一杯のざる蕎麦

黄黒真直

一杯のざる蕎麦

 大村博史はこの仕事を始めてから、どんな子供よりもたくさん駄菓子屋に入っている自信があった。彼は駄菓子メーカーの営業マンだからだ。

 東京都墨田区の一角にあるその古びた建物は、彼の得意先の一つ、駄菓子屋「はせがわ」だ。


「こんにちは、長谷川さん」

「いらっしゃい、大村さん。久しぶりだねぇ、半年ぶりくらいかい」

「そうですね、前に来たのは春先でしたっけ」


 店主の長谷川静江が、大村を笑顔で出迎える。昼過ぎには子供達で賑わうであろう店内も、午前中の今は誰もいない。

 店内には背の低い棚がずらりと並び、小さな箱が所狭しと並んでいる。そこに入っているのは、全て駄菓子だ。細長いカラフルなゼリーや、一口サイズのどら焼き。筒に入った小さなラムネや、おまけの方が大きなチョコ。


 長谷川に促されるまま、大村はレジ横の段差に腰かけた。世間話を交えながら、仕事の話を進める。


「最近、子供たちの間ではどんなものが流行ってますか?」

「おまけのあるものが人気かねぇ。あと、パッケージに種類があると、全部集めようとするね」


 レジに座ったまま、長谷川は店に来る子供たちの様子を話した。

 こうした小さな店舗に卸せる量はたかが知れている。利益だけを考えるなら、スーパーやショッピングモールだけに展開した方がはるかに得だ。それでも大村は、下町の駄菓子屋を直接訪ねることを欠かさなかった。

 それは、こうした店舗の方が、子供たちの生の状況を知れるからだ。長年子供たちを見てきた店主たちは、子供たちの変化に敏感だ。それをいち早くキャッチアップし、社内に共有するのが大村の仕事だった。


「長谷川さんから見て、こういうのがあったら売れるな〜、なんて思うものはありますか?」

「う〜ん……」

「なんでも構いませんよ。こんなの無理だろうなってのも、じゃんじゃん話してください」

「そうかい? なら話すけど……うちの孫がね、蕎麦アレルギーなのよ」

「それは大変ですね」

「そうなのよ。でもうちの息子は蕎麦が大好きで……子供と蕎麦を食べられないのが、つらくて仕方ないらしいの。なんとかならないかしら?」


 それは、駄菓子で解決できる問題だろうか? 大村は一秒だけ考えた。そして、まだ結論を出すべきでないと判断した。まずは市場を調査する。それが営業部マーケティング課の自分の仕事だ。


「わかりました。なんとかしてみせましょう!」


***


「こちらのグラフをご覧ください」


 東京都江戸川区にある、老舗製菓メーカー「熊屋食品」の本社ビル四階。営業統括部長の金田英一は、商品開発会議で大村の話を興味深く聞いていた。熊屋食品に勤めて三十年以上経つが、こういうアプローチは聞いたことがなかった。


「これは、小学生の子供を持つ20代から30代の親にアンケートを取った結果です。これによると、子供のアレルギーにより、自分の好きな物を食べなくなった人が、六割以上もいるのです」


 大村が話したのは、親が好きな食品と同じ見た目の駄菓子を作り、親子そろって同じものを食べてもらおうというアイディアだ。それがアレルギー食品であれば、食べるのを諦めていた親にもアプローチできるだろう。親の方に駄菓子を買わせられれば、きっと売り上げが伸びるに違いない。


「最近の子は駄菓子屋に行かず、スーパーで親に駄菓子を買ってもらうことも多い。悪くない方法だ」

「ありがとうございます。ここまでで、何か質問はございますか?」

「ひとついいでしょうか。質問というより意見なのですが」


 手を挙げたのは、品質管理部長の武下秀雄だった。金田と同期だが、何を考えているのかわからない、部長止まりの男だ。


「アレルギー食品によく似た形の駄菓子は、我が社では自粛の対象になっています。以前クルミに似た駄菓子を販売したところ、その駄菓子を食べた子供が、アレルギーが治ったと勘違いして本物のクルミを食べた事例があったためです」


 武下の指摘には、さすがの大村もたじろいだ。自分の持ってきた紙の資料を、あちこちめくっている。金田は苦々しく思った。重要なことかもしれないが、「似た事例がある」というだけで足踏みしていては、将来の発展はない。


「あ、待ってください。うちの製品に、パスタに似たものがあります。ですがパスタは小麦です。小麦アレルギーに配慮していないのはなぜですか?」

「それは知育玩具だからです。工程が複雑で、保護者と一緒に作る前提となっており、保護者に向けた注意書きをしているため許可しています」

「なら、それでいきましょう。子供が自分で蕎麦を打って食べる駄菓子にするんです!」

「ふむ……細かいことは後で検討しますが、それなら安全かもしれません」


 やったぞ。金田は喜んだ。武下を言いくるめた。


「じゃあ決まりだな。秋山部長、この方向性で頼むよ」


 金田は、隣に座る商品開発部長の秋山大吾の肩を叩いた。


「あー……わかりました」


 秋山は歯切れ悪く答えた。


***


「みんな聞いてくれ、次は蕎麦を作ることになった」


 商品開発部に戻ると、秋山は手の空いている部員を集めて言った。


「それも知育玩具だ。蕎麦打ちできる駄菓子を作れとよ」

「それは難しいと思いますけどね」


 部の中では一番若い北川竜太郎はそう言うと、作業着のポケットから私物のスマホを取り出した。彼は部で一番優秀だったが、上司に対する態度に少し問題があった。


「ちょうどこの間、製麺系YouTuberの動画を見たんですけど、駄菓子で再現するのは難しいんじゃないかなぁ」

「製麺系?」

「わりと有名なんですよ。ほらこの人」


 北川のスマホに、ひげ面の大男が映っていた。繊細な手つきでボウルに粉と水を入れ、かき混ぜている。

 今はこんなものが流行っているのか。毎日遅くまで残業し、仕事以外では妻としか会話しない秋山は、世間の流行に疎かった。


 商品開発部員たちで、その大男の動画を視聴した。そば粉や小麦粉を適切な配分で混ぜ、少しずつ水を加えながら練り、伸ばし、大きな包丁で切る。それを茹でると蕎麦が完成する。


「これを駄菓子で再現できると思うか?」

「厳しいですね。子供にこんな細い麺を切るのは無理だと思いますよ」


 秋山はため息を吐く。営業部の奴らは、後先考えずに面白さだけでアイディアを出してくる。お仕事ごっこに付き合わされるこっちの身にもなってくれ。


「部長、『ミニパスタ』と同じ作り方じゃダメなんですか?」


 北川が提案したのは、会議で大村が引き合いに出した例の商品だ。トレイに粉と水を入れて混ぜる。固まったら筒状の袋に入れ、袋を絞ると生クリームみたいにパスタが絞り出される駄菓子だ。


「俺も初めはそう思ったが、この動画をよく見ろ。ミニパスタの断面は円形だが、蕎麦の断面は四角いんだ」

「そんなの、絞り口を四角くすればいいだけでは?」

「そう簡単にいけばいいが」


 北川は優秀だが、やはりまだ経験が浅い。ここらで一つ、生産技術の仕事でも見学させようか。そう思いながら、秋山はデスクの上の電話に手を伸ばした。


***


 埼玉県さいたま市。熊屋食品の埼玉工場で、桑原剛は忙しなく歩き回っていた。生産技術部の部長ともなれば、出勤から退勤まで体の休まるときなど一瞬たりともない。広い工場の中では常に、どこかの機械が何かの不具合を起こしていた。

 胸ポケットの社用携帯が震えた。表示を見ると、商品開発部の秋山からだ。


「はい、桑原です」

『お疲れ様です、秋山です。今いいですか?』

「ああ」

『ちょっと質問なんですが。ミニパスタに使ってる絞り器、ありますよね。あれの絞り口を四角にすることってできますか?』


 電話を握る手に力が入る。秋山からの電話は、あくまで質問だ。本人もそのつもりで話している。しかしたいていの場合、最終的に秋山の言う通りのものを作ることになる。


「新規の金型を作らないと無理だな」

『ですよねぇ……』


 桑原と秋山はフランクに会話した。桑原はかつて秋山の教育係で、生産技術の仕事を教えたのだ。それから二十年以上経った今でも、二人はその当時の調子で会話していた。


「何を作るんだ? 丸じゃだめなのか?」

『だめなんです。蕎麦を作れという指示でして』


 桑原は、社食のきつね蕎麦をイメージした。気に入っているメニューのひとつで、週に一度は食べている。麺の太さもイメージできた。


「蕎麦ってことは、縦一ミリ、横二ミリの長方形か」

『はい』

「そこまで細いとうまくいくかどうか……試作してみないとわからないな」

『わかりました。じゃあ後で正式に依頼しますが、先手を打って試作準備、お願いします』


 そうは言っても、ほとんど何も決まっていない現段階で、できることはない。桑原は電話を切ると、今の話はいったん忘れることにした。他に優先すべき事柄が大量にある。


***


 商品開発部の開発課とデザイン課は、フロアも異なれば業務内容も大きく異なる。だからデザイン課の新人デザイナー深沢彩乃は、その新商品の情報を全く知らなかった。本社ビル三階の会議室で、営業部の大村と部長の秋山から聞かされて初めて知った。


 深沢にとって、これが初めての本格的なパッケージデザインだった。入社以来、必死に頭に詰め込んできた商品知識を、ついに活かせる日が来た。


「今回は知育菓子になります」大村が陽気に説明した。「子供が自分で蕎麦を作るんです」

「わぁ、楽しそうですね。パッケージイラストは、蕎麦を打っている子供の絵とかですか?」

「いや、打って作るわけじゃないから、その絵だとまずいですね。完成品のイラストか写真を使おうと思います」

「あ、そうですか……。なに蕎麦ですか? 月見? きつね?」


 月見蕎麦なら可愛くイラスト化できるだろう。きつね蕎麦なら狐のキャラクターをデザインできるかもしれない。期待を込めて聞いた深沢に、秋山は淡白に答えた。


「ざる蕎麦です」

「ざる……」


 渋いチョイスだ。熊屋食品の商品は可愛らしいデザインのものが多いのに。明らかに過去のラインナップから浮いていた。

 対照的に、大村は楽しそうに話した。


「今回の商品は、うまくいったら新シリーズとして展開する予定なんです。コンセプトは、親子で楽しめる駄菓子。だから、親子でざる蕎麦を食べてるようなイラストをお願いします」


 そのコンセプトは、深沢の琴線に触れた。


「いいですね、それ! 楽しそうな絵が描けそうです」


***


 同時刻、埼玉工場事務棟一階の打合せ室で、品質保証部の高瀬可奈が試験結果を報告していた。


「絞り器の試作品ですが、一号機のはすべて合格なのですが、二号機のだけ問題が」


 生産技術部の桑原に、書類を見せながら説明する。社外に謳っているスペックは満たしているが、社内規定には引っかかる程度の不具合だった。


「それで念の為、既製の絞り器も試験したんですが、やっぱり二号機のだけ不合格になりました。つまり今まで、不良品を出荷していたことになるんですが」

「えっ?」

「過去の記録では、五年前に成型機を更新したときの試験結果が最新のもので、そこでは合格しています。それ以降に何かがあったんじゃないかと」

「……去年、二号機を少し改造した。もしかしたら、それで……」

「どうしてそのとき試験しなかったんですか?」

「大した改造じゃなかったから……」


 高瀬は呆れた。


「大したものじゃなくても、装置に変更を加えたら必ず試験するのが規則のはずですが」

「今は過去を掘り下げてる場合じゃありません」


 品質保証部長の武下が割って入った。


「桑原さん、今すぐラインを停止してください。生産量を考えれば、可能ですね?」

「え、ええ。増産にでもならなければ……」


 武下に逆らえず、桑原は携帯で製造部に連絡した。高瀬はその様子に、矛盾を感じた。

 ある装置に不具合が出たら、そのラインを止める。それは当然すべきことだ。しかし「当然すべき」というなら、改造後の試験も当然すべきだ。桑原は、一方では当然のことを行い、他方ではそうしてないのである。これは矛盾だ。

 なぜ矛盾するのか。それは、彼が人間だからだ。彼だけではない。この会社で働く者は皆、人間なのだ。

 中途半端に生真面目で、中途半端にいい加減な人間たちが集まって、この会社は動いている。きっと、世の中のほとんどの会社もそうなのだろう。そして見てくれだけは取り繕って、完璧そうに見せている。そうやって歪な歯車を組み合わせ、軋みながら回っているのが、この人間社会というものなのだ。


***


 それから数週間後、一本の動画がYouTubeに投稿された。製麺系YouTuberそーすけの動画だった。


『今日はね、駄菓子を紹介したいと思います! 熊屋食品さんから発売された駄菓子「一家蕎麦」。なんとこれ、ざる蕎麦が作れる駄菓子なんです。

 何度か言ったと思うけど、僕、息子がいるんですよ。だけど彼、蕎麦アレルギーなんですね。親がこれだけ蕎麦が好きなのに、息子が蕎麦アレルギーだなんて!

 だけどこの駄菓子、蕎麦粉が使われてないんです。デンプンの粉と水を混ぜて絞るだけ。蕎麦なのに絞るってなんだよって笑っちゃいましたよ。味も全然蕎麦じゃないし。だけどね、この蕎麦なら、息子も食えるんですよ。初めてでしたよ、息子と一杯のざる蕎麦を分け合えたのは。思わず泣けてきちゃいました。僕はずっと、こうしたかったんだなって。息子と一緒に、蕎麦を食いたかったんだなって。ありがとう、熊屋食品さん。本当に、いいものを作ってくれました。ありがとう、ありがとう……』


 ひげ面の大男が涙ながらに感謝を訴える動画は、瞬く間に拡散された。その動画を見た者たちにより、「一家蕎麦」は爆発的なヒットとなった。

 営業統括部長の金田が増産を決定したのは、動画投稿からわずか五日後のことであった。

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