私 地底人




「うわ、なにこれ。まあ仕方ないんだろうけどさ、謝罪とかはこんなときですのでお体に気をつけて、みたいな文章くらいあってもよくない? まあ震災のときのどっかの文具メーカーのナントカって人のメールよりはましだけど」

「舞美、気を落とさないでね。会社は星の数ほどあるんだからな。それに、こんな時間に返信してくるなんてブラックの疑いありじゃない? 『月残業10h以内!』って書いてあんのにねえ」

 皆に見えるよう机上にかざした携帯を見て、ふたりがいろいろとなぐさめの言葉をかけてくれる。その優しさがあたたかくてありがたくて、私は彼女たちに向けて笑顔を作ろうとする。


 本当に、そう思ってる? 外から侵入し、境界の中に間借りをしていた住人たちが、内臓のように湿ったなにかに次々と弾き出されていく。みちみちと肉のこすれる音がする中、放り出された彼らは音声を伴わない主張や実体のない暴力を行使して、なんとか内側に戻ろうと試みはじめた。その光景の中、私はうずくまって耳をふさぐ。なにかしなくてはならない。でも、なにをすればいい。というか、というかさあ、私にいったいどうしろというんだ、お前らは。なあ。


「ま、いいかもう」


 え? 呆気にとられた様子の鮎子たちを交互に眺めながら立ち上がり、その勢いのまま店を出る。ど、どこいくの舞美。由依の震えた声が背中に張りつく。道の角でいちおう振り返ってみたが、彼女たちが追ってくる気配はない。そのままそこを右に曲がってペンギンがマスコットキャラクターになっている大きなディスカウントショップに入り、巨大なスコップと黒いフードつきのマントを買う。おそらく後者はハロウィン商戦で仕入れたものの余りだろう。もつ鍋屋さんに戻りつつ、乱暴に包装を破ってマントを装着する。縫い合わせが雑なフードを目深にかぶると、アリみたいにうじゃうじゃと歩いてすこぶる邪魔な人たちが、いっせいに私を避け始めた。笑っていたり不安げな顔をしていたりしかめっ面をしていたり。街行く彼らの反応は様々だったが、もつ鍋屋の前にいた神経質そうな顔をしたおばさんが、塩をまき出すかのような勢いで私を避けたのが印象的だった。上出来だなと思いつつ、引き戸を勢いよく開けて目に入ったおじさんを手始めに殺した。そう、先ほどのグループの一員だ。特に店内の様子を見極めずにああこの辺だったよなとスコップを振り下ろしたので合っているか不安だったが、禿げた頭が掘削されていたので安心した。いや、正直このグループに当たらなくてもよかったかもしれない。彼らはもちろんのこと、他の客たちや店員、鮎子たちでさえもそうだが、この場で『地底人』と関係がない人なんていない。ぬれせんべいがあったとて、避けることなどできない。はは、見てる。あんなに無視してたのに遠ざけてたのに気にかけようともしなかったのに深いところでの理解を頑なに拒絶して見ないふりしてたのに、こいつら、私のこと見てる。彼らの視線を感じつつ、それらを血と肉と骨でずるずるになった鉄で叩き潰していく。それを呆然と眺める店内の人々に、たしかに『私』が流れ込んでいく。それはいずれ芽を伸ばし、彼らの奥深くに我が者顔でこびりつくだろう。いや、もうそんな余裕がない人もいるかもしれない。だが、今はそれでいい。それで、なにもかもすべて、よくなったのだ。いくつもハンバーグ状の物体を作り出すと、私はゆっくりとそれに顔を近づけた。暗赤色と生きていた者の気持ち悪いにおいが、瞳と鼻に強烈な存在感を描き出していく。


「舞美、ちょっと舞美? だめだ完全にフリーズしてる」

「そんなに落ちたことがショックだったのかな。焦んなくたっていいのにさあ」

「鮎子は少し焦ったらどう? 漫画家になるんでしょ」

「耳が痛いっすねえ」

 彼女たちのやりとりが耳に届くたび、私は妄想の世界から引っ張り上げられていく。遠慮がちにひとつだけ残されていた軟骨唐揚げを口に放り込む。硬さとやわらかさが同居したそれが奥歯に挟み潰され、ぬるりと滑る。

「あ、戻ってきた。どうしたの。今度はなんかにやついてるし」

 いつの間にか、由依がこちらを見ていた。私は軟骨をビールとともに一気に飲み下す。

「なんでもないよ」

「そっか。まあ元気出しなさい、就職しても幸せになれるとは限らないんだから。私みたいに。ほんとあのクソババア死なねえかな」

「ねえ、なんか急に明るくならないこの店。どっか電気つけ忘れてたのかな」

「いや、別にこんなもんだったでしょ」

「ね、わたしも特に感じなかったなあ」

 ふたりは揃って首を傾げる。まあ、そうなるだろうとは思っていたので特に動揺はなかったが、どっちのほうだったのかは少し気になった。明るく思えていたのか、それとも暗く思えていたのか。その質問を飲み込み、代わりに私は再び笑顔を作った。


「なんでも、ないよ」



 飲み放題のように時間制限があるお店ではなかったため、私たちはちょくちょくお酒を注文しながら話を続け、三時間ほど滞在してから店を出た。二軒目か三軒目かはわからないが、次のお店に向かう団体。今仕事が終わったのか、疲れた顔でコートをはためかせ歩く女性。ヘッドホンをつけ、ブルゾンのポケットに両手を突っ込んで気取りながら歩く男性。金曜日ということも相まってか、夜の街にはほんの少しだけ喜びをはらんだ空気が漂っていた。


「けっこう飲んだね」

「どうしようかこれから。仕事で疲れたといえば疲れたし、疲れてないといえば疲れてないからどっちでもいいんだけど。二軒目行く?」

「いいねえ」

 器用に人をよけながら、鮎子が携帯でお店を検索する。しかし西武池袋線の改札についたところで、せわしなく動いていた親指が止まった。

「ねえ、どうせなら宅飲みにしようよ。あんまり飲み屋とか行かないほうがいいんだよねえ。まあもう行っちゃったけど。安く済むし」

「賛成。舞美はどう」

「うん、いいよ。どうせ明日も明後日もこれからも、なにもないし」

「んじゃあ決まりだね」

 距離的には私の家がいちばん近かったが、けっこう飲んだからあまり歩きたくない、電車に乗るにしても一駅ぶんしかないからなんかもったいないという意見があがり、東武練馬という駅から歩いて数分のところにある鮎子の家へ行くことになった。体臭と排ガスと汚水の混ざったようなにおいがする地下道を通り抜け、東武東上線の改札を目指す。シャッターが降りている花屋の前で、黒いダウンを着込んだホームレスの人がうずくまっているのが見えた。前だけを見据えた人たちが、それに一瞥もくれずに通り過ぎていく。なに飲みたいー、と由依に聞かれ、私は彼から目をそらした。瞬間、汚れの染みついた床に横たわるそれは瞬時にふたしかなものになった。


 東武練馬に急行は止まらないため、タイミングよく滑り込んできた普通電車を選び、椅子に腰を下ろした。池袋は終点のため、こうして運が良ければ簡単に座ることができる。ラッキーだったね。左隣の鮎子がお酒臭い息を吹きかけてきたのにうなずいていると、あれよあれよという間に座席は埋まり、閉じたドアや壁にもたれたり、つり革につかまったりする人が増えだした。これでも、山手線や同じ路線の急行よりかはだいぶマシだった。


 ややあって無機質な発車アナウンスが流れ出したとき、人混みがわっと割れた。くたびれた濃紺の背広を着た男が勢いよく乗り込んできたのだ。その足取りはおぼつかず、はち切れんばかりに膨らんだ腹がぱつぱつになったワイシャツの内部で動きに合わせ揺れていた。完全に、酔っぱらっている。車両にいた何人かが体を引いたり、別の車両やスペースに移動していく。そのせいで、彼が口元を押さえ、その隙間から胃液や未消化の食べものを滴らせたのがしっかりと見えてしまった。


「うそ、最悪」

 鮎子が画鋲のように小さく鋭い不満を吐き捨てたのと同時に、男が手を口元から離す。べしゃっ、という湿った音と共に吐瀉物が床に飛び散り、アルコールと脂と胃液が混ざったすえたにおいが爆発した。私たちの脚がまるで示し合わせたかのようにいっせいに浮く。靴や足に汚物が飛び散っていないのを確認し、ため息をつく。その間に、車内の人々は続々と避難を始めていた。皆が皆この男に少なからず悪感情を持っているはずなのに、罵倒などの明確な意思表明に乗り出すものはいない。まるで車内でゲロを吐いた人などいないかのように、いつもと変わらぬ仏頂面で拒絶だけを残して静かにその場を去っていく。


「えー、どうしよ。由依、車両変える? いちおうそんな長く乗るわけじゃないけど」

「うーん、でも一気に空いたよね。できるだけ立ちたくないな……今移動しても絶対座れないし」

 しかし、それもすぐ限界がきた。ゲロ自体は学生時代に見慣れていたこともあってダメージは少なかったが、においはやはりいくらかいでも耐えがたいものだった。


「いいよ、もう別の車両行こ。臭くて気分悪くなってきた。我慢することない」

 私の言葉を合図に、鮎子たちがいっせいに立ちあがる。あちこちに飛び散った食べもののカスや胃液のしずくを踏まないようにしながら歩き、ドアを開けて車両の結合部分に足を乗せる。揺れでバランスを崩しそうになりつつも、なんとか隣の車両に移動した。同じような人はかなり多く、人と人とがかなり密着している。奥に行けばまだましのように思えたが、肉壁を崩して進むのは難しそうだった。


 そんな彼らの胸元へ、私は次々と目を走らせる。こんなところでぬれせんべいをしていない人がいたら、突き飛ばしてでも位置を変えるつもりだった。それができないなら、次の駅でいったん降りてダッシュで空いている車両に移ってもいい。地底人を見ることになるのはごめんだ。こんなやつらのために。


 金属が軋む音と共に電車が揺れ、私の体はサラリーマンによって今しがた閉ざしたドアに押しつけられた。その中で身をよじり、ゆっくりと後ろを振り返る。二枚のドアガラスに隔たれた先の、いまだ床に横たわったままの男に目を向ける。まだ中にはぽつぽつと人が残っていたが、彼らは一様に無関心を装っていた。携帯。パソコン。本。いくつも存在している目玉たちは、下を向いた状態でそれらに釘付けにされている。がたん。ふたたび車体が大きく傾き、ドアが横にスライドして隙間ができた。取っ手を力強く握り、渾身の力でそれを逆の方向に引く。固いもの同士がいきおいよく打ちつけられる音がして、近くにいた何人かが肩を震わせた。電車はなおも揺れている。ガラスの表面にぼんやりとうつり込む私のぬれせんべいが、床に広がった吐瀉物と重なっていた。


 目を閉じると、電車の振動や他の人の肌の熱、てのひらで包んだ取っ手の硬さだけが、私の領域をぼんやりとした線で囲っているのがわかる。とても、気持ちがいい。心が少しの乱れもなく澄んでいくのを感じつつ、サラリーマンの体を押し返す。















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゾーンディフェンス 大滝のぐれ @Itigootoufu427

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ