箸刀

往雪

箸刀




 都内、某所ぼうしょ

 平日の正午ともあって、とある牛丼屋の駅前本店を訪れる者は多い。


 時間帯や日、季節によって様変わりする人の層。現在、広い店内を満たすのは、会社から昼食を食べに来たスーツ姿のサラリーマンたち。

 午前中からずっと端の席でノートパソコンを叩いている売れない女性小説家。

 それに、怪しげな和服姿の若い男が一人。


 ある者は、休憩時間内に食べ切らなければと牛丼をかっ込んでおり、またある者は、淹れておいたドリンクバーを横目にキーボードをカタカタと鳴らしている。

 またある和服は、牛丼を頼まず、代わりに頼んだ味噌汁みそしるを割り箸で食べにくそうにしょくしていた。


 そして──またある者は、今まさにその和服の男の背後に立ち、無防備なその頭目掛けて、あかい木刀を振り下ろさんとしているところだった。






 少女は、えぬ喧騒けんそうに包まれながら、駅前を歩いていた。


「はぁ……は……っ。あづ、い……」


 意気揚々と家からり出したときとは違って、足元は覚束おぼつかず、息も絶え絶えに。

 ヘアゴムで括られたサイドテールも心なしか力なく垂れている。


 エアコンのいた室内に慣れ切った現代人にとって、やはり、猛暑日に外出するのは禁忌の所業だったかも知れない。

 少女と同じように額に汗を滲ませながらも、涼しい顔をしてすれ違う彼ら──大人たちは、きっと幼少期から暑さに慣れるための苛烈な訓練を受けてきていたに違いなかった。

 げに恐るべし、大人。


 だが、しかし。

 ふと足を止めた少女は、汗でまぶたの上に張り付いた前髪を手の甲でぬぐった。


「ふふ、目星をつけていた通りです。やっと、現れた……!」


 見上げる先には、『吉〇家』と書かれた看板。

 数あるチェーン店の中でも、吉〇家は、しかもこの吉〇家だけは一味違う。


 巷ではくろ吉〇家とも呼ばれるこの駅前店舗。店の入り口わきには、立て看板にメニューが貼り付けられており、少女はそれを食い入るように凝視ぎょうしする。


「ここもリサーチ通り……今日こそは! って、あ、ごめんなさい……」


 急に自動ドアが開き、店内の冷たい空気と共に、スーツ姿の女性が出てきた。

 少女は慌てて頭を下げ、半ば反射的に腕で顔をおおうが、スーツの女性はそれどころではないらしく、少女に一言「ごめんね」と告げると、足早にその場を去っていった。


「……よし」


 その場に一人取り残された少女は、意を決して、店内に足を踏み入れた。


 すぐに、空調の利いた空気が温かく(冷たく?)少女を迎え入れてくれたが、そんなものに浸っている暇はなかった。

 すぐさま周囲を見渡し、店内の状況を確認する。


 店を占拠するように軽口を叩き合っているサラリーマンの群れ──違う。


 端の方で居心地が悪そうにしているのは、ノートパソコンの画面とにらめっこし、爪を噛んでいる三十代くらいの女性。彼女も、違う。


 そんな風にきょろきょろと店内を見渡す少女を案じてか、カウンターの向こう側に立つ男性店員が、

「ああ、ご注文がお決まりになりましたら、こちらでお伺いしますー」


「あ、は──えっと……はい」


 店員の声が、やけに小さく聞こえた。


 真正面のカウンター席に座る、一人の男の姿を見て、少女は全身を震わせる。


 あの大きな背中、あの無駄に目立つ和服姿。味噌汁相手に割り箸はいささか不利なのではなかろうか。そんな考えも、ひと時の間に消え去ってしまうほどに。


 嗚呼、ずっと探していた。彼だ。


 ドクリと跳ねる鼓動を押さえつけ、着込んでいたコートを脱いで椅子に掛けた。

 中から出てきたのは、刀身の紅く染まった、長さ四尺の長木刀。


 ──まさか、こんなにも簡単に背後を取れるとは。


 じりじりと距離を詰め、ノートパソコンの裏からこちらを覗き込む女性を鋭くめ付け牽制けんせいし、一方でにじり寄る自身の足音が響かないよう細心の注意を払う。


 チャンスは一度きり。絶対に、成功させる──!


しゅうさん、覚悟です──っ‼」


 和服の男──綉の背後を取った少女は、その脳天目掛けて、両手に携えた木刀を、裂帛れっぱくの気合のもとに力一杯振り下ろした。


 直撃の瞬間、目を細めていた少女は、剣先に触れた硬い感触に勝利を確信する。


「取った……⁉」


「気配や殺気の消し方は及第点……といったところかな? みいなちゃん。ただ、攻撃の前に叫ぶ癖はそろそろ直した方がいいと思うよ。不意打ちが苦手なのは昔から変わってないね」


 目を見開き、眼前に広がる光景を見て、少女──みいなは絶句する。

 視線の先は、木刀の、その下。刀身を見事に挟み込む、割り箸の箸頭はしがしらだった。


「な……流石ですね、綉さん」



 余裕があるように振舞ふるまいながらも、みいなはごくりと唾を飲む。


 実は、元より不意打ちが成功するとはあまり思っていなかった。あまり。

 それなのに、冷たい汗が背筋を伝う。


 こちらを振り向いた彼が微笑みすらたたえているから。もちろんそれもある。だが、みいなの身には、それ以上に理解しがたいことが起こっていた。


 全力で押し込んだ木刀は、その場から微塵みじんも動くことがない。彼が木刀を受け止めているそれは、店で無料提供されているただの割り箸だというのに。


「う、ぐ……」

 みいながどれだけ力を加えても、綉はその笑みを崩さないまま、それどころか空いた左手で、ズレた眼鏡を定位置へと直していた。


「もう師匠とは呼んでくれないのかい? あの頃はあんなに師匠、師匠! って」


「私もいつまでも子供じゃないってことです……! それより……離してもらえませんか」


「ああ、ごめんね」

「いえ……」


 木刀に重量以外の力がかかっていないことを確認して、綉は割り箸を閉じる。


 みいなは警戒を解かずに木刀の切っ先を綉に向けたままその場から数歩下がり、綉は椅子に腰掛けたまま割り箸を構える。


 仕切り直しだ。


「いいんですか、綉さん。座ったまま、その上割り箸だけで私の木刀をさばき切れると?」


「言うようになったね、みいなちゃん。でも、僕はこのままで十分だよ」


「……ひとつ、いいですか?」


「うん?」


 人差し指を立てた手をずいっと前に突き出され、綉が首を傾げる。


「その……私が勝ったら、一日一緒にいてくれるって約束は、まだ有効期限内ですか?」


 しおらしい態度でみいなが聞くと、綉はくすりと微笑んだ。

 案の定、笑われてしまった。でも、ちょっと恥ずかしいけれど、彼に勝ってから忘れていたなんて言われてはたまらない。


 ……というか、やっぱり綉さん──師匠はかっこいい。

 黒縁の眼鏡に清潔感のあるミディアムマッシュ。鼻筋も整っていて、非の打ち所がない。

 強いて言うなら服のセンスはないけれど、そこもかわいい。


「ああ、確かそんな約束もしたかな。いいよ。期限切れが気になるようなら、この場で指切りでもし直すかい?」


 綉が空いている方の手でピンと小指を立てる。


「いえ、それなら──先手必勝、ですっ!」


 一瞬の間。不意打ち気味にみいなは店の床をった。


 上段から打ち込まれた木刀を、しかし綉は割り箸の先端で受け流す。

 その流れに逆らってはいけない。流された勢いを滑らかに方向転換させ、第二、第三の攻撃とする。


「ふふ、綉さん対策にみ出した新技です……! どうです、かっ!」


「中々やるね。受け流しへの対策としては間違っちゃあいない──でも」

 そのリズム、僕からの攻撃をかわしながらたもてるかな、と。


 綉が呟き切る、それより前。みいなはゾクッとする直感のままに、横に跳んだ。


 頬の寸前、皮膚ひふ一枚を切り裂いて、凄まじい勢いの衝撃波が通過する。直撃していたら耳が宙を舞っていたかもしれない。それほどの威力の一撃だった。


「っ! まさか、割り箸で、こんな……」

「僕が割り箸を使っているからって油断したかい? まだまだ甘いねえ」


「……くっ──ああぁぁぁっ!」


 指摘された自身の甘さへの怒りを、木刀を握る諸手もろてに込め、再び綉のふところへと飛び込む。今度は防御が難しい下段から、下顎したあごを跳ね上げるように上空へと木刀を振り上げる。


 綉が顔をくっと引くと、木刀の切っ先は空しく宙を斬った。

 それを見たみいなはかんはつを入れずに木刀の柄から左手を離し、掌底しょうていを繰り出す。

 動きの少ない上体を狙った攻撃だったが、これは割り箸に防がれてしまう。


 それならせめて獲物をうばおうと左手を握り込むが、それを察知した綉は素早く割り箸を手から離すと、逆にみいなの左手首を掴み、自身の体の方へと引き付けた。


「ぐ……どうして、当たらないんですか」


 間近に迫る綉の顔を見て、みいなは思わず表情を苦悶くもんに染め、悔しそうにこぼす。


 ここまでの力の差があるのか。

 上から抑え込むようにして掴まれた、左手首の骨がきしむ。


 毎日、毎日修行に明け暮れてきた。……たまにスイーツ食べ放題に行ったり、服を買いに行く時もあった気はするけど、それでも決して鍛錬たんれんは欠かさなかった。


 それなのに。


「筋は悪くない──が、対人戦闘の歴が浅いのかな。攻撃が直線的すぎる」


 そんな助言に、みいなは思わず非難するような視線を綉に向ける。


「っ、何を他人事みたいに……っ。あの日、綉さんがいなくなったから──いえ、でも……そうですね。──対人戦闘経験の不足、ですか」


 みいなががくりと項垂うなだれると、綉は握り込んでいた手を離した。

 再び左手が自由になる。


 これでも加減されているということくらい、みいな自身も分かっていた。


 気を抜けば涙があふれてきそうになり、ぐっとこらえる。


 これが、師匠との差。

 小さな頃からずっと追いかけて、未だなお、一ミリほども埋まらない差だ。


 きっと勝てないなんてこと、ここに辿り着く前から、本当は分かっていたのだ。


「……でも、今、追いつかなきゃ」

 それでも、今を逃せば、次はいつ会えるのか分からない。このまま時間が流れていけば、力の差は開いていく一方だ。


 だからこそ、今。今に全力を注ぐしかないのだ。


「ほお……雰囲気が変わったね。何か仕掛けてきてくれるのかな?」


 みいなは右手首を軸にくるりと木刀を半回転させ、逆手さかてに構える。

 綉は、何よりその強い決意が込められた目を見てか、この戦闘中で初めて余裕の笑みを崩し、面白そうに目を細めた。


「今追いつけなきゃ、これから先、一生追い越せないくらいの覚悟で──っ‼」


 ──刹那、しゅうの視界から、みいなが掻き消えた。


「消えた……⁉ いや、上か!」


 咄嗟とっさに振り上げられた割り箸が、上空から飛来する突きを何とか捉える。


 だが、目にも止まらぬ速度と、みいなの全体重が乗った一振りは、片手で受け切るにはやや重い。綉の表情がかすかにゆがみ、木刀を受け止めた肘が衝撃を分散させようと大きく曲がる。


「ぐっ……」


「やはり受けられましたか。でも。絶対に一撃、入れてみせますッ!」


 みいなは木刀に触れた割り箸を支えに体を捻り、空中で一回転させると、透かさずもう一撃。

 横に構えられた綉の獲物の、先ほど攻撃を入れた個所と寸分たがわぬ個所を狙って、太刀を浴びせる。


 今度こそ、殺しきれなかった衝撃が割り箸を伝い綉の体が椅子に深く沈み込んだ。


 しかし、まだ喜ぶには早い。油断は戦闘中、これ以上ない隙を生む。


 床に降り立ったみいなは、間髪入れずに綉の側頭部へと木刀を振るう。

 綉は頭を僅かに下げることでそれをかわし──その先にあったひざを、首を捻ってなんとか回避した。


「……! 今のは危なかった。回避のくせはなかったはずだけど、上手く読んだものだね」


 ふう、と息をつく綉。だが、ズレた眼鏡を直す暇は与えない。


「これでもまだ、喋っていられる余裕がおありなんです、か……っ!」


 続けざまに、今度は左足を軸に上段へと回し蹴り。

 腕の痺れが取れた綉が、それを割り箸で止めることは知っていた。


 こちらの攻勢が弱まれば、敗北は必至。それならばと、みいなは左手を床に叩きつけ、代わりにそちらを軸にすることで、蹴りの軌道を自らずらした。


 左足が空中でえがき、綉の頭上でピタリと止まる。


 入ると確信した瞬間。

 ちらりと綉の方を見やると──彼は、笑っていた。


 勢いのついたみいなは、止まれない。


「……く、あああぁぁっっッ⁉」


 読まれた。こちらの読みを含めて、全てにおいて上をいかれた。


 みいなのかかととしが決まる前に、綉がくいっと軽く割り箸を振るう。その圧倒的な速度から放たれた衝撃波が、みいなの前身を鋭く裂いた。


 衝撃をもろに受けたみいなは、店の入り口まで吹き飛ばされ、反応し切れなかった自動ドアに背中を強かに打ち付けた。遅れて、自動ドアが開いた。


 ずきずきと痛む背中に外の熱気が当たり、脳が揺れる中、逆に意識がはっきりとする。


「あー……ごめん、みいなちゃん。えっと……」


 流石に心配になったのか、綉がみいなに向けて謝罪の言葉を投げかけてくる。それも、自身が傷付けたという罪悪感があるからか、視線はみいなを直視せずに上の方を向いていた。


「いえ……。こちらこそ、ごめん、なさい……」

 しかし今は、どんな言葉もみいなには届かなかった。


 今回も、負けた。全力をけて戦って、なお、一撃すら加えられなかった。

 直接的に受けた痛みよりも、その事実の方がより強くみいなを削る。


「や、そういうことじゃなくって……あの、怒らないで欲しいんだけど」


「最後、手加減しなかったことですか? いえ……いいんです、それで。私が弱かっただけですから。むしろ、手加減しないで下さってありがとうございました。師匠……」


 ゆっくりと立ち上がり、深々と頭を下げるみいな。

 顔を上げると、綉に涙を見られてしまう。それだけは避けたかった。


 その様子を流し目に見て、綉はくしゃくしゃと頭を掻きむしった。


「そういうことでもなくて……というか全然予想以上に強くなってたし、まだまだ強くなれる見込みも十分にあるんだけど……。まあ、いいか。単刀直入に言うとね、あー……」


「はい……?」


 綉は左手で顔を覆い、視線をちらりとみいなの方に向けると、言いにくそうに告げた。


「その、服の前、全部、裂けてるよ……と?」


「え? あ……あっ!」


 みいなが自分の体に視線を落とす。

 そこには、大きく切り裂かれたワンピースと、その奥にしていた水色のブラ──その中心が切り裂かれ、あらわになっている胸元の柔肌やわはだ


 慌てて、左右に分かれたワンピースを体の前に引き寄せ、はだけた胸元を隠す。

 その頬は朱に染まり、責めるような視線はキッと綉の目を見据えている。


「いや、本当に悪かったって! それに、僕って襲われた側だし⁉ むしろ反撃しないとやられてたし、ここは折衷せっちゅう案とは……いきませんかね……?」


「これ、お気に入りのだったのに、何てことしてくれるんですかっ!」


「いやでも、公衆の面前で襲い掛かるってのもだって⁉ って、あ……そっち?」


 みいなは、たじろぐ綉に詰め寄り、ぼさぼさの頭を掴んで、頼りなく泳ぐ視線を自身の方へ向けさせる。蛇ににらまれた蛙のように動けなくなった綉は、額に大粒の汗を垂らしていた。


「弁償、してくださいね?」


「いやでも……はい」


 先ほどまでと同じ木刀。握っているのは、さっき自分に全く敵わなかった弟子。それなのに、綉はその紅い刀身に有無を言わせぬ迫力を感じて言葉を飲み込んだ。


「ありがとうございます。分かってくれたようで何よりです。ではまた、会いに来ますので。約束を破ったら……賢い師匠なら、お分かりですよね?」


「…………!」

 無言でこくこくと頷く綉。


 それを見届けたみいなは、満足そうににこりと笑うと、ワンピースの前方を器用に押さえつけたまま、椅子に掛けていたコートを手に取り羽織はおる。


「それじゃ、今度はここの牛丼とケーキ、おごってくださいね」


 と、それだけ言い残して、みいなは颯爽さっそうと自動ドアから出て行った。


「ふふ、やった……!」

 初めて綉とのデートの約束を取れたことに、誰にも見えないところで小さくガッツポーズを作って。 






 店内にも言われぬ静寂が訪れる。


 約一名、目を輝かせながら「よく分からないけどいいものが見れたわ……! 今度こそ受賞間違いなしね!」などと呟き、一心不乱にキーボードを叩いている者はいたが。


「はは、なんて迫力……。我ながらいい弟子を育てた……な、あ?」


 呟く綉の頭が、カウンター側へ無理やり半回転させられる。

 嫌な予感は、大抵の場合、的中するものだ。


「困りますよー、お客さん。そこの椅子、足が曲がってますよねえ? あーあ……ドアにもひびが入ってるし、こりゃ買い替えだな。味噌汁の勘定かんじょうに弁償金迷惑料含め、きっちり払ってもらいましょうか。その場で払えないのなら──皿洗いでもするか、なあ?」


 そこに立っていたのは、店長と書かれたプレートを胸に着けた筋骨隆々の男。

 真っ赤な顔は怒り心頭といった様子で、ぴきぴきと擬音が聞こえてきそうだった。


「あー……はい。わかりました……」


 綉は財布の中身をあらため、分かっていたこととは言え、肩を落とす。


 がま口の奥から転がり出たなけなしのワンコインを店員に手渡すと、とぼとぼと店奥の厨房ちゅうぼうへと向かっていった。

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箸刀 往雪 @Yuyk

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