しゃぼん玉に乗せて
しらす丼
しゃぼん玉に乗せて
空に浮かぶ七色の球体が太陽の光を受けてキラリと輝いた。
それを見て思わずニヤリ。私は笑っていた。
去年の秋には三十路を過ぎていたのだが、色々あって今、しゃぼん玉なんかを飛ばしている。
イタイとか寒いとか。親にはさんざん嫌味を言われたけれど、どうしても今日はしゃぼん玉を飛ばしたい気分だったのだ。
プラスチックの容器に入った液体に、専用のストローをつけ、腹に力を込めて思い切り息を吹き込む。
その瞬間に、ストローの先から七色の球体が次々と飛び出していった。
ふわふわと浮かぶ、大小様々な球体。
その全てに映る、ストローを咥えた自分の姿。
そこに映る自分と視線がぶつかると、なんだか少し照れくさくなった。
自分を映したままの球体はふわふわと周囲を浮遊し、それから吹いてきた風に乗って空高く昇っていく。
しゃーぼんだーまーとんだー
やねまでとんだー
やねまでとんでー
こわれてきえたー
そんな童謡の歌詞が頭に浮かんだ。
なんだか懐かしい、と自然に口角が持ち上がる。
「続きはなんだったかな。えーっと……」
しゃーぼんだーまーきえたー
とばずにきえたー
うまれてすぐにー
こわれてきえたー
かーぜ かぜ ふくなー
しゃーぼんだーまーとばそー
「うん。確かこんな曲だった」
そんなことを呟きながら、私は風に乗って飛ばされていくしゃぼん玉を見つめていた。
どこまでもどこまでも高く昇っていくそれは、本当に儚く――美しい。
ふと懐かしい顔を思い出した。彼女の顔だ。
十六年前に見たあの日の涙が、ふと頭に浮かぶ。
「そうか。私の、夢と同じ。あの時、そう言ったんだ……」
私もそう思う。儚くて美しいこのしゃぼん玉は、なんだか少し夢に似ていると。
夢――それは幼い頃から抱いていた大きな希望。
持ち続ける者だけが許される、未来。
けれど、その言葉を届けたい彼女はもういない。
あのとき彼女は捨てたのだ。
夢も、未来も。そう、何もかも。
「だからあの日、あの時――里奈おばさんはしゃぼん玉を吹いていたのかもしれないね」
***
十六年前――。
小学生の頃の私は、お母さんに連れられてお母さんの実家に行くことが多かった。
小学三年生になったばかりだったその日も、私はお母さんに連れられ、おばあちゃんの家に来ていたのである。
「美紗ちゃん、いらっしゃい。お菓子あるわよぉ」
おばあちゃんはそう言っていつも何かしらのお菓子を用意して待っていてくれた。
「おばあちゃん、ありがとうございます!」
そう言って頭を下げれば、「いいのよぉ」とおばあちゃんはとても上機嫌だ。
「あ、そういえば里奈おばさんは?」
里奈おばさんはお母さんのお姉さんで、今でもこの家に住んでいる。
結婚はまだしていなくて、工場で働きながらイラストレーターになるという素敵な夢を追いかけている人なのだ。
「たぶんお部屋かな。忙しそうにしているみたいだから、邪魔しないようにね」
おばあちゃんは困り顔でそう答えた。
「はーい」とお利口さんに返事をしながらも、私はそれからこっそりと居間を抜け出し、里奈おばさんの部屋へと向かった。
階段から二階に上がって、すぐを左。茶色い扉の部屋が里奈おばさんのお部屋だ。
コンコンとその扉をノックして、「里奈おばさん、いるぅ?」と尋ねると、
「うーん」という返事がある。この生返事はいつものことだった。
「入るよー」と、私はその扉をゆっくりと開けた。
「おぉ。なんだか久しぶりだね美紗、元気にしてた?」
パソコンを前に座っていた里奈おばさんは、部屋に入ってきた私の方へわざわざ身体を向けてくれ、優しく微笑みながらそう言った。
前回遊びに来たのは二週間前の春休みだったけれど、その時の里奈おばさんはお仕事のことで忙しかったらしく、顔を合わせられなかったのだ。
「うん! 四月から三年生になったんだよー!」
「おお、そっかぁ。それはよかったねぇ」
その返事にどことなく元気がないように感じていたけれど、少し疲れているだけなのかもしれないとも思った。
私にはまだわからないことだけれど、たぶん働くって大変なことなんだ。
ふと、里奈おばさんの背後に目を向けるとそこから明かりが漏れていた。ピンときた私は、笑顔で里奈おばさんに尋ねる。
「里奈おばさんは、今日もお絵かきしてるの?」
「うん。見る?」
「見るー!」
私がそう言うと、里奈おばさんは少しだけ身体をずらし、目の前のパソコン画面を見せてくれる。
可愛い女の子のイラストがそこに映っていた。
茶色くて長い髪色に、キラキラした大きな目。白いワンピースを着ている。
「この子はだあれ?」
「うーん。未来の美紗、かな」
「えー!? 私、髪の毛茶色くないよー?」
「こうなるかもしれないなーって思いながら描いてたの。ほら、羽とか生えて天使みたいでしょ?」
「天使!? 私、天使になるの?」
「いやいや」
美紗は私の天使みたいなものだから、と里奈おばさんは笑う。
「そうなんだー」
なんだか少し、変だ。
里奈おばさんが描くのは、いつも里奈おばさんが作ったオリジナルのキャラクターばかりだったはずなのに。
「ねえねえ、どうして私を描こうと思ったの?」
「なんでだろうね……なんとなく、かな」
「そっか」
いつも頑張っている里奈おばさんにも、そういう時があるんだなあ。
そんなことを思いつつ、優しく笑う女の子のイラストを見つめた。
なんとなく……?
でも今まで、里奈おばさんがそう言ったことってあったっけ?
「あ、ねえねえ美紗。しゃぼん玉があるんだけど、よかったら一緒にやらない?」
「えっ、本当!? やるやる!」
しゃぼん玉。その一言で、里奈おばさんの『なんとなく』への疑問はすっかりと空のかなたに飛んでいった。
まるで、強風に流されるしゃぼん玉のように。
「じゃあ、ベランダでやろっか」
「うん!」
それから私たちはベランダに出て、壁にもたれるように並んで座る。
見上げると、そこには青い空が広がっていた。太陽の光が眩しいくらいに私たちを照らす。
こんな日はしゃぼん玉が気持ち良く飛んでくれそうだ。
「……しゃぼん玉なんて、いつ以来だろう」
里奈おばさんは目を細くして、しゃぼん玉の液が入った容器を見つめながら呟いていた。
「里奈おばさんってもう大人なのに、しゃぼん玉をやりたくなる時があるんだね」
そう言ってしまってからハッとする。
思ったことをすぐ言葉にしてしまうのは、自分が正直者だからだと私は思っている。
しかし、それが悪い癖であることもわかっていた。
里奈おばさんは、嫌な気分にならなかっただろうか……。
そのまま里奈おばさんの顔を見ていると、里奈おばさんは小さく笑い、ストローをいじりながら答えた。
「むしろ逆。大人になったから、しゃぼん玉がやりたくなったのかなって。私が美紗くらいの時は、しゃぼん玉なんてやろうと思ったことなんてなかったもん」
「へえ、そうなんだぁ」
私はやりたいと思うけどなぁ。
プラスチックの容器を見つめながら、私はそう思う。
「ただ吹いているだけでつまらないって思ってた。無言でひたすら液をつけ、ストローを吹いて玉を飛ばしを繰り返すだけだもんね」
「でも、キレイだよ?」
「それは思ってたかなぁ。でも、それだけだったんだ。見ているだけならいい。わざわざしゃぼん玉をやる子の気持ちがわからないなあって」
「今はわかったの?」
「うーん。美紗や当時の友達が思っていることはわからないままだけど、今は今でわかるものがあったかなって」
「へぇ」
きっと今の私にはわからないようなことなのかもしれない。
私も大人になったから、しゃぼん玉を吹きたくなるのかな。
私はしゃぼん玉を吹きながら、そんなことを思った。
そしてその後も私は、里奈おばさんと並んで座ったまましゃぼん玉をつくり、次々と空へ放していく。
キラキラと輝きながら浮かぶしゃぼん玉は、クリスタルの宝石みたいですごくキレイだった。
だけど、なんだかちょっぴりさみしい感じがする。
こんなにキレイなのに、どうしてなんだろう――そう考えていると、ふいに鼻を啜る音が聞こえた。
私のじゃない。これは里奈おばさんの、音。
私はこっそりと里奈おばさんの方へ顔を向ける。
え――? と、その里奈おばさんの顔にびっくりして、目が大きく開いた。
里奈おばさん。どうして、泣いているの――?
心の中でそう訊いた。もちろん、答えは返ってこない。
そのまま里奈おばさんを見つめていると、ほっぺに流れた涙のつぶが、空に浮かぶしゃぼん玉のようにキラリと輝いた。
あ、と声が漏れる。
私の声に気づいた里奈おばさんは、ハッとして服の袖で涙を拭った。
「ごめんごめん」と何もなかったという風に、里奈おばさんは笑う。
そんな里奈おばさんの顔を見ていると、なんだか胸がキュッとした。
「しゃぼん玉、綺麗だね」
里奈おばさんは笑ってはいるけれど、その顔の裏には違う感情が隠れているように見える。
なんて答えたらいいんだろう。少し迷ってから私は小さく頷き、「うん」と答えた。
それから里奈おばさんは、目線を空へと戻す。
「でも。なんだか儚いなあ。まるで私の――みたい」
「え?」
私の、の後の言葉が小さく掠れてよく聞き取れなかった。
けれど、里奈おばさんは何か悲しいことがあったのかもしれないということだけは、子供の私にでも分かることだった。
――何か、何かを言ってあげなくちゃ。
「里奈おばさん! 私は里奈おばさんのこと、大好きだよ」
「うん、知ってるよ。私も美紗のこと、大好きだもん」
そう言って笑顔をつくる里奈おばさんを見ていると、口の中で苦いものが広がった。
この苦いのはしゃぼん玉の液が口に入っちゃったからだ。だから、その笑顔がウソみたいだって思ったわけじゃない。
ねえ、そうだよね? 里奈おばさん。
「里奈おばさんが描く絵も、すっごく好き」
「……ぅん」
「これからも、いっぱいいっぱい見せてくれるよね?」
しかし、里奈おばさんはその質問に答えず、笑顔のままプラスチックの容器にストローを差した。そしてそれを空に向け、思い切り吹き込む。
するとそのストローから七色の玉が勢いよく生み出され、風に乗って飛ばされていった。
それが何を意味するのか、この時の私はまだ知らない。
けれど、その数日後。私は嫌でもその答えを知った――。
しゃぼん玉をしたその日の夜。私たちが帰った後、里奈おばさんは行方不明になったらしい。
財布やスマートフォンを部屋に置いたままだったこともあり、おばあちゃんは嫌な予感がすると言って警察に駆け込んだのだそう。
そして、それから数日後。
誰も通らない近くの山中で、里奈おばさんは変わり果てた姿になって発見された。
散歩をしていたおじさんが、ぐうぜん里奈おばさんを見つけてくれたらしい。
そして見つかった里奈おばさんの右手には、里奈おばさんの字で書かれた遺書が握られていたという――。
***
里奈おばさんの十七回忌を終えた私は、持ってきていたしゃぼん玉をあの家のベランダで吹いている。
お葬式の時におばあちゃんから聞いた話だったけれど、あの時の里奈おばさんは、将来のことでかなり悩んでいたらしい。
このまま夢を見続けるのか、それとも夢を諦めるべきかと。
本当は夢を見ていたい。けれど、『自身の才能のなさに絶望しかない』と弱音を吐いていたこともあったんだそう。
そして、夢を諦めて普通に生きる道も考えたそうなのだが、正社員を目指しての就職活動もうまくいかなかったんだとか。
人生に疲れて、どうしようもなくなった……と遺書にはあったそうだ。
ストローから幾つものしゃぼん玉が生み出され、それは空へ向かって高く高く飛んでいく。
「夢、か……」
誰にともなく、しゃぼん玉を見つめながら私はそう呟いていた。
それに映る私の顔は、なんとも言えない表情をしている。
あの日の里奈おばさんも、こんな風に自分の顔を見ていたのだろうか。
そこに映る情けない自分の顔を見て、もうダメだと確信したのだろうか。
見ていたしゃぼん玉の一つが、パチンと音を立てて、儚く消え去った。
なんとも言えない寂寥感。
それから小さく息をつき、ふと自分の今のことを思った。
――私も今、あの時の里奈おばさんのように叶うかもわからない夢を見ている。
もしかしたら、私もこの世界や人生に絶望して、里奈おばさんと同じことをしてしまうかもしれない――儚い夢を見続けることに疲れ果てて。
私は再びストローに液をつけ、思い切り息を吹き込む。
そこから生まれた七色の球体は、すぐに割れて消えてしまうものもあったが、残ったものは上手に風に乗って上昇してくれた。
そしてその上昇中。一つのしゃぼん玉が、微笑むようにキラリと輝くのが見えた。
ああ。なんて、美しいのだろう――
私は見失いつつあるしゃぼん玉を見つめながら、そんなことを思う。
そう。しゃぼん玉は儚いだけじゃない。
儚い中にも、美しさがあるのだ。
私はそれを知っていた。
里奈おばさんが知らなかったかもしれないそれを、私はずっと前から知っていたのだ。
儚くも、美しい夢。
なんとも素敵な響きじゃないか。
思わず私はクスリと笑う。
「里奈おばさん。私は儚くても、いつか絶望することになっても美しい夢を見続けるよ。だから見守っていて。この想いを空で受け取って」
そう言って、私は液体をつけたストローに思いっきり息を吹き込んだ。
七色の小さな球体が、空へ向かって飛び出ていく。それは風に乗り、四方八方へと向かっていったのだった。
私の夢と想いを込めたしゃぼん玉。
どこまでもどこまでも、飛んでいけ。
そしていつか、里奈おばさんの元へ届きますように――。
(了)
しゃぼん玉に乗せて しらす丼 @sirasuDON20201220
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