ロッテの追憶【短編】
さえ
ロッテの追憶
石造りの橋の下にはヨーロッパの古寂た街並みが広がっていた。曇り空のおまけつきで静かに佇んでいる。太陽は穏やかだが、まだ三月の頭なのでいくらか肌寒い。
ネクタイを直し、髪を軽く整え、さわやかな笑顔を作って、ドアを開ける。ラベンダーの香りが鼻腔に流れ込んできた。
カントリー調の店内へ足を踏み入れる。天井からはドライフラワーがつりさげられ、壁一面にはアンティーク小物がずらりと並べられていた。
「ただいまです」
物音で気づいたらしい。ショーウィンドウの中でくつろいでいた子猫がミャアと挨拶を返す。そしてぼくの声を聞きつけたのか、奥から痩せた少女が出てきた。
綿あめみたいにふわふわ巻いたクリーム色の髪の毛、眠そうに細められた赤色の瞳、フリルをたっぷりあしらったワンピース……この街の『大魔女』ロッテである。子どもほどの身長だが中身は立派な大人だ。彼女は相変わらずの仏頂面で、水晶玉を手に取り、
「遅かったな。とりあえず一通りの締め作業は済ませておいた。夕食も作っておいたぞ」
「ありがとうございます。でも、出来が心配ですね」
「おい、使い魔。褒めないのか」
ロッテはいつもオムレツを焦がす。茶化して言ったつもりだったが、彼女はむすっと反論してきた。
ぼくが魔法使いたちの街に迷い込んできてから、数週間が経とうとしている。
大学の春休みを利用してのドイツ一人旅の最中、プレッツェルの名店を探して住宅街をさまよっていたら、いつの間にか見知らぬ路地に辿り着いていた。地図にも乗っていない道のり、携帯電話もつながらない。異国の知らない街、その中心の噴水で途方に暮れていたところに声をかけてきたのが大魔女ロッテだった。そしてぼくが行き場のない旅行者だと知ると、彼女はなんとぼくに職と住処を斡旋してくれた。そしてそんなぼくの仮住まいこそ、ロッテが営むこの大きな魔道具店だった。
「あいかわらず、外には、
「ええ……」
ぼくはうつむいて、誤魔化すように苦笑した。
非科学的な術が力を持った代わりに、この街は魔力のない者への愛を失った。ショーウィンドウから斜陽が差し込む中で、ロッテは祈りをささげるかのように、水晶玉を一心に磨き続けていた。
彼女はあふれる知識をなんの抵抗もなく分け与えていたが、決して心の深いところまでは人を寄せ付けなかった。人見知りや警戒心が強いという訳でもない。言葉を尽くしても打ち破れぬような、色褪せた諦観が彼女の心に根を張っていて、そこからは生垣に張り付いた蔦のような抜け目のなさが感じられた。
「……青森に帰りたい。……父さん母さんは大丈夫だろうか」
ぼくはぽつりと呟いた。
以前、ゼミの先輩が言っていた。常識は場所によってどうとでも変わる。だから異邦人は時に、異国の常識に馴染むことができず、同郷の者のみのコミュニティで閉鎖的に暮らす、と。それはときに、ホームシックとかカルチャーショックといった言葉で、悪し様に言われてしまう。けれどその「常識」とやらが、異邦人の「尊厳」を侵す場合。見知らぬものへの恐怖を口実に、「
ロッテによれば、ぼくの転移はかなりイレギュラーな移動らしく、複雑な手続きずくでなかなか帰れない。ここで働こうにも、魔法が使えない異世界人を雇う店などない。そんなわけで、耐え難いことだがぼくは暇人だ。なので最近は街に出て使い走りをしている。
「使い魔、心配するな。わしは大魔女だぞ。もうすぐ元の世界に帰れるだろう」
「……大魔女様。ありがとうございます」
彼女は柔和に微笑んでくれた。憂いを孕んだその表情に、また胸が締め付けられる。
何を返すこともできず、ぼくはただ彼女を見つめていた。蠱惑的な赤色の瞳が、カーテン越しの夕日を受けてきらきらと光った。
夕食が終わったが、どうにも眠れそうになかった。寝間着に着替えぬまま寝室に入り、ベッドに向かう。
最近のぼくは不眠に悩まされていた。目を閉じれば、両親に夢の中で責め立てられる気がする。親の反対を押し切って美大に進んでから、心持ち、両親の態度が冷たくなった気がする。
「眠れないのか」
聞きなれた声にはっと振り向いた。廊下から漏れる光に照らされ、ロッテが立っている。ふわふわの白いネグリジェを着ているので羊みたいだ。
「どうしてここに?」
「洗濯の帰り、付けっぱなしの読書灯が見えた。そうでなくても、最近の使い魔は元気がない」
最近の彼女は、ぼくの分の食事を作ったり洗濯をしたり、家事に精を出している。居候なのだからそのくらいは任せてほしいとは頼んだが、頑としてきかないのだ。手より魔法を使う方が早く終わると言われたら反論もできない。
「家族のこと、まだ気にしてるのか」
お互い様だ、と思ったが、口にはしなかった。
ロッテとベッドに並んで腰掛けた。ぼくは最近の不眠について洗いざらい話した。ロッテも悪夢を見るのか、と問えば、彼女はむっとした顔で、
「馬鹿にするでない」
「……すみません」
「使い魔。なぜわしが大魔女と呼ばれているのか、知っているか」
「由緒正しい魔道具店の主だからと聞きました」
「……それも無いわけじゃない。この店はわしのかけがえのない友人で、大切な主だ」
そう言って彼女は目を伏せる。赤い瞳の中で、どんな葛藤があったのかは知る由もない。
「もう何百年も昔、わしはこの街で唯一不老不死の魔法を成功させた。だがその成功の代償は大きかった。親には先立たれ、同年代や馴染みの客は死んでいき、誰の結婚相手にも選ばれることはなかった。孤独な娘は一日部屋に篭りきり。親幼馴染を含めて仲間が皆死んでしまうのだから無理もない」
彼女の台詞は悲劇的な境遇に酔いしれているふうではなく、ありふれたさみしさだけが感じ取れた。
死は無遠慮だ。そして同時に明快で公平なものだった。たとえ魔法使いであろうと、死という現象を覆すことはロッテを除いた誰にもできなかった。死を前にした平等から彼女は阻害されていた。
「それでも、今のわしにはまだ守りたいものがここにあると気付かされた」
そしてぼくの顔を覗き込み、きっぱりと言い切った。
「使い魔。おまえが愛おしい。わしの大切な家族」
めずらしく、彼女の頬にはわずかに紅がさしている。真剣な声音だった。日頃仏頂面のロッテが自分に心を傾けてくれているなど思いもしなかったので口ごもった。
「わしはこの街では異端者であったのだ。だが使い魔、お前はこの店にも街にも、わし自身にも新しい風を吹き込んでくれた。……わしは異端者である自分を責め、哀れもうとした。でも、一人のお前は決してそんなことはしなかった。お前の姿を見れば、また強くなろうと思えた」
その言葉に、胸が締め付けられた。
ロッテはそのまま、ぼくの腕に手を回して抱きしめてきた。ぼくは抵抗しなかった。服に焚きしめられたであろう香のにおいがした。
「おまえはわしの勇気だった」
「でも大魔女様、こんなことを話すということは」
「ああ」
熱を持った体がわずかに震えている。夜色の静寂が廊下を満たしていく中で、お互いの体温を感じた。ひときわ強く抱きしめてから、彼女はおずおずと腕を解く。彼女の細い喉から、途切れ途切れに嗚咽が漏れだしていた。
お別れの時が来たのだ。
ベッドでひと眠りして、ぼくは柔らかな朝日で目を覚ました。見慣れた自分の部屋を視界の端で捉え、目を細める。
家に帰ってきてから三日。ふと時計を見ると、針は既に八時を回ろうとしていた。もう両親は朝食にありついているだろうが、寝坊をどやされるのはぼくの本意ではない。そっとベッドから抜け出し、身を清めてリビングに向かった。
とろけるようなバターのにおい。燦燦と朝日の差し込む真っ白なリビングでは、すでに両親が朝食をとっていた。雰囲気は穏やかだ。口いっぱいにパンを詰め込みながら、父さんが振り向いた。
「おはよう!」
無愛想に挨拶を返し、空いた椅子に座ってポットの紅茶をつぐ。
「それにしても、ドイツで一か月も行方不明になったと思ったら、ある日ベッドで眠ってるなんてねえ。最近は物騒でしょ? 事故だの誘拐だの、とっても心配したのよ。ネットでは、魔女の神隠しじゃないかって報道までされたんだから」
母親が唐突に切り出し、あやうく紅茶を噴き出しかけた。やや上ずった声でぼくは、
「本当になんにも覚えてないんだよ」
「でも飛行機や船の搭乗記録もないんだもの」
「母さん、もういいじゃないか。警察も病院も異常なしの太鼓判なんだから。ぼくも若い頃は自由に旅したものさ、少年よ大志を抱けってな」
父さんがいなした。カラになったカップに紅茶をつぎ微笑む。こんな朝もいいものだと、ひそかに呟いた。
両親が冷たくなった、なんてのは、思春期によくあるいくつもの衝突の一つだったのだろう。だって、家族はこんなにも温かくぼくのことを迎え入れてくれている。
今でも、部屋の机の一番下の引き出しをひらけば小さなクロノグラスが置いてある。あの夜、大魔女ロッテがぼくに授けてくれた品だ。その向こうを覗き込むと魔道具店の店内が見えて、ロッテは仏頂面を笑顔に変えて手を振って、ぼくに勇気をくれる。
もう彼女には会えないけれど、ともに時間を過ごした記憶は色褪せない。親愛のあたたかさが胸を満たしてくれた。それに救われた日々が確かにあった。クロノグラスにあしらわれた輝く宝石のように美しい瞬間が、たくさん。
だから、もし勇気に色があるなら、きっと燃えるような赤色をしているのだろう。ロッテの瞳と同じ色。
ロッテの追憶【短編】 さえ @skesdkm
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