モテコンサルの私、画家に溺愛の方法を教えます!?

かのん

ゴッホ

 夜の図工室で、男の声が響いた。

「わたしがどれだけ君を好きか、知りたいか?」

 彼の瞳には揺れる炎が映っている。緋色の目は、昼間の校舎で見るより赤く見えた。火は彼の何かを掻き立てたのかもしれない。射貫くように真剣な眼差しは、真夏の太陽を思わせた。南仏の、全てを焼き尽くす陽光を。夢も希望も何もかもどうでも良くなるくらい、ただ鮮やかな黄色を。

私が黙っていると、彼はほほ笑んだ。過ぎ行く季節を惜しむような、さみしい笑みだった。

「これくらいだよ」

筋ばった手が、ろうそくの上にかざされた。それは料理のドキュメンタリーを連想させた。お母さんがネットフリックスで観ていた、三ツ星レストランの実話だ。二人のシェフが鉄板の上に手を置いて、我慢比べをしていた。長く手を置いていられた方が、副料理長の地位を得るのだという。私は即座にろうそくを吹き消した。彼は言った。

「こんなもの、痛くもなんともない。君への愛に比べれば」

 彼は私を抱き寄せた。暗い方がありがたい、とでも言うように。辺りは再び沈黙と、深い闇に包まれた。


 数秒後、部屋に明かりが灯った。私が彼の腕を抜け出し、入口付近のスイッチを押したのだ。彼は部屋の中央で腕を組み、自信満々といった表情だ。私は言った。

「はい、不採用」

「なぜだ!?」

 彼は頭を抱え、がっくりとうなだれた。納得がいっていないらしい。

「私が火を消さなかったら、どうするつもりだったの?」

「『次は君の決意を見せて欲しい』と言って、美羽(みう)の手をろうそくの上に……」

「ダメ、絶対。それ犯罪だから」

「ここは本当に日本か? もっと素晴らしい国だと思ってたんだが」

「日本、東京、そして渋谷だよ」

正確には渋谷区広尾だが、伝えたところで理解されないだろう。人間は自分にとって都合の良い真実しか聞こえないようにできている。彼はまだ、ぶつぶつと文句を言っていた。

一見、二十代後半の青年だ。ボロ切れをまとっていた初対面に比べれば、シャツとチノパンを着るようになったのは進歩と言える。これはモテコンサルの成果だ。茶色いふわふわした髪、色白の肌、素材を生かせばもっと格好よくなれる。何より彼には、とっておきの切り札がある。

「ねえ、ゴッホ」

 日本で知らない人はいない、偉大な画家なのだ。


一・ゴッホ


 私がゴッホの恋愛相談をするはめになったのは、お母さんのせいだった。

彼女はフルタイムのワーキングマザーで、PTAを三年間避け続けた。四年目の春にして、このままでは「卒業までに十ポイント」という規定に反してしまいそうだと気付いたらしい。正確には四月の保護者説明会で、副会長の発言で気付かされた。

だからお母さんは広報委員に手を上げた。四ポイントを稼げるし、彼女は経済メディアで編集長をしていた。経験を生かせると考えたのだろう。さらに誰も立候補がいないことを良いことに、十ポイントを一気に稼ぐことができる部長にもなった。これが運の尽きだった。我らが小学校は『全国PTA広報コンクール』で、ランキング上位の常連だったのだ。

母が知らなかったのも無理はない。彼女は毎月発行される『小だより』を、目にはしても読むことはなかった。もっと優先すべきことがあるのだ。小一の弟、年中の妹、そして仕事。


 ある晩、お母さんは唐突に切り出した。

「美羽。どんなこと書いてあったら、小四でも読めるかな?」

私たちは夕食を食べていて、彼女はリビングで洗濯物をたたんでいた。弟と妹が食事中に絵を描きだして、おざなりな注意を呼び掛けた。一応母親として叱っておく、という程度のものだ。当然、彼らは無視をした。彼女はそれを食事終了の合図と捉えて、残りものを台所へ運んだ。後で立って食べるのだろう。かつて「行儀が悪い」と指摘したら、「しょうがないでしょ。パパなしで子供三人見てるんだから」と返されたことがある。今日もお父さんは私たちが寝ているうちに帰ってきて、起きる前に出かけるのだろうか、考えていることを悟られないように、私は努めて明るく答えた。

「んー。うわさ話かな。誰が誰を好きとか」

「だよね。WEBでバズるのも、芸能人の恋愛だもん。あと行政叩き、子供の貧困、育児は大変アピール。だから変なサービスが流行るんだよね。なんとかコンサルとか……あ!」

 彼女は何かを思いついたようだ。カウンターキッチンの台に置かれたパソコンに向かった。そして何かを入力している。妹が「ぎゅうにゅうのみたい」と駄々をこねた。お母さんは怖い顔で「ちょっと待って」と言い、私が冷蔵庫に行くことにした。

台所に行くついでに、パソコンの画面をのぞき込んだ。『他人に言えない恋愛相談、大募集! モテコンサル・倉達うさみが無料で答えます』と書かれていた。

「倉達うさみって誰?」

「フリー素材と、あんたの写真と合成して、と。これで良し!」

 こうして小だよりに、恋愛相談のコーナーが作られた。広報紙のラフが完成するのと、弟と妹が「かけた!」と声を上げたのは同時だった。彼らは私に絵を渡した。私を書いてくれたらしい。

「みうちゃん。せかいいち、だいすきだよ」

妹が言い、弟も同じ言葉を繰り返してくれた。私は二人を抱きしめた。


アンケートフォームのQRコードが印刷されたチラシが、下駄箱の壁に貼られた。QRコードを素早く撮影しておけば、自宅で悩みを送信できる。私は帰るなり、彼女に忠告した。

「誰も投稿しないでしょ。広報コンクールの戦歴も、これで終わりだね」

しかし予想に反して、相談は殺到したのだった。中には、生徒でない人間、人間でない者もいた。ネットでの相談が大多数を占める中、紙で投函したのは彼、ゴッホくらいだった。


「夜0時に、図工室で」と書かれた絵葉書を見た時は、いたずらかと思った。しかし、びっちりと書かれた手紙も同封されていた。相手は正気を失っているにせよ、本気であることは間違いなさそうだった。

しかし深夜に外を出歩くなんて、仕事中毒の両親とはいえど難しい。そう思って絵葉書を眺めると、信じられない文字が書かれていた。『夜0時に絵葉書を使ってくれ。図工室へ行ける』と。こうして、あの月がきれいな夜、夜の図工室でゴッホと出会ったのだった。


「その年で、一目惚れってするんだね」

 彼は三十七歳で亡くなっている。二十一世紀の今、正確に何歳かは置いておこう。彼は呆気にとられた顔をした。

「当たり前じゃないか。恋愛は何歳になってもできる。心を突き動かされる経験をしなくなったら、もはや人間じゃないだろう」

「今は心を平静に保って、人間じゃなくなるように努めるのが流行りらしいよ」

「ほお。現代人は機械化して、バカになったのか?」

ゴッホの発言は、お母さんから聞いたことを思い出させた。「整うだの、怒らないだの、気にしないだの、そんな記事ばっかり伸びる。人間らしさが否定されてるよね」と。


彼の恋の相手は小学校の守衛を務める、千草さんだった。失礼なことを大声で聞くことが格好いいと信じている悪ガキへの返答に嘘が無ければ、独身のはずだ。

どこにときめいたか尋ねると、「スーパーの値引きシールが付いているパンを買い込んで出勤していたところ」と照れながら教えてくれた。人には様々な性癖があるが、ゴッホのそれは『大変な状況に置かれている女性』らしい。

「分かんないよ。実はお金持ちで、節約のためにタイムセールに行ってるだけかも」

「そんなはずはない。彼女からにじみ出る悲壮感、人生への絶望は本物だ」

 観察眼を持つ画家の彼が言うと、説得力がある。彼は千草さんの絵を何枚か描いており、スケッチブックを見せてくれたことがあった。彼の説明のせいか、描かれ方のせいか、どこか影のある女性に見える。ご丁寧にパンの値引きシールの日付まで描かれている。

「あれ。これ、おかしくない?」

私は声を上げた。右下に描いた日付は四月五日、値引きシールは四月六日だった。あのスーパーが値引きするのは、当日の売れ残り商品だ。翌日の商品を値引きするはずがない。たまたま間違えたのかと思うと、そのミスは何枚も見受けられた。

「間違えるはずがない。美羽と話す以外の時間は、すべて彼女を描いているのだから」

「うらやましい生活だこと」

ゴッホは私の皮肉を、頭上を通り過ぎるままにした。

「それよりも、先程の告白のことだが。具体的に、どこが悪かったんだろうか」

「ぜんぶ。まずはデートに誘うところからでしょ」

「そうか、確かに。さすがモテコンサルだ」

 素直に目を輝かせる彼を前に、ため息をついた。

私は何故か男性にモテる。告白されることも多い。しかし恋愛をしている暇はない。家に戻り、家事をやり、弟と妹を保育園に迎えに行き、面倒を見なくてはならない。中学受験はしないけれど、通信教育やオンラインの授業を受けていて、宿題が山のようにある。日常に恋愛が入り込む隙は無い。目を机にうつすと、どこかから入り込んだ蟻が行進していた。

「デートに誘うとして、どこが良いのだろう。閉店直前のスーパーか……」

「却下。確かに喜びそうだけど、ゴッホが奢ってあげるわけでもないでしょ」

 彼はがっくりと肩を落とした。今でこそ高値で落札されている彼の絵だが、生前は一枚も売れなかった。現代によみがえった今も、懐具合はしっかり引き継がれているらしい。

「どこが良いか、私も分かんないな。まずは千草さんのこと、よく知ろうよ」

 私はスマホを見た。彼女には不審な点がもうひとつあった。SNSを一切やっていないのだ。二十代女性がSNSと無縁なのは、いくら何でも不自然だ。それをゴッホに伝えると、彼は当然だというように言った。

「情報源がないなら、尾行すれば良いんじゃないか?」


 翌日の夕方五時、私たちは図工室に集合した。千草さんのシフトは朝八時五分から夕方五時まで。生徒たちの登校時間と、一人帰りの最終下校時間に合わせてある。夜の守衛さんに簡単な引継ぎをし、千草さんは職員室に入って行った。いつも副校長に挨拶をして、タイムカードを提出して、更衣室に入るのだ。

「更衣室にわたしの絵は……」

「ないよ」

 彼は自分の作品の絵に中に入ることができて、自由に行き来できる。それが本物でなくても構わない。本物でなくてはならないなら、彼は美術館の間しか行き来できなかっただろうし、こうして小学校の守衛さんに恋をすることもなかっただろう。生前の頑張りは、こうして死後に報われているわけだ。本人も思いもしなかっただろうが。

「ていうか、何食べてんの?」

「バタートーストだ」

「盗んだの?」

「人聞きの悪いことを言わないでくれ。給食室の廃棄箱にあったパンとマーガリンを失敬しただけだ。トースターも使わせてもらったが」

 マーガリンをたっぷり塗ったらしく、小麦の香ばしい匂いが立ち込めていた。放課後クラブでおやつが出る時間も五時だ。空腹を感じていると、ゴッホがもう一枚を差し出してきた。

「食うか?」

「え、私の分も作ってくれたんだ」

「うむ。美羽には世話になりっぱなしだしな」

 破天荒な行動が目立つ彼だが、義理人情は人並み以上にあるらしい。彼の作品が日本で愛されるのも、何となく分かる気がした。


 私は廊下から職員室を見た。副校長と千草さんの二人しかいない。彼らは真剣な顔で、何かを話し合っている。

「わたしがトースターを使って発生した、電気代のことを言っているのか?」

「まさか。それにしても長いね。いつも挨拶だけで終わるのに」

 貧乏性のゴッホはさておき、私は耳をそばだてた。排除、退治、撲滅。何やら物騒な単語が聴こえてくる。詳しく聞こうと、身を乗り出した。職員室の扉が、小さく音を立てた。

彼女はこちらの存在に気が付いたらしい。切れ長の目で、鋭い視線を向けて来た。次に瞳は大きく見開かれ、にんまりとした笑みとなった。蛇が獲物を見つけた時の顔そのものだ。その視線は、私の隣にいるゴッホに注がれていた。彼女の薄い唇は、音こそ聞こえないが四文字の単語を発しているように思えた。「見つけた」。


 頭で考えるより先に、足が動いた。私はゴッホの手を引き、駆け出した。隣で抗議の声を上げているゴッホの声を無視して、地下の図工室へと急いだ。あそこなら彼の作品がたくさんある。彼を隠すことも簡単だ。

『立ち入り禁止』と書かれた看板を通り過ぎ、地下二階に到着した。光が入り込まない廊下は暗く、私の未来を暗示しているかのようだった。


「ゴッホ、彼女と話したことはある?」

「あるぞ。挨拶だけだが」

「彼女の反応は?」

「少し驚いていた。あの顔はわたしに惚れていた」

「……その後は?」

「愛を伝えようとしたら、倒れてしまってな。太陽がどうとか言っていた。保健室の先生が通りかかったから、私は図工室に戻った」

 私は頭を抱えた。そうだった。彼はこの世界のものを読んだり、聞いたり、食べたりすることはできる。しかし彼はこの世界で、他人の目にうつることはない。彼が見えていた時点で、千草さんは異質なのだ。


図工室の扉に手をかけると、中の時計が見えた。それは、ぐにゃりと歪んだ。おかしいのは私の視界か、時計なのか。足の力が抜け、身体全体に力が入らなった。ゴッホが驚いて、体を支えてくれた。おそらく図工室の中には、良くないものがいる。でも中に入らなければ、千草さんが来る。ゴッホは、ひとまず絵の中に逃げれば安全だ。私は何とか意識を保ちながら、図工室の扉を開けた。いつもと違い、壁にゴッホの絵は一枚もなかった。もうひとつ普段と異なる点は、千草さんが立っていたことだった。


「ずいぶん遅かったなぁ?」

千草さんの黒い瞳は愉しそうに揺れていた。まるで捕食者だ。メリハリのついたボディは、警備服の上からでも分かる。ゴッホが一目ぼれするのも無理ないのかもしれない。

「わたしを待っていてくれたのか!?」

 感極まる声で叫ぶゴッホ、生涯を独身で貫き通した男である。彼の勘違いを無視して、私は千草さんに言った。

「何が目的ですか?」

「そりゃ、あんたの横にいる画家を額に納めさせてもらうことよ」

 最悪の予感が的中した。名前を呼ばれたゴッホは、照れながら言った。

「それは遠回しに、君のささやかな城へ招待してもらえるということか?」

 千草さんは目を丸くした。

「驚いた。桜田、何も説明してないのか?」

 彼女は漆黒の髪をかき上げた。目が合うと、目の前の景色が歪み始めた。これが彼女の『絵』なのだ。私は膝から崩れ落ち、このゲームの説明を受けた日のことを思い出した。


「ねえ。図工室の噂、聞いたことある?」

 お母さんは唐突に聞いてきた。弟と妹が寝静まった後、私はタブレットでゲームをしていた時だった。ちょうど操作するキャラクターは鬼に殺されたこともあり、私は不機嫌を絵に描いたような顔で首を振った。彼女は言った。

「飾っている絵に気に入られると、その絵を再現できるようになるんだって」

「それで? 別に良いんじゃない、再現できれば」

「花の絵を一枚、再現して喜んでる程度ならね。でも人間って欲深いから。他に絵を再現できる子を見つけたら、こう思うんだよ。『あの子の絵も欲しい』って」

「シェアすれば良いじゃん」

「絵は一人にしか再現できないの」

お母さんは普段は子供になんてまるで興味がないのに、急に話を振ってくる。まるで私のことは何でも知っている、とでも言うように。私はまるで今思い出したかのような顔を作り、言った。

「あぁ、それ。相手の絵を奪うゲームでしょ? 敗者は絵に関する記憶が消える、ってやつ」

「……あんた最近、図工室に出入りしてるでしょ。服の匂いで分かるよ。変な真似しないでよ」


 私を気遣ってのものではない。彼女の仕事に影響を与えることが嫌なのだろう。彼女はこれ以上、人生の邪魔をされたくないのだ。彼女はFacebookを見ると、必ず機嫌が悪くなる。海外赴任になった元同僚や、起業した同級生が目に飛び込んでくるからだ。それは彼女にも選べたはずの道だった。

でも研究者のパパと結婚したのも、お母さんの選択だった。子供を三人も産んだのも、彼女が決めたことだ。今さらどうにかなるものでもない。すべては手に入らないのだ。そうして世の中は、手に入らないものばかり目に入る構造になっている。


「ゴッホは、渡しません」

 図工室で、私は顔を上げた。時計の時間が本当なら、今は五時半。時計が正確なら、時間が数分止まっていたらしい。千草さんが瞬間移動したのではない。時間を止めて、自分だけ移動してきたのだ。

「そうだよな。ゴッホがいれば、絵もたくさん手に入るし」

「はい。でも三枚だけで良いです。一枚あれば図工室、二枚あれば他の階、三枚あれば校舎から出ることができるから、美術館に連れて行けます」

 千草さんは驚いて目を上げた。

「見せてあげたいんです、今の日本を。彼がこんなに愛されてる様子を」

日本で彼が愛されている理由は、画力だけではない。彼は認められなくても、貧しくても、絵を描くことをやめなかった。そんな生き様が、器用に生きるだけが取り柄の現代人の心を惹きつけてやまないのだ。いつだって人生はイージーモードに変更できる。絵は趣味にとどめて、別の仕事をしても生きていける。お手軽に自己実現ができる道は、そのへんに転がっている。生前に絵が売れることを夢見ていた彼は、きっと喜ぶに違いない。


「ゴッホ。あなたが彼女に取り込まれると、今までの記憶、消えちゃうよ」

 彼は戸惑った顔をした。千草さんのもとへ行こうとしていたのだろう。彼は少し考える素振りを見せた。それは苦手としているようで、我慢できないといった様子で言った。

「美羽との思い出が消えるのは嫌だな」

「あぁ? 拒否権なんて、ないんだよ!」

 部屋全体が再び歪む。やわらかい時計の針が出現し、くるくると回り始めた。サルバドール・ダリ『記憶の固執』だ。

「安心しな! 時間を戻してやるよ! 桜田と会う前にな!」

 私は彼女が瞬間移動するカラクリが分かった。時間を戻していたのだ。

「待て。君にささやかなプレゼントをしたい」

 ゴッホは澄まして言った。

「『ひまわり』か? 無駄だよ。部屋の絵はぜんぶ取っ払ったからな!」

 彼女の言うとおりだ。絵がなければ再現できない。それは、人間が絵を再現する時のルールだ。ゴッホは違う。

「……え?」

 巨大な黄色い花瓶に生けられた、ひまわりたち。それは彼女の頭上に出現し、落下した。彼女は背中をしたたかに打ち、下敷きになった。

「安心しろ。潰しはしない。わたしの愛は重いが、殺すわけではないからね」

 彼女は腹ばいのまま、私たちを睨んだ。背中にのしかかる花瓶のせいで動けないらしい。

「嘘だろ。絵がないのに。どうして……」

「絵がなければ力を使えないのは、君が制作者ではないからだ」

 よく分からないといった感情を訴える彼女に、彼は畳みかけた。

「わたしは、本物の画家なんだよ」


 彼女は気を失った。いつの間にか、やわらかい時計も消えていた。花瓶が消え、私は彼女を仰向けにして、所持品の検査を始めた。

「わたしがやろうか? いつまた絵が暴れるか分からないし」

「大丈夫、それセクハラだから。私が調べる」

 彼は非難を込めた目で私を見た。そんな彼を横目に、警備服の内ポケットをあさっていく。守衛の業務に明らかに使わないものがあった。複数の額ぶちだ。やはり絵を奪うつもりだったらしい。もう一つ、不可解なものが見つかった。定期入れに入った写真だった。

「これは……」

私は声を上げた。ゴッホは写真をのぞき込み、ショックを受けていた。四人の子供。一人は見覚えがあった。三年前に行方不明になった一年一組の同級生、太郎だった。


 次の日、昼休みに校門へ向かった。門の横には小屋がある。椅子が一脚だけ置かれたボックスだ。そこで千草さんは、退屈そうにダンベルを持ち上げていた。心底楽しいというわけでなく、義務感からやっているようだった。私が近づいていくと、彼女は筋トレを中断した。

「あの写真、見たんだろ」

 私の沈黙はうなずくよりも明確に肯定の意を示していた。

「妹の子だよ。私が育ててるけどな」

 私はすべてを理解した。千草さんはSNSをやらず、見栄を張る必要がない。一人暮らしなら、過度な節約生活をしなくて良いはずだ。ゆがんだ時計をいじってタイムセールのパンを手に入れるには、何か理由があったのだ。

「太郎と、ご両親は今も……」

「消えたままだ。今も見つかってない」

 沈黙。千草さんは太陽がまぶしいらしく、目を細めて続けた。

「太郎は一番上の長男で、姉貴は溺愛してたからな。『小のどこかにいるはずだ』って義兄貴と探しに行って、そのまま消えた。だから小で働くことにしたんだ。ちょうど大学院を辞めて、無職だったしな。図工室の噂が流行って、やるしかない、って思った」

 彼女は一枚の絵葉書を押し付けて来た。ゆがんだ時計が描かれている。ダリの『記憶の固執』だ。

「でも負けは負けだ。おめでとう。持って行きな」

「やけに諦めが良いんですね」

 また沈黙が訪れた。春だというのに初夏のような陽気だった。千草さんは帽子を取り、汗をぬぐった。私は続けた。

「千草さんが本気を出したら、私とゴッホは倒せたはずです」

「……」

「本当に、皆さんを見つけたいと思ってますか?」

 彼女は嘘をつけない人種だ。そういう人々は、困った時に黙りこんでしまう。彼女には、どこか違和感があった。どこか義務的な動きがみられた。お母さんが一応、母親として注意をしてたように。世間的に、そうしないといけないのだ。

「あいつらは姉貴の子だ。最近、やっと私をママって呼んでくれるようになった。研究室を追い出された私に、生きる意味を与えてくれた。見つからなければ、離れずに済むんだよ。クソだよな」

 千草さんは自虐的に笑い、空を見上げた。すると先程まで青かった空が、みるみるうちに暗くなっていった。太陽は雲で隠れたわけではなかった。黒い球体に代わっていた。その黒体と、目があった。何故だか、そんな気がした。


「呆れましたよ。貴女には。」

 男性の声が響いた。私と千草さん以外、辺りに人はいない。

「お前か!」

千草さんは黒い太陽をにらみながら言った。既に話したことがあるのだろうか。

「時間切れです。他人から絵を一枚も奪えませんでしたね。せっかく絵を授けたのに、せこい真似しかしないなんて」

 それはみるみるうちに大きくなっていった。千草さんが小さく悲鳴を上げた。彼女の足元が、徐々に黒い影になっている。

「桜田。絵葉書を持って守衛室に入れ。そうすればお前は助かる」

 黙る私に、千草さんは小さく笑いかけた。

「そこに、私に万が一があった場合のことが書いてある。預け先の乳児院と、なけなしの預金口座だ」

 私は絵葉書の裏面を見た。文字の横には落書きや食べ物のシミがついていた。千草さんと暮らす子供たちがやったのだろう。保存状態はよくないし、きれいでもない。しかし彼女が汚いものも含め、すべて愛しているのは伝わって来た。

「よろしく。後は処分して良いよ。私にはこれしか残ってないから」

「嫌です」

 千草さんは目を見開き、私は彼女の胸ポケットに絵葉書を突っ込んだ。そうして守衛室へ突き飛ばした。そうして黒い太陽を睨んだ。

「千草さんの罪悪感に付け込むなんて、最低」

「へえ。勇気あるお嬢さんだ。あなたが生贄になってくれるんですか?」

 足の爪先から感覚が消えていく。視線を向けると、じわじわと黒く浸食されていた。私はポケットから紙を取り出した。弟と妹が描いてくれた絵だ。きょうだいと私が三人で並んでいる。「みう だいすき」と書かれた上には、明るく黄色い太陽が描かれている。

「は。そんな子供の落書きで戦うんですか? ルールも分かっていないとは……」

「分かってないのは、そっちじゃない?」

空が震えた。太陽が笑っているのだ。私は消えゆく身体が視界に入らないよう、目を閉じた。そして意識を二か月前の、あの夜に集中させた。


私はリビングで『モテテコンサルのお陰で恋が成就しました! 倉達さん、ありがとう!』というメッセージを読んでいた。お母さんは、妹のおむつに名前スタンプを押している。寝ているきょうだいを起こさないように気を付けながら、控えめな声でたずねた。

「どうして倉達うさみって名前にしたの?」

「え。あんた、気付いてなかったの? アナグラムだよ」

 小学四年生で習う英単語ではないと言いかけたが、やめておいた。母に期待しても無駄だ。私の学習進捗状況になんて興味はないのだから。

「さくらだみう、並び替えてごらん。最近の小学生事情は分からないけどさ、いじめとか陰湿なんでしょ? 何かがあった時のために、敵の秘密は握っておきな」

 いたずらっぽく笑い、私を抱きしめた。香水の匂いでなく、気だるい午後の匂いがした。きょうだいが生まれておらず、お父さんが教授になる前、狭い家で暮らしていた時に嗅いだことがある。何もかも二度と戻らない日々に何回も聞かされていた、あの言葉。

「大好きだよ、美羽」

ママもパパも、これからお仕事が大変になるけど、いつも想ってるよ――


手に衝撃が走り、紙から黄色い太陽が飛び出す。それは黒い太陽へ一目散に向かい、爆発を起こした。私は叫んだ。

「絵の戦闘力は、有名かどうかで決まるんじゃない。愛の量で決まるんだよ!」

閃光に目がくらんだが、数秒後には日常を取り戻していた。いつもの青い空が、何事もなかったかのように広がっていた。

 

 その夕方、図工室でゴッホに手短に報告をした。彼は黙って聞いていた。

「ごめん。回収できなかったよ、絵葉書。早く美術館に連れてってあげたいんだけど」

「別に良い。わたしには美羽がいるしな」

彼はほほ笑んだ。あたたかく、深い笑みだった。スケッチブックをのぞくと、私が描かれていた。上手なのか下手なのかは分からない。弟と妹が描いた絵と大差ない気すらする。でも、どちらも共通して、私への愛は感じることができた。礼を言おうとすると、彼は続けた。

「『ゴッホは渡さない』と言われたからにはな。美羽まで、わたしのことを好きだったとは」

 舌先まで出ていた感謝の言葉が、凍り付いた。彼は私の腰に手をまわし、抱き寄せた。ビンタの音が響き渡り、図工室の外まで響いたようだった。


 あっという間に数日が過ぎ、始業式を迎えた。新年度になって、相談件数は増えに増えていた。クラスが離れたとか、新しいクラスにかわいい子がいて不安とか、そういった類のものだ。お礼の件数も増えて、『倉達うさみ』はモテコンサルとしての地位を確立していった。

やがてGW(ゴールデンウイーク)が到来した。授業はないものの、両親ともに仕事はある。弟と妹は保育園に、私は放課後クラブに行っていたが、友達は帰省なり旅行なりで出かけている。誰もいなくて、退屈だった。人は暇になると、ロクなことをしない。私の足はGW二日目にして、既に『立ち入り禁止』と書かれた階段を降り、図工室へ向かっていた。

「あぁ、美羽か」

 そこではゴッホが、スマホを操作していた。

「ど、泥棒?」

「わたしの父は牧師だぞ」

 彼はムッとして応えた。じゃあどこでそんなものを手に入れたんだ、と言いかけると、背後から声がした。

「おい、校内ではスマホ禁止だぞ」

 千草さんだった。

「桜田は今日も放課後か、偉いな」

私の頭を優しくポンポンと叩きつつ、鋭い視線をゴッホに向けていた。絵を奪われていないため、ゴッホがまだ見えているのだ。

彼女はタイムセールでささやかなズルをすることは卒業していた。代わりに区役所に粘り強く通っていたのだ。事情を説明し、ひとり親の申請手続きにパスしたのだという。三人分の保育料が無償化となり、税金がいくらか免除になり、土日も預かってもらえることになった。そのため家計は少し楽になったらしい。

「ゴッホにスマホあげたの、千草さんですか?」

「そんなわけないだろ。友達からもらったとか言ってたぞ」

「やめてくれないか、わたしの取り合いは。美羽とは両想いなんだから」

 一斉に反論する私たちにお構いなく、彼はスマホを眺めていた。そして顔を上げた。彼の視線は、私たちの背後に注がれていた。

「やあ、来たか。ロートレック」


かわいらしい顔をした少年が立っていた。ハイブランドの洋服、ふわふわした黒髪、身のこなしから裕福な家の出だと分かる。スマホを買ってあげるくらい、わけないだろう。

「あれ、どっちがモテコンサル? 二人とも美人さんだから、分かんないな!」

千草さんが親指を私に向けた。ロートレックは目を輝かせ、私の手を取った。やわらかくなめらかな肌に、何だか緊張してしまう。守衛さんはそんな私を面白そうににやにやした顔で眺めていた。ロートレックは私を見上げて、言った。

「聞いたよ。一気に二人の女性から愛を得たって。あのゴッホが。すっごいよ!」

 千草さんと私は面食らい、顔を見合わせた。次に出た言葉は、もっと耳を疑うものだった。

「僕ね、歌舞伎町で真実の愛を探してるんだ。お手伝いしてもらえる?」

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