第二章
七月に入っても梅雨の雨模様は抜けなかった。ガラス張りになった天井に差し込む光は僅かで、雷が落ちてきそうなほど、空は灰色一色に染まっていた。
毎年夏に開催される高校総体の県予選は、三日間に渡りこの県民センターのプールで行われことになっていて、僕は開会式がちょうど始まるころに、岸本泰翔と中央の観覧席に腰を下ろしていた。
「お前、本当にドジョウに挨拶しなくて良かったのかよ」
「いいんだよあんなヤツ。それに、俺はもう部員でもなんでもないんだからな」
ゴールデンウィークが明けた頃、泰翔は唐突に水泳部を辞めると僕に言い出した。ドジョウが部の顧問になってから、それまでの和気あいあいとした部の雰囲気が一変して、強豪校のような張り詰まった空気が部には漂っているのだと泰翔は語っていた。
「俺だけじゃないぜ、先輩達だって半分が辞めたんだ。どうせ将来何の役にも立たないのに、土日を返上してスポーツに励むなんて俺にはできないね」
「じゃあ、なんで今日俺を誘ったんだよ。俺は水泳なんてこれっぽちもわからないのに」
僕がそう言うと、泰翔は人差し指を突き出してにやりと笑った。
「決まってんだろ。津川アキがこの大会に出てるんだからなぁ」
「アイツと俺になんの関係があるんだよ」
「あれ?お前アイツのこと好きじゃなかったのか?」
僕は言葉を詰まらせた。あの雨の日からというもの、僕は隣の席の彼女を見るたびに、あの甘ったるい魅力的な香りが鼻にこびりついて、狭い車内で無防備に身体を触られていた記憶が甦ってくるのだ。
僕はそのことを泰翔には話さず、自分ひとりの秘なる思い出として心にしまっておいたのだが、彼が僕の家に遊びに行った際に、机の引き出しにしまっておいた白いハンカチが見つかってしまい、僕はしぶしぶあの日の出来事を語らずにはいられなかったのだ。
「お前、あれ使って何回ヤッたんだよ」
泰翔はそう言って右手を振った。
「知らねえよ」
「知らないわけあるかぁ。俺たちもう高校生だぜ?」
「だから、知らねぇって」
「そうやっていつまでもしらを切るんなら、俺はアイツにチクることだって出来るんだぜ」
「二回」
「嘘だな、お前ごときが二回で済むわけない」
「六回だ。これは本当に本当なんだ」
泰翔はなおも疑った様子で僕を見つめていたが、しばらくして水上のレーンに視線を移した。
「もうすぐ始まるぞぉ」
泰翔は二週間前から他校の女子と付き合っていた。彼が部活を辞める前、水泳部の合同練習で近くの私立高校に行く機会があり、そこで出会った一つ上の先輩と付き合っているのだと、彼は学校の帰り道僕に教えてくれたのだ。
「チームメイトからは清水さんて呼ばれているんだけど、俺はゆみって呼んでるんだ。彼女もそう呼んでくれって言ってるし、なにより付き合っているのに名字呼びはなんか変だろ?」
泰翔はそう言って、飛び込み台の前で身体を動かしている女性を指さした。
「あの子だ。次の試合の第三レーン」
僕は泰翔の指す方に視線を移した。第三レーンの前で腕を伸ばしているその女性は、ピンクと青の線が入った水着に、黄色のキャップをつけていた。ゴーグルをつけていたため彼女の顔はよく見えなかったが、その体躯や身のこなしから、僕は彼女が和風美人に違いないなと思った。
「キレイだなぁ。お前にはもったいないよ」
僕は思わずそう口にしていた。
「そうだろぉ?近くで見るともっと凄いぜ」
「アメリカ人みたいなスタイルだな。でも立ち振る舞いには麗しさがあって……おい、どうやってあんな子と付き合えたんだよ」
僕のその問いに彼は笑うばかりで答えようとしなかった。そして彼は「女をものにするには生粋の頑固さと忍耐が必要だ」と何かの本に書いてあったのだと言った。
「お前だって、いつまでもフリーって訳にいはいかないだろぉ?だから親友の俺が、お前に合う女を紹介してやる」
そう言って、この大会は県内から色々な高校が集まっているから、好みの女子を探す絶好の機会なのだと言った。
「……いいよ俺は」
「なんだよぉ、自信がないのかぁ?こんなこと言うのもなんだがなぁ、お前顔は案外イケてると思うぜ。クラスの中にはお前に好意を持っているやつが、何人かいるんだからなぁ」
泰翔は驚いて顔を赤らめている僕に、舌を出して笑っていた。
「そういうの、俺はまだいいよ。だいたい恋人ってのはまず人を好きにならなきゃいけないだろ?俺はそういうのに、なんとなく疎いんだ」
「ちぇ。これだからドーテーは」
清水ゆみの競技が始まった。彼女は二百メートルの自由形に出場していて、泰翔の語りからすると標準記録を突破してもおかしくないとのことだった。
「標準記録を突破すれば無条件で関東大会出場。突破しなくても、最終的に五位以内に入れば予選を通過できるんだ」
僕はプールのレーンを見やった。スタートの合図がなされ、水に飛び込んだ数人の選手が中腹で顔を出していた。
「おい、第三レーンってあれだよな」
「そうだ」
水面に現れた人の群れの中に、ひときわ突出して前を進んでいる選手がいて、それが清水ゆみだった。黄色のキャップは他を寄せ付けず、そのままコースの端で綺麗にターンし、また身体を水中に潜り込ませ進んでいった。
「圧倒的じゃないか」
僕は自然と感嘆の声が漏れていた。
「ゆみは身体が柔らかいんだ。だから肩の可動域が広くて、常人より多くの水をかきだすことができるんだ」
泰翔は嬉しそうに語っていたが、僕は彼女の速さが、水をかく量のおかげなのではなく、長く伸びた足の力であるのではないかと思った。
彼女は二番目を五メートルも離して壁に手をついた。即座に正面にある電光掲示板にタイムが表示され、驚愕と落胆の入り混じった声が会場を包んだ。
「あちゃあ、運が悪かったなぁ」
泰翔が腕を組みながら言う。
「なんだよ。一番なんだから優勝じゃないのかぁ?」
「さっきも言ったろ?標準記録ってのがあってだなぁ。それを超えないことには次に進めないんだよ」
そう言って、泰翔はあとコンマ七秒手をつくのが早かったら、関東大会に出れたのだと言った。
「練習ではもう少し速かったから、行けると思ったんだけどなぁ。やっぱり彼氏の俺が見ているから、必要以上に上がってしまったんかなぁ」
僕はプールサイドに上がり、チームメイトと話している清水ゆみを見やった。彼女は特段落ち込んでいる様子はなく、両肩にタオルを置いて後輩と思われる女子と楽しそうに話していた。
僕はその彼女の、むき出しになった両太ももの付け根の、ピンクと水色の交わった布の部分を無意識に目で追っていた。
清水ゆみの出番が終わると、泰翔は差し入れを渡そうと言って選手控室に僕を案内した。
関係者でもない一般人が、そんなところに無遠慮に押し入っていいのだろうかと戸惑ったが、泰翔はずかずかと大部屋に入っていき、知り合いと思われる他校の女子生徒と挨拶を交わしたり、差し入れを渡したりしていた。彼が知人と話している間、僕は彼の隣に突っ立って、愛想よく笑っていることしかできなかったが、彼は執拗に僕のことを語り、挙句の果てには連絡先を交換しろと言いだした。僕は仕方なく初対面の女子三人の連絡先を交換し、興味もない音楽バンドについて少し話した。
「おい、もっとおもしそうな顔をしろよ」
彼女たちが去ってから、泰翔は僕に言った。
「そんなこと言ってもなぁ……あれじゃあ会話ってよりひとりごとに近いぞぉ。ずっと自分のことしか喋んないんだから」
「女ってのはそういうもんなんだよ。頑固で自己ちゅーで、でもそれがある時魅力的に見えるんだ。そうなったらもう沼みたいに引きずり込まれちまう」
泰翔はガムを噛みながら、あそこがゆみの控室だと指さした。
泰翔は扉を開け、女子部の主将だと思われる背が高くて髪の短い女に挨拶を交わし右手を上げた。部屋には乾いた塩素と制汗剤の甘い匂いが合わさった、独特な香りが漂っていた。彼女は部屋の突き当りで、先ほどの後輩と一緒にお弁当を食べていた。
「惜しかったなぁ。あと少しだったのに」
泰翔はそう言って、ビニールに入ったゼリー飲料を彼女に渡した。
「ううん、いいの。最初の飛び込みで少しミスっちゃったから。それに今日は、なんだか楽しく泳げた気がするの」
彼女は差し入れのお礼を述べてから、隣の子は学校の友達なのかと、僕は指さして言った。
「こいつは同じクラスメイトで、津川アキのコレさ」
「おい」
僕は小指を立てている泰翔の肩を叩いた。彼は笑いながら「いいやつですよ」と言って、津川アキの順位はどうなのかと彼女に聞いた。
「アキちゃん、今四位よ。ターンの時ちょっと失敗したみたいだけど、それでも一年生ではぶっちぎり」
「おい、聞いたか。もし津川が関東大会に出たら、創部以来の快挙だぜ」
そう言って泰翔は僕に、津川アキは現在四位だから、このまま二つ順位を下げなければいいのだと言った。
「まさかこんなに簡単にいくとはなぁ。ドジョウだって、喜んでるんじゃないのかぁ」
泰翔は、やっぱりドジョウに挨拶に行くべきかなと言って、清水ゆみに場所を聞いたが、あの人は上層部の接待を任されているらしいから、いつ時間が空くのかわからないのだと言った。
「長谷川先生、すごく喜んでいると思う。なんてったってアキちゃんを入れるために、この学校に入ったんだから」
そう言って、清水ゆみは初めて僕の瞳を覗き、笑みを浮かべた。
「アキちゃんのこと、好き?」
「……好きとか、そういうのまだわからないです」
「そ。でもアキちゃん可愛いから、放っておくとすぐに取られちゃうよ」
清水ゆみはそう言って、悪戯っぽく笑った。
「彼女、そんな子じゃないです。最近の女子みたいに、誰にでもついていくようなやつとは違います」
彼女はふざけ半分のつもりで語っていたのに、僕はそれを真に受け止めて、多少力強く彼女に物申したので、二人の間には見えない緊張感が漂っていた。彼女は泰翔に顔を向け、驚いたように唇をすぼめていたが、やがて声を出して笑った。
「それもそうね。アキちゃん、アンタみたいなアホ面の子、好みじゃないもの」
彼女は両手を床について、のけ反るように笑っていた。大きく開いた足から肉肉しい肌が現れていた。僕はその無防備な太ももを眺め、自分の欲望が、彼女に対する言い知れぬ嫌悪感と共に膨れ上がっていくのを感じた。
僕は先ほどの彼女とドジョウについての発言が気がかりで、そのことを泰翔に聞こうと思ったが、彼が別の話題を話し始めたので、僕はなるべく彼女と目を合わせないように、飲みかけのペットボトルをすべて飲み干した。
近くのファミレスで遅い昼食を取った僕たちは、閉会式まで時間をつぶそうと、近くの公園を散策した。
県民センターの近くは緑道になっていて、厚い雲の覆った空から零れる光が、湿ったケヤキの葉を輝かせていた。
僕は泰翔と並んで、ここはどこかのファンタジーに出てきそうだなと言って笑った。
「そう言えば、八月五日に夏祭りがあるの、知ってるかぁ?」
遊具などなにも置かれていない狭い公園のようなところで、泰翔は僕に言った。
「毎年開かれてる花火大会のことだろぉ?何度も行ってるよ」
八月の上旬に、僕たちの町で毎年開かれる花火大会は、川のほとりで数千発の花火が上がる伝統ある夏祭りで、何年か前にテレビで大きく取り上げられたことから、地元住民以外の観光客が大勢訪れる、地域のビッグイベントなのだ。
「お前、津川アキを誘えよ」
「はぁ?」
僕は足を止めて泰翔の顔を見た。彼は微笑みながらも真剣そうな眼差しで僕を見つめていた。
「大きなお世話かもしれないけど、俺はお前が心配なんだ。学校での積極性しかり、さっきの態度しかり。どうもお前は女子を目の前にすると、自分の中で拒絶するような何かが芽生えているとしか思えないんだ」
泰翔はベンチを指さして、あそこに座らないかと言ったが、早朝の雨で湿っている木板は光っていた。
「本当に大きなお世話だなぁ。別に俺は女子が嫌いってわけじゃないんだ。ただなんというか……ああいう馬鹿っぽいノリについていけないんだよ」
僕はそう言って、クラスの女子がしきりに話題にする、アイドルグループのゴシップやスキャンダルがいい例だと言った。
「俺は高校生っていうと、もっと大人なものだとばっかり思っていたんだよ。義務教育じゃないし、身体だって半分は成熟しきっている。なのに頭の方はなんだか退化していっているような、俺はアイツらを見ていると、何だかそんな気がしてくるんだよ」
「だったら、もっと頭のいい高校に行けばよかったんじゃないのかぁ?家から近いって理由だけでうちを選ぶお前も、俺からしたらヤツらと大差ないと思うけどな」
「そういう頭の良し悪しじゃないんだよ、なんとうか……責任感がないって言うのかなぁ、あと数年で大人になるって自覚がないんだよ」
泰翔はしばらく難しい顔をしてうつむいていたが、たしかに、今は法が変わって十八から成人になるというのに、俺も周りも、あと二年で成人になれるとは到底思えないなと言った。
「俺は小さい頃からカッコいい大人に憧れていたんだ。従妹に歳が十も離れた兄ちゃんがいるんだけど、その兄ちゃんが正月にお年玉をくれるんだ。小さいポチ袋に達筆で名前が書かれていて、中にはお金と一緒に手紙も入ってるんだ。内容は彼女ができたとか留学に行ったとか他愛もないもんなんだけど、毎年その兄ちゃんの手紙を読むと感心すると言うか……大人の風格を身にしみて感じるんだ。正直でまっすぐで飾りのない。そんな兄ちゃんを見て俺は思ったんだ。深い知識を身に着けた良識のある大人になってやるってね。だから成人するまでに、この日本っていう国や世界について、もっと詳しくならなくちゃいけない。俺は学校の勉強はからきしだけど、なんだかそっちの分野なら好きになれるかもしれないんだ」
「そっちって、政治や経済のことか?」
「そうだなぁ、政治に経済に日本史に世界史……社会科ばっかりだなぁ」
泰翔は微笑みながら、良識のある大人になるためには、まずは学校の勉強が一番だと言った。
「学校で教わるものは基礎中の基礎だからなぁ。だから大学入試制度ってのはあながち間違ってはいないんだよ。基礎のできないやつに国の未来なんてまかせられないだろぉ?」
「俺はなにも官僚になりたいってわけじゃないんだ。ただ、周りの奴らがもう少し物事について考えて行動してほしいなぁって、そう思ってるだけだからなぁ」
「まぁ、なんにせよ土台の固まっていないやつは上には立てないだろうなぁ」
僕は泰翔と、良識のある人間とは何かともう少し話してみたかったが、僕も彼もそれっきり腕を組み黙り込んでしまったので、僕が先ほどから我慢していた尿意に気が付いて、トイレはどこかと彼に聞くまで、長い時間公園のベンチ横に突っ立っていたのだった。
会場に戻り、入口付近に提げられたアナログ時計を見ると、ちょうど十六時を指していた。
閉会式はもうすぐなのだからと、僕たちはまた観覧席に上がり、最終種目と思われる男子百メートルバタフライの競技を見るともなしに見ていた。
女性アナウンスが第一レーンから選手を紹介しだし、名を呼ばれた選手は右手を上げ、飛び込み台に上っていた。
「おい、今俺たちの高校が呼ばれたぞぉ」
僕は確かに女性アナウンサーが、自分たちの高校名を口にしたのを聞いて、隣でガムを噛んでいる泰翔に言った。
「あれは勝山明生だ。俺たちと同じ一年の」
泰翔はそう言って、第五レーンの飛び込み台に立っている、坊主頭で背の高い、筋肉質な男を指さした。
「速そうだなぁ。俺たちの学校にあんなガタイのいい奴なんていたのかぁ」
「あれでも、中学んときはすごく小さかったんだぜ。ヒョロヒョロで背も百五十くらいで、同じスクールに通っていたけど、全ての競技で俺が速かったなぁ」
泰翔はそう言って、高校入学時に一緒にタイムを計ったのだが、その時はわずかに勝山の方が速くなっていたのだと言った。
「そりゃ、あれだけ背も伸びて筋肉も付けりゃあ速くもなるだろうけど、元が元だからなぁ」
その泰翔の口調に幾分含んだものがあったので、僕は不思議に思って
「なにかあったのかよ」
と聞いた。
泰翔は、合図の笛が鳴り準備をしだす選手たちを眺め、ガムを飲み込んだ。そしてゆっくりと僕の方に顔を向け
「アイツ、もともと泳げるようなヤツじゃなかったんだよ」
と静かに言った。
「入った当初は顔に水をつけるのもダメで、コーチにいつも叱られていたんだ。それが一週間も続くもんだから、もう泳ぐのは諦めてもらおうと思って、コーチが家族を呼んだんだよ。そしたらな、あいつ両親が二人とも亡くなっているんだ。母親は前の男といざこざがあったらしくて、父親は勝山が三歳の頃に亡くなっている。だからアイツは小学校に入る前から里親の元で育ったんだ。おい、このことは絶対に他人に話すなよ」
泰翔は珍しくまじめな口調でそう言った。僕はなぜ、父親の入水自殺が子供の泳ぎに影響するのか不思議に思ったが、あまり深追いするべきではないと思って、だまって視線をプールに移した。
英語のアナウンスの合図と共に最後の競技が始まった。一瞬静まり返った会場に、選手たちが水に飛び込むしぶき音が響いて、それに続くようにして四方から応援の歓声が巻き起こった。
水に入った十人の選手は、それぞれが自分のレーンを一直線に進んでいった。コースロープで区切られているのだから、まっすぐに進むのは当たり前だろう思う人もいるだろう。けれど僕は、静止した状態から華麗に水に飛び込んで、前へ前へと進み続ける選手たちに、ある種の闘争心みたいなものを感じた。それは、隣のレーンを泳ぐ他の選手や、標準記録と言った時間的概念に囚われているのではなく、いかにして己に打ち勝つことができるのかと言う、克己心みたいなものだったから、僕は食い入るようにして見入っていた。
第二レーンの選手が、最初にコースの端にたどり着いた。それに続いて三、七、六、四レーンの選手たちがターンをして進んでいった。五レーンの勝山は折り返しの時点で六位で、二レーンの選手が他よりも半身先を進んでいるのに対して、勝山を含んだ二位以下の四選手はほぼ同率で、なんとも見ごたえのあるものだった。
「ゴールするぞぉ」
僕は二位以下が一直線になっているプールを眺めながら叫んだ。第二レーンの選手が一着でゴールし、電光掲示板にnewrecordの文字が表示された。勝山は何位になるのだろう。せめて二位ではなくとも、五位以内には入ってほしい……僕は今しがた泰翔に聞かされたばかりで、面識もない勝山明生という同い年の男に、自分に打ち勝ってほしいと言う一種の願いみたいなものが、心の底から込み上げてくるのを感じて驚愕した。隣の泰翔は周囲の歓声など気にならないのか、黙って電光掲示板を見つめていた。
しばらくして、全ての選手のタイムが掲示板に表示されたが、競技が終わったと言うのに会場の喧騒は止まなかった。次第に運営らしき人物がアナウンスで、「協議中です」と一言だけ発し、僕は不思議に思って隣の泰翔に
「何かあったのか?」
と聞いた。
「もしかしたら失格者が出たのかもしれない」
泰翔は強弱のない声で坦々と言い、視線は掲示板から逸らさなかった。
観衆のざわめきが切れぬまま四分が経過し、最終順位が電光掲示板に表示された。
勝山は三位だった。ゴールした直後は六位だったのだが、三位までの三人が飛び込みなどのフライングで失格となり、勝山が繰り上げで関東大会への出場権を得たのだった。
「おい、三位だぞ三位。関東大会出場だぞ!」
僕は席から立ち上がって大きく手を叩いた。真横に座っていた女子高生らしき軍団も歓声の声を上げていて、次第にそれが大きな波のようになって会場一帯を包んだ。
「快挙だ。水泳部創設以来の快挙だぞぉ」
水泳部ではない僕がなぜ、見知らぬ他人の快挙に心震わされ、躍起になって手を叩いているのか不思議な気持ちになったが、僕はなぜだか会ったこともない彼に、同胞的な仲間意識を感じずにはいられなかった。僕は隣の泰翔に「ドジョウ、喜んでいるだろうなぁ」と言ったが、歓喜の渦の中でも彼は順位の写った電光掲示板を一直線に見やって、口を開こうとはしなかった。
閉会式の終わった一階受付は人で溢れていた。僕と泰翔は今日一度も顔を合わさなかった津川アキに、励ましの言葉でもかけようと、階段横の柱の正面に突っ立って彼女を待っていた。
「遅いなぁ。もう降りてきてもおかしくないんだけど」
「もしかしたらアイツ、関東大会に出られないからって、泣いてるんじゃないのかぁ?」
泰翔は腕を組みながら、階段を降りてくる選手の顔を眺めそう言った。
津川アキの最終結果は六位だった。彼女の後に泳いだ選手二人が、それぞれ標準記録を突破したことから、関東大会に進むことのできる五人が埋まってしまったのだった。
「それでも俺たちの高校から関東に進むやつがひとり出たんだぞぉ。アイツだって喜んでると思うぜ」
「どうだかな。自分より遅くに水泳を始めて、水に顔を付けれるようになるまで一か月もかかったヤツが、運よく関東大会に進めることになったんだぜ。アイツ苛ついてるんじゃないのか」
泰翔はそう言って、百メートル自由形に出場するはずだった二人の有力選手が、この大会にでは出ていないのだと言った。
「たしかに勝山は速くなったよ。だけどな、本来アイツは関東に進めるようなタマじゃないんだよ。スクール時代は毎回十位以下、高校だって、どこにも声が掛からなかったからうちに来たんだ。そんなやつがなぁ、実力でのし上がってきた奴を差し置いて、上のステージに進むってのは、周りからすると複雑な気持ちなんだよ」
僕が勝山の話をすると、泰翔は決まって難しい顔をする。そして話し終えると口をキュッと閉ざし、どうすることもなく宙に視線を置くのだ。
僕は泰翔と勝山が、過去に何かあったのではないかと思った。泰翔は小学校四年生から、勝山は中学一年から同じスイミングスクールに通っていて、高校に入学するまでほぼ毎週顔を合わせていた、まさにチームメイトといっても過言ではないのだ。そんな仲間とも言えるような奴に、彼はどうしてこんなにも冷たい言葉を掛けるのだろうか。
しばらく腕を組んで黙っていた泰翔が、正面を指さしてポツンと
「あれ、デカいな」
と言った。
彼が指さしたものは絵だった。金色の額縁に入れられ中央に人と思われる物体が描かれているものだった。
「たしかに、大きなぁ」
ソファの置かれた区画の壁に飾られてるそれは、両手を横にしてみても、やや額縁の端には届かないだろうと言った具合の、巨大な絵画だった。
泰翔はしばらくそれを眺めていたが、やがて
「近くに行ってみよう」
と僕に言った。
「あの絵、そんなに気にいったか?」
「まあな」
「へー、お前絵になんて興味があったのか」
「そんなんじゃなくて……なんか引っかかるんだよ」
泰翔はそう言って、絵画の飾られている壁の方へ歩いていった。
近くで見ると、その絵画はより大きく見えた。僕は泰翔と並ぶようにしてその絵画を見入った。
百号のキャンバスの大部分に描かれいるのは一機のプロペラ飛行機だった。けれど飛行機と言っても、頭のプロペラ部分がくり抜かれており、その中に人間が頭を出すようにして入っていた。
人間の頭にはプロペラの羽の部分が付けられ、機体の翼とは別に、胴体に穴が開いていて、人間はそこから両腕を広げていた。
「不思議な絵だなぁ」
僕はプロペラ機になった人間の顔を眺めそう言った。機体の中にすっぽりと身体が入っているので、彼の服装はわからなかったが、胴体に開けられた穴から、薄茶色の背広を纏った腕が二本伸びていた。
「これ、サラリーマンだろ」
「どうして?」
「どうしてって……腕が二本伸びているだろぉ?その腕を覆うようにして茶色の布が描かれているし、手首にはは白いシャツが覗いている。だからこれはスーツを着たサラリーマンなんだよ」
僕はそう言って、ふとなぜサラリーマンがプロペラ機の中に入っているのだろうかと思った。そう言う絵なのだと言ってしまえばそれまでだけれど、機体になってしまったサラリーマンの顔からも、そして絵全体からも、僕はどうにも拭うことのできない悲壮感みたいなものが漂っている気がしてならなかった。
僕がその絵に見入って頭を悩ませていると、隣の泰翔が突然
「あぁそうか」
と呟いた。
「なんだよいきなり」
「これ、本物のプロペラ機じゃなくて遊具だよ」
「はぁ?」
僕は隣の泰翔に視線を移した。彼はどこかうれしそうな表情で
「デパートの屋上なんかに100円で遊べる小さい遊具が置いてあるだろぉ?このプロペラ機は多分それなんだ」
と言った。
「ほら、機体の真ん中を二本の金属が伸びている。これで上部を固定しているんだよ。それに前輪のついた上部や翼の部分に、うっすらネズミのキャラクターが描かれているだろぉ?きっとこれは、もう寂れて使えなくなった屋上の遊具を描いた作品なんだよ」
泰翔はまっすぐ指をさし興奮気味にそう言った。確かに、言われてみればプロペラ機は錆びついていて、胴体の大部分のペンキが剥がれており、どうにも動けるようには思えなかった。
「たしかに、これは本物のプロペラ機じゃなくて遊具だな。でも俺には、使えなくなったようには見えないけどな」
「そうかぁ?この錆の付き方といい、動いたとしても誰も遊んでくれないだろう」
泰翔はそう言って、どこかに題名は書かれていないのかと、絵の周辺を探したが、題どころか作者の名前も見つけることはできなかった。
僕たちは長い時間そのプロペラ遊具のサラリーマンの絵を見入ったいた。辺りは暗くなり、観客や選手たちは帰ってしまったのか、気が付くと僕と泰翔だけがぽつんと立っていた。一階のフロアの照明が灯りだしていた。
「これ、お前だったら何て題にする?」
絵を見入っていた泰翔が、腕を組みながら言った。ときおり視線を階段に投げて、津川アキが降りてくるのを待っているようだった。
「そうだなぁ……『ある屋上の風景』とか?『廃れた遊園地』とかかなぁ」
「なんだよそれ。おかしな題だなぁ」
泰翔はそう言って、プロペラ機を指さした。
「もし作者が、本当に屋上や遊園地の何気ない風景を描きたかったのだとしたら、わざわざサラリーマンなんて描かないだろぉ」
あぁ確かにそうだな、と僕は思った。一般的な風景画なら、中央に大きく遊具を描くことなどしない。周りの風景を事細かに描き、どのような場所なのかと伝えるのが風景画であるだろう。それなのにこの絵は、一面に覆われた雲の端に、微かに薄橙色の光が差し込んで、それをバックに一機のくたびれたプロペラ遊具が置かれ、あろうことかその頭部には人間の頭が付いているのだ。僕は人間の顔を見やった。薄暗い雲と寂れた遊具を抜きにしても、このサラリーマンの哀愁は顔からにじみ出ていた。
「これは使えなくなった遊具を描いているんじゃない。現代の日本人を描いているんだ。朝早くに起きて仕事に行き、残業をして家に帰る。休みなんて惜しまず返上してなおも働く。そして気が付いたら身体が壊れてる。そう言う絵なんだ」
「じゃあ、この絵は現代の風刺だってわけか?働きすぎな日本人の末路を描いているって、そういうわけなんだだろ?」
「まぁそういうことだな。きっとこのサラリーマンは、目が覚めたら病院のベッドの上だったんだ。そして自分の身体が動かないことに気が付く。あぁそうだ、今日は重要な会議の日なんだ。男は点滴の針を抜いて、看護師に無理を言って病院を抜け出す。今日の会議で社運に関わるプロジェクトが決定する、だから責任者の俺が遅刻してはまずいんだ。信号が青に変わって前に進もうとするが、男はその時ようやく自分の足が動かないことに気が付く。今まで何とか無理をしてやってきたが、もうこの身体では動くことも働くこともできない。俺だったらこの絵に『不自由の闘争』って付けるなぁ」
「不自由?」
「あぁそうさ。身体が動かなくなっても、この男の頭には仕事しかないのさ。それでなんとかして仕事をさせてほしいって一種の洗脳みたいに叫ぶんだ。それでも身体の自由が利かないから、男は息が絶えるまでそうやって苦しみ続ける。この絵をよく見てみろ。もし使えなくなった遊具を擬人化して描いているのだとしたら、人間の目が開いているのはおかしいだろぉ?それにこいつは腕を開いていて、今にも空に飛び出していきそうな具合だ。この絵はなぁ、仕事人間になるように洗脳させられて、自分の身体が壊れても、尚も働きたいともがき続ける、そんな人間の哀れな姿を描いている作品なんだよ」
泰翔は息継ぎなくそう話し終えると、くるりと階段の方を見やった。階段の奥から女性の声が響いていた。こちらに近づいていくにつれ、それが津川アキの声だとわかったのは、先頭にドジョウの姿が見えたからだった。
「お疲れ様でーす」
泰翔はドジョウに手を振って小走りに近づいていった。
「いやぁ、まさかウチの高校の水泳部から関東大会にでるヤツが現れるんなんて。ほんとびっくりですよぉ」
泰翔は饒舌にそう言って、おめでとうございますと手を叩いた。ドジョウは嬉しそうに笑いながら、「俺の力じゃないさ、勝山本人の実力さ」と言って尚も微笑み続けた。
ドジョウと泰翔がしばらく水泳の話に花を咲かせている間、僕はドジョウから少し離れた位置で携帯を眺めていた津川アキと目が合い、軽くお辞儀をした。
席が隣同士なのだから、学校に行けば毎日顔を合わせているはずなのに、僕はその時の津川アキの顔からある種の新鮮さを感じた。それは教室では見ることのできない、部活後の、髪を上げた彼女の姿だったから、僕にはそれがとても愛らしくてならなかった。
数分後、なにやら部活の話をしていた泰翔が、こっちにこいと僕を手招いて
「お前、水泳部に入る気はないかぁ?」
と笑みを浮かべ言った。
「たしか、芹口は部活に入っていなかったろぉ?もしよかったら、うちの部に入ってみないか?」
ドジョウもそう言って、うちは特に一年生の数が少ないから、男子はリレーに出れないのだと付け足した。
「無理ですよぉ。俺、水泳なんて習ったことないですし、中学でも何とか五十メートル泳げる程度で……とてもリレーなんか参加できません」
「そうは言ってもなぁ……今日だって、泳ぎを見にここに来たんだろ?なら、少なからず水泳に興味があるってことだよなぁ?」
ドジョウが詰め寄って聞いてきたので、僕は愛想笑いをして泰翔に助けを求めた。僕が見もしない水泳観戦をしようと決めたのは、期末明け休暇を持て余し、読むともなしに新刊小説を眺めている僕を見かねた泰翔が、それならば良いところに連れて行ってやろうと、行先もわからずついていってしまったことに、間違いはないのだが、それでも僕の心には、少なからず津川アキのあの、バスの中で見せた甘い色香が甦って、期待を膨らませていたことは言うまでもないのだ。
けれどものすごい剣幕で、鼻息を立てながら僕に近寄ってくるドジョウを前にしては、とても津川アキを見るために会場に来たとは言えなかった。
僕が愛想笑いを続けながらどうしようかと戸惑っていると、隣の泰翔が笑いながら
「それじゃあ、泳ぎを練習すればいいじゃないか」
と言った。
「お、そうだな。泳げないんなら、誰かにコーチをついてもらうのが一番だ」
ドジョウも名案だと言ったふうに手を叩いて笑った。
「お前、身近に水泳を教えられるヤツ、いるかぁ?」
「そんなヤツいねぇーよ。強いて言うならお前くらいだ」
「そうかぁ」
泰翔は、また何か思いついたのか、不敵な笑みを浮かべて、後ろの津川アキを呼んだ。
「話、聞いていただろ?」
「……うん」
津川アキは表情を変えぬまま坦々と言った。
「なら話は早い。コイツに水泳の四種目、平泳ぎ、背泳ぎ、クロール、バタフライを教えてやってくれないか?」
「おい、ちょっと待てよ」
僕は慌てて泰翔に叫んだ。ぼくはまだ、水泳部に入るなんてひとことも言っていないじゃないか。それに、泳ぎを教えるのなら、何も女子に頼まなくったっていいだろう。しかも、よりによって津川アキに教わると言うのは……僕は想像しただけで身体の隅々が熱くなっていくのを感じた。
「なんだよお前、嫌なのかぁ?」
泰翔のその言葉が、果たして水泳部に入ることが嫌なのか、はたまた津川アキに泳ぎを教わることが嫌なのか、僕には判別できなかったが、僕は彼のその問いに咄嗟に
「嫌じゃないよ!」
と叫んでいた。
「それじゃあ決まりだな。津川。秋季大会までに、芹口を泳げるようにしてやってくれ」
ドジョウは、これで男子もリレーに出れるなと喜んでいた。
僕は無言で突っ立っている津川アキを見やった。彼女は特段不思議そうな顔ひとつせずに、僕の顔を見つめていた。話は僕と彼女の気持ちなどお構いなしに進んでいったが、果たして本当にこれでよかったのだろうかと僕は思った。
その後、予定を知りたいから、いつでも連絡を取れるよにと、電話番号を交換し、それを横から眺めていたドジョウが嬉しそうに
「今日はもう遅いから、どこかで食べていこう。俺のおごりだ」
と言って、この近くに絶品の中華料理屋があるから、そこでささやかな祝賀会をやろうと言い出した。
僕と泰翔はそれを了承し、彼女は家族に連絡をするからと、奥の方に走っていった。
「良かったなぁ。これで津川と仲良くなれるぜ」
泰翔が僕の方に寄ってきて、微笑みながらそう言った。
「良いわけないだろ。本当に……お前も練習に付き合ってもらうからなぁ」
僕が躁急に、けれどまんざらでもないような表情でそう言ったが、彼はその時、なぜか一瞬暗い顔をして
「いや……俺はもういいんだ。諦めたんだよ。色々と」
と言っていた。
僕は何があったのかと彼に聞きたかったが、電話をしていた津川が家族の了承が取れたからと駆け寄ってきて、ドジョウも車を出すから入口で待っていると、小走りで外に出て行ってしまったから、僕と彼との会話はそこで終わってしまった。
「電話長かったけど、本当に行って良かったのか?」
僕は機嫌よく携帯を眺めている津川アキにそう言って、受付を後にした。
「うん大丈夫。お母さん、新入部員が来るって言ったらすごく喜んでいたわ」
彼女は自動ドアから外に出るときに、ちらりと受付台の方を見やり
「この絵、素敵ね」
と小さく呟いていた。
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