第三章

伸びきった雑草が、畦道を走る僕の視界を遮って、危うく水田に落ちそうになる。田舎の夜は明かりが少なく、街灯の多い本通りまではあと少しなのだが、中学時代から使い古している二輪自転車は、ペダルをこがないと明かりが点かないため、僕は前もわからない夜道を勢いよく突っ切った。


夏休みに入ってから、僕は家とプールセンターを行き来する毎日を過ごしていた。県総体の行われた次の日から、僕と津川アキは毎日のようにプールセンターに通い、三か月後の秋季大会に間に合うよう特訓を重ねていた。


県予選が終わってからの二週間は地獄のような日々だった。朝九時からプールセンターが開くので、僕は夏休みを満喫している学生らしき集団に混じって列に並び場所を確保する。彼女は大抵開園から三十分後くらいに姿を現し、それから昼の一時までみっちり泳ぎの指導を受けるのだ。


もちろん、僕は泳ぎなど一度も習ったことなどなく、一二回指導を受けてそのまま有耶無耶にしてしまおうと考えていたのだが、彼女は不格好に水の上でもがき続けている僕を見かねて、有名選手の泳ぎの動画を見せたり、泳ぐ前に体幹トレーニングを入れてみたり、終いには食事トレーニングまで提案しだした。そんな献身的な彼女を前にして、僕は後に引けなくなってしまったのだった。


けれどそんな僕のひと時の楽しみが、彼女がプールサイドのベンチに腰を下ろし、宙に視線を置いて休んでいる姿を見ることだった。トイレと少しの休憩を除いて僕は練習のほとんどを水中で過ごし、彼女にアドバイスや泳ぎ方を教わるときは彼女がプールサイドの側まで近づいて、的確な指示をしてくれる。その時の僕はもう心臓が跳ね上がるような気分で、とても彼女の話など耳に入らないのだが、それでも僕はなんとか視線を彼女の瞳に注いでうんうんと頷くのだ。プールセンターでの彼女は、普段部活で使っている競泳水着ではなく、ラッシュガードのお腹や胸元が開いている、年頃の男子高校生には一種挑発的なものを身に着けていたので、彼女がプールサイドから離れ休んでいる時は、それはもう夢中になって僕はそれを眺めるのだった。


そんな日々を送っていた僕の携帯に、泰翔からメールが届いたのは、七月下旬のやけに涼しい夜のことだった。


泰翔は話したいことがあるから、駅前の公園に来てくれとだけメッセージを残し、僕はコンビニに行ってくると母に告げ、急いで自転車を走らせているのである。

田舎の水田はスズムシとケラが合わさった独特な鳴き声が響いて、自転車が通るたびに音が消え、後ろからまた響き続けているから、僕は速くその一帯から抜け出そうと、ペダルを漕ぐ足に力を入れ前に進んだ。そのせいか、日中酷使している太ももが少し痛んだ。


街灯が多く連なる一般道をまっすぐ走り、コンビニや商店などが多くひしめく駅前の区画に入ると、人の姿もちらほら見受けられた。僕は私鉄駅のロータリーを左に逸れ、五階建てのマンションが幾棟も建っている横道を通り、嫌に広い、けれど砂場とベンチしかない住宅地の公園で自転車を止めた。


泰翔は入口のボラードに手を置いて携帯を眺めていた。僕が「おい」と声を上げると気が付いたのか、傍まで寄ってきた。


「肌、焼けたなぁ」


「そうか?前からこんな色していたと思うけど」


「いやいや全然違ぇよ。それに肩幅もなんだかデカくなった気がするなぁ」


泰翔にそう言われ、僕は練習をするようになってから食事量が多くなり、体重が五キロも増えたのだと言った。


「練習はどうなんだよ?もう四種目泳げるようになったかぁ?」


「クロールと背泳ぎはもう完璧だな。とくに背泳ぎは腕の使い方が上手いって、津川に褒められたんだ。平泳ぎとバタフライは二十五メートルくらいなら泳げるけど、何せ俺にはそこまで続ける体力は残っていないかなぁ」


僕は泰翔に、もし大会に出るのなら背泳ぎ限定で出させてほしいと言って笑った。

泰翔は公衆トイレ横の自販機でジュースを二本買うと、そこのベンチに腰を下ろさないかと言って、一本を僕に渡した。


「そう言えば、お前と会うのも久しぶりだなぁ」


「そうか?この前クラスで会っただろ」


僕がそう言うと、泰翔は休暇明けの終業式は熱が出て学校に行けなかったから、お前と会うのは県総体の観戦以来だと言って笑った。


「俺は二日も続かないと思ったよ。なんせ水泳に興味もなかったヤツが、三か月後の大会に出るために夏休みを返上して練習するんだぜぇ?そんなの、誰が見ても無謀だって反対するよ」


「無謀で悪かったな。でも俺は、思っていたよりも練習が苦じゃないんだよ。もちろん初めて一週間は、家に帰るたびに身体の節々が痛んで、湿布をして寝なきゃいけない日だってあったんだ。けどそれがどういうわけか、ここ二週間で治まったんだよ」


僕は短パンから覗かせた太ももを指さし言った。一か月前までは細くて白かった太ももが、二倍以上に膨れ上がっていた。


「水泳ってのは当たり前だけど、水の中で行う競技だろ?だから普段使わないような筋肉が水中では必要になってくるんだ。お前の言った最初の一週間は、まだ身体が水に慣れていないから筋肉がびっくりしたんだよ。けどそれが、もう一週間するにつれ水に慣れてきて、次の一週間で水中で使う筋肉が付いてくるんだ」


泰翔は、今のまま行けば平泳ぎもバタフライも泳げるようになるだろうと言って、持っていたジュースを飲みほした。


僕は彼と会ってから、不思議な悲壮感みたいなものが常に彼の周りに漂っているのを感じていた。それは僕が、もう三週間も彼と会っていなかったからという、安直なものなのでは決してなく、どこかいつもの彼と違った、憂いたものを漂わせていたため、僕は時折視線を宙に置く彼の横顔や、話の区切りのちょっとした間の取り方さえも、不審に思えて仕方がなかったのである。


僕は隣に座る彼の顔をじっと眺めた。彼はまたどこか遠くの方に視線を置き、口は半分開いていた。


「おい、それでどうしたんだよ。何かあったからこんな時間に俺を呼んだんだろ?」


僕のその問いに彼は何も答えず、黙って光に群がっている羽虫の方に顔を向けた。


「……なぁ」


「なんだよ」


「恋愛ってなんなんだろうなぁ」


僕は驚いてベンチから立ち上がった。今まで彼とは幾度となく会話をしてきたが、そのような悩みを口にしたことは一度もなかった。彼は羽虫が群がっている電柱の一点を深刻そうな表情で見つめていた。そんな彼を眺め、僕はもしかすると、彼と彼女の関係に何か予期せぬ事態が起こったのではないかと危惧したのだ。


「お前……もしかして……」


「あぁそうだ。お前の思っている通りのことが、昨日起こったんだよ」


彼はそう言って笑った。目を線のように細くさせ、何とか口元を上げている彼の、頭上の電柱から差し込む光がより虚しく彼を映していた。


「……そうか」


僕は彼に、何と言葉を掛けてあげればよいかわからなかった。今まで恋愛経験もなく、男女の事柄に関しては無頓着も甚だしいくらいの僕の頭からは、慰めの言葉一つとして浮かぶことはなかった。けれど僕の横に座り、これでもかと笑顔を絶やさないでいる彼を前にしては、僕は声をかける他なかった。


「あんな色物はお前には合わないよ。もっと知的で思慮深いヤツにするべきだったな」

と励ますには図々しいくらいの言葉を掛けて、僕はその後も彼女の内面を批判した。ああ言う男たらしはいつか痛い目を見るのだと、幾分被害妄想の過ぎた持論を並びたてて彼を慰めた。


砂場の横から捨て猫が走り去っていった。彼は電柱に視線を置き黙って僕の話を聞いていたが、またぽつりと

「恋愛って何なんだろうな」

と呟いた。


「何って、恋愛だろ?付き合うことを恋愛って言うんじゃないのかぁ?」


「それじゃあ俺と彼女との恋愛は、もうこれで終わりってことなのか?」


彼は僕を見つめそう言った。まっすぐとした凛々しい彼の目は、とても失恋をしたようには見えなかった。


「……まあそういうところだな。どうだ、もうあんなヤツのこと忘れただろ?」


僕は笑みを浮かべそう言ったが、彼は表情を変えず真剣な口調で

「俺は違うと思うな」

と言った。


「違うって、何が違うんだ?恋愛ってのは男女二人が結び合うことを言うんじゃないのかぁ?」


「だから、それが違うって言ってるんだよ」


彼は声を荒げた。その声に驚いた僕は一瞬背筋をピンと伸ばし、つばを飲み込んだ。


「恋愛ってのは何も付き合うことに限定して使われる言葉じゃないだろぉ?たとえば、俺が一歩的に彼女に思いを寄せていることも恋愛だし、その他にも、アイドルだったり、架空のキャラクターだったり、同性、それに動物とだって、恋をする気持ちは恋愛感情って表現できるじゃないか」


「それは恋愛じゃなくて単に恋してるってだけだろ」


「じゃあなんだ? 片方が好意を寄せていて、最終的に恋が実らなかった小説は、恋愛小説とは言えないのか?」


彼の言葉に僕は口を噤んだ。確かに恋の実らない物語でも、帯にはしっかりと泣ける恋愛小説と書かれているし、一途な恋を他人に語るときでも、僕たちは自然と「恋愛」と言う単語を多用しているではないか。


そう考えると僕は、恋愛と言う言葉の意味がわからなくなってきた。漢字では「恋し愛す」と書くことができるが、そもそも恋することと愛することは同等に扱うべきものではない。けれど「恋愛」はそれを一つの単語として成り立っているのだ。アニメや映画でも、今は恋愛と言う文言が世には溢れているけれど、果たして僕たちは恋愛そのものの意味について本当に理解しているのだろうか。


僕はこれ以上追及すると、文学や言語学に関する途方もない論文を読まないと議論できないのではないかと躊躇って、いつまでも電柱の一点を見つめ続けている泰翔を眺めた。


彼の言う通り、恋愛は単に付き合うと言った意味合いで用いるものではなく、もっと汎用的なものであることは理解できたのだけれど、僕は彼の口からなぜそのような言葉が出てくるのか不思議に思った。


「おい、結局お前は何が言いたいんだよ」


静謐な夜の住宅地に僕の声が響いた。彼はゆっくりと僕の方に目線をやってこう言った。


「つまりな、俺は恋愛ってのはもっと広くて奥深いものだと思うんだ。俺たちみたいな子供が熱く語れるようなものじゃなくて、もっと人間の根源の部分が集約されている、神秘的で敷居の高いものだと思うんだ」


「つまり、それはどういうことなんだよ」


「だからな、俺は心の底からアイツのことが好きだったんだよ。そして俺がアイツにフラれたことも、未だに未練があることも、居てもたってもいられなくなって家から飛び出して、今こうしてお前と話していることも、全部『恋愛』という一つの概念を母体にした、尊くて素晴らしいことなんじゃないかなって思うんだよ」


叫ぶようにそう言った彼の目からは涙が溢れていた。僕は初めて見る友人の号泣した姿に絶句して、どう対処するべきかと慌てたが、彼の悲嘆は無邪気な子供のようにわんわんと叫ぶようなものではなく、今にも消えそうな焚火の残り火が、小さく揺れているようなものだったので、僕は電柱の光に縁どられた彼の泣き顔をしばらく眺めていた。


そうして僕たちは、長い間ひとことも語らずにベンチに座っていた。公園沿いの細い道に自動車が過ぎ去る音がすると、僕は横に座っている彼の顔を何度も覗いては、また視線を下に移した。そうしてまたスズムシの鳴き声が響きわたる公園に、僕と彼との長い静寂が流れるのだ。


僕は彼の言わんとしていることが何となくわかるような気がした。それは、恋愛とは無縁に生きてきた僕にとって、ある種の発見とでも言えるようなものだったから、僕はこの気持ちに驚いて、今すぐにでも彼に打ち明けてもいいとまで思ったが、暗闇に視線を置き、いつまでも感傷に浸っている彼の前では、僕はどうしても口を噤んでしまうのだった。


僕たちの口が開かれたのはそれから十五分経った、二人組の警官に職務質問を受けている時だった。

背が高く、目力の強いひとりの警官は、もう片方を「先輩」と呼び、何やら小声で話していたが、やがて

「もう遅いんだから、早く帰りなさい」

と言って、今回は補導は見逃してやると僕たちに言った。


「こんな夜中に、君たちは一体何をしていたんだい?」


先輩と呼ばれている、小じわの目立ったもう片方がそう聞いたので、僕は咄嗟に

「恋愛についてです!」

と食い入るように言った。


「恋愛?……恋バナか何かかい?」


「違います。そんな簡単にひとくくり出来るものじゃあないんです。森羅万象、人智を超えた、尊くて美しいものなんです!」


警官は僕の声に驚いて顔を見合わせていたが、しばらくすると笑いが起こった。

僕は何がおかしいのかと不思議に思って、隣の泰翔に目をやると、彼も下を向いて静かに笑っていた。


そうして僕たちは、笑顔のまま公園を後にした。彼は僕を家まで送ると言って聞かなかったから、僕は自転車を引いて橋梁を渡った。


「なぁ」


「なんだよ」


「俺さ、さっき一人で考えたんだよ。恋愛とは何か問題の答えを」


「ほぉ。それで結局答えはなんだったんだよ」


僕がそう聞くと彼は足を止め、橋の欄干に手を置いて言った。


「自由に人を想うことさ。誰に指図されることなく自然と、その人のことを考えてしまう。それが不道徳であったり、禁断なものであっても、誰も止めることのできない人間の性を、恋愛って言うんじゃないのか」


彼はそう言うとまたひとりで笑った。下を流れる小川の水面が、真っ白に輝く月を照らして揺蕩っていた。




 毎年八月の第一週に行われる花火大会は、県外からも多くの見物客が訪れ盛大に催される。三千発の花火は種々様々で、川のほとりから眺めるその景色は圧巻だ。


僕は一週間前、練習後の彼女に花火大会に行かないかと誘った。彼女はいつもの端正な表情で、「いいよ」とだけ僕に告げ、そのままバスに乗ってしまった。


取り残された僕はその場に放心し、しばらく真夏の太陽に打たれていたが、次第にうれしさがこみあげてきて、もう身体の痛み何て忘れて勢いよくガッツポーズをしたのだ。


まさか、彼女が僕と花火大会に行ってくれるとは……僕はいつの日か泰翔が語っていた「女をものにするためには生粋の頑固さと忍耐が必要だ」という言葉を、青く光った稲の群がる畦道を自転車で通りながら何度もつぶやいては、赤や黄の火花が浮かぶ藍色の空の下で、僕と彼女が寄り添って眺めている情景を想像した。

そして花火大会当日。僕は十八時に、商店街を少し逸れた先にある神社の前で彼女を待っていた。


境内に並んだ屋台には子供たちが集まっていて、皆手にはりんご飴やヨーヨーなんかが吊るされていた。僕は真っ赤な鳥居の片方の柱に凭れるようして、腕を組んでそれを眺めた。屋台は商店街から五百メートルほど先まで伸びていて、従来のお祭りに出店しているようなイカ焼きや金魚すくいの他に、つみれ煮や味噌焼き団子などの地元色の強い店までが並んでいた。遠くで行われている出囃子の音が風に乗って僕の耳に届くと、それと一緒に甘い味噌だれの香りや芳ばしい肉の風味などが鼻をつついて、僕の頭を魅了する。周りを見渡すと、から揚げとポテトフライを売る店が目に留まった。僕は我慢をしていてもしょうがないのだと心の中で呟き、人の往来が激しくなった屋台通りへと足を進めた。


きっと彼女のことだから、僕がいなくても数分は待っていてくれるだろう。僕は携帯を開き、彼女から何も連絡が来ていないことを確認して、屋台の軒先へと急いだ。道沿いに隙間なく並ばれた屋台の店先には、老若男女問わず人の塊ができていて、僕が歩みを進めるたびに彼らの肩や背中に身体が強く当たった。


ようやく目当ての店先にたどり着いた時には額からは汗がにじみ出ていた。僕は不思議そうな顔で一点を見つめている金髪の中女に、「唐揚げの小をひとつ」と言って、三百円を台に出した。


中女は僕に、もうすぐ新しいのが焼き上がるから、それまで少し待っていてくれと言って、後ろに並んでいた家族連れに接客をしていた。


僕はから揚げ屋の赤のれんの端に居座って、見るともなしに境内の人波を眺めていた。普段なら人の気配すら感じられないこの境内に人が溢れているのは、何だか不思議な光景だと思った。屋台の裏手には木々が密集していて、広がった空き地では玩具を買ってもらった小学生くらいの男の子たちが、声を出して遊んでいた。

僕が中女から唐揚げを貰い、元の場所に戻ろうとした時、二メートルばかり先に見覚えのある顔が現れた。


「津川アキだ」と僕は思った。外国人に似た堀の深い顔立ちに、短い髪。水色の浴衣を着て通り過ぎていった女性は、確かに彼女だった。


けれど僕は、彼女の近くに寄り添って声をかけることができなかった。彼女はいつもの端正な表情のまま、通りの奥の方へと進んでいったが、その隣に、これまた見覚えのある顔が立っていたからである。


それは岸本泰翔だった。右耳に付けられたピアスと、横を刈り上げられた頭髪は、顔が見えなくとも僕には彼だとわかったのだ。


僕は気持ちわるいくらい冷たい悪寒が身体に迫ってきて、どうにも右手に握られている唐揚げを食べる気にはなれなかった。それどころか、目の前の光がぱっと消え失せて、僕の視界がドブ川のようにうす黒くなっていくようにも思えた。屋台横の簡易式ごみ箱から発せられる、甘いのか臭いのかわからない生ものの匂いが立ち込めて、僕の気持ちをより不快にさせた。


僕はなぜ泰翔と彼女が一緒にいるのかわからなかった。もちろん、二人は小学校から互いに面識があり、チームメイトだったから、特段一緒にいることが不思議なことではないのだが、僕は中女から唐揚げを貰い、さぁ元の場所へと帰ろうかと後ろへ振り向いた一瞬、横にいる男を、惚れぼった赤い顔をして妖艶に見つめている津川アキの横顔が目に飛び込んできて、僕はもう夥しい数の見物客の喧騒など上の空だったのだ。


けれど、泰翔が清水ゆみと別れたことはつい最近のことだったし、僕も僕で、何も答えが出せぬまま、有耶無耶な気分で彼女を誘ってしまったことに間違いはなかったから、彼が彼女を祭りに誘ったことについては、何も問題はないのだけれど、僕は津川アキが、僕との約束を放棄して、何の連絡もないまま違う男と行動を共にしていることに、一種胸をえぐられたような失望を感じた。


僕は何だか底知れぬ恐怖が身体の奥からのたうち回って、僕の気を狂わせていくような感がして早く家に帰りたかった。それは家族やカップルが多く犇めく境内に、ただひとり恐ろしい顔をして突っ立っているこの僕の異様さや、人混みの上気した熱風からくる気だるい倦怠感なんかではなく、彼女に欺かれたという事実が、何よりも僕の身体の底を冷たくして、その上から気味の悪い熱を帯びて現れていることに気づいてしまったからだった。


僕はとにかくこの場所から離れようと歩き出した。けれど、どうにも前を進めるような人の数ではなかったし、僕も僕で、足を動かすたびに目の前が暗くなって、意識が遠のいていくような気がした。その度に津川アキのあの、雨の日に身体を触られた一種官能的な行為と、真夜中の公園で、いつまでも電柱の一点を見つめ続けている岸本泰翔の、冷淡でありながらも、目まぐるしく燃え盛るものを灯している眼が甦ってきて、僕は服をびしょびしょに濡らしながら必死に歩いた。


僕が鳥居の前に戻ると、浴衣姿の津川アキが驚いた顔で僕を待っていた。


「大丈夫?具合悪そうだけど」


彼女は心配そうに僕を見つめていた。僕は身体中にのたうち回っていた恐怖が、スッと消えて安らいでいくのを感じた。と同時に、腰に力が入らなくなり、僕はその場に這うようにして倒れた。


そうして僕はしばらくの間、石階段の横に腰を下ろしていた。彼女は飲み物を買ってくるから、そこで待っていてくれと言って人混みをかき分けていった。僕は何だか明瞭とした気分で、彼女に渡されたハンカチで汗をぬぐった。


僕はまたしても、彼女からハンカチを貰ってしまったなと思った。あの雨の日に貰ったハンカチは、家に帰ってもなお、ほんのりと甘い香りがしたが、今手に持っている薄ピンク色のハンカチも、額や首筋に布を当てるたびに夢のような芳しさが鼻の中で踊った。僕は先ほどの悪寒が嘘のように消えて、生気が漲っていく感じがした。それは、妙に冷たい石畳に腰を下ろして、気持ちが落ち着いたからなのではなく、彼女が約束通り、待ち合わせ場所に来てくれたからであった。確かに僕が屋台通りで見た彼女は、水色の浴衣を着て、隣を歩く泰翔に一種魅力的な笑みを浮かべていたことに違いはなかったが、それでも僕は、約束通り夏祭りに同行してくれると言った彼女の行動が、とても嬉しかったのだ。


彼女はスポーツドリンクを二本買ってきて、一本を僕の手に、もう一本を額に持っていった。彼女は僕の隣に腰掛けて、金吒袋から取り出した布を膝に置くと、しばらく横になっていたほうがいいと言った。


「顔色はだいぶ良くなったけど汗がひどいから、軽い熱中症だと思う」


僕は言われるがままに彼女の膝に頭を置いた。どうにも居たたまれない気持ちになったが、額に当てられたスポーツドリンクの冷えた感触は、僕の毛細血管を刺激して頭をより聡明にさせた。何度か深呼吸をしたのち、僕は目を瞑った。境内の賑わった喧噪と、風で揺れる木立のそよぎが鮮明に聞こえて、僕は下にある彼女の柔らかな感触など気にせずに、しばらくうっとりとした心持で転寝をした。


気が付くと空は薄暮になっていた。藍色になった空の端に、うっすらとオレンジ色の雲が伸びていて、僕は長いこと彼女の膝の上で休んでいたなと思った。


「今、何時だ?」


僕は膝から顔を上げると、提灯の薄い光に照らされた彼女の顔を眺めた。


「十八時四十分」


「そうか」


僕はあまり時間が経っていないことに驚いた。頭は一二時間程度昼寝を取ったような聡明な感覚なのに、まだ僕が彼女の膝に頭を付けてから二十分しか経っていなかった。


僕は石階段から腰をあげると、両手を上げ体を伸ばした。何とも清々しい気分だ。僕は横で布巾を畳んでいる彼女に「ありがとう」とお礼を言って、こんなことになってしまって、本当に申し訳ないと詫びた。

「花火、もうすぐ始まるね」


「え?」


「三尺玉の大花火。それを見たくて、今日わたしを誘ったんでしょ?」


彼女は僕の手を取って歩き出した。境内の街灯が二人の背を照らして、石階段に影法師が伸びていた。

彼女は無邪気な子供のようだった。僕は微笑みながら沿道を歩く彼女の、綺麗に結わえられた黒髪の奥に、うっすらと汗がにじんだ白肌がはだけていることに気が付いて、彼女が焼きそば屋の前で足を止めるまで、ひとしきりその首筋を眺めていた。



花火は十九時二十分から始まるので、僕たちは焼きそばや串カツなどを買って、一足先に川沿いの土手に腰を下ろした。


濃紺色の空が一面に広がっていた。屋台の犇めく商店街通りから外れると、仕舞屋の連なる区画が一望できる河川敷に辿り着き、その横を、幅の広い下流の水が、僅かな街灯を映して揺れていた。


河川敷にはまだ人が疎らで、百メートルばかり先に架けられた大橋には人波ができていた。


「あんな場所から見えるのかなぁ」


「どうかな?花火は上で見るのがいいって言うけど、あんなに人が沢山いたら鑑賞どころじゃないものね」

彼女はそう言って笑っていた。


大橋の下には何本もの鉄柱が伸びていて、水面には飛び石が顔を出していた。僕たちのいる土手から下に行くと、街灯のない闇一色だったから、僕は川に足をつけて三脚を構えている、カメラマンらしき人影を見つけると、その献身さに感心した。河川敷の石垣からは若い男たちの声がして、その者たちの僅かな携帯の光から、プラスチックが散乱しているのが分かった。


僕は花火が始まるまで、隣の彼女とひとしきり会話を楽しんだ。連日続いたプールセンターの特訓は、その成果を徐々に現わしていき、僕はたった一か月余りで、五十メートル四種目を泳ぎ切れるようにまでなっていた。


初め、彼女は僕が泳いでいる時、プールサイドのベンチに腰掛けて、見るともなしにレーンを見やっていたが、僕が泳げるようになると、わたしも一緒に泳ぐと言って、並走するようになった。


それから彼女との仲が深まるまで時間はかからなかった。僕が泳げるようになったことが何かのきっかけみたいに、ことが急速に進んだのだ。僕はお盆休み期間も彼女に会いたいと思った。それが明ければ僕も学校に行って、水泳部の全体練習に参加しなければならなかったから、僕と彼女が二人きりで特訓できるのは、もう指で数えるほどしかなかったのだ。


僕はこの花火大会が、自分の中で重大なターニングポイントだと思った。それは入学して一週間足らずで芽生えだした、彼女に対する急速な心の変化だったから、僕は彼女と会うたびにそれが膨れ上がってきて、もうどうにも止まらないような心持で今日まで過ごしてきたのだ。


僕は勢いよく焼きそばをかき込んだ。決心は未だできていないのに、どうにも身体には熱が帯びてきて仕方がなかった。ただ一つ僕の心の中には、この花火大会が終わるころ、何か彼女との進展があってもいいのではないだろうかという展望が漠然とあって、じゃあそれをどうすべきなのかという手段を、悩みあぐねていたのである。


「この河川敷、何メートルくらいあると思う?」


何やら難しい顔をして考え込んでいる僕を見て、彼女は唐突にそう言った。


「確認できる限りだと、二三キロってとこかなぁ。でもきっと、水源は山にあるわけだから、そこから海に繋がる全体を通してだと、数十キロまで及ぶんじゃない?」


「そう」


彼女は微笑んで、毎日泳ぐ距離を計算したら、わたしたちはこの川を行き来するくらいはできるんじゃないのかと言って、水面を見続けていた。


「津川はできるかもしれないけど、俺はまだ無謀だよ。なんせついこの前四種目が、やっと泳げるようになったんだから」


「でも、自分のペースでゆっくりと進めば、このくらいの距離だったら泳げるんじゃない?」


彼女はそう言って、視界の端から端へと両腕を伸ばした。


「二千メートル。九月までに泳げるようになろう」


彼女はそう言って笑った。小さな唇から覗かせた乳白色の歯が光っていた。この時僕は、彼女の浴衣姿を褒めようと考えたが、彼女の腰に巻かれた朱色の帯が、腰から殿部に掛けてのくっきりとした体躯を現していたので、僕は恥ずかしくて躊躇してしまった。


「そういえば関東大会どうだった?」


「そう!それがアイツ、三位に入ったのよ!」


彼女は声を荒げて嬉しそうに言った。

「マジかよ」

僕も驚いて、土手から立ち上がった。


「うん。前日に会ったんだけどすごく顔色が悪くて、出れるかもわからないって言ってたからすごく心配したんだけど、まさか自己ベストを二秒も縮めちゃうとはね」


七月下旬に行われた関東大会は、各県から予選を勝ち抜いた選手たちが集まって、インターハイの出場権をかけて戦う大舞台だ。その関東大会で、勝山明生は百メートルバタフライで三位に入り、標準記録突破こそできなかったが、見事八月中旬に行われるインターハイへの切符を掴んだのである。


「ドジョウなんてすごい喜んじゃって。急いで校長に垂れ幕の発注をお願いしにいってたわ」


彼女は笑みを浮かべながら、三位から六位までは判定で、誰がインターハイに出場してもおかしくなかったのだと言った。


「へぇー。それじゃあアイツ、関東に続いて全国も判定で伸し上がったってわけかぁ」


その時、僕はこのことを泰翔は知っているのだろうかと思った。県総体のあの日、彼は僕の口から勝山の名が出るたびに、どこか茫然で鬱陶しそうな目つきをしていたが、彼はこのことについて、どう思っているのだろうか……


そう考えていると僕の頭に、先ほど屋台通りで見た泰翔の、短く刈り上げられた頭髪と、やけに広い背中が甦ってきて、僕は慌てて波立つ水面に視線を集中させた。


「なぁ。勝山明生ってどんなヤツなんだ?」


僕は不意に勝山明生に会ってみたくなった。夏休みが終われば全体練習に参加できるので、その時に顔を合わせることになるのだが、僕は顔に水を付けれるようになるまで一か月もかかったと言う男が、たった三年の間にインターハイにまで伸し上がった秘訣を、勝山明生本人から聞いてみたくなったのだ。


「うんとね……」


彼女は何か考え事をしていたのか、川に架けられた大橋を一直線に眺めていた。


「アイツは謹厳実直って言うのかな?真面目で努力家で、自分よりも他人を優先しちゃう子なの。でも本当は気弱で寂しがり屋で……」


彼女は大橋を眺めていた。それまで笑みを絶やさなかった彼女の表情から、すっと何かが抜けたような気がした。

僕はその彼女の表情が、つい先ほど通りで目にした、横を歩く泰翔を見つめている、あの淫猥で蠱惑的な目をしていたから、どこからともなく吹いてきた真夏のそよ風に強く打たれたような戦慄が、身体の奥の方から走っていくのを感じた。



打ちあがりのアナウンスが流れると、土手や河川敷からは拍手が鳴った。と同時に、北の空に硝煙を撒いた火薬が打ち上げられ、赤色の火花が墨一色の空に開いた。


地響きのような振動が、僕の胸を強く打った。花火は黄色青色橙色と、色の数を増やして空に打ちあがり、円形のものから星型まで、様々な方向に火花が散っていった。


花火が上がるたびに大橋の方から歓声が聞こえて、少し遅れて火薬の破裂した地響きが起こるから、横にいる彼女は空を一心に眺めながら、時々身体をビクつかせていた。


「三尺玉はいつ頃上がるんだろう」


僕は柳のように空中に枝を垂らした火花を見つめ言った。


「クライマックス。毎年一番最後に打ち上がるの」


「毎年来てるのか?」


「中学に上がる前までは家族と来てたけど、ここ最近は行ってなかったから、三年ぶりくらいかな?」


彼女はキャラクターの顔が映し出された花火を指さして笑った。

僕たちは土手に腰を下ろして、しばらく一面に広がる花火を見やっていた。時々大きな硝煙が風を切って、特大の花を咲かせるような時は、彼女は決まって歓喜の声を漏らして僕に微笑みかけた。


僕は花火が上がっている間、いかにして彼女の手を握ろうかと考えていた。前述のとおり、僕の中でこの花火大会は、一種高校生活のターニングポイントだと自覚していたから、この絶好の機会を逃し舞いと、僕は慎重に時を待っていたのである。

最後の力を振り絞るかのように、何玉もの小花火が一斉に空に上がり、クライマックスの特大三尺玉の打ち上がるアナウンスが河川敷に流れた。


僕は座る位置を変えるふりをして、彼女の隣に寄った。手を伸ばせばすぐにでも彼女を掴める位置だった。


僕が空に現れる花火のタイミングを見計らって、彼女の手を掴もうとしたその時、視界の端にひとりの男が映った。


河川敷の遊歩道のところで、その男は空を見上げていた。周りはカップルや友人らと群れていたから、ひとり佇んで上を見上げている彼がとても目立って見えた。


それは岸本泰翔だった。僕のいる土手からは、彼の顔を鮮明に確認することはできなかったが、恰幅の良い背中と頭の形で、僕はその男が泰翔だとわかったのだ。

すると僕の心に、先ほどまで現れなかった闘争心みたいなものが、徐々に喉元からせり上がってくるのを感じた。それは隣に座り、うっとりとした表情で空を見つめている彼女が、つい二時間ほど前まで彼と行動を共にしていたと言う紛れもない事実を、勢いよく僕に押し付けているような気がしてどうにも目障りだったからだった。僕は彼女が彼を見つけるまでに、早く視界から離れてはくれないかと強く願った。

慰霊のサイレンが鳴った。それはいよいよ三尺玉が打ち上げられる合図だったから、僕は急いで視線を空に移した。


「始まるよ」


右手で団扇を弄んでいた彼女は、首をのけ反らせて上を見つめた。

ボッと低い音が北側に響くと、拳くらいの火の玉が上へ上へと昇って行き、巨大な菊が花開くと、一斉に周りから歓声が起こった。


轟音が僕の胸を打っていた。それは遅れて聞こえる火薬の爆発音ではなく、彼女からのあたたかな温もりだったから、僕は彼女の顔など見ることができず、耳を赤くさせたまま、地平線に落ちる星の線を眺めていた。

ふとその時、僕は滴る星の行方を目で追っていたから、河川敷にたたずんでいる泰翔が目線に入ったのだ。


彼は虚ろな表情で、口を半開きにさせながら空を見上げていた。その姿は、ひと夏の思い出を感じている郷愁さも、空に舞う夥しい星の流れから生じる感動もない、何かを喪失して虚無を感じている人間の哀れもない姿だったから、僕は驚いてしばらく彼から目が離せなかった。


花火が終わっても、彼は銅像のようにその場から動かなかった。僕は不思議に思って彼に声を掛けようとしたその時。

大橋の方から、甲高い女性の叫び声が聞こえた。


僕の周囲からどよめきが起こった。大橋には人の群れが絶えず蠢いて、遠くからでは何が起こったのか確認できなかったから、僕は観衆の一人が、誰かが川に飛び込んだという言葉を聞くまで、しばらく大橋から目線をそらすことができなかった。

次第に救急車のサイレンが聞こえてきて、僕は隣の彼女に

「人が落ちたみたいだけど、大丈夫かな」

と言った。


彼女は僕の問いに答えなかった。ただ大橋を一心に見つめ、僕の手を離さなかった。

「大丈夫よ」


僕が河川敷に目線を移すと、もうそこに泰翔はいなかった。


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