灯火
多田いづみ
灯火
川のむこうが、火事で焼けている。
夜だからはっきりとは分からないが、ずいぶん広い範囲が焼けているようだった。いろんな場所から火の手が上がっているのが見える。
その火の吹き上がる様子が
むこうは停電でもしているのか、真っ暗だった。火事の明かりのほかに何も見えなかった。
空には月も星も出ていない。雲が低く立ち込めていて、それがまた火に照らされて赤く焼けている。夕焼けの色ともちがう、舞台の演出のような作りものめいた赤だった。
わたしは廃品回収の仕事でこのあたりに来て、途中で車が故障して動かなくなった。修理を頼んだが、あしたの朝まで来られないらしい。
それでわたしは人けのない川沿いの道に車を停めて、そのなかで一夜をすごしていた。ワンボックスの回収車には廃品が半分ほど積まれていたが、狭いなりに、わたしが横になる程度の余裕はあった。
とはいえ、車の床はかたくて寝苦しかった。それほど暑くはなかったものの、ムシムシして汗がなかなか引かない。廃品の匂いなのか、車のオイルの匂いなのか、鼻につく匂いがするのもいけなかった。
それでもやっとうとうとしかけたとき、遠くでサイレンの音がして、はっと目が覚めた。どこで鳴っているのかよく分からない。夢の続きのような気もする。しかしサイレンの音は、だんだんはっきりと大きくなってきた。
わたしはあわてて飛び起きると、車を出て、川岸の高い大きな土手を駆け上がった。
わたしがいちばんだとばかり思っていたのに、土手の上には、もう何人かが様子を見にきていた。
みな近所に住んでいる顔見知りのようで、指をさしたりしながら何やら真剣に話し合っている。といっても、対岸の火事の明かりもここまでは届かないらしい。土手の上は真っ暗で、顔も何も分からない。お互いの声を頼りに、「ああ、誰々さん」などと呼び合っている。
そうしている間にも、土手には
そのかたまりのなかから人影がひとつ分かれて、こちらにやってくると、
「すみません、火ありますか? あわてて出てきたんで忘れちゃって」
と口に何かものをくわえているらしい様子で言った。
わたしは作業服の胸ポケットをさぐってライターを取り出し、つけてやろうとしたが、あまりに暗くてどこが顔なのか口なのか分からない。それでもかまわずに火をつけると、むこうが勝手に顔を寄せた。ライターに赤く照らされたのは、思ったよりも若い男の顔だった。
わたしも、胸ポケットに入れっぱなしでくしゃくしゃになった箱から一本取り出して、吸った。
川は、むこうとこちらとの間に、巨大な黒い帯のように横たわっている。川幅はずいぶん広いらしかった。水面はおだやかで、すこしも動いていないように見える。
対岸の火事にはどことなく現実味がなかった。
サイレンの音や半鐘の音は、むろん絶えなかった。が、それ以外の音は何も聞こえてこなかったし、焼けた匂いがしてくるでもなかった。まるで舞台の書き割りでも見ているような感じだった。
「あまりこのへんでお見かけしませんね」
と若い男が、ためらいがちにわたしに話しかけてきた。
わたしは男に車が故障したいきさつを説明した。すると、
「それはまた災難でしたね。でもおかげでめずらしいもんを見られたわけだ」
と何やら不謹慎らしい言葉を口にした。
若い男の表情は分からなかった。たばこの先に、蛍のような
わたしと若い男は、対岸をながめながら、とりとめのない話をした。
「むこうはひどい有様みたいだ。焼け出された人もいるんだろうね」
「そりゃあ、たくさんいるでしょう」
「死んだ人はいるのかな?」
「さあ、どうですかね」
「火事はこっちまでくるかしら?」
「こないと思いますよ。ここの川は広いから」
若い男は思いきり深くたばこを吸って、ちりちりと音を立てた。そして火がついたままのたばこを、川の方に放った。小さな赤い灯火が、くるくると舞いながら眼下の闇へ消えていった。
「川のむこうへはどうやって渡るの?」
「橋はずっと先ですね。ここからだとけっこうかかりますけど――」
「おや、雨だ」
何の前触れもなく、大粒の雨がバラバラと落ちてきたと思ったら、一瞬でやんだ。そのあとやけに生暖かい風が吹いた。蒸し暑い夜だったから、雨を浴びてもそんなに不快ではなかった。むしろその冷たさがここちよかった。しかし雨にぬれたせいで、たばこがしけてしまったのは気に入らなかった。
「大きな火事のあとにはよく雨が降るんです。上昇気流がおきるせいでしょう。それは山火事でも同じで、雨が降るから火はそこまで燃え広がらない。もしそういう仕組みがなかったら、火事はとめどなく広がってしまう。世の中うまいことできてるんです」
と若い男は、訳知りそうに語った。
わたしは上昇気流がおきるとなぜ雨が降るのかよく分からなかったが、そんなことはどうでもよかった。これでようやく火が消えるかと思うと、なんだかほっとした気持ちになった。それに感情の高ぶりがおさまって、眠くなってきたというのもある。
しかしそのあと、雨はさっぱり落ちてこなかった。が、代わりに川の水がだんだん上がってくるような気がした。川は土手のずっと下をのんびりとたゆたっていて、流れも感じられないほどゆるやかだったが、ひっそりと水かさを増していた。
「川の水位が上がってるみたいだ」
とわたしが言うと、
「もっと上流の方で雨が降ってるのかもしれない。どうせならこのへんで降りゃいいのに……」
と若い男はくやしがった。
「このまま土手から水があふれたら、雨が降らなくても火は消えるんじゃないの?」
「そうなったらぼくらも流されちゃいますね」
と若い男は笑った。
わたしたちがそうしてやりとりしている間にも水かさはどんどん増して、土手の腹にもたぷたぷと水が当たるようになった。
「こりゃさすがにまずいんじゃないか」
「まずいですね」
若い男の声にも、不安の色がまじっていた。
「ここまであとどのくらいだろう」
「さあ、二メートルか三メートルか。でもその前に水の重さで土手が切れるかもしれない」
いそいで逃げたほうがよかったのかもしれないが、避難中に土手が切れたら押し流されてしまう。こうなると土手の上にいたほうがまだ安全な気がした。しかし、運悪く自分の立っているところが切れて、崩れ落ちないともかぎらない。
土手の下に停めてある車も気になってきた。あれが故障していなければ、車に乗りこんで一気に逃げられたのに。
ためらっている間に、水位はさらに上がった。水面はもう、土手とほとんど同じ高さにある。
流れは依然としておだやかだった。川の水が、音もなく、波が寄せるように足元を洗ったかと思うと、またゆっくりと引いていった。川のまんなかあたりは、目の錯覚なのか表面張力によるものなのか、わたしの背丈ほど高く膨らんでいるように見えた。しかしあまりに静かだったので、怖さはそれほど感じなかった。
対岸の火事はようやく鎮火したらしい。
土手は前にもまして暗くなった。火が消えたせいで川面を照らしていた明かりが失われ、水がどこまで来ているのかまったく分からない。下がっているのか、今にも土手を越えようとしているのか、見当もつかなかった。
わたしはまんじりともできず、震えながら土手の上に立ち尽くしていた。雨にぬれた衣服は、思いのほか体温を奪うようだった。どのくらい時間が経ったのかも、いつになったら夜が明けるのかも分からなかった。
そばにいるはずの若い男の姿は、どこにも見えなかった。「おい」と声をかけてみたが、返事はなかった。声は闇のなかに、静かに吸い込まれていった。
灯火 多田いづみ @tadaidumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます