遠くて近きは君の仲

青柳花音

金魚



「最近、良いお客さんが贔屓にしてくれてるんだって?」


お稽古前に顔を合わせた途端、扇吉(せんきち)姉さんがそう言った。誰の事を言われているのか、私はすぐに分かった。


「おめでとう」

「ええ、有り難い事です。でも変わった人で…」


今にも消えてしまうんじゃないかと思う程、か細い後ろ姿を思い出して、そう言うと扇吉さんは笑った。


「『変わった人』ね。そりゃ、毎回すごく気前の良いご祝儀くださるっていうじゃないか。今時、そんな気前の良い人は、滅多にいないからね。平々凡々なワケないさ」

「なぁに?扇寿郎ちゃんのご贔屓さんの話?」


久桃(くもも)姉さんや鷹秋(たかあき)姉さんも『なんだ、なんだ』と話の輪に加わった。


「そうだよ」

「本当に良かったね!年も若いっていうじゃない?この仕事じゃ爺さんの相手ばかりだもの」

「噂によればイケメンとか…」

「どこから出た噂ですか」

「あれ?違うの?」

「よしなよ、品がない」


注意する扇吉さんに甘えるように久桃さんは、しなだれかかる。


「いいじゃない、ちょっとくらい!に、しても羨ましい子だね〜」


久桃姉さんは、愛嬌があって可愛らしい。私達妹分にもよく声をかけてくれるし、気さくだ。


「ちょっと扇寿郎ちゃん、こんなに羨ましいのに、当の本人は涼しい顔しちゃって!憎らしい」

「ちょ、ちょ、久桃さん…!」


少々絡み方が面倒くさい時があったりするけど…。

久桃さんが私の頬を両手で挟んでぐりぐりと交ぜる。両手を掴んで止まさせようと抵抗すれば『あら、生意気〜!』と言って、余計に力をこめてくる。

見兼ねた鷹秋さんが久桃さんの手を触って制してくれる。


「その辺にしときな。桃ちゃんてば、意地悪だよ」

「もう〜冗談だってば!んー、でもそのご贔屓さん、若いうちからお座敷遊びなんて、渋いよね」

「若い人にだって呼んでもらわなきゃ、食べて行かれませんよ」

「ああ〜…聞きたくない。扇ちゃんも秋ちゃんも引っ張りだこで羨ましいです」

「嫉妬する暇があるなら精進なさいよ。喋ってないで」

「えへへ、返す言葉もございません」



姉さん達がとても楽しそうに件のご贔屓の噂をするものだから、その楽しげな空気に水を差してしまいやしないかと思うと、口がどんどん重くなって、本当の事は言えそうになかった。『姉さん達が想像するような、そんな愉快な人じゃないよ』なんて言葉が喉まで出かかって、結局は飲み込んだ。



「扇寿郎、そいで今日もお呼ばれしてんのかい?」

「はい」

「そう。すっかり売れっ子じゃないか!お稽古、しっかりやんなよ」



そう言って扇吉さんは、立ち上がった。



「せっかくのお得意様さ、しっかり捕まえておきなよ」



まるで自分の事のように喜んでくれる姉さんを前に、私はとても本当の事なんて言えなかった。

その人はね、私の唄も、鳴り物も、踊りも、何一つ求めちゃくれないんだよって事を。














「失礼致します」



襖を開けて礼をする。相変わらず何の反応も返してないご贔屓にも慣れてきた。三味線を抱えて、座敷へ入る。



「親分さん、本日も呼んでくださって、有難うございます」



他のお客にするのと同じように愛想を振り撒く。



「テメェ、何度『三味線は要らねぇ』って言ったよ。このブス」



この汚い言葉と声を聞いた瞬間、『あぁ、今日はハズレか』とバレないように小さな溜息をつく。贔屓の旦那のすぐ隣に立っている男を見て、客用の笑顔を保ち続けた。



「青さん怖いわぁ。これは大事な商売道具ですから、1人きりのお座敷なら尚の事持って参りますのよ」

「カスみてぇな三味線、聴かせやがったら、殺してやー…」

「青柳」



ここで初めて目の前の旦那が口を開いて、青柳という男の声を遮った。旦那の声は、そこまで大きくないのに、よく通って、さっきまで散々口汚く絡んできた男がスッと口を閉じた。


「お前はもう下がってろ」

「ウス…」



自分の主人の指示に従う犬のように、青柳は座敷を出て行った。座敷内には私と旦那の2人きり。大人とも子供とも見える様な面立ちのその人は、下げていた視線をゆっくり上げて、私を見た。

相変わらずひどい隈で、見ているこちらがゾッとするような顔つきだ。肌も髪も異様に白くて、病気っぽい。感情という感情を何処かへ落っことしてきたような顔で、旦那は私に『来い』と命令した。大人しく、旦那の元へと寄っていく。すぐ隣に座ると、彼は自分の頭を私の肩へと預けてきた。



「親分さん、お疲れですか?」

「それ、やめろ」

「…市川様?」



ふるふると首を横に振る。髪がサラサラと揺れ、前髪が顔へと落ちる。



「…かず…」

「うん…」



頷くと、旦那は目を閉じた。そして今までより、随分と柔らかい声音で言った。



「今日は何してたんだよ、リエ」



この後、この人が目を開けるのは、私が帰る時。この人は私と会話もしない。私の芸にも興味がない。私の前も一回だって呼んでくれた事はない。この人の中に存在し続ける女性の代わりを一時、務めさせてもらうだけ。


悔しい…恨めしい…

なんて失礼なお客。




「ずっとお稽古ですよ」

「熱心だな」

「ねぇ、かず?前にくださった桜錦を覚えてますか?」

「さくらにしき?」

「ええ」



どうやら考えているらしい。唇に力が入ったのか少し尖がったのが見えた。待っていても答えは出そうにないので、知らぬふりをして話を続けた。



「今日、新しい鉢に移しましてね。ほら、前の鉢が欠けちまったてお話ししたら、先週くださったじゃないですか」

「ああ、榊に持たせたやつか」

「はい、気に入ってくれたようで、前よりもっと元気に泳いでますよ」

「…ああ、桜錦って、金魚か。不細工な」

「可愛い金魚です」

「はは、殺すなよ?」

「ええ、もちろん。大切にしますよ」



私の肩に重たい頭を預けて、寂しそうに笑うこの人の姿が悲しくて、悲しくて悲しくて、狂おしい程愛おしい私は、今日も側にいたい一心で、“リエ”になりたいと思ってしまう。


本当は、それが一番悔しくて、惨めだった。



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