手紙

トム

手紙



 ――今はまだ。



 

 見上げれば空は鈍色にびいろに曇って、所々に黒く墨が混じって見える。ジャリジャリと足元に敷かれた砂利を踏みしめながら、『喫煙所はこちら』と書かれた看板を頼りに、建物の裏側に回り込む。そこは衝立があり、屋外だというのに窮屈そうに何人かの人間が犇めくように集まって、紫煙をくゆらせていた。



孝宏たかひろ……」


 ふと、そんな集団の中から、俺の名を呼ぶ声が聞こえ、そちらを見やる。皆同じ様に墨色の服装だ、その声だけでは見分けにくく、つい、凝らした目線がきつくなってしまった。


「こっちだ、ここ」


 そう言って声の主は黒い集団から抜け出して、こちらに小さく手を上げながら歩み寄ってきた。


「……あぁ、籐咲とうさきさんでしたか」

「あぁ、久し振りだな……6年振りか」

「……でしたかね、すみません。最近は研究室に籠もってばかりで」

「あぁ、良いんだよ、気にしてない。……でもお前、辞めたんじゃなかったのか?」


 そう言いながら、彼は手に持った加熱式の煙草の器具を、こちらに見せてくる。


「……長続きしませんでした」


 そう言って、懐から紙タバコを取り出し、愛用の古ぼけてくすんだ真鍮色のライターの蓋を指で弾く。「チン」と澄んだ音を鳴らしたソレを咥えたタバコの先端に持っていき、「ジボッ」と音を立てて伸びた火口ほくちに点ける。


「カキン」

 点いた煙草を一気に吸い込むと、紫煙が一気に肺にまで到達し、まるで刺すような感覚と同時に、せたくなるような衝動が喉にせり上がってくる。それを抑えてゆっくり口から吐き出すと、独特な匂いと共に、酩酊したように脳に痺れる感覚が訪れる。


「……エホッ、久しぶりに紙タバコの副流煙を吸うとかなりキツイな」

「え、あぁ、すみません。加熱式はどうにも馴染めなくて」

「はは、そうだな。俺も最初はそうだった……。でも流石に嫁や子供たちに「臭い、臭い」と連呼されるとな」

「ですね。吸わない人にとっては害しか無いですから」

「まぁ、吸ってる本人にもやばいがな。こればっかりは相当なが居るしな」

「……えぇ、そうですね」




 ――煙草、辞めないとね。私達の子供にも影響するんだからね――。



「……すまん、軽率だった」

「いえ、もう10年になりますから」

「10年……か。墓には?」


 その言葉に目を閉じ、黙って首を振る。彼は「そうか」とだけ言って、黙って空を見上げると「今にも降り出しそうだな」と呟いて苦い顔をする。言われて見上げると、鈍色だった雲はその墨色を広げ、同時に吹く風には少し湿った様な匂いが混ざり始めていた。


「……渋沢教授、最期の時まで、研究室に居たんだってな」

「えぇ、寝食を忘れて、それこそ最期の瞬間まで顕微鏡を覗いていましたから」


 



 ――そう、教授はその瞬間まで……奥様を救えなかった後悔の為に――。




 やまい。それは数え切れないほど様々な形で、世界に存在している。現代日本では国民皆保険制度のお陰で、すぐに近くの病院へ行けば適切な処置が受けられ、薬が処方されて事なきを得ることが可能となっている。だが、「指定難病」というものも、この世界には存在している。数十万人に一人、数百万人に一人などと言った、非常に稀に発症する病理のため、研究が進んでおらず、未だ有効な薬はおろか、治療法すら確立されていない病理疾患を指す。その殆どは国が手厚く保護し、様々な医療助成などを受けることは出来るが、逆に言えば研究の為にその身を捧げる事もある。そのお陰で今までわからなかった病理の原因や、有効な薬の開発などに非常に助かってはいるが、その親族にとってはどうだろう……。


 自分の愛した人や、大切な子供が突然そんな病気に侵され、大きな病院で幾つも苦しい検査や注射を毎回受けさせられて、試薬を飲んでは苦しみ、手術を受けては疲弊し、衰弱していく。そんな姿を見たいだろうか……。


 教授は、確かにその道では権威とまで呼ばれた偉大な人だ。幾つも新薬を見つけ、学会では常に新しい論文を発表していた。国からも表彰され、それはもう、何もかもを持っているような人だった。そんな彼の奥様は昔気質な人で、何時もどんな時でも教授の影に潜み、教授が歩けば3歩後ろをついて歩く様な、大人しい人だった。聞けば二人は見合い結婚が当たり前の時代に、恋愛結婚だと聞いたときには、大層驚いたことを覚えている。昔からの幼馴染で、両親公認の仲だったという。



「私はね……常に懐に手紙を忍ばせているんだよ」


 

 研究室に籠もり始めた頃、気分転換にと寝酒に付き合って深酒をした時に酔った教授がポツリと零した言葉だ。奥様の病状が悪化し、病院と研究室の往複で疲れていたのだろう。彼はそう言うと、ヨレたワイシャツの胸ポケットから小さく畳んだ便箋を取り出すと、ビーカーに入ったウイスキーを煽り、畳んだままのそれをじっと見詰めて、ため息を吐く。


「――これを、薬と共に妻に……渡したいんだよ。……ずっと言えなかった言葉があってね」


 そう言って便箋をポケットに戻すと、教授は疲れ切っていたのだろう。なにやら小さく呟いて、そのままソファに倒れ込んで眠ってしまった。




「――そう言えば教授の棺に花を置く時、手紙のようなものを置いていたな。……あれは、何だったんだ?」

「……教授の忘れ物です。奥様に渡したいと仰っていたので」

「……そうか」


 教授が倒れた研究室でそれを見つけた時、すぐにあの時のものだと気がついた。慌てて拾って病室に辿り着いた時には、もう逝ってしまわれた後だった……。奥様を失ってから既に3年以上が過ぎて居たのに。彼の胸ポケットにはそれがずっと入っていたのだ。勿論中身を読んではいない。そんな事はできるはずもない。




「……あ」


 一人、思い出しながら、吸い込んだ紫煙を吐き出していると、藤咲さんが見上げた空に何かを見つけて声を上げる。その視線の先を追うと、視界に入ったのは建屋から伸びる煙突から立ち上るくすんだ煙。


「……奥様に渡せると良いな」


 彼の言葉に、声は出さずに同意する。鈍色の雲を目指して昇る煙は真っ直ぐ上がり、まるで彼の性格を表すかのようだ。


 ――真摯に真っ直ぐ実直に。


 新薬の開発に近道などはない。何度も何度も試作を重ね、研究の果てに失敗なんてものはザラにある。苦しむ目の前の患者に届けることが出来る事はほぼなく。それでも未来に同じ苦しみを持ち越さないように……。ただただ愚直に真剣に。どんなに打ちのめされようと諦めず。


 教授のその言葉は今も胸に……。ポケットに仕舞った便箋とともに有る。



 ――教授、貴方に倣って手紙を書きました。薬が出来たその時は、読んで聞かせようと思います――。








『やっと来ることできました。遅いと君は怒るかな? 


 君のお腹に生命が宿ったと聞いた時、思わず抱きしめて怒られたことを今も忘れることが出来ません。


 まさかそんな君を病魔が襲うなんてその時は思いもしなかった。


 両親の反対を押し切り頑なに堕ろさなかった君。そんな君にキツく言えなかった俺を誰も許してくれなかったのに、君だけがすべて許してくれました。


 衰弱し、日に日にやつれて行く君を、ただ見ていることしか出来なかった僕をどうか叱ってほしかった。


 君を襲った病魔の薬、今年やっと認可されました。


 頑張ったよ、真摯に真っ直ぐ実直に。


 時間はすごく掛かったけれど、これで君にあわせる顔が出来た。


 ――君を愛しています。今もこれからも永遠に』



「……代読になりましたが、先生のお手紙です。……先生がこの薬の研究に全てを捧げてくれたお陰で今の私達がいます。今頃、そちらに先生はいらっしゃいますか? そうであるならどうか、お礼をお伝え下さい」



 晴れ渡った空の下、その墓前には数百は下らない人だかりができている。色とりどりの鮮やかな色の服装で、車いすに座った者や未だ杖を突く人はちらほら見かけるが、辛そうな者は誰ひとり居ない。老若男女皆一様に笑顔で、まるで墓参りの様相には全く見えなかった。




 ――やぁ、待たせたね。



 ――お疲れ様でした。



 ――パパ!



 fin


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