名前



「お前、どうして芸者なんて、やってんの?」

 

 いつものように、私の肩にもたれかかった頭の重みが愛おしくて、その頭に頰を寄せるように少し、自分の頭を傾けた時だった。

 初めて座敷に呼んでもらった日から、もうすぐ一年になる。この旦那とは、もう何回も顔を合わせているが、個人的な事を聞かれるのは初めての事だった。私の事を“リエ”と呼び、舞も唄もさせない。そんな人が突然、個人的な事を尋ねたものだから、驚いてしまったのだ。


「……」

「お前は、どうして芸者なんて、やってんの?」


黙ったままの私に、旦那がもう一度同じ質問をする。


「……私、鳴り物が好きで、華やかな世界にも憧れがあって」

「鳴り物?」

「三味線や鼓の事です」

「ふーん」


大して興味のなさそうな返事が返ってくる。それを聞いて、驚きで速くなっていた鼓動が、少しずつ元に戻っていく感じがした。旦那の頭にくっつけた頰を離す。ほんのりと移った体温のせいか、空気が冷たく感じる。


「昔からやってんの? 三味線」


二度目の質問。これは、芸者の扇寿郎に聞いているのだろうか? それとも“リエ”さんとして聞かれているのだろうか……。どのみち、“リエ”さんとしての正解なんて、分からないわけで、ただ私の事を答えるしかないのだけど……。


「そうですね。子供の頃からやっていますよ」

「演奏家には、興味なかった?」

「そこまでの腕前はなくて」

「ふーん、そこそこでもなれたのが、芸者か」

「意地悪な聞き方……」

「……お前、緊張してる?」

「緊張……というか、驚いています」

「なんで」

「旦那が……あの、かずが『今日何してた?』以外の事を私に尋ねたのは、初めてですから」

「……そうかもな」

「ええ、驚きすぎて、肩に力が入っちまったんです」

「……聞かれるのは嫌?」

「いいえ……。いいえ、嬉しいです。私の話を聞いてくださるのは、嬉しいです」

「……」


 沈黙が続いた。旦那の前に置かれた膳には、手が付けられていない様だった。酒にも手を付けられた様子はなく、寂しげに置かれている。思い返してみれば、旦那が最後に酒を飲んだのを見たのは、いつだったろうか?


「何か飲みますか?」

「要らない」

「……そうですか」


要らぬ世話を焼いたようだ。

 そのまま暫く沈黙が続いた。この座敷では、それも珍しい事でもない。ただ、今日の旦那はいつもとは少しばかり、様子が違うような気がして、落ち着かない。


「……」

「……」

「……何か話せ」


久しぶりに気まずさを感じた私に、旦那が一言。


「え?」

「何でもいいから」


また無茶を言って、と思いながら黙って言う事をきく。適当な話題を探した。


「……金魚に名前を付けてやりたいんです」


見つけた適当な話題を振ってみた。旦那の反応を見ようと視線を流す。旦那はピクリともしなかった。ただ、色を抜いて白くなった髪が目の端に映るだけだった。


「二匹くださったでしょう? 対になったり、関連性のある名を付けてやりたいんです。トムとジェリーみたいな」

「……トムと……ジェリー……」


旦那が小さく呟いた。


「けれど艶っぽいものが良くて、悩んでるんです。恭子さんや美香さんのような……」

「……叶姉妹か……」


旦那は呆れたように溜息をついた。


「お前は、センスがねぇよ」

「え?」

「芸者だろ? そういう名前を拝借すんだよ」

「源氏名ですか?」

「艶っぽいなら花柳界。それにトムとジェリーよりマシだ」


今まで私の肩へ預けていた頭を旦那が持ち上げた。軽くなった肩が寂しく感じる。旦那が預けた頭を持ち上げ時は、お開きの合図でもある。もうそんな時間かしら?とぼんやり考えていた時だった。


「好きな姉弟子の名前は?」


予想外にも続けられた会話に驚いて旦那を見た。旦那は、前を向いて、どこともつかない空を見つめている。顔色の悪さや隈に気を取られていたが、旦那の横顔はとても綺麗だった。鼻先はツンと尖り、薄い唇が小さな山を作って、絵に描いたようだ。もっと見ていたくて、惚けたように眺めていた私に、旦那が静かにゲキを飛ばした。


「おい、聞いてんのか」

「すみません、なんでした?」

「先輩芸者の名前だよ。好きな名前はないのか?」

「姉さんの名前を魚にですか?流石に……」

「気が引ける?」

「ええ」

「……そういうものか……」

「市川さん、時間です」


旦那が深く息を吐きながら天井を仰いだ時だった。廊下で待機している部下が、障子越しに声をかけてきた。これで本当にお開きのようだ。

旦那は小さく舌打ちすると、音もなく立ち上がる。そんな所も今にも消えてしまいそうだと思う。私もお見送りの為に、立って後ろをついて行く。仲居さんを呼び、他のお客と鉢合わせないよう、配慮してもらって、出入り口へと向かう。










「それじゃあ、親分さん、今夜も有難うございました。また呼んでくださいね」

「……ん」


 旦那は、いつも通りの気のない返事をした。部下の男が開けた戸へ向かって、一歩踏み出したところでピタリと止まる。


「コセンとトウジュロウ……なんてのはどうだろう」


振り向きもせず、背中越しにそれだけ言うと、旦那は去っていった。


「市川様は、何の話をしてたんだい?」


戸が完全に締め切られたの確認して、仲居さんが尋ねてくる。


「金魚の名前を考えてくださったんだと思います。そんな話をお帰りになる前にしてましたんで」

「そう。ふふふ、扇ちゃんにちなんでんだねぇ」

「え?」

「ちなんでるわよぉ。小扇(こせん)と桃寿郎(とうじゅろう)なんて、どう聞いてもそうだわ」

「……あ!」

「ご贔屓だものねぇ。愛想はなくても、気に掛けてくださってるんだわ」


一度たりとも名前を呼んで下さった事は無かったけれど、旦那はご存知だったのね。そう思ったら、心がぽっと暖かいような心地がして、口元が緩んでいく気がした。


 いつか、旦那の口から読んで下さるだろうか。頭の中で、旦那に『扇寿郎』と呼ばれるのを想像しようとしたけれど、上手くは出来なかった。

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遠くて近きは君の仲 青柳花音 @kailu_kai

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