最終章
お盆が明け、始業式まで残り一週間となった。
僕は補習のため、バス停から学校までの坂道を汗だくになりながら上っていた。
夏祭りが終わってから、僕は彼女にも泰翔にも会っていなかった。それは僕が原因不明の高熱に苦しめられ、彼女との特訓を続けられなくなってしまったからであった。
ようやく僕の熱が引いたのはお盆が終わった頃で、僕は久しぶりにコンビニでも行ってみるかと自転車を走らせていると、反対側から顔見知りのヤツと出くわし、僕はしばらく彼と駄弁った。
その男はクラスメイトの近況について詳しかったから、僕はしばらく彼の話を聞いていた。そしてその時初めて、僕は夏祭りの日に川に落ちたのが、水泳部の勝山明生だと知ったのだった。
「落ちた時、運よく川底に腕が当たったんだ。そのおかげで衝撃が吸収できて、アイツは右腕一本粉砕だけで済んだんだ。もちろんインターハイは棄権で、腕に金属の管を入れるために二週間も入院したらしいぜ」
男はポケットから煙草を取り出して僕の方に突き出したが、僕は苦笑して首を振った。
「もったいないよなぁ。せっかくインターハイに出られたのに」
「何がもったいないんだよ」
「……はぁ?」
男は不思議そうに僕の顔を見つめると笑った。
「インターハイだよ。全国大会。お前知らないのかぁ?」
「いや、わかるよ」
「ならインターハイがどれだけ凄いことなのか、理解できるだろぉ?全国の高校生はなぁ、皆インターハイに出場するために舌がちぎれるくらい努力してるんだ。毎日毎日性懲りもなく無様に、休日だって返上して泥のように練習してるんだよ」
そう言って男は、俺は中学の頃サッカー部で、全国まであと一歩のところまで行ったが、延長の末敗れたのだと言った。
「高校の全国大会ってのは他とはわけが違う。有名大学から推薦がわんさか来るんだ。それに、もし結果が振るわなくても、今はAO入試っちゅう自己推薦があるだろぉ?あれでインターハイ出場って言えば大抵の大学は通るんだ。だから全国に出るってのは将来の夢を広げられる、一生の価値があるものなんだよ」
男はそう言って、勝山はあの腕ではもう泳ぐことはできないだろうと付け加えた。
学校は冷房が効いていて涼しかったから、僕は汗で濡れた首筋をタオルで拭うと、下駄箱から職員室までの長い廊下を歩いた。
補習が行われているといっても学校は静かで、グラウンドで走り込みを行っているサッカー部の掛け声と、近くの林に飛んでいるアブラゼミの鳴き声しか聞こえなかった。
職員室は涼しいよりも寒いくらいだった。僕は扉を開け補習の先生はいませんかと尋ねた。
「Y先生はいないよ。君は何組の生徒だい?」
席に座り、お茶を飲んでいた男の教員は、寂しくなった頭髪をいじりながら、度の強そうな眼鏡をずり上げて僕を見つめた。
「C組です。十一時からの補習できました」
汗で濡れた僕の身体には、職員室の送風は冷たく、僕は速く扉を閉めたかったから、手を震えさせて早口でそう答えた。
「十一時?そんなに早くから補習なんてやってないよ」
遠くの席に座っていた若い教員が僕の方に近づいて、『補習予定表』という日時と担当の教員、そして教室名が書かれた紙を見せてきた。
「ほら、Y先生は卓球部の顧問を請け負っているだろぉ?その練習時間と間違えたんじゃないかなぁ?」
スポーツジャージを着たその教員は、君の補習は三階教室で十三時からだよと言った。僕はプリンターの横に架けられた時計を眺めた。十時四十二分の針がもう少しで三分になるところだった。
僕はその紙を貰い、男の先生に礼を言って職員室を後にした。どうにもやりきれない気持ちだった。
僕は四階まで階段を上がり自分の教室に入った。扉は開いていて、黒板には担任の文字で始業式の予定が書かれていた。
それは教員の字というよりも女子中学生のような、丸っこく見にくい文字だった。僕は自分の席に座り、まだほとんど手を付けていない課題を机に出すと、補習までの二時間をどう過ごそうかと考えた。一度家に帰って昼食を取ることも頭に浮かんだが、学校までの坂道を再度上るのは、一種地獄のようにも思えて、僕は冷房の効いた学校にそのまま居続けることにした。
けれど机に課題を開いてみても、僕の手は一向に動かなかった。僕は立ち上がって教室を見渡した。人のいない午前の教室は初めてだと思った。窓の外は青空がキャンバスのように広がっていて、ときおり流れる南風がイチョウの葉をそよがせていた。
僕は隣の席に座った。津川アキの席だ。僕しかいないこの教室では何をするのも自由だから、僕は彼女の椅子に座ることに多少罪悪感を抱きながらも、そのまま顔を下へもっていき中を覗いた。
机の中は空だった。僕はさらに顔を近づけて暗闇の空洞を見やった。
中からは塩素の鼻を衝く匂いと、彼女の微かな甘い香りがした。
その時ふと僕は、水泳部に顔を出してみようかと思った。特訓を始めてから、僕は彼女から夏休みの予定表を貰っていたし、この唸るような暑さの中でプールを泳ぐのは、とても気持ちがいいだろうなと思ったのだ。
生憎、僕は水着を持っていなかったから、プールサイドで軽く見学をするくらいでも、多少涼めるのではないかと思って、制服のズボンの裾を膝まで捲って教室を後にした。
プールは体育館棟から繋がっていて、校舎の裏側にあった。グラウンドは生徒の声がするのに、そこはいつも静かで、近づいてみないと人がいるのかわからなかった。僕は荷物を教室に置き、下駄箱から正門まで続く道を逸れて裏手に入った。そこは日陰になっていて、青々とした雑草が密集していた。ポツンと置かれた掃除用具入れや換気扇のファンは汚れていて、プールからは微かに水の音がした。
僕は段の前で靴を脱ぎ、それを丁寧に横に添えた。青緑色の外壁は太陽を浴びて光っていた。僕は裸足のまま段を上がり、そのままプールサイドまで歩いていった。
プールサイドに人はいなかった。僕は狐につままれたような心持でその場に放心した。プールの扉は開いていて、水もザアザアと流れているのに、人がいないのはおかしいなと思った。僕は太陽に照らされ波立っている二十五メートルのプールを眺めた。青く弛った水面は、下から出される水流に乗って音を立てていた。
その時、反対側の用具小屋から背の高い坊主の男が出てきた。Tシャツに短パンの格好をして、黒い肌には硬く厚い筋肉が血管を浮かび上がらせていた。
僕はこの男が勝山明生だなと思った。彼は左手でブラシ棒を持ちこちらに近づいてきた。首筋から両肩にかけて巻かれた真っ白な包帯が、彼の右腕を吊っていた。
「よぉ」
彼は白い歯を見せて笑った。肌がどす黒いから、彼の真っすぐでギョロっとした結膜と白い歯は対照的で、とても目立っていた。
「ひとりか?」
「あぁそうだ。練習が一時からだから、こうして掃除しているんだよ」
彼はそう言って、用務室にバケツが二つあるから、水をいっぱいに汲んでここに持ってきて欲しいと言った。
「本当は俺がやらなきゃいけないんだけど、この腕じゃどうにも時間がかかってしょうがないんだ」
彼は舌を出して笑った。僕も笑って用務室へ走った。
「うれしいなぁ。ここ数日、俺は一人で掃除をしてたからなぁ」
僕は持ってきたバケツを置き、棒ブラシの端を水につけると、力いっぱい床をこすった。
青磁色のプールサイドが、水に濡れて同錆のように濃くなっていった。水が流れる溝の部分を磨いていた勝山は、水辺に寄ってきたトンボを捕まえて空に逃がしていた。
「毎日一人で掃除してるのかぁ?」
「いや、掃除は当番制なんだけど、一年が率先してやることになってるんだ。だけど俺が怪我して泳げないから、雑用くらいは出来るだろうって、ドジョウが毎日の準備と後片付けを俺に任せているんだ」
勝山はポケットから鍵を取り出して鳴らした。練習までの準備全てを、自分一人で行わなければならないから、どんなに遅くても九時には学校に着いていなければならないのだと言った。
「そりゃあ、あまりも酷すぎやしないか?こんなに広いプールを炎天下の中ひとりだぜ。それに右腕だって、まだ完治していないんだろぉ?ドジョウのやつ、頭がおかしいんじゃないのか」
「いやいいんだ。元はと言えば俺が撒いた種なんだからな」
勝山は下を向いて息を吐いた。汗で濡れた額がTシャツの襟の部分に伝っていた。
僕はつい数分前に顔を合わせたばかりの、この勝山明生と言う同い年の男との会話が、今日初めてのものではなく、馴れ親しい長年連れ添ったチームメイトのように感じた。その想いは、僕がプールサイドに現れた際に感じた、彼のあまりにも早い僕への理解だったから、僕はなぜ、彼が僕のことを知っているのだろうかと思った。僕が水泳部に入ることはまだ正式に発表されたわけではないし、担任にもドジョウにも、夏休み後に決めると言ったまでで、僕が秘かにプールセンターで特訓していることは、泰翔とドジョウしか知らないはずだった。
それなのにこの男は、何の脈絡もなくプールに侵入した僕を、一種歓迎するような目で見つめ、ひまわりのような笑みを浮かべて「よぉ」と言ったのだ。僕はその瞬間彼のすべてを見たような気がした。燃えるような暑さの中、ひとり準備に取り組んでいる肌の黒い大男の、絶やすことなく浮かべられた僕への笑顔は、柔和で堅実な彼を現していたからであった。
けれどそんなことを抜きにしても、僕は初めて顔を合わせた時から、なにか言葉にできない不思議な親近感を彼から感じていたのだった。
僕は左腕で器用にホースを扱っている勝山を眺めた。水道の蛇口から流れ出た水が、緑色の管を伝って勢いよく地面に落ちた。すると、県総体のあの日に見た光景が、僕の目に鮮明に蘇ってきたのだ。
それは最終競技だった。僕と泰翔は奥の観覧席に腰を下ろし、同じ高校でこの競技に出場している、勝山明生という男について話していた。泰翔は勝山と同じスイミングスクール出身で、アイツは水に顔が付けられるようになるまで一か月も掛かったのだと言っていた。
スタートの合図で選手たちが一斉に水に飛び込んだ。僕は第五レーンの彼を眺めていた。スタートは他の選手たちと同時だったが、その時彼だけが僕の目には光って見えていた。
それは彼のしなやかな曲線だった。通常の飛び込みは台を蹴り、腕を伸ばして指先から着水するのだが、彼はそうではなかった。
空中で止まっているのだ。他の選手が水中に潜る中、彼だけまだ空に浮遊していたのだ。
僕はその姿にあっけにとられ、しばらく周りの喧騒なんか耳に入らなかった。だた僕の目には、身体を一直線にさせながら、いつまでも空中に浮いている彼がとても美しく映っていたのだ。
けれどその瞬間は、一秒にも満たないことだったから、僕は再びコース全体を眺め順位を追った。第二レーンの選手が独走して、その後ろを勝山を含めた四選手が並んでいた。
その後は、もう僕の目に他の選手は映らなかった。熱気を包んだ会場の中で、僕は我を忘れて声を出し続けていた。素性も知らない同年代の男を、なぜここまで応援するのか自分でも不思議だった。けれど僕は、いま目の前で荒波を立てながら一直線に前を進み続けている彼に、一種尊敬のような深い肯定と、同族のような激しい熱情を感じずにはいられなかったのだ。
「この場所が済んだら休憩に入ろう。用務室に俺の財布があるから、それで好きな飲み物でも買ってくれ」
プールサイドを丁寧に磨き終えると、勝山は昇降口の自販機で好きなものを買ってくれと僕に言った。
「そんなの、悪いよ。俺はただ隣で突っ立ってただけなんだから」
「いいんだよ。それに芹口がホースを持ってくれなかったら、もっと時間がかかっていたからなぁ」
勝山は何度も断り続ける僕に笑みを浮かべながら、屋根のついた日陰のベンチに腰を下ろした。僕も並んで、その水色のベンチに座り、綺麗に水の張られたプールを眺めた。
「キレイだなぁ」
僕は顔に迫ってきた熱波が、プールの水上を通り生ぬるい風になって、汗で濡れた僕の首筋や肩に当たるのを感じながら、いつまでも光輝いている水色の波を見つめて言った。
「そうだろぉ。俺はこの景色を見るとなぁ、つい飛び込んでみたくなるんだ」
「飛び込む?」
僕は隣の勝山に視線を移した。彼は紅潮した顔で水面を一心に見つめていた。
「そうだ。飛び込むんだよ。ザブーんとな。そうすると何もかもが忘れられるんだ」
「お前、もしかしてそれで川に落ちたのか?」
僕は驚いてそう言った。彼はどこからか持ってきたクールボックスを僕との境に置き、缶ジュースを手渡した。
「まぁ、そうなのかもしれないなぁ……」
彼はあやふやな返事をして缶に口を付けた。僕もそれを真似てオレンジジュースを含んだ。果実の甘酸っぱさが舌を通り、厚く焼けた喉に流れた。青葉の匂いを纏った風が強く吹いて、僕の前髪をふわりと浮かした。
僕たちは何も口にすることなくしばらくそうやっていた。目の前のプールに波立つ水色のしぶきが、時折強風でプールサイドを濡らし、ベンチに座る僕たちの足を濡らした。
僕は一面の青空の端に、薄く伸びたイワシ雲を見つけると、それをしばらく眺めた。
津川アキの水着姿を見ることはできなかったが、こうしているのも悪くはないなと思った。
すると隣の勝山が、飲み切った缶を床に置き
「少しだけ俺の話を聞いてくれないか」
と言って、僕の了承なしにひとり語り始めた。
俺はな、別に水泳なんてこれっぽちも興味がなかったんだよ。いや、興味がないってよりも泳げなかったって表現が正しいな。それ以外も、球技、体操、陸上競技、スポーツ大半は苦手で嫌いだったんだ。
それは俺が、幼いころから身体が小さくて、ことあるごとに高熱を出す体質だったから、親は俺にスポーツをさせなかったんだ。今でも何か月かに一度熱を出して掛かりつけの先生に見てもらうんだけど、またいつものやつですねと言って、ものの数分で検診を終わらせちまうんだ。顔見知りの先生だから面と向かって言えないけど、なんだか金をむしり取られたような気がして、最近はちょっとの熱くらいじゃ病院に行かなくなった。まったく、とんだ吝嗇野郎だぜ。
ああ、そうだよな。俺だってこんな話をしたいわけじゃないんだ。でも許してくれ。ここでお前に話すことは、今まで二人の友人にしか語ったことのない、俺の過去の話なんだ。だから俺が動揺して気を乱したりなんかしたら大変だろぉ?だからこうやってゆっくりと、自分のペースで話しをさせてほしいんだ。
勝山はそう言って深く息を吐くと、絶え間なく煌めき続けているプールに視線をやった。
俺は十六年前大阪で生まれた。父は東京人で、母が京都の人だった。父は仕事の転勤で、ちょうど大阪の支社に勤めていたから、よく京都にも足を運んでいたんだ。そこの夜の街で父は母と出会った。
父と母は出会ってから五か月後に結婚した。結婚って言っても、父の両親は反対だったみたいで、最後まで結婚式には出ないって言っていたらしい。母は若い頃に両親を亡くしていたから、血のつながりのあるおばさんと二人暮らしで、その人は結婚式から三日後に脳梗塞で亡くなったから、母の身寄りは俺だけなんだ。
ふたりは八尾市のはずれにあるアパートに居を構えた。何の準備なしに結婚したから、最初は父の両親に頼っていたんだけど、それだと面目が付かないからってことで、俺が生まれる前に父は仕送りを辞めた。父は相変わらず大阪勤めで、母は何も職に就かずにいつも家にいたから、近所の主婦たちは決まって暇になると、母のいる家に上がっておしゃべりなんかをしていた。
結婚してからちょうど一年後に俺が生まれた。出生体重が平均より三百グラム軽くて、ミルクとかを飲むときも鳴き声が凄く弱々しいから、母は何か重大な病気があるんじゃないかって、色々な検査をして診てもらったけど、結局なにも見つからずに終わったんだ。身体は生まれつき弱かったけど、それは高熱が出るだけで、伝染病にかかったことはなかったし、大抵が一日二日寝ていれば治るものだったから、母は俺の熱が出る度に氷枕を用意して一緒に寝てくれた。
あぁそうか。芹口は俺の両親が死んでいることを知っているんだったな。それなら話は早い。俺の幼少期の記録は全て遺物の日記に記されていて、俺が生まれてからの日々を事細かに書かれていたんだ。今日は何回鳴き声を上げたとか、乳の飲みっぷりが悪いだとか、当時の日記にはそんなことが毎日ツラツラと書かれていたけど、ある時からそれがピタッと止んだんだ。
ちょうどその時が、母に別の男ができた時期なんだ。俺が生まれてから一年後、母は俺を家に置いて外に出る回数が増えていった。外に出るとき、母は必ずベビーカーを持って行っていたから、隣人は何も不思議に思わなかったらしい。母はコトを終えると、いかにも買い物から帰ってきたというふうに、隣人とおしゃべりを始めるから、父もまさか自分が仕事に行っている間、二十も年の離れた男といるなんて想像がつかなかったんだと思う。
実際その男は、昔母が働いていたホステスの常連で、結婚式に祝辞を送ってくれた品のいい家具メーカーの重役だったから、母が金のない我が家に辟易として、一時でも心を許してしまったことは、もう上がることのできない沼みたいなものに引きずり込まれていったと表現しても大げさではないだろう。
それからまた一年が過ぎた夏の日。母はいつものように僕を家に置いて、それっきり帰ってこなかった。
金品も置手紙も残さずに、重役の男と一緒に姿をくらましたんだ。
父は初め、しばらくすれば泣きついて戻ってくるだろうと思っていたみたいだけど、一週間二週間経っても、母は姿を現さなかった。
それから五日後、家に警官が二人やってきて、母が山梨のマンションで男と一緒に首を吊っていたのだと説明を受けた。
父はその時、とても心が落ち着いていたらしい。はぁそうですか、と言って、すぐに自分の両親に電話を掛けた。
母が家を出て行ってから、日記に詳しいことは書かれていなかったけど、多分父はわかっていたんとだと思う。自分が水商売の女に手を出したように、その女も抗うことのできない性の気質を持っていることは、結婚する前から互いに理解し合っていたのだと思う。
父がなぜそうまでして母と結婚したかったのかはわからないけれど、俺は人間って生き物の根本は、どんなに努力しても変えることのできないものだなって、この日記を読む度に思うんだ。犯罪者はどんなに更生したって、きっと心のどこかでは、自分は間違っていないんだと自己肯定する気持ちを持っているんだと思う。でもそれは言葉を換えれば、その人の個性とも表現できるから、一概に悪とも言えないんだけどね。
それから父は会社を辞め、アパートから近い電機会社に転職した。男一人で子を育てるのは大変だからと、父の両親の家へ引っ越しも考えたみたいだけど、父は両親の四十の時の子だったから、互いに七十を超えていて、とても子供の面倒をできる身体ではなかった。そのため父は、自分一人で俺を育てることに決めたんだ。
日記には日々の苦悩がボールペンで丸っこく書かれていたよ。父は大卒だけど字が汚くて、母の書いた部分の半分も理解できなかったけど、父は俺に出した食事やおやつ、それに会話の内容まで、どんなに細かいことでも克明に日記に記していた。
けれどそんな日も長くは続かなかった。父が転職してから一年と三か月が過ぎた頃、物価の高騰による連日の不況と、蓄積されたストレスからなる父の仕事のミスが重なって、父はその電機会社をクビになったんだ。
それから父が働かなくなって酒におぼれるまで、時間はかからなかった。父はクビになったのはこの不景気な社会のせいだと家で怒鳴るようになった。それが次第にエスカレートしていき、相次ぐ近隣の苦情から、父は引っ越しを強いられた。
父は岸和田市にある築六十年の、住民の半分がワケありの安アパートに居を決めた。そこは錆びたトタン屋根が目立つボロ屋だった。三歳になったばかりの俺の目でも、そこが社会の底辺が住む場所だと言うことは口にしなくてもわかっていた。
俺と父はそこで三か月過ごした。父は相変わらず酒に溺れ、外に出た時は決まって輩に絡まれて、二三発拳を貰うこともあったけど、父は俺に手を出したことは一度もなかった。酒を飲み、喚き叫ぶとき以外は、至って普通に俺の遊び相手になってくれた。わずかな貯金を崩して、流行りのおもちゃを買ってくれたこともあった。
そして母親が家を出てからちょうど一年が過ぎた七月の十五日。
その日は港で花火大会があった。昭和うん十年から続く伝統ある地元のお祭りで、大阪中から来訪者が訪れる有名なものだったから、俺は父の背中を何度もゆすって「花火にいきたい」と大声で叫んだ。
「そうかぁ、明生はまだ花火を見たことがなかったな」
父はよぉしわかったと言って、屋台がいくつも連なる大通りに俺を連れて行ってくれた。
その時、俺はまだ三つだったから、父は首の上に俺を担ぎ、花火が見えるようにしてくれた。いつもと違う高い視線を手に入れた俺は、何千という人の群がりが、提灯の赤い炎に縁どられた異様な光景に、目を大きくして喜んだ。
花火は八時から始まるから、父はそれまでに射的や輪投げなんかの屋台に俺を連れて行ってくれた。俺は初めて目にするその様々な催しに、全身が震えるほど興奮して遊んだ。こんなに楽しいことが世の中にはあるんだなと思った。
次第に人の数が増えていって、俺たちは大通りを流れるように移動した。周囲は押し詰め状態で、上から眺めると幾つもの人間の頭が見えた。
そのまま父は、人混みに流されて大橋の方へ移動していった。大橋は花火が綺麗に見えるからと、例年多くの見物客が訪れていたから、周囲には規制線と、何人かの警官が立っていて、橋には三脚なんかを立てた見物客が多く蠢いていた。父は大橋の真ん中くらいで足を止めると
「ここからだと花火がよく見えるんだ」
と言って笑った。父はいつのまに呑んでいたのか、口から仄かに酒の香りがして、顔が赤くなっていた。
「見たことあるのぉ?」
「あぁ、むかし母さんとよく見に行ったんだ」
父はだいぶ酒に酔っていて、フラフラとした足取りで欄干に手を置いた。
それから少しして、西の空に花火が上がった。後方からワァっと歓声が響いて、火花が静まると一斉に拍手が鳴った。観衆たちは打ち上がる時の一瞬の静寂に息をのみ、玉が空に開くともう我を忘れたように、大きな声を出して喜んでいた。
俺は初めて目にする花火の美しさに感動していた。真っ黒な空に、色とりどりの火花をまき散らしていくその光景は、俺の目に焼きついて離れなかった。
しばらくすると花火が止んだ。玉を詰め替えているのだろうという声が隣から聞こえて、そこで俺は、花火が始まってから一度も父が言葉を発していないことに気が付いた。俺は上から父の顔を覗いた。
父は泣いていた。真っ赤に顔を腫らして静かに頬を濡らしていた。顔は斜め上の空に注がれて動かなかった。
「みなこぉ、みなこぉ」
それが父親の最後の言葉だった。俺はなぜ、父が母の名前を連呼して涙を流しているのか不思議に思ったけど、自分の親が泣いているのを目にするのも、その時が初めてだったから、俺はなんだか申し訳ない気分になって黙っていた。
ちょうどその時、また空に花火が昇っていった。風を切る音がさっきより大きく聞こえた。
その時、後方から生暖かい風が吹いたのを覚えている。父はなぜだか俺を肩から下ろすと、強く抱きしめて橋から飛び降りた。
空と同化して黒くなった夏の川に、いつまでも煌めき続ける赤色の火花が、俺の視界に広がる川面に反射して、徐々にそれが大きくなっていった。
それから病院のベッドで目を覚まして、警官から父が溺死したことを知るんだけど、俺は生で見た花火の衝撃が忘れられなくて、その時は父が死んだ悲しみなんて感じずに、「また花火が見たい」と何度も看護師にねだっていたらしい。
父の両親は、自分たちには子育てはできないからって、俺はしばらく児相の世話になった。その時の記憶は曖昧だけど、俺と同じ年齢くらいの子と友達になった記憶が微かにある。子供も職員の人も、みんな優しかった。
一年後、俺は里親の元に引き取られる。場所は今も住んでいる神奈川県の厚木市だ。両親は二人とも四十代後半で、結婚して二十年経ってようやくオヤジに種がないと分かった。あらゆる治療を試みたが子供は生まれず、ショックで肩を落としていたところに、俺の引き取り手の話が舞い込んだらしい。だから俺は、夫婦からすれば念願の子供だったってわけだ。
俺が厚木の家に引き取られる時に、父の両親はオヤジに日記を渡した。後から聞いたけど、その時一緒に月の仕送りについての話もしたらしい。俺はやさしく迎え入れてくれるオヤジとカカに感謝して、新しい生活を始めた。
だけどな、俺はここからが大変だった。なんせ物心つくかも怪しい年齢で両親が変わったから、俺は度々家族の前で奇行に走った。たまに高熱が出ることは知らされていたみたいだけど、俺が死んだ父親の、酒に酔った語り口や仕草を真似するもんだから、カカは何度も俺をカウンセラーに連れて行って、この子の様子がおかしいんですって、目ん玉飛び出して言ってたなぁ。どこかの本に幼少期の行いが人格を形成するって書かれてあったけど、あれは本当だな。俺は今でもカッとなると物を投げたくなるし、父が酔っぱらった時によくした羽交い絞めを、友達にやりそうになる時があるから、カカやオヤジはそのことで大部苦労したらしい。
そうしてようやく、俺は小学校に上がったんだ。クラスには太っている子に痩せている子、肌の色や髪の長さも様々な子供たちが、ひとつの教室に集まっていた。
あの時の入学式は今でもよく覚えている。体育館で入学式が行われたんだけど、どの子も隣に立つお母さんに笑顔で会話をしていたんだ。周りには晴れの舞台を見に来た親類が集まって、写真を取ったり抱き合ったりしていた。
その時に、俺は初めて自分が他人とは違うことに気がついたんだ。当時の俺と里親の関係は悪くはなかったけど、それでもどうしても気が合わないっていうか……目に見えない距離があったんだ。
もちろん生活している時は、家族ってこんなものだろうって言う漠然とした感覚だけがあったから、入学式のあの、温かくて慎ましい本当の家族の光景を目にして、俺は自分の家族が本物じゃないって初めて感じたんだ。カカもオヤジも、血の繋がった親になることはできない。多分その時俺は、とても悲しい顔をしていたんだと思う。
だから俺はクラスに馴染めなかった。入学式で、自分が周りとは違うことを知ってから、俺は何となくクラスメイトと距離を取っていた。どこか自分がよそ者のような気がして、まともにしゃべることができなかったんだ。
ある日グループワークをする授業があって、俺は班の子と話さないといけなくなった。
俺は幼稚園に通っていなかったから、人との関わり方がわからなかくて、なかなか話しかけることができなかった。
それが「友達になろう」ってハッキリと言葉に出せればよかったんだけど、どうにも当時の俺にはそれができなくて、俺は隣の西村君に無言で羽交い絞めをしたんだ。
俺はそうすれば、彼が友達になってくれるって思っていたんだ。けど彼は床に倒れてその場で泣き叫んだ。担任と教頭先生が急いで教室に入ってきて、俺を別の部屋に引っ張っていった。
俺は何がいけなかったのかまるでわからなかった。幼少期を父としか過ごさなかった弊害がここでも現れたんだ。謝る気のない俺に担任はカカを呼んだ。
しばらくして、西村君のお母さんが部屋に入ってきた。三十代前半くらいで、すごく美人だった。その人は俺の顔を見ると笑顔を向けて丁寧に挨拶をした。
お母さんは担任の横の席に座って何かを話していた。温厚で上品な言葉遣いだったから、俺は静かにそれを眺めていたんだけど、カカが部屋に入ってきてから、その態度は急変した。
俺はあの時、男よりも女のほうが怖いって知ったよ。お母さんは急に形相を変えてカカに怒鳴った。それはもう地獄の鬼のような顔だったよ。担任もそれを止めることなく黙っていたから、お母さんのカカに対する叱責はどんどん激しくなっていった。
俺は怖くて声が出なかった。さっきまであんなに優しかったのに、今は我を忘れてカカを怒鳴り散らしている。
カカは「ごめんなさい。ごめんなさい」と何度も頭を下げていた。俺は気高くて美形なお母さんが、五十近い白髪交じりのカカに怒鳴り続けている光景が、妙に心揺さぶって頭から離れなかった。カカは相手が手を出していきそうな具合になっても、頭を下げたまま動こうとしなかった。
西村くんのお母さんが帰ると、カカは先に家に帰るよう俺に言って、担任と話を始めた。
俺の家から小学校までは五百メートルほど距離があった。校門を出て、交差点を渡ると田んぼの広がる畦道があって、その先を行くと民家が連なる通りに出る。そこをまっすぐ行ったところに、三十メートルくらいの小さな橋が架けてあった。
俺は帰り道によくそこで遊んだ。石造りの頑丈な橋で、一軒家がすっぽりと収まるほどの高さだった。夏になると子供達が川辺の茂みでザリガニ釣りなんかして遊ぶような場所だった。
俺はその橋の中央に立って、いつまでも川面を見続けていた。沈みゆく夕日が、緩く流れる小波をオレンジ色に光らせていた。
ふとその時、俺はここから飛び降りれば、父や母に会えるんじゃないかって思ったんだ。もちろんその時は、死についての明確なイメージなんて持ってなかったから、俺はただ父と母が、川底の奥深くの別世界にいるんじゃないかと思ったんだ。
俺は自分の背丈くらいある欄干を登った。そしてそこに立った時、俺は自分が想像していたよりも橋が高いことに気が付いたんだ。
夕日に照らされた民家が遠くまで広がっていた。風も地上より強く感じる。高い場所から眺める景色は、俺にあの時の、父との花火大会の情景を思い出させた。
父の肩に乗りながら眺める、色とりどりの花火が、その時俺の目に映ったんだ。
気が付くと俺は欄干から足が離れていた。強く風が吹いて、逆らえない重力の浮遊感が、俺の心臓を打っていた。
そこから先はあまり記憶がないんだけど、俺は通行人が警察を呼ぶまで、しばらく川に流されていたらしい。
カカは病院でいつまでも泣いていた。俺が警官に事情聴取されても、「飛び込んでみたかった」の一端張りで、とうとうこの子は気でも狂ったんじゃないかって思ったに違いないなぁ。でも俺は、カカにもオヤジにも父と見た花火のことは一度も話さなかった。
話が大分逸れちまったな。ええと、なんだっけ……俺が水泳を始めた理由か。
そりゃもちろん泳げるようになりたかったからさ。前述したとおり、俺は川に落ちた以来、水が一種のトラウマみたいになったんだ。そのせいで、プールの授業はいつも見学してたんだ。
けどそれが、中学に上がってからは通用しなくなった。体育科の先生がとにかくスパルタで、プールに出ない生徒はどんなに他が得意でも、絶対に評価しないって先生だったから、俺は授業に出なきゃいけなくなったんだ。
あれは忘れもしない、中一の六月。プール開きの日だ。俺は他の生徒と同じように水着を着て、プールサイドに並んだんだ。
飛び込み台のところで先生が増えを鳴らすと、先頭のやつらが水に入っていった。そこでは各々が軽く体を慣らして、もう一度笛が鳴ると、今度は水に潜らなきゃいけない。俺は体育座りをしながら、自分の番が来るのをびくびくしながら待っていたよ。
一通り水に浸かったら、今度は二列目の俺の番になる。先生が笛を吹くと、皆が一斉にプールに入る。俺は足先から順にプールに入った。
そこからはもうパニックだったよ。胴体まで水に浸かると、俺は気がおかしくなるんじゃないかってくらい全身が凍るように固くなって、言葉にできない悪寒が勢いよく襲ってきたんだ。
プールの水深は自分の背なら余裕で足が付くはずなのに、俺は全身の力が抜けて溺れるようにその場に沈んでいったんだ。
それがほんの一瞬の出来事で、すぐに溺れている俺の元に先生が寄ってきた。
俺は朦朧とした意識の中で先生に腕を掴まれた。早くプールから上がらないと、俺はどうかしちまうんじゃないかってその時は思ったさ。
けどな、先生は俺をプールから上げなかった。そのまま笛を吹き続けたんだよ。
その時、ちょうど水中に十秒間潜るってターンだったから、先生は必死にもがいている俺の頭を掴んで、そのまま水の中に押し込んだんだ。
あれは本当に死ぬかと思ったよ。先生は頭を上げようとする俺を力でねじ伏せたんだ。十秒経ったら笛が鳴って、そしてまた十秒間水に潜る。このたった三セットの間に、俺は何リットル水を飲んだかわからないね。先生は嗚咽している俺に「遅い」とひとこと呟いて、ようやく俺はプールから上がることができたんだ。
そこから先はもう記憶なんて無いに等しいね。俺のターンになると、先生は俺のところにやってきて頭を掴むんだ。身体に力が入らなかったからそうするしかなかったんだけど、先生は何度も何度も俺の頭を掴んでは水に入れてを繰り返した。最後の方は失神みたいな感じだったよ。
その授業後、俺はプールサイドに横たわってしばらく動けなかった。身体が嫌に暖かくて、息も乱れていたから、あぁ俺はこのまま死ぬんだなって本気で思ったよ。
俺はその時初めて父を恨んだ。水に抵抗が付いてしまったことは、幼少期のあの、父と飛び降りた出来事が関係しているに違いなかったから、俺が泳げないのはアンタのせいだって、朦朧とした意識の中で何度もつぶやいたよ。
そしたらなぁ、ぼやけた俺の視界に、スーッと紺色の人間が近づいてきたんだ。
それが津川だった。授業が終わってただ一人、俺を介抱してくれたのが彼女だったんだ。
津川は俺を保健室まで送ってくれた。それから担任と保健室の先生に事情を説明して、早退するように説得してくれたんだ。
俺は教室に戻ろうとする津川に
「どうしてそこまでしてくれるんだ」
って尋ねた。
そしたらアイツ
「泳げないなら、早く練習することね」
って冷たく言って、保健室から出て行っちまったんだ。
俺はその清々しいくらい率直な彼女の言いっぷりにあっけにとられた。と同時に、クラスの女性にみっともない姿をさらしてしまったという恥ずかしさが徐々に込み上げてきて、俺はすぐ保健室の先生にアイツのことを聞いたんだ。
そこで俺は、アイツが隣町のスイミングスクールに通っていることを知るんだ。
俺はすぐにそこに通おうって決めたよ。なんせ同い年の女子に、面と向かって言葉を掛けられたことなんてなかったから、俺はその時舞い上がっていたんだろうな。いつかアイツを見返してやるってね。
それから一週間後、手続きを終えた俺は、スイミングスクールに通うようになった。小学生から高校生まで幅広い年齢の子が在籍する大きなところだったよ。俺はそこに入れば、津川と泳げるとばかり思っていたんだけど、コーチは俺を見るなり
「水に浮いてみろ」
って言って、仁王立ちで俺を睨んできた。
俺は言われるがままに水に入った。鼓動が高鳴って、頭に血が昇って行くのを感じたけど、プールに入るくらいだったら、なんとかそれを耐えることができたんだ。
けどそれが、水に顔を付けるとなるともうダメなんだ。頭が真っ白になって、足に力が入らなくなる。俺は授業と同じようにその場でもがいた。コーチはすぐに水に入って、俺をプールサイドにあげてくれた。
「まずは水に浮くことからだなぁ」
コーチは優しくそう言った。コーチは大学を出たばかりの、まだ現役の選手だった。
「俺、浮くことできないっス」
「どうして?」
「プールに入ることはできるんですけど、顔に水をつけるってなると何というか……胸が苦しくなるんです」
コーチは真剣に俺の話を聞いてくれた。これは後からわかったんだけど、その時すでにカカから、俺が川に落ちて溺れかけた経験があることを聞いていたらしい。
次の日、コーチに呼び出された俺は受付の奥の部屋に案内されて、そこでアンケートをしてほしいと頼まれた。
「今の気持ちと、ここ最近の気持ち。両方に欄があるから、当てはまったらマル、当てはならなかったらバツを描いていくんだ」
コートの右手には何枚も付箋が貼られたカウンセリングの本が握られていた。
俺のアンケートが終わると、コーチは用具入れから洗面器を持ってきて、それの八文目くらいまで水を入れた。
「ここに顔を入れて十秒間頑張ってみようか」
そう言って、コーチは俺の前に洗面器を置いた。これができないと、プールに連れていくことはできないんだと付け加えて、ポケットからストップウォッチを取り出した。
コーチは心配そうに俯いている俺に
「大丈夫。絶対に死なないから」
と言って、持っていたカウンセリングの本を開き、人間の心配事の九十パーセントは実際に起こらないという文言を読んでみせた。
「じゃあ、残りの十パーセントは起こるってことじゃないですか」
「そうだ。でもたった十パーだぞぉ?それにあと残っているものはなぁ、準備しておけば未然に防げるものなんだよ」
コーチはそれでも心配をし続ける俺に、「行くぞ」と言ってストップウォッチを押した。
それからスイミングスクールに行くたびに、俺は洗面器の前で一時間を過ごした。コーチは他の仕事もあるのに、毎回俺が来る十八時から十九時までは時間を空けてくれて、付きっ切りで時間を計ってくれたんだ。
最初は俺も渋っていたけど、根気よく付き合ってくれるコーチがだんだん申し訳なくなってきて、家の洗面器を使ったり、コーチのいない時間も部屋に残って練習したりしたんだ。
今思えば、どうしてそこまでして泳ぐことに執着したのか不思議だけど、多分心のどこかに、父の記憶をいつまでも引きずっている自分への葛藤が潜んでいたんじゃないかって思うんだ。いつまでも過去に囚われて、自分らしく生きることができていない。それに、当時の俺の境遇からすれば、超えていかなければならない試練とも捉えることができたから、俺は絶対に泳いでみせるぞって、何度も自分言い聞かせた。
スイミングスクールのプールはガラス張りになっていたから、受付の部屋からでも中の様子が分かる。俺はそこから生徒たちの泳ぎを見るのが好きだった。自分は洗面台と向き合って、無様にもがくことしかできなかったから、水中を縦横無尽に行き来する選手たちの、あのしなやかな動きや身のこなしが、当時の俺の目にはすごくカッコよく見えたんだ。いつか俺も、あんなふうに泳いでみたいって、強く思うようになっていったんだ。
スクールに入って二週間経ったある日、俺はいつものように部屋に残って練習していた。
多分あの時は、五秒くらい潜れていたんじゃないかぁ。俺はあと少しなのだからと、励ますコーチの顔を思い出して、何度も何度も洗面器に顔を付けていたんだ。
気が付いたら外が暗くなっていた。プールの閉館が十時だったから、最後に泳いでいた選手たちが皆プールからいなくなって、更衣室からぞろぞろと人が出てきていた。
俺は今日の成果をコーチに報告するためにひとり部屋で待っていたんだ。そしたらな、受付の入り口を通って、津川アキが俺のいる部屋に入ってきたんだ。
津川は俺の前に洗面器が置かれているのを見ると、徐に納戸から桶を出して、そこに水を張って顔を突っ込んだんだ。
驚いて声も出なかったよ。いきなり部屋に入ってきて、しかも桶に顔を埋めるんだからなぁ。
それから長いことを津川は顔をうずめていて、一分くらいたったころに顔を上げて
「何秒だった?」
って目の前の俺に聞いてきたんだ。
俺は時間なんて計っていなかったから、一分くらいじゃないかって答えると、津川は
「じゃあ、今度はちゃんと計ってよ」
って言って、また桶に顔を埋めたんだ。
その時俺は、アイツの本当の性格を知ったよ。自分に厳しくて、負けず嫌いで……とにかく泳ぐことしか考えていないやつなんだ。それから津川は何度も桶に顔を埋めて、何秒?何秒?ってその都度俺に聞いてきたんだ。
それが十分くらい続いて、コーチが目を丸くして部屋に入ってきた時に、俺はドアの横に背の高い男が立っていることに気が付いたんだ。
それがお前の親友の岸本との出会いだった。彼はドアの柱に凭れて俺を睨んでいた。
「もう遅いんだから早く帰りなさい」
俺はコーチに今日の秒数を報告して、津川は岸本と一緒に帰っていった。
あの時の岸本の顔は今でも覚えているよ。表情から憎悪がにじみ出ていたからなぁ。俺に近づくんじゃねぇってね。俺はスクール時代、津川と岸本の噂は幾度となく耳にしてきたけど、アイツらは一様に口を割らなかった。何てったって毎日一緒に帰っていたから、噂されてもしょうがないよ。
だからアイツらが同じ高校に入るって聞いた時は驚いた。岸本はともかく、津川は名門校に入ってもおかしくない実力だったからなぁ。それもこれも、長谷川先生の説得が効いたんだろうな。
ん?ドジョウ?あぁ、長谷川先生のことか。
あの人はすごい人さ。何てったってJOCの選手だったからなぁ。
俺が来る前から、スイミングスクールの外部コーチだったみたいで、うちの学校に赴任することが決まってからは、何度も津川といるところを目にしたよ。あの目には少し邪まな部分があったけど、今の長谷川先生を見る限りだと、まぁ大丈夫そうだな。
話を戻そう。それから一週間後、俺は目標の息止め十秒を達成して、晴れてプールに入ることが許されたんだ。
もちろん、すぐに皆と泳ぐことは許されなかった。洗面器の中とプールは違うからなぁ。
でも俺は、プールにすんなりと入ることができたんだ。それだけじゃない。水に顔を付けることも、そのまま水に浮くことも、出来るようになっていたんだ。
あの時のコーチの笑顔は今でも忘れらないな。コーチは俺の横でずっと見守っていてくれたんだ。大丈夫。もし何かあったら俺がすぐに助けるからって言ってね。俺はそのおかげで水に入れたと言っても過言じゃない。あの時のコーチの真っすぐな指導を、俺は今でもたまに思い出すんだ。水に顔が付けられなかった子供に、根気強く向き合ってくれたあの経験が、いつまでも俺の心の支えになるだろうって、俺はつくづくそう思うんだ。
それから俺が泳げるようになるまで時間はかからなかった。コーチは四種目を終えてくれて、俺はそれを一か月で習得したんだ。
それでも昔から在籍している同い年の選手たちと比べればまだまだで、俺はせいぜい小学校中学年くらいの実力だった。だから俺は、それはもう必死に練習したんだ。早く津川や岸本たちと泳ぎたいって、筋トレも食事量も増やして、とにかく生活のすべてを水泳に捧げたんだ。
けれど俺のタイムは縮まなかった。もちろん、あの年代は成長期で、体の不調が明確に表れやすい時期だったから、一喜一憂していてもしょうがなかったんだけどね。
ある日、何度も俺の泳ぎを見ていたコーチはこう言ったんだ。
「お前、飛び込みやったことあるかぁ?」
「飛び込み?」
「今は壁を蹴って泳いでいるけど、大会なんかになると上から飛び込むんだよ。そのほうがタイムが縮まるからね」
今まで俺はタイムを計る時、壁を蹴って泳いでいたから、最初のスピードが他よりも遅いのだとコーチは言って、俺に飛び込みの仕方を教えてくれたんだ。
「両腕を耳に付けるようにまっすぐ上にあげて、指先から水に入るんだ」
コーチは飛び込み台のところで一度飛び込んでみろと俺に言った。
俺はものすごく躊躇ったよ。水に飛び込んだことなんて、橋から飛び降りた小学生以来だったからね。
もしかしたらその時の光景がフラッシュバックして、着水したら身体が動かなくなるかもしれない。
けれどコーチは、そんな俺の考えをわかったうえで、尚も飛びこんでみろと促したんだ。
あの時は緊張していたから、コーチに理由なんて聞かなかったけど、きっとコーチは俺を信じていたんだと思う。一か月前までは顔に水も付けられなかった男が、それを自力で克服して必死に泳ごうとしている。俺のすべてを見てきたコーチだからこそ、俺が飛び込みで失敗しないことをわかっていたんだと思う。
俺は飛び込み台に立った。足先を先頭に掴んで前傾姿勢を取る。合図が鳴るまで周りは静まり返って、波立つ水のきらめきと、若干の風の音が聞こえる。
その時俺の背後から風が吹いたんだ。暖かくて緩い、微かに硝煙の匂いのする風。
俺はその風に押されて飛び込んだ。いや、飛んだんだよ。
あの時の俺は紛れもなく飛んでいたんだ。
空中で止まっている時間がとてつもなく長く感じられた。俺の眼いっぱいに、水に反射した大きな花火が映っていたんだ。
俺は今でも飛び込み台に立つと、何だか不思議な気分になる。もちろん、それは競技の緊張感から生じる生理的な部分も含んでいると思うんだけど、俺は競技前のあの生暖かい風が、どうしても忘れられないんだ。
あの風は合図が鳴る一瞬に、幾度となく現れるんだ。
俺が初めて飛び込んだその時も、
県総体のあの日も、
インターハイを決めた大勝負の場でも、
必ず背後から現れて、俺を鼓舞してくれるんだ。
そして水の中で俺は父の夢を見るんだ。父と過ごした岸和田のあの一年の夢をね。
俺は身体中に水泡がこびりついて、どこからともなく発生する普遍なエネルギーを感じるままに動かす。そうしていると、プロレスが好きで品がなくて酒癖の悪い、けれど最後まで俺を手放さなかった父のあの胸の中の温もりを思い出すんだ。
そうして気が付いたら、指先が壁に当たってゴールしているんだ。
学校のチャイムが鳴った。夏休みでも、それは鳴り続けるのだなと僕は思って、未だ水面を眺め続けている勝山に
「俺も泳げるようになるかなぁ」
と、言うともなしに呟いた。
「おい、今の話を聞いてもまだ不安なのかぁ?」
「だって俺は、勝山みたいに泳ぐことに執着なんてしてないんだよ。ただどこにも部活に入ってなくて暇だったから、ドジョウと泰翔が勝手に……」
「お前、本当に水泳部に入らないのかよ」
勝山のその言葉を聞いて、僕はハッとなった。思えば僕は、水に流された稚魚の如くここまで来てしまったが、僕の中で泳ぐということは、津川アキと一緒に過ごしたいという邪まな動機に他ならないではないかと思った。
そのくせ彼女に本当の気持ちを伝えることができずに、決断を渋っている状況なのだ。
僕が俯いて言葉を探していると、勝山が口を開いた。
「俺はなぁ、自分がつまらない人間だとか、不幸な人間だって他人に言われるのが嫌なんだ」
だってそうだろぉ?相手は俺の気持ちなんか何にも知らないのに、好き勝手言っているだけなんだからなぁ。
でも俺は昔からそう言われる回数が多かったし、こうやって振り返ってみても、確かに他人より味気ないし、不幸な人生なのかもしれない。
だけどな、少なくとも俺はあの時の、何もせず川に落ちた自分とは違うんだ。
目標をもって水に飛び込むようになったんだよ。
あの時の漠然とした恐怖や不安なんてのは、もう俺の中にはないんだ。
俺はただ自分のために、生きるためにこれからは泳いでいきたいんだよ。
俺がこんな腕になってから、たくさんの人に散々言われたよ。その腕じゃあもう泳ぐことはできないだろうってね。
でも俺は、ここからまた新しく始めていきたいんだよ。
もう一度自分の力で飛び込んでみたいんだよ。
やっと父のしがらみから抜け出して、自由になれたんだからなぁ。
勝山はそう言うとプールに飛び込んだ。
それは綺麗な入水だった。水しぶきひとつなく、彼は水の中へ沈んでいった。
「お前も入れよ。気持ちいいぞぉ」
勝山にそう言われて、俺はプールに飛び込んだ。制服で水に入ったから、帰るまで何を着ようかとか、そんなことはもうどうでもよかった。僕は水中で重くのしかかるワイシャツを脱ぎ、仰向けになって水に浮かんだ。
「どこまでも青いなぁ」
そう言った勝山の右腕は、包帯が太陽に光っていた。
おわり
急進的モラトリアム なしごれん @Nashigoren66
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