急進的モラトリアム
なしごれん
第一章
中学校を卒業してから、僕は近所の県立高校にそのまま入学した。県立高校といっても、僕の入学したところは、運動部が毎年全国大会に出場するほどの有名校で、ひと学年にクラスが八つもある大きな学校だった。そのため、県外からわざわざ部活動をするためだけに、電車で学校に通っている生徒も珍しくなかった。
入学してから間もない頃、僕は同じクラスの岸本泰翔(たいと)と行動を共にしていた。中学が同じで、高校のクラスも同じ二組だったから、僕は自然と彼と話すようになっていた。中学は同じでも、三年間一度も一緒のクラスになったことはなく、互いに顔は知っているものの特別親しい間柄ではなかった。けれど、僕たちは初めて教室に入り、自分の席に座った時から互いに顔を見合わせ微笑んでいた。初対面の生徒が多くいる中で、顔の知っている者がいるという安心感からなのか、僕と泰翔はすぐに打ち解けて、その日は一緒に下校した。
「まさか、お前と一緒の高校に入るなんて夢にも思わなかったよ」
信号が青になるのを待ちながら、岸本泰翔は僕にそう言った。
「俺だって驚いたよ。てっきり岸本は、川村みたいに私立受験をしたと思ってたよ。なんせ俺らのクラスでは、岸本泰翔は頭がいいことで有名だったからなぁ」
「俺は川村みたいに天才じゃないよ。いつも普通に授業を聞いて帰ってから復習をする。それだけのことしかやっていなかったさ」
岸本と川村は、私の中学で一、二を争う秀才だった。学期末のテストが終わると、決まって成績上位者の書かれた張り紙が職員室横の掲示板に張り出されるのだが、入学してから岸本が五位から下になったことは一度もなかった。川村はたいてい一番で、横浜にある有名な集団塾に通っていたらしく、その他にもピアノや体操など、色々な習い事をしていた。卒業式の日に、彼が東京の御三家に合格したと誰かが言っていたので、僕は岸本も川村と同じように、私立の進学校に行ったとばかり思っていたのだ。
「それにしても、なんで俺はこんな学校に入っちまったのかなぁ。部活動が強制なんて、担任のやつ一度も俺に言ってくれなかったぞ」
「この学校は伝統ある部活が多いからね。野球部、バレー部、体操部、陸上部……そのために遠くから学校に通っているやつだって少なくはない。だから、お前みたいに家から近いって理由だけで入ったやつには、この学校は合わねぇだろうな」
そう言って、泰翔はケラケラと笑った。
「俺は家から近いってだけで、この学校を選んだのとは違うぞぉ。この学校はうちの地域で唯一、女子の割合が多い学校なんだ。俺たちの中学は、多くてもクラスに二人か三人だったろぉ? だから俺は女に飢えてるんだ。高校に入ったら必ず彼女を作る。そのためには女子生徒の比率が大きい学校に入学する。これは中学の時からこっそり決めていたことなんだよ」
僕たちの町は、神奈川県の西に位置し、横浜や川崎などの都会から外れた小さな町だった。急行が止まる中規模のショッピングセンターのある駅前が、少し栄えているものの、五分ほど歩けば一面に田畑が広がる田舎町だった。小さい頃からなぜか周りは男だらけで、町に一つしかない公立小学校に通った生徒が、そのまま中学校に上がってくる。そのため、町に住む者はみな顔なじみだった。泰翔は中学一年生の時にこの町に引っ越してきて、駅前の新築マンションから自転車で中学に通っていた。
中学を卒業した者のほとんどは、二つほど離れた駅にある農業高校や工業高校に進学するため、町のど真ん中に建てられた、この県立高校に入るものは毎年少なかった。
「彼女を作るって言ってもなぁ、お前、そんなヒョロヒョロの体じゃあ女なんて寄ってこないぞ。何かスポーツでもして体を鍛えなきゃなぁ」
泰翔は僕の身体を見やりながら、二の腕の辺りを軽く触った。
「ヒョロヒョロで悪かったなぁ。でもなぁ、俺はこう見えても足が速いんだぜ。お前、五十メートル何秒で走れる?」
「七秒五二」
「俺は七秒二七だ」
僕は舌を出して泰翔を睨んだ。
「同じようなもんだろ」
「はぁ?全然ちげぇよ。陸上の世界ではなぁ、レイ点三秒の差は大きいんだぞぉ」
僕はもう一度泰翔を睨んだ。眉まで伸びた前髪が、横長の目にちょうど掛かるくらいで、彼の大きな瞳をより際立たせていた。
僕は物心ついた時からあまりスポーツが得意ではなかった。父親が野球好きだったから、休みの日はよく公園でキャッチボールをしたり、小学校に入ってからは何度もバッティングセンターに通ったりしたのだが、父親は決まって、お前はただバットを振っているだけで球が見えていないんだとか、投げるフォームがおかしい、もっと脚に力を入れるんだとか。まだ小学生の僕に、あまりにも厳しい言葉の数々を投げかけていた。
そんな日が何日も続いたせいなのか、僕は中学校に入ってから野球というスポーツに微塵も興味を抱かなくなっていた。それどころか、たまにリビングで野球中継を見やる父親を眺めては、ただバットにボールをあてるだけの競技が、どうしてこんなにも人々を魅了させるのかとさえ思っていた。だから体育の授業でも、僕はなるべく目立たないように、いつも教師の横で他人のプレイを眺めていた。もしかすると、また父親の逆鱗に触れるかもしれない。スポーツをしていると、どこからともなく父親の怒号が聞こえてくるような気がして、僕は身体を震えさせながら、毎回教師に休む趣旨を伝えるのだった。
泰翔が中学生の時、運動部やスポーツの習い事をしているという噂は、一度も耳にしたことはなかった。僕たちの中学では毎月のように学年でレクリエーションが催され、クラス対抗でドッジボールをするのが恒例になっていた。クラスは三つしかなかったから、僕の一組と泰翔の三組は何度も試合をしていた。三組はバスケットボール部に通っている生徒が多く、反対に僕のいる一組はサッカー部に所属している子が多かった。泰翔は逃げ回るのが得意で、いつも球の速い生徒のボールを二、三度かわすのだが、始まって五分くらい経った頃に、不意に投げられた緩い球にあたって場外に出ていた。
「お前はどこの部活に入るん?」
水路の上を歩いていた泰翔が、真剣な眼差しで僕の顔を覗いた。
「とりあえず、サッカーや野球はなしだな。中学からやっていたやつに勝てっこないし、俺は体力がないから、陸上競技も無理だな」
「走らないスポーツなんてあるのかよ」
泰翔は不思議そうに言う。
「そりゃあるだろ。剣道とか、柔道とか……それに空手だって走らなくていいだろぉ?」
「お前、空手なんてやったことあるのかよ」
「いや、初めてだ」
僕は恥ずかしそうに笑った。その様子を見て泰翔も笑った。
「実はなぁ、俺は入る部活もう決めてるんだぜ」
泰翔はいきなり真顔になり、前を向いた。
「マジかよ。お前やっぱりスポーツできたのか」
「まぁ少し齧ってた程度だけな」
泰翔は人差し指で鼻先を軽く擦りにやりと笑った。
「お前が運動部に入るんなら、俺もそこに入ろうかなぁ……」
「おうおう、そりゃあ大歓迎だよ。俺だって、知り合いのいない場所に一人で飛び込むのは心細いからなぁ。芹口が入ってくれるんなら心強い」
泰翔はいきなり僕の首元に腕を巻き付けて、嬉しそうに笑った。
「まだ決めたわけじゃねぇからな。それで、その部活って何をするんだ?」
僕がそう尋ねると、泰翔は両腕を前に伸ばし、ゆっくりとそれを耳の後ろに持っていった。
「水泳だ」
泰翔は腕を上へ伸ばしたまま、水に飛び込むように地面を蹴った。
僕が津川アキを気になりだしたのは、高校を入学して一週間経ったある数学の授業でのことだった。
数学の担任は長谷川という若い男の先生で、春なのに薄いTシャツ一枚と半ズボンの体育大学を出たばかりのスポーツマンだった。
「今日から整数の性質に入るぅ。教科書の十八ページィ」
いつもの長谷川の低い声が教室に響いた。一メートル九十センチも背に、厚い筋肉が浮いていた。普段は無口で授業以外のことについて語ることはめったにないのだが、寝ている者や私語の多い者には「おい」と低い声で叫び睨みつけてくるので、皆怖がって数学の授業だけは他よりも真面目に取り組むようにしていた。
そのため生徒からはあまり好かれていないようで、皆彼のことを陰では「ドジョウ」と呼んでいた。背が高くて肌が黒いから「ドジョウ」なのだ。若い男の先生ともなると、大抵は授業終わりに何名かの女子生徒が教卓に群がり、軽くおしゃべりを始めるのだが、ドジョウは授業終了のチャイムが鳴ると同時に、教科書と名簿を持って即座に教室から出て行ってしまう。どんなに内容が難しくて、授業後に質問が出るだろうと思った時も、チャイムと共にドジョウは廊下に出ているのだった。
「あいつ給料泥棒だな」
昼休み、僕の机にやってきた泰翔が呟いた。
「別に泥棒ってわけじゃないだろぉ、ちゃんと授業はしているんだから」
「それでもすぐに行っちまうってことはないだろ?授業のペースも早いし……もっとわかりやすく教えてくれなきゃわかんねぇよ」
「まだ赴任して一年目だからなぁ、慣れてないんだろ」
確かに、ドジョウの授業はわかりづらかった。授業が始まると、黒板に問題文を書き写し、その都度生徒の解かせるのだが、例題などを解かずにそのまま問題に入るので、初めての単元だと予習をしていなければ絶対に溶けないものが多かった。授業中、ドジョウに指された者は黒板に答えを書きに行くのだが、クラスのほとんどの生徒が答えられないため、次第に当てられるのは学級委員と成績の良い者だけになっていた。
「なんにせよ、俺はあいつが嫌いだ。昔からな」
泰翔は頭を掻きむしりながら、来週が期限のレポートを睨んだ。
「きっと何か理由があるんだよ」
僕は泰翔の昔からという言葉が引っかかったが、きっと何かの間違いだろうと思って、教壇横のドアガラスを眺めた。ちょうど廊下を移動するドジョウの姿が見えた。
放課後、僕は明日までに提出しなければならない物理のレポートに苦戦していた。それは難関大学の過去問を改題したもので、一人では到底解けそうにない課題なのだが、なぜか僕は、入学してまだ三回しか受けていない物理の授業がこの上なく面白いものだと感じていたのだった。
教室には僕を含め五人。学級委員の水野と、いつも固まって動いている女子生徒三人が、後ろの席でおしゃべりをしていた。僕と水野のいる前の席と、彼女たちのいる後ろの席はさほど離れていないため、彼女たちの裏話が嫌でも耳に入ってくるのだ。僕はその声に鬱陶しくなり、図書室にでも行って課題を終わらせようと椅子から立ち上がった時、ドアからドジョウが入ってきた。
「先生おそーい」
「すまんなぁ、予定よりも会議が長引いたんだよ」
そう言ってドジョウはチラッと僕を見やると、黒板に今日解いた問題を書き始めた。
「先生。十九ページの問い三について質問したいのですが」
ノートを開いた水野がそわそわしながら言った。
「あぁわかった。この問題が解説し終わったらそっちも教えてやろう」
ドジョウは僕たちを背に、チョークで丁寧に問題文を書くと、いつもの峻厳な面立ちで振り返った。
「いいかぁ、まずこの二つの数字を自然数mとnに置き換えて考えるんだ。そうすると……」
僕はただ呆然と教室に響くドジョウの発生と、黒板に打ち付けられるチョークのコツコツとした振動を聞いていた。普段は厳格で決して笑わないドジョウの顔に、薄ら笑みが浮かんでいた。ドジョウはその後も授業の解説を続け、話す合間に飛んでくる生徒の質問にも丁寧に対応していた。その時、僕は長谷川という体育大学を出たばかりの男が、不器用なだけで生徒思いの、規律ある数学教師だということを初めて感じ、彼に対する今までの考えがひどく恥ずかしいもののように思えた。僕はまともに彼の顔を見ることができず、黙って課題を解いていると、
「芹口は物理が苦手なのかぁ」
ドジョウは僕のノートを指さし間違った式を訂正するよう言った。
「物理の先生は青木先生だろ?また無茶な問題を生徒に出したなぁ。いいか、この問題は発想は難しいけど、計算までたどり着けば大したことないんだ。最初にこのNを求めてだなぁ、次に……」
短く刈られた黒髪に汗が湧き出ていた。そんな彼の横顔を眺めていると、多少おおざっぱで気の短く感じられるところも、なぜだか僕は受け入れてしまうのであった。
その日から一週間たった月曜日。僕は課題をするために教科書を家へ持ち帰ってしまい、学校に持ってくるのを忘れてしまった。本来なら授業開始前に教科担任に事情を説明しなければならないのだが、生憎ドジョウは、チャイムと同時に教室へ入り、いつものように厳しい口調で「起立」と言ったのだ。
授業はすぐに始まった。今日から始まるテーマとページ数を口にしたドジョウは黒板に問題を書き始めた。ドジョウが黒板に向かっている間、生徒たちは宿題の答え合わせをすることになっていて、今日は週明けの提出日だったから、それぞれ自分のノートを眺めては、何か抜けているところはないか、もう少し色を付けてわかりやすくしてみようと、必死になって見入っていた。僕はそんないつもとは違う、言い知れない緊張感の漂った教室の雰囲気に圧倒され、なかなか教科書を忘れたという言葉を発せず、きょろきょろと周りを眺めては、何をするのが最善かと思考を巡らせていた。ドジョウが問題を書き終えれば、彼は教科書を読めと言ってくるに違いない。もしそうなれば、彼は僕を指名してくるかもしれない……
ドジョウの書く文字が、黒板の右側に移りだし、僕は決断に迫られていた。素直に忘れたことを言うべきか、それともこのまま貫き通すのか……
不安になった僕は、隣の席の津川アキに声をかけた。
「教科書、見せてくれない?」
彼女は僕の声に気が付くと、チラッと横目で見やりながら、僕の方に自分の机をくっ付けてきた。
「ありがとう。ほんと助かる」
僕は小声で彼女に感謝し、机の境目に置かれた教科書を何食わぬ顔で眺めた。
「では、問題を解く前に教科書を読んでもらいましょう。今日は四月二十一日だから……」
黒板に問題を書き終えたドジョウは、そう言って教室を一望した。
目を合わせると当てられる。僕はノートを写すふりをして、視線を下に逸らし、ドジョウが他の生徒の名前を口にするのを待った。
「おい津川ぁ」
「はい」
不運なことにドジョウは津川アキの名を呼んだ。
「お前、教科書忘れたのか」
ドジョウのどす黒い声が教室に響いた。まずいことになった。僕は早く忘れた趣旨を話そうと、席を立とうとした。
「はい。教科書を忘れてしまったので、隣の人に見せてもらおうと思いました」
津川アキは冷静にそう答えた。目線はドジョウから一時も逸らさず睨んでいた。窓ガラスから射した麗らかなる光が、彼女の整った目鼻をより凛々しく現わしていた。
「立て」
「はい」
彼女は堂々と立ち上がった。視線はドジョウの、怒っているのか判別がつかない薄暗い眼孔に注がれていた。
「どうして教科書を忘れたんだ」
「課題を行うために家に持ち帰り、そのまま忘れてしまいました」
「バカ野郎」
ドジョウが叫んだ。張り詰めた空気が教室に漂った。
「お前、あとで職員室に来い」
「はい」
「あと、今日はお前、泳がなくていいから」
「はい、すみませんでした」
彼女はそう言って頭を下げ、ドジョウは何も言わずそのまま授業を進めた。
「ごめん。俺のせいで怒られて」
授業後、僕は彼女に頭を下げ、ドジョウに怒られたことを謝った。
「ううん、いいの。わたし、今日は何だか泳ぎたい気分じゃなかったから」
その言葉で、僕は彼女が水泳部であることを初めて知った。
「部活、水泳なの?」
「うん、そう」
その彼女の発言が、おおよそ先ほどまで叱られていた人間が発するものではく、空っとした凛々しいものだったので、僕は咄嗟に
「俺も……俺も水泳やろうと思ってるんだぁ」
と言った。
「水泳、やったことあるの?」
「中学の時、授業で少しだけ」
「何メートル泳げるの?」
「五十メートル、クロールで泳いだことがある」
「そう。じゃあ無理だね」
彼女は冷たくそう言うと、ロッカーの方へ行ってしまった。
「なんだよ。まだ入るなんてひとこともも言ってないじゃないか」
僕はその場に立ち尽くしたまま、次の授業の準備を始める津川アキの、短い後ろ髪を見つめていた。
「津川アキ。中学三年時に二百メートル平泳ぎで全中出場。関東大会は五位入賞」
振り返ると泰翔が立っていた。どうやら後ろで僕と彼女の会話を盗み聞ぎしていたらしい。
「アイツのこと知ってるのかぁ?」
「あぁ、同じスイミングスクールだったからな」
泰翔は小学四年生の時に、津川アキと出会ったのだと言った。
「知り合いがクラスにいるんなら、もっと早く教えてくれよ」
「なんだぁお前、もしかしてアイツに気でもあるのかぁ?」
「そんなんじゃねーよ。ただ珍しいなって」
「なにがだよ」
泰翔にそう言われ僕は咄嗟に
「アイツ。手首に水色のミサンガをしてる」
と言った。
僕は先ほどの授業中、机の境目に置かれた教科書を見やるふりをして、差し込んだ陽光に照らされ光っている彼女のミサンガを、ずっと眺めていたのだ。
「今、あれが女子の間で流行ってるんだよ。付けたら願い事が叶うって」
「願い事ってなんだよ」
「さぁな。泳ぎが速くなりますようにとか、リラックスできますようにって類じゃないのかぁ」
「なぁ、アイツに聞いてきてくれよ」
「はぁ?」
泰翔はうんざりとした顔つきでそう言ったが、足早にロッカーへと歩いていき、津川アキと話していた。
「特に意味はないけど、綺麗だから付けてるんだってさ」
僕の席に戻った泰翔はそう言うと、今日の練習は百メートルを四十本も泳ぐのだから、俺も練習を休みたいと言いだした。
「ドジョウのヤツ、ああ見えて学生時代選抜だったんだよ。オリンピックの有望選手で、大学は東京の名門に行って、二年間オーストラリアに留学してたんだ。でもその最中に事故に遭ったらしくて、リストから外されたんだ」
その後ドジョウはコーチに転身し、同大学の水泳部で二年連続金メダリストは排出させ、俺たちの高校に赴任してのだと言った。
「この学校は強い部活が幾つも存在するけど、水泳部はそこまでなんだ。最後の県総体で良くて十位以内。インターハイなんて、一度も出たことない。だから俺は水泳部に入ろうって決めたんだ。規則が緩くて楽しく泳げると思ったのに、入ってみたら地獄だよ。練習はきついし、フォームが汚いって何度も罵られるしで、もう散々だよ」
「そんな学校にどうしてドジョウが来たんだぁ?仮にも元有望選手だろぉ?そこら辺の強豪校から声なんていくつもかかるはずじゃないか」
「そうなんだよ。だから俺も不審に思って色々調べたんだ。そしたらなぁ……」
「あぁ……」
泰翔はそこまで口にして急に声を潜めた。
「ドジョウと津川アキ。どうやら昔から互いに面識があるらしいんだ」
泰翔はそう言って、にやりと笑った。
「そりゃそうだろ。彼女はこの地区じゃ有名人なんだろ?ドジョウと大会で顔を合わすくらい、別におかしなことでもない」
「それがアイツ、本当は中学で水泳を辞めるはずだったんだよ。だからうちみたいな無名の高校に入ったんだ。が、どういうわけか俺が部活に入った時、もうアイツはプールで泳いでたんだ」
僕は彼の言っていることが、特段おかしいことだとは思わなかった。十五歳の人間なら、気が変わることだってあるだろう。しかもオリンピックの有望選手がコーチとして見てくれるのだ。一度諦めた夢も、彼となら成し遂げることができるかもしれない。彼女はそう思って水泳部に入ったのだろう。
僕はそのことを泰翔に話すと
「そんなはずはないね。俺はアイツの口からちゃんと聞いたんだ。高校で水泳はやらないってね」
と言って、彼は自分の席に戻っていった。
入学してから早々と一か月が過ぎ、学年遠足が終わると、雨の日が続くようになった。
梅雨に入ったのだから、予期せぬゲリラ豪雨や通り雨は仕方ないと思っていたのに、今日に限って僕は傘を持っていなかった。
学校から家までは自転車で十分ほどなのだが、それは民家の小道や畦道を使って、なんとかショートカットしての距離だったから、ザアザアと雨の降る今日のような天気では、到底自転車で帰る気にはなれなかった。
仕方なく僕は、学校の門を下ったところにあるバス停まで走り、標識の下にある路線図を見やって、自分の町内を通りそうなバスを探した。
バス停には僕の他に、同じ一年生だと思われる女子の団体と、背の高い、いかにも運動部と言った恰幅のいい二人組の男が並んでいて、傘をさしていた。
僕は路線図から最寄りの停留所を見つけると、その上の時刻表を確認して最後尾に並んだ。田舎のバス停は駅前とは違って、雨をさえぎる屋根がついていないから、僕は両手でバッグを持ち上げて頭上に持って行った。落ちた雫がバッグを伝い僕の頭に垂れるので、さほど変わらない気もしたが、ずぶ濡れの状態でバスの中に入るのは、なんだか非常識のようなだと思い、せめて髪だけでもと僕はバッグを持ち上げ続けた。
バスは一向に来なかった。雨の日は道路がぬかるむから、遅延することなど当たり前なのだが、僕がバス停に衝いてから、もうかれこれ二十分が過ぎようとしていた。
雨は次第に勢いを増していった。僕はバッグを下ろし前髪をかき上げた。腕が上がらなくなったのだ。降り続く雨がアスファルトを跳ねて、来る気配のない通りにパラパラとこだます。僕は濡れて重くなったワイシャツの袖をこすった。あと何分待てばバスに乗れるのろう。頭からつま先まで雨に濡れ冷え切っているのに、身体の芯の部分はなぜだか熱かった。
その時、僕の周りに雫が落ちてこなくなった。初めは頭上に落ちる雨の感覚さえも無くなったのかと思ったが、上を見上げるとそれは大きな傘だった。
僕がそれに驚いて後ろへ振り返ると、傘を持った津川アキが僕を見つめていた。
「これ使っていいよ」
彼女はそう言って、持ち手を突き出してきた。
僕が無言でそれを受け取ると、彼女は僕の隣に近寄って、カバンの中から折り畳み傘を出した。
彼女はそれを開くと、距離を取るようにして僕の隣に並んだ。
そうか、彼女もバスに乗るのだなと僕は思った。彼女の左肩に掛けてあるショルダーバッグは藍色の文字で「水泳部」と書かれていて、僕はその中に彼女の水着が入っているのだなと思った。
けれど、今日は昼頃から雨が降り出して、水泳のできる天気ではなかった。学校のプールは僕たち教室がある一般棟の裏にあって、帰り際にそこを通ると、必ずと言っていいほど人の気配がするのだが、今日は雨のせいで閉まっていた気もした。泰翔は、うちの部活は十一月から四月までを近くの温水プールで、五月から十月までは学校のプールで練習をするのだと言っていた。
その泰翔は、今日は用事があるからと、ホームルームが終わるとすぐに教室を出ていってしまった。
僕はもう一度「水泳部」と書かれたショルダーバッグを見やった。先ほど彼女が僕の傘に入った際に、ほのかに甘い香りがしたが、果たしてそれは制汗剤の香料なのか、それとも彼女から発せらる自然なものなのかと考えた。
そうしていると、道路の端からバスがやってくるのが見えた。ようやくだな。僕は雨粒にまみれた腕時計を見やった。到着時刻より三十分も遅れている。運転手はアナウンスで「大変遅くなり申し訳ございません」と言って、僕は車内に入った。
車内の座席は全て埋まっていて、後ろの方に立っている客が三人ほどいた。僕は傘を畳んで車内の前の方へと移動した。優先席と運転席の真ん中あたりで僕も彼女もつり革に摑まった。
運転手はもう一度遅れたことをアナウンスで詫び、バスが発車した。
僕は後ろにいる彼女を見ることができなかった。顔を合わせても何も言葉が浮かばないし、彼女のキリっとした面長の目を見ると、たちまち鼓動が速くなる気がしたからだった。
バスはのろのろと前を進んでいった。車内はひっそりとしていて、窓ガラスに打ちつけられた雫がカーテンのように外を覆っていた。
バスが停留所に止まり、ドアから学生が二人入ってきた時に、彼女が僕の肩をたたいた。
どうしたのだろうと思って振り返ると、彼女はハンカチを突き出していた。
「これ」
「ん?」
「使っていいよ」
僕は狐につままれた顔で、彼女からハンカチを受け取った。
ハンカチは真っ白で、両端に薄桃色の刺繍がなされていた。
僕は彼女の行動が理解できず、そのままハンカチを持って立ちすくんでいると、彼女は僕の手からハンカチを取ると、そのまま腕に手をまわした。
「首、下げて」
僕は彼女の言われたとおりに身体をくの字に曲げ静止した。
彼女はハンカチを持った手で僕の頭を拭き始めた。ハンカチは決して薄くないのに、彼女の手の感触が伝わってきて、僕は何とも言えない幸福に包まれた。
僕はそのまま下を向き続けた。そうしていると、僕の立っている場所に水たまりができていて、そこでようやく僕はびしょ濡れのまま車内に入ったのだと思い出した。
確かに、真横の優先席に座っている老婦人は、「やあねぇ、こんなに濡れて」と言わんばかりに僕を睨んでいたし、彼女はバスに入った頃から妙に落ち着きがなく、僕の様子を窺っている気もした。
だから彼女は自分のハンカチを使って、身体を拭いたらどうだと僕に提案したのだ。けれど自分が濡れていることに気が付いていない僕は、彼女の提案を無視し、ただ立ちすくんでいたので、見かねた彼女が自分から僕の身体を拭いてくれたのだ。
彼女は頭からハンカチを離すと、腕を前に出してくれと言って、僕の腕に手を掛けた。
彼女のハンカチが僕の腕で踊る。長袖のワイシャツは生地が薄く、到底ハンカチ一枚程度では水を吸いきることなどできなかったが、彼女は僕の手と手首を丁寧に拭いてくれた。
僕は彼女に身体を拭いてもらっている間、絶え間なく鳴り続ける鼓動を聴いていた。同い年の異性に身体を触らせることなどなかったし、目の前で懸命に水を拭きとっている彼女の、白のワイシャツから透け出た紺色の上衣が、雨に濡れ冷え切った僕の身体を熱くさせた。
そうか、彼女は持っていた傘を僕に貸し、代わりに小さい折り畳み傘をさしていたから、吹き荒れる風雨から身体を防ぐことができなかったのだと僕は思った。
彼女は僕の腕を拭き終わると、ハンカチを前に突き出して
「後は自分で拭いて」
と真顔で言った。
「これ、明日洗濯して返すよ」
「ううん。それあげる」
彼女はそう言って首を横に振った。
「いいの?」
「うん。家に沢山あるから」
彼女は傘も持って行っていいと言ったが、僕はバス停から家まで近いから大丈夫だと言って、ハンカチだけポケットにしまった。
「家、この辺なの?」
「うん。あと二つ先」
彼女は僕の家より北の、隣町との境にある地名を言った。
「芹口君は家どこにあるの?」
彼女がそう聞いたので、僕は最寄りの停留所の名を言った。
「あっ」
「どうしたの?」
僕は最寄りの停留所が、もう遠に過ぎてしまったことに気が付いた。バスなどあまり使ったことがなかったから、自分の最寄をすっかり忘れていたのだ。
僕は彼女に身体を拭いてくれたお礼を述べてバッグを背負った。
「本当に傘。持ってかなくて平気?」
「うん。大丈夫だから」
僕は扉を閉めようとする運転手に降りますと告げてバスを降りた。雨は先ほどより弱まっていたが、次第に僕の前髪から雫が垂れ始めた。
信号で止まったバスが発進するまで僕はずっと雨に打たれていた。そして先ほどの車内で、一方的にに彼女に身体を触れさせていたことを思い出した。
僕は家の方角へ歩き出した。途中大きな橋があって、下では濁流した黄土色の水が、河原を打ちつけていた。
僕は徐にポケットからハンカチを取り出しそれを眺めた。水分を含んだ白いハンカチは重く、もう身体を拭くことなどできなくなっていた。けれど僅かに甘ったるい香りが僕の鼻をつついた。
その時初めて僕は彼女から漂っていた香りが制汗剤やフェロモンの類などではなく、フローラルな柔軟剤の香りだとわかった。
僕は橋の中央でハンカチを鼻に押し付けた。未だ止みそうにない雨に打たれながら、僕はしばらくそうしていた。
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