春にさよなら
奈月沙耶
春にさよなら
暦が新しい年となり季節は春、春は慌しく通り過ぎて夏を迎えた四月十五日。
五十年ぶりの派遣となる遣唐使の大使と福使は宮中にて
難波から四隻の大船に乗り込み、大宰府、値嘉島を経ていよいよ海原へと漕ぎ出すのだ。
難波へと向かう一行からしばし離れ、
三代前の帝の第八皇女という貴い御身の上に、夏生のように事情のある産まれの子どもを幾人も育ててきたことで崇敬される吉野尼君は、夏生の顔を見るなり泣き崩れた。
尼君があまりにお泣きになるので落ち着いてもらうために夏生はいったん御前を辞して散策へ出た。
山深い場所ではあっても夏生にとってはかつて親しんだ遊び場だ。
吉野といえば山桜。花の盛りは過ぎ去っていたが、赤味や黄味がかった艶やかな新緑の合間に白い花を残している木もあった。そうかと思うと、薄紅色のまだ小さな固い実や、既に熟して黒紫色の実をたくさん付けている木もある。
そういうふうに、一本一本違いがあって同じ姿の木はないといわれる桜林の中を夏生は迷いのない足取りで進む。
しばらくして木々が途切れた広場に出た。中央で、ひときわ樹高のある山桜の大木が箒のように威勢よく天に向かって枝を伸ばしている。
下草を踏んで歩み寄り、夏生は両腕をあげて褐色のかさかさした樹皮に触れた。
「来たか。ナツ」
半分まどろみの中にいるような声が降ってきた。すぐ頭上の枝にずんぐりした体つきの一つ目の鬼がいた。短い腕を枕にしてあくびをかみ殺している。
「桜鬼」
親し気に呼びかけて夏生はにこりと笑った。
「尼君は泣いておったろ」
「ああ。参ったよ」
からだの向きを変え、幹に背を預けて夏生はほっと息をついた。
「尼君の齢を考えればこれが今生の別れだ、さもありなん」
「うん……」
遣唐使は二、三年で帰還するものではあるが、長期留学生の夏生は復路には加わらず唐に残る。その場合、次回の遣唐使一行に合流して戻ってくるのが普通だがそれが十年後か二十年後かになるかはわからない。
しかも、遣唐使の派遣自体が今回で最後かもしれないという状況にあっては。
「俺にだって、帰ってこれるかはわからないしなぁ」
かつては、皇帝への朝貢使節である遣唐使一行は、歓迎され好待遇でもって自由に唐国内を旅行し大帝国の都を見学できた。
しかし唐で大きな内乱が起こってから後は、治安が悪くなり都に入城できる人数も制限されるようになった。
唐国内の見学や市での買い物など皇帝の許可を得て行わなければならないのに、その皇帝になかなか謁見できないという事態にもなった。
辿り着くまでの海路の苦労はもちろんだが、広大な唐国内の旅行にも危険は伴う。その危険ばかりが増して得るものが少ないとあれば、派遣そのものを取りやめにという議論があがるのは当然だ。
それを承知で、夏生は留学を志願した。吉野尼君にはそれが悲しく感じられるのだろう。
「おまえとハルのことは特にかわいいようだからな」
「俺はともかく、そりゃあ、お妃様は特別だろうからね」
薄く笑うと、桜鬼は呆れたように鼻で笑った。
「お妃様などと、ハルはハルではないか」
そう言われても同意はできない。黙り込む夏生の顔の横で、桜鬼は起き上がって短い脚を組んでその上に器用に頬杖をついた。
「後宮とはそれほど遠い場所かの、異国に行くより遠いかの」
「うん……」
「兄妹同然の仲ゆえ、会わせてやっても良いものを。今上帝は気が利かぬの」
「こらっ、なんということを」
「と、左近の桜の若君が申しておったのじゃ。わしは人の帝のことなど別になんとも思っとらん」
桜鬼を睨みつけそうになっていた夏生はすぐに肩の力を抜いた。
「……主上は、暇乞いにあがるようにと図らってくださったよ」
「おお。そうそう、左近の桜の若君がそのようなことを。だが、会わなかったのじゃな、ナツ」
「うん」
「おかしなものよ。ハルに会いたいであろ」
「会いたいけど、会いたくないんだ」
「めんどうなヤツじゃの。子どもの頃のおまえはそうではなかった」
苦笑いし。それからふと思い出して夏生は背後を振り返った。
腰ほどの高さの位置に、朱を一筆入れたような横線が入っている。
「こんなに小さかったのか……」
二列に並んでいくつか刻まれているそれは、背比べする子どもたちの頭の位置で桜鬼が記したものだ。
下から辿ってみれば、ひとつは夏生の腰の位置までで途切れ、ひとつは胸の高さまで続いていた。
『ナツ、ナツ。ハルと遊んで』
自分の腰に手を回して抱き着く幼子の幻影を見て、夏生はぎゅうっと胸を締め付けられる。
妹のように大切に思っていた大事な幼馴染。ぐんぐん背が伸びていくナツを見上げて不満そうに口を尖らせていたハル。
もともと食が細くて、頑張って食べても肉付きが薄いままで、どこもかしこも細いからだと一向に伸びない背丈を気にしていたハル。
『ハルは早くすてきなおとなのおんなのひとになりたいのに』
そんなふうにハルが望んでいた理由が夏生にはわからない。成長せずにいたなら、ずっとあのままでいられただろうに――そんな幻想を今でも夏生は抱いてしまう。
『春姫はちいさくていらっしゃるのがかわいらしい』
そんなふうに褒められても、ハルは気が塞ぐばかりのようで。
『ナツはいいね、ぐんぐん伸びていく若葉みたい。ハルは花みたいに散ってしまうのかな』
『めんどうなことを言いよる』
あの時も、言葉とは裏腹に桜鬼はどこか愛おしそうにひとつだけの目を細めた。
『花には花のたくましさがあるのじゃろ。美しく咲くためだけに力を貯めておる』
『ハルはやせっぽちで美しくないもの』
『ハルにはハルの美しさがある。自分ではわからないだけじゃ』
その通りだった。
『ナツはハルがいなくなってもいいの!?』
泣きながら尼君の庵から連れ去られたハル。
今上帝と年齢の釣り合う皇家の血を引く姫君として目を付けられたのだ。勢力を広げる藤原家に対抗するため皇家出身の妃が必要で、后がねの姫君は別にいたが、後宮で派閥をつくるための頭数として。
思いがけない入内だったが、純真な愛らしさと春の暖かさのように相手を和ませる魅力で帝の心を掴んだ春姫は、これまた思いがけず今を時めく寵姫となった。
秘められた蕾がどんな時にどんな場所で花開くかはわからない。
自分の知らない場所で咲き誇るハルを見たくはなかった。
『ハル、遊んで』
いや、違う。ほんとうは、わかっていたから苦しかった。
花は、きっとどんな場所でも咲き誇る。そのための力を持っている。
入内話があがるもっと前に、ナツがハルを望んでいたなら。
だが、子どもすぎたナツには思いもよらなかったのだ。
細い腕を両側から回してハルとふたりで桜の樹を抱きしめた。桜鬼に見守られながら。そんな幼かった日々が楽しすぎて、ハルみたいに「早くおとなになりたい」なんて思えなかった。だから取り残された。
夏生は樹皮に記された自分の胸の高さの線をなぞった。ここが最後だ。これを最後にナツも吉野を離れて都に上り、つてを頼って私塾で学んだあと大学寮へ入った。
同じ宮中にいるからといって一学生が後宮で暮らす妃と会えるわけもない。夏生自身も会いたいと期待していたわけではない。
会いたいけど会いたくない。この気持ちはそうとしか言いようがない。今はただ苦しい。だから――。
「ナツよ、ハルはまた来るぞ」
消え入るような声にはっとして目を上げる。
桜鬼の姿は消えていた。その場所に、一筋のしるしが残っている。ちょうど、夏生の背丈の位置だった。
「戻ってこいよ、ナツ。何年かかっても。待っておるからの」
まどろむように声もかき消え、夏生は取り残された。
さやさやと葉擦れに誘われるようにこずえを見上げ、差し込む日差しの強さに目を細める。
春は去り、夏が来る。夏が去れば秋が来る。冬を越えてまた春が来て。めぐる季節のたびにこぼれてまわる、人の想いも。
褐色の幹を抱きしめるように回していた腕をおろし、夏生は尼君の庵に戻る。
思いは既に煌めく海へと向かっていた。
春にさよなら 奈月沙耶 @chibi915
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