み去って行く。


 そこには最初から誰もいないと言わんばかりに。


「これが大都会特有の冷たさって奴か? 見た目は立派でも随分荒んでるんだな」


 何か大事なことを忘れているような気がするが放ってはおけない。 俺は反射的に踵を返して苦しげな女性のもとへ大股で駆け寄ると、肩に触れようと手を伸ばした。


 その瞬間、知らない誰かが俺の腹を軽く叩き囁いた。


「やめておきなさい。 すぐ貴方の手に負えなくなるわ」

「っ!?」


 今まですぐそばに誰もいなかったはずだと混乱する暇もなく、俺の腹を叩いたスーツ姿の何者かはすぐに人混みの中へ消えてしまう。


「う……う……」

「大丈夫ですか? ちょっとそこのベンチで休みましょう」


 何が起こったのかさっぱり分からなかったが今は一刻を争うと、俺はすぐそばの自販機で買ったスポーツドリンクを手渡すと、ベンチに座らせた彼女を怖がらせないように片膝をついて目線を合わせる。


 別に励ますなんて仰々しいことはしない。 面識など欠片も無かったが、ただほんの少し話を聞いて上げたくなった。 それだけだった。


「貴方は?」

「俺は武田三弦。 ミツルって言います。 間違ってもブタさんじゃないですよ?」

「ブタさん? ふふっ、おかしな人」

「……そんなことより気分はどうです? 何故こんな所で倒れていたんです?」


 俺が言ったことが可笑しくてたまらなかったのか彼女は口元を上品に隠して笑うが、続いて問いかけられた言葉を耳にすると、一転して真顔になって考え込んでしまった。


「分からない、何も分からないの。 人生の先行きが見えなくてずっと考え込んでて、死にたくて死にたくて堪らなくなって、気が付いたらこんな所にいたの。 私どうしてここにいるの?」

「焦っちゃ駄目ですよ、まずはゆっくり気持ちを落ち着かせましょう。 御自身の名前は分かりますか?」

「私の……私の名前は丑三陽子……」

「ヨーコさんか、いい名前じゃないですか。 このままお話を聞かせて下さい」

「は……はい……」


 言葉や意志の発信こそ乏しいものの、混乱の最中に放り込まれていることだけは手に取るように分かる。 だからせめて彼女が落ち着くまではそばにいようと、俺は途切れ途切れ聞こえる不鮮明な言葉を数分に渡って受け止め続ける。


 どこから沸き立つのかも分からない不安や恐怖。


 それを話し続けるうちに彼女も落ち着いたのか、今まで伏し目がちだった顔をようやく上げると、恥ずかしげに顔を赤らめながらはっきりと口を開いた。 長い髪に隠れていた顔はどこか暗い雰囲気を帯びながらも、柔らかな顔付きとクリッとした目が印象的で可愛らしく、俺は思わず笑みを返す。


「……もう大丈夫です。 顔見知りでもないのに話を聞いてくれてありがとう御座います」

「いえいえ、こちらも命に関わる問題じゃなくて安心しました。 でも無理は禁物ですよ。 ご自愛下さいね」


 引っ掛かることは多々あれど、これ以上は俺の出る幕じゃない。 自分の足で立ち上がったヨーコさんの姿を見て確信すると、俺は後ろ手に手を振りながら切符売り場へ歩いて行った。


「はて、そもそも俺は何しにここへ来たんだっけ」


 人助けに奔走したせいで大切だった気がする目的を見失い、俺はしばらく途方にくれた。まだボケるには早すぎると少ない脳味噌をフル回転させた結果、次第に冷たい汗が背中を伝っていくのを感じ取る。


 そうだ、今日は大事な面接の日だった。


「ああっ!?」


 目的の電車が出発してもう二分ほど経過していることに気が付き、すぐさま面接先へと連絡を入れるも、電話越しに聞こえてきたのはこちらの不幸を社交辞令で慰めつつも、決して遅刻を認めない事実上のお気持ち宣告。


 人のため誰かのためになりなさいと、両親や祖父母からはそう言われて生きてきたものの現実は創作のように上手くいかず、またしても討ち死にレコードを無駄に増やす結果になってしまった。


「……ラーメンでも喰って帰るか」


 懐から取り出したスマホでおすすめの店を探しながら、俺を渋い顔をして駅構内を徘徊する。 ついさっきヨーコさんを助けた時のいい気分はどこへやら、今は鬱々とした気持ちで無駄に逞しい胸の中が一杯になってしまっていた。


「また縁が切れちまったか。 相変わらず運が無い」


 思わず1人呟きながらも、俺は近くにあるらしい良さげなラーメン屋へ足を向ける。 気が滅入った時は旨い物を喰って腹を膨らすに限る。 そう考えながら路地へ入り込んだその時だった。


 ――斬れちゃったの?


 突然、誰かに耳元で囁かれたように感じて周囲を見渡すものの、自分に関心を示すものなどすぐそばには誰一人としていない。


 いるとすれば、路地の向こう側からイキって胸を張りながら近づいてくる社会のゴミ共だけ。


 ラーメン屋へ向かう近道として選んだ路地にたむろしていたのは、社会の落伍者たるチンピラ共。 見た目こそピアスと化粧のおかげで立派に見えるが、筋肉もタッパもなくただ凶暴なだけが取り柄のチンピラ3人組が、鉄パイプをこれ見よがしに振り回しつつ近づいてくる。


「ちょうどよかったわ。 そこのブタちゃんさぁ、俺達今お金ないんだよね~」

「……俺みたいなお登りさんが金持ってるように見えるか? 強請る相手ぐらい目ん玉洗ってちゃんと選べ。 文明社会の不良債権がよ」

「んだとコラァ!」


 俺の返事を宣戦布告と断じた大将格のチンピラがすぐさま踏み込んで鉄パイプを叩き付けてくる。 手始めに痛めつける予定だったのか、高々と掲げられたそれは、俺の頭ではなく肩口に向かって全力で振り下ろされた。


 一般人がそうされれば大けが間違いない容赦なしの打撃。


 だがそんなもんは俺には一切通じず、鉄パイプの方が根元からへし折れ、勢い余って路地の外へ飛んでいく。


「何ぃ!?」

「無駄だ、筋肉デブの強靱さと脂肪デブの柔軟さを併せ持つ俺にそんなへなっちょろい攻撃は効かん。 俺を殺したければ荷物満載にしたダンプカーでも持ってこい」

「やかましい! 力士とレスラーの出来損ないが!」


 普通の人よりは何倍も太い腕を大きく回して受けの構えを取り、チンピラから叩き付けられるであろう次の攻撃に対して俺は防御の姿勢を取る。


 無駄な体力を使うだけの喧嘩に勝つつもりなどはなっから無いが、一方的な負けを受け入れるつもりもさらさらない。


「やめとけ、これ以上続けたらどっちも痛い目みるだけだぞ。 それにアンタだってお巡りの点数稼ぎに貢献するのも癪なはずだ」

「ブタのくせに人間様に意見するんじゃねぇ!」


 無駄な争いを避けるべく俺は再三に渡って説得を試みるが果たせず、怒り狂ったチンピラはヤケクソになって懐に隠していたドスを抜き放った。 人の命など容易く奪える凶器の登場に流石の俺も冷や汗を流しながらゆっくりと後ずさる。


「あぁそれは駄目だ刃物は駄目だ洒落になってない」

「そうだよ兄貴、殺しはヤバいって! 俺達がブタ箱に叩き込まれちまう!」

「黙ってろ! 俺に恥をかかせたブタは前足を切り落とした後、豚トロを引き裂いて殺してやる!!!」


 手下のチンピラ二人もこれ以上はヤバいと感じたのか、なんとか兄貴分を落ち着かせようと縋り付くも、お返しに叩き込まれた蹴りと殴打によって路地の汚い地面を舐めるに終わる。


「冗談じゃねぇぞ……」


 こんな訳の分からないところで殺されるつもりはない。 俺はチンピラの注意が下っ端に向いているうちに、急いで警察に助けを求めようと全力で地面を踏み締めた……その時だった。


 ――手首と首を斬るのね?


「……斬るって、誰のだよ?」

「何だ? 一体どこからほざいてやがる!?」


 ついさっきも聞こえた囁き声を耳にして俺は思わず立ち止まってしまうが、今回の声は何故か兄貴分のチンピラにも何故か聞こえていたようで、正体不明の声に怯えた男はドスを振り回して周囲を威嚇し始めた。


「やめろ! 俺に触れるな! 俺に一体何をするつもりだ!?」


 何も無いところに向かってドスを振り下ろす奇行を繰り返した後、チンピラは手にした凶器を振り回しながら急いで路地から逃げ去ろうと試みるも、つんのめって勢いよく倒れ込んだ後何故か一切動けなくなる。


「い……いやだやめろ……助けて……助けて……!」


 俺には見えない何者かへ必死に命乞いをするチンピラだが、それが上手くいっていないのは全く状況を把握できていない俺にも何となく分かった。


 見えない敵と戦う男の表情が怒りから焦り、焦りから恐怖と滑らかに変化していき、最終的には涙を零して絶叫せんとしていたが、胸の底から溢れ出ようとした悲鳴が実際に大気を揺らすことは無かった。


 代わりに大気を揺らしたのはおびただしい量の鮮血。


 さっき俺へ宣告していた通り、チンピラは自分の左手首を斬り落とした後、続けて自分の首目掛けてドスを突き立て、周囲の壁や地面に赤いシミをぶちまける。


 勢い良く飛び散った血潮は少し遠くにいた俺の身体にも降りかかり、特注サイズのリクルートスーツに消えない赤い斑紋を刻んだ。


「うわああああ!!!?」


 眼前で人間が惨死を遂げるという、あまりにも異常で非現実的な光景に俺は逃げることも忘れて腰を抜かしてしまった。


 別に人が死ぬのを見るのはこれが初めてじゃない。 けれども、こんな惨い死に方をするところなんて戦場とフィクション以外では絶対に有り得ない。


「は……早く警察と救急車を……」


 通報しただけで万事解決出来るとは全く考えていない。


 それでも、異常なことが起こっていることを誰かに知らせるべく、俺は懐にしまったスマホに手を伸ばそうとするが、残りのチンピラ共が取った行動を見て思わず手を止めた。


「おい待てよお前ら! 身内をほっといて何処へ行く気だ!?」


 今までそばで騒いでいた手下共が突然明後日の方を向いたと思うと、兄貴分の死体を残して歩き去って行く。


 まるで最初からそこに何も無かったとでも言うかのように。


「いい加減にしろよ馬鹿共!!!」


 堪らず二人をとっ捕まえてビンタをかますが、チンピラ共は俺と接触した瞬間に何故かうつろな表情のまま完全に硬直してしまい、まともな意思疎通一つままならない。


 いや、それどころか滅茶苦茶大声で怒鳴っているにも関わらず周りの人間すら見向き一つしない。


 厄介事に巻き込まれるからという理由では無く、本当に俺の周りの物全てが見えず聞こえないかのように。


「一体何がどうなってやがる……」

「だから言ったでしょ? 貴方の手には負えなくなると」

「ッ!!?」


 つい先程耳にした皮肉げな言葉と、腹を軽く叩かれる感触。 それに導かれるように振り返ると、そこにはトゲトゲしく鋭い目付きをした小柄な女が、俺を嘲笑うかのような表情をして立っていた。


「驚いたわ。 貴方、アレと接触してまだ生きていられるのね」

「アレ? アンタ何か知ってるのか!?」

「手短に教えて上げるわ。 貴方が信じるかは別だけど」


 顔付きや体付きは細くも、付けるべき筋肉は適度に付けた、どことなく明るく活発な印象を与えるショートヘアの美女。


 もっとも、華奢な印象とは裏腹に矢継ぎ早に紡がれる言葉は強く鋭く、俺は彼女に対してあまり良い印象を抱くことが出来なかった。


 だが、俺を取り巻く状況は決して尋常のものでは無い。 今は少しでも情報を得るべく言いたいことを呑み込んで黙って頷くと、彼女はニコリともせず淡々と口を開く。


「貴方、幽霊って信じてる?」

「生憎、オカルトなんてのは金に窮した詐欺師共が浅知恵でひり出したトリックとしか思ってなくてね」

「ふぅん、ずいぶんと夢がない生き方をしてるのね」

「現実的だと言ってくれないか?」


 真面目に話しているとはとても思えず、俺は遠慮無く心霊への不信を吐き散らしながら睨み付けるも、女はさらにキツく眦を引き締めながら言葉を続ける。


「私は真面目に話してるのよ。 でなきゃ危険を冒してまで貴方と接触なんてするものですか」

「……そんなことが本当にありえるのか?」

「半年前の私と同じ事言ってるわよ貴方。 まぁ結局、人間自分の周囲で起きたことしか信じられないんだから責めはしない。 ……でも、このままでは“貴方のせいで”大勢の人間が死ぬ羽目になるわよ」

「何だと?」


 彼女の脅しめいた言葉に俺は再び反感を抱くも、すぐそばを通りがかった一台の市営バスが突然コントロールを失い、一切減速しないまま高架下の太い柱へ突っ込んだのを見た瞬間、そんな考えは吹っ飛んでしまった。


 けたたましい衝突音と共に車体がひしゃげ、中から無惨な姿に成り果てた乗客だったものが燃え上がりながら転がってくるが、それに意識を向ける者は誰一人としていない。 先程無惨に死んだチンピラに誰も関心を示さなくなったのと同じように。


「くっ!はやく誰か救急車と警察呼べよ! 何で誰も気付かないんだよ! 地方紙の一面飾る大事故だろうが!」

「それが彼らの力だからよ。 地方の人口減少と、心霊の存在に対する猜疑心により、かつては多くの怪異が消滅の一歩を辿っていた。 だけど、ネットワークの発達により失われた記録が掘り返されたせいで、少しずつ力を取り戻しつつあるの。 オカルトと科学が近づいたことによって蘇った怪異。 私達はそれを“事象霊”と呼んでいる。 彼らの影響下に取り込まれたら最後、街のど真ん中で誰にも看取られぬまま息絶えて、後には死体も名前も遺らない」


 燃え上がるバスのすぐそばを素知らぬ顔で歩いて行く人々に、俺が必死になって声をかける横で、女は俺を哀れむように眺めながらニコリともせず促す。


「状況は飲み込めたわね? 今の貴方に拒否権なんてないのよ」

「……分かったよ。 ところでアンタ名前は?」

「カリンよ、お人好しの哀れなブタさん」

「ブタじゃねぇ! さっさとどうするべきか教えてくれよプロなんだろ!?」


 偽名としか思えない名をさらりと名乗ったカリンとかいう冷血女は、何やらお経めいた紋様が描かれた業務用らしきスマホを一方的に投げ渡すと、すぐそばに駐車してあったバイクに跨がって俺から逃げるように離れていく。


「な……、おい! 一体何のつもりだよ!?」

「私まで化け物の歯牙にかかったら元も子もないでしょ。 貴方は化け物に追われながら、私が指定した場所までさっさと移動して。 変に刺激しなければ殺されないだろうし何とかなるわ」

「簡単に言ってくれるな! そもそも本当にそんだけで何とかなるのかよ!」

「何とかなるから言ってるんでしょ。 これ以上人を死なせたくなければさっさと駆け足なさいな」

「ちくしょう!」


 納得できないことは山ほどある。 けれども、これ以上訳の分からないことで死者を出すわけにはいかず、俺はスマホの画面が示す場所目指して走り始めた。


 目指す場所は、駅からだいぶ遠く外れたところにある廃ビルの最上階。


 当然、大通りを突っ走ることなど出来ない。


 何がきっかけとなって霊とやらが人を殺そうとするのか分からない以上、軽率な行動は即虐殺へと繋がりかねない。


 故に、俺は普段通れば通報間違いなしの企業の敷地や人んちの庭先などを、轢かれかけたり擦り傷だらけになりながらも必死で走る。


 その最中、何かに見られ執拗に追いかけられているような感覚に何度も陥るも、そんなものは気の迷いだと即断して前を見る。


 せっかく高い金をかけて新調した特注サイズの背広も既に血塗れのボロボロだが、決して人命には変えられない。


「中々良いペースじゃない。 これなら私も定時までには帰れそうね」

「他人事みたいに言うんじゃねぇ!」


 スマホ越しに聞こえる薄情女の声に大声で返しつつ、俺は塀をよじ登り、トラックの屋根の上を駆け、家々を隔てる小川を飛び越え続け、いつしかスマホの画面に映っていた目的地の一部が俺自身の位置からも見えるようになっていた。


「見えたぞ!」

「こちらからも無駄にデカい貴方の姿が見えたわ。 アスレチックで遊んでないでさっさと……」

「さっさと……何だ? 何でそこで黙るんだよ」


 また一言二言余計な口撃を食らうのかと身構えた所に、突如立ち籠める静寂。


 やたら高圧的だった薄情女らしくない行動に、俺は思わず電話口に再度問いかけるが、ビルの入り口に立っていた人影を見て無意識に立ち止まった。


「ヨーコさん!?」


 目的地のすぐ近くで俺を待っていたかのように立っていたのは、ついさっき自分とは真逆の方向へ歩み去ったはずのお淑やかな美女。


 何故こんなところにと、反射的に問いかけようとするが、彼女が浮かべていた笑みを見た瞬間に喉元で言葉が止まってしまった。


 ヨーコさんがさっき垣間見せた人柄とは、あまりにもかけ離れた邪悪で身も凍るような笑みを。


「………………ウフフッ」


 俺の惑いや恐怖を感じ取ったのか、ヨーコさんは……否、ヨーコさんの身体を乗っ取った“事象霊”は俺に向かってゆっくりと歩き始めると、本来の肉体の持ち主の意志など意にも介さず、物理的にも影響を及ぼす強烈な呪詛によって肉体の変容を始めた。


 暗く儚げながらも愛らしかった顔は、グシャグシャにねじくれて人間の範疇から逸脱したものに代わり、ふんわりとした印象の服装で詳しい様子が窺えなかった肢体は、容易く服を引き千切るほどに内側から醜く膨れ上がり、細く綺麗だった手足は、肉と皮を引き裂いて内側から生えてきた刃物状の突起により血塗れにされる。


 新たな犠牲者を求めて唸りを上げるその姿は、最早人間などではなかった。


「馬鹿な……こんなことが……」


 常識どころかオカルトからも大きく逸脱した物理的現象に、俺は思わず言葉を洩らすも、ヨーコさんだったものが爪を振り上げて飛び上がったのを見て、反射的に地面を蹴った。


 刹那、俺が居た場所をまっすぐ通り過ぎた化け物は、シャッターによって閉じられた空き店舗の中へと突っ込み、家屋を破壊しながら粉塵の中に倒れ込む。


「まさか囮に使った依代に取り憑くなんて、やっぱり最初からあそこで始末を付けておくべきだったわ」

「始末だと? どういうことだ!?」


 動揺するのも束の間、聞き捨てならない言葉を耳にして、俺は胸の底から湧き上がる感情を抑えられずに問う。


 失言だったと一瞬黙り込むカリン。 だが、任務達成の障害になることを察すると観念したのか、重々しく口を開いた。


「事象霊の排除方法といってもやり方は少なくないの。 今やろうとしているように活性化してしまった事象霊を格式高い儀式に引き込む方法もあれば、目覚める前に簡単に処理する手段だってある」

「つまり、目覚める前の霊をたっぷり憑依させた人間を処分しても任務は無事達成できたって訳だ」

「……勘が良いのね、当たりよ」

「このクソ野郎!!!」


 今まで溜めに溜めたフラストレーションを全て吐き出す勢いで俺は怒鳴り散らすと、カリンは負けじとスマホ越しに理屈っぽく言い訳を始める。


「国家の犬として働く以上、100万人救う為に1人を犠牲にするなんて当然のこと。 私達公僕と貴方とでは背負っているものの格が違うのよ」

「そうかい、それは随分ご立派なことだな!」


 こんな連中相手に本心では頼りたくなどなかったが、他にノウハウを持つ者など近くにいるはずもなく、ならばせいぜい苦労を押し付けてやろうと、俺は全力で階段を駆け昇った。


 一段、二段と間をはしょって駆け上がる間にも、香の強い匂いが上の階から流れ、じゃらじゃらと仰々しく宗教的な器具を鳴らす音が響いてくる。


 儀式をやるという話自体に嘘はなさそうだった。


「ちゃんと準備しとけよ! もうすぐ化け物も突っ込んでくるぞ!」


 一切応答しなくなったスマホに怒鳴りつけるのとほぼ同時、俺は目的地と思しき大広間へ続く蹴り破って思い切り飛び込んだ。


 何故か懐かしい衝動に駆られる匂いと、今まで聞いたことも無い不思議な輪唱で満たされた空間の中へと。


「これは……」


 床、天井、そして壁と窓一面に幾何学的な紋様が描かれ、宗教従事者らしき黒服の面々が呪文を唱え上げながら古い和楽器を響かせる厳かな異空間。


 外の雑多な空気とは一線を画する清廉な雰囲気に、俺は今ここにいてもいいのかと自己存在自体を躊躇してしまった。 化け物の類いではない人間であるにも関わらず。


 当然、化け物そのものである追跡者には効果てきめんだった。


 追いつくや否や、いますぐにでも俺を掻っ捌かんとしていた化け物の動きが、セメントで固められたように完全に止まり、そのまま苦しげな呻き声を上げながら蹲った。


 陸に揚げられた魚、高地で酸素不足になった人間、その他自身の生育に全くそぐわない環境に叩き込まれた生き物のように、必死に呼吸を繰り返しながら悶えて転げ回る。


「お天道様の光に多少適応出来たとしても、脈々と受け継がれてきた破魔の儀式には流石に叶わないでしょう? 先に滅された同類と同じく、跡形残さず消えると良いわ」


 最早立ち上がることすら出来ずにその場で七転八倒する化け物の背中に、勿体振って姿を現したカリンの冷たい声が突き刺さる。


 既に仕事は終わったとでも思っているのか、今まで人らしい暖かさを見せなかった顔に余裕らしき笑みが微かに窺えた。


 しかし俺は、冷血女が目の前で口走った言葉をあっさり聞き逃せなかった。


「消える? 消えるだと!? だったらヨーコさんはどうなるんだ!」

「こんな化け物に成り果てた生贄のことなんて諦めなさい。 第一、こんな身体に成り果ててこれからどう生きろと?」

「こ……このゴミクズが……!!!」


 こんな酷い仕打ちをしておいて我関せずを貫く国家の雌犬への怒りが、沸々と胸の底から煮えたぎってくる。


 後一押しあれば顔面が砕ける勢いで張り倒してしまおうと思い詰めるほどに。


 だが、目の前で苦しげに転がっていた化け物の動きが不意に止まったのを視界に収めた瞬間、俺も冷血女も一斉に押し黙る。


 何かがおかしい。


 そう思う間もなく、今まで呪文を唱え上げていた黒服の連中が全員自らの爪で首を掻っ切り、泡を吹きながら死んでいった。


「馬鹿な……」


 今までの余裕が嘘のように声を絞り出すカリン。 その目の前で軽々と起き上がった化け物は、俺をゴミを見るような目で見下げながら楽しげに笑う。


 そこにヨーコさんが俺に向けてくれた優しげな眼差しはどこにもない。


 ――あなたたち、わたしをKill斬るしようとしたわね?


 ヨーコさんの声帯を奪い取り、汚らしい言葉を吐き付ける化け物。 そいつは次の獲物と定めた俺の方へゆっくりと向き直る。


「駄目だ……ヨーコさん……」


 咄嗟に口から出たのは命乞いでは無く制止の言葉。


 自分の命は確かに惜しい。 しかしそれよりも、優しげだった彼女の手を俺の汚い血で染めてしまうのはどうしても忍びなかった。


 背後に逃げ場も無く後はただ死ぬだけ。 不思議にも冷えた頭でそう思った瞬間、ダンダンと二度勢い良く足拍子を踏む音が響き、化け物の身体が硬直した。


「さっさと逃げなさい! 死にたくないんでしょう!?」


 そう叫びつつカリンは無謀にも化け物に組み付き、懐から引っ張り出したナイフをその背中に突き立てた。 刃物と化け物の肉体が触れ合う部分から蒸気が上がり、異形と化した体組織の一部が瞬く間に焼け落ちていく。


 だが、そんなちゃっちいモノで超常の存在を完全に止められるはずもなかった。


 それどころか襲った側であるはずのカリンが、化け物に突き立てたナイフを何故か自ら引き抜き、切腹の要領で切っ先を自らの腹部に向ける。


「馬鹿! アンタ何をやってるんだ!?」

「違う……手が……私の手が勝手に……」


 今まで見せていた冷静さが一転し、怯えの表情を見せるカリン。 そんな彼女を嘲るように化け物は汚い引き笑いをして見せると、ナイフの柄頭をゆっくりと押し込み始めた。


 目標は勿論、カリンの腹部に他ならない。


「ひっ……」


 このまま放っておけば殺される。 猶予など無かった。


「駄目だ! 殺すな! もう誰も殺すな!!!」


 これ以上誰も死んで良いはずが無い。 咄嗟に俺は化け物の身体を後ろから羽交い締めにするように抱き締め、物理的な凶行を無理矢理押し留める。


 俺と依り代にされたヨーコさんの間に圧倒的な質量差があったおかげか、カリンの殺害は何とか止められた。 しかし当然、殺意の矛先は俺へと向かう。


 肉体的に手を出せないのなら呪術的に殺せばいいと思ったのかは定かではないが、単純で強烈な呪詛が俺の脳味噌に異常な命令を下す。


 今すぐ自らの肉体を切り裂いて死ねと、意識を希死願望で埋め尽くさんとする悪意が俺の脳内を駆け巡る。


 そんなものをあっさり受け入れられるほど、俺が生き汚かったことも知らずに。


「アホが……」


 俺は死なない。 誰に死ねと言われても絶対に死のうとは思わない。 気の狂った群れた人間に襲われても、一秒一秒に命を賭ける野生動物に生存競争を挑まれても、俺は絶対に死なない。


「死んでたまるか馬鹿野郎。 こんな下らんトリックで俺を殺せると思うな……!」


 死にたくない、どんなことをしてでも生きていたい。 山で起こった事故で俺を庇って死んだ爺様のように、血反吐と臓物をばらまいて死にたくはない。


 そんな貪欲すぎる生存欲を示した瞬間、今まで俺を殺そうと藻掻いていた化け物は、突然俺から逃げ出そうと藻掻き方を変える。


 まるで俺に怯えるかのような視線を向けながら。


「何だ? 今までの余裕はどうした?」


 今まで殺されないことを優先してきたが、ここに来て立場の逆転を察し逃げようとする化け物を俺は全力で拘束する。


 すると、カリンに刺された時以上の蒸気が化け物と俺の身体が接する部位から放たれ、この世のものとは思えない絶叫が木魂した。


 叫んだのは俺ではなく、今まで調子に乗り続けてきた化け物。


 その瞬間、俺の頭の中に全く知らない連中の記憶らしきものが勝手に流れ込み、俺の五感を通じて身勝手に投影される。


 いじめっ子に対して罰が下るよう願いながら死ぬ。

 自分の思い通りの人生にならなかったから死ぬ。

 ちょっと悪口を言われて落ち込んだから死ぬ。

 盲信していた雑誌に裏切られたから死ぬ。

 誰も自分の作品を理解しないから死ぬ。

 自分を誰も褒めて囃さないから死ぬ。

 無謀な賭け事で失敗したから死ぬ。

 教祖に死ねと言われたから死ぬ。

 会社を首にされたから死ぬ。

 異世界転生を狙って死ぬ。


 死ぬ、死ぬ、死ぬ。


 自分の人生と向き合わず、軽い気持ちで自ら首を掻き切った臆病者の怨嗟が、俺までも死の縁の向こう側へ引き摺り込もうと背中を伝う。


 返ってくるものが冷笑と蔑みであることも知らずに。


「まだ分からないのか? 俺は“お前の餌になった連中”と違ってそもそも死にたいとすら思わない。 俺はどんな汚い手を使ってでも死ぬ寸前まで生き抜いて、俺とつがいになってくれた奇特な女の膝の上で死にたくないと泣き喚きながら死ぬんだ」


 脳へ直に刷り込まれてくる情報から“事象霊”とやらがどうやって力を得てきたのかを察し、俺はさらに力強く眼前の滅すべきものを抱き締めると、この選択が間違っていなかったことを悟る。


 俺の腕の中に返ってくるのは化け物の固く冷たいボディではなく、柔らかく温かな人の肌の感触。 それは、化け物に奪われた身体が徐々にヨーコさんの手へ戻り始めていたことを俺に告げてくれる。


「遺される皆のことを少しでも考えれば、死に憧れるなんて無責任なこと出来ないはずもない」


 無造作に俺の意識を踏みにじる霊の干渉を追い出そうと俺が思い出したのは、死と向き合った人の横顔。


 俺を土砂崩れから庇ったせいで無惨に死んだ爺様の顔。

 老いさらばえて夫が昔死んだことも忘れた婆様の顔。

 若くして死病に冒された叔父の痩せこけた顔。

 旦那の顔を見て泣き崩れる気丈な叔母の顔。

 運転手の不注意で轢き殺された隣人の顔。

 肉親を失って呆然とする友人の顔。


 死という絶対的終焉が連れてくる、誤魔化しようのない絶望の連鎖。


 それを間近で見せ付けられて尚死に憧れるなど、死にたくもないのに死んでいった人々への冒涜に他ならない。


「俺の中に溶け込もうとしているのなら分かるだろう。 俺とお前は絶対に相容れることのない存在だってな」


 正体の割れた怪異などただのペテンである。 そう結論付けた俺に対して最早怪異など無力だった。


 最後の抵抗で呪殺しようとでも考えたのか、今まで感じたことのないような疲労感が突如俺を襲うも、苦難から逃げ続ける者と立ち向かう者の気概など今さら比べるまでもない。


「必死に生きてる人間の足を引っ張るな! 死にたければ一人で勝手に死にやがれ!」


 か細い声で死んでくれと囁き続けたペテンへ一喝代わりに強い思念をぶつけた瞬間、短い「ギャッ」という悲鳴が響いたかと思うと、俺を死に導かんとしていた怨嗟が一瞬で消え失せた。


 それに応じて、必死に抱き締めていた化け物が見る間に変化を遂げていく。


 醜く膨れていた腹部も、凶器と化していた手足も、そして完全に常識から逸脱したケダモノと化していた顔も、全てがヨーコさんの物へ還っていく。


「信じられない……こんなことが……」


 その様子を目の当たりにしたカリンが床にへたり込みながら呟くも、今の俺に返答する余裕はない。


 “事象霊”を祓い出す代償に生命力と気力を吸い取られたのか、今は身体が鉛のように隅々まで重かった。 しかしそんな倦怠感を感じるよりも先に、ホッとした気持ちに包まれる。


「ミツル……くん……?」


 意識を取り戻したヨーコさんが起き抜けに呟いた優しい声が、遠くなり始めた俺の意識の中を木魂する。


 艶やかな肢体が陽光の元で露わになっているとも気付かず、こちらへ向き直るヨーコさん。


 完全にありのままの形を取り戻したその顔を見て、俺は安心するとそのまま膝を付き、目を瞑って眠りに落ちた。


 彼女を死なせずに済んだと、強い喜びに満たされたまま。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 粘つくような眠気に包まれて、俺の意識は暗黒の中を漂う。 死と最も近しい闇の中を。


 そんな中でも、俺は厳しい現実でのことを考える。


「今日の予定……今日の就活の予定は……」


 まだ俺は人生で何も成果を出せていない。 愛玩動物になりたくない。 誰かの重荷になるなど真っ平ごめん被る。


 だから今は寝ている暇など無いのだと、俺は夢の世界から抜け出るべく必死に瞼を押し上げた。


 夢の世界に沈む前に起こったことなど、不覚にも失念して。


「……なんだこりゃ」


 一人暮らし特有の万年床の上で目覚めると同時、勢いよく起き上がった俺が目にしたのは、血に染まった挙げ句ボロボロになった特注サイズの一張羅。


 無駄にデカいだけでなく値段も無駄に高いせいで一着しか持ち合わせていない唯一のコスチュームが、無惨にも汚く引き裂かれていた。


 そして俺は一時忘れていたことを思い出す。 この世のものとは到底思えない超常現象と対峙したことを。


「あれは夢じゃなかった……のか……?」

「夢じゃないですよ。 あの時起こったことは全て本当の話。 貴方は命を賭けて、私を死の淵から救い上げてくれた」


 ふと耳に届いた優しげな女性の声に釣られて、俺は咄嗟に顔を向けると、そこにはヨーコさんがお淑やかに座っていた。


 彼女は上品に口元を隠し、起きたばかりの俺の顔を見て微笑んでいる。


「ヨーコさん!? どうして俺の家なんかに……」

「どっかの誰かさんが“事象霊”の撒き散らした認識障害を晴らしてくれたおかげで、私達もあの街に長居出来なくなったの。 無駄にデカい上に全く動かなくなった貴方と、再生したその娘の容体を観察するためにも、一旦この家をシェルターにさせて貰ったわ」

「そんなもんは勝手に人ん家に上がり込んでいい理由にはならないんだぞ」

「理由なんて必要ないわ、私達は秩序のために権力を振り翳して構わない立場だから」

「……そうかい」


 ヨーコさんとの会話に割り込んできたのが誰なのかを察した俺は深々とため息をつくと、寝室に上がり込んできた女の顔を憎々しげに睨み付けた。


 ドアの向こうや窓の外で黒服の面々を待たせる、終始不敵なカリンのツラを。


「私達だって本当なら祓い終わり次第関係を断つ予定だった。 貴方が身一つで事象霊を祓ったりしなければね。 あんなことは今まで他の誰にも出来なかった。 貴方は素晴らしい快挙を成し遂げたのよ」

「そりゃ結構。 用が済んだらさっさとお役所に帰ってくれないか? 俺はアンタ以上に忙しいんだよ、期限切れになる前に新卒切符を切り終わらないと死ぬまで負け組として生きなきゃならん」

「その心配はいらないわ。 貴方の就職先はもう決まったようなものだから」

「何だと?」


 人様の人生の今後を決めつけるような発言に、俺は思わず語気を多少荒げてると、対するカリンも失言だったと理解したのか、彼女にしては語調を和らげて言葉を続ける。


「事象霊は憑依した相手を自殺に追い込んで力を得る。 その被害を最小限に食い止める為に私達がいるの。 通称“自殺警備員”それが私達の仕事。 でも、奴等に関して不明な点は未だ多くて後手後手になっているのが現実なの。 あの時、山ほど犠牲者が出たことからも分かるでしょ?」

「つまり俺もその“自殺警備員”とやらになって、生涯得体の知れないオカルトに玩ばれ続けろと?」


 普通の企業からのスカウトだったら諸手を挙げて喜んだだろうが、普通の人生から大きく逸脱するであろう選択を突き付けられ、俺は訝しむ表情のままカリンの顔を睨み返す。


「絶対になれとは言わないわ。 ただ、大いなる才能を持つ者が立ち上がらなければ、今日よりもっと大勢の人々が誰にも看取られぬまま世の中から消え続けると思いなさい」

「……っ」


 さっさと断ろうと考えるも、すぐさま半ば脅しの混じった言葉を叩き付けられ、俺は思わず言葉を詰まらせる。


 目の前に立つプロは俺が思っている以上の評価を下してくれているようだが、あんなことがまた出来るような保証は一切ない。


「俺は……」


 早く断れ、断って居るべき日常に戻れと、俺の強い生存欲求が強く訴えかける。 でなければ畳の上で死ぬことなど出来なくなるぞと。


 だが俺は拒否の言葉を絞り出すよりも先に、無意識のうちにヨーコさんの顔を見ていた。


 本来なら、既にこの世の者でなくなっていた人の顔を。


 自分自身の手で救い出した人の顔を。


「ミツルくん?」


 俺の視線に気付いたのか、ヨーコさんは少し顔を赤らめながらも不思議そうな顔をして視線を返す。 そんな彼女の可愛らしい顔を見て、俺が絞りだそうとしていた言葉は自然と変わっていった。


「金払いは良いんだろうな?」

「えぇ、少なくとも下手な上場企業の重役よりは稼げることを保証しておくわ」

「……そうか、なら少しは働きがいがあるということだな」


 自然と差し出されたカリンの手を取って立ち上がると、俺は多少の後悔と覚悟を語気に滲ませながら口を開いた。


「いいさ、なり手がいないのならなってやるよ。 その“自殺警備員”とやらに」


 名も知らない誰かを死の淵から引っ張り上げるため、俺は自ら死の淵へと歩んでいった。

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自殺警備員 南蛮蜥蜴 @Tokage0141

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