私といつかの死地とけもの




 考えてみればそうだった。当時も、ちょうどこんな風に似たような家族の似たような母親(父親だったかもしれない)が似たようなことを喋っていた。私は見事にそれに感染し、快復した翌日に学校が閉鎖になったのだ。そして数日後、それを契機に出された課題を終えたとき、所属していた吹奏楽部の顧問に呼び出されて部活に参加させられた。親は特にその学校の決定をふいにするような独断については、なにも言っていなかった気がする。いってらっしゃーい、などとのんきにつぶやいて。


『治ったやつや、かかってないやつはな、どうせ暇なんだから部活に出てこさせればいいんだよ』


 音楽準備室にて、顧問が様子を見に来た別の教師に笑いながらそう話していたのを覚えている。心配です、子供たちが。ええ、本当に。テレビの中から、どこかの母親の不安げな声が聞こえてきた。


「舞美はどうなの、最近」

「え、なにが」

 口の端にわだかまるモツを飲み込むと、三杯目のハイボールを飲み終えて顔を紅潮させた由依がこちらを見ていた。


「えっ、て。いろいろあるでしょ鮎子みたいに。大変なんじゃないの」

「たい、へん……ああ、まあ。今日ほんとは面接だったんだけど延期になっちゃったな。採用止めてるところもあるみたいってハローワークのおばさんも言ってたから、まあ仕方ないかなって」

「やっぱりそうなんだ……バイトとかしてないんだっけ」

「うーん、してたはしてたんだけど、就職狙いだから長期のバイトをするのためらって単発の派遣でいいかーって思っててしてなかったんだよね。そしたらこんなことになって。おかげでまったく収入がなくてさ。就活も長引くし。こんなんだったらコンビニとか本屋とかで働いたほうがよかったかな。あ、でも今でもやろうと思えばできるか。ごめんね、ちゃんと嫌なことも頑張ってるふたりの前でこんな話して」


 いくら軽傷で済む可能性が高いとはいえ、やはり死ぬ危険が少しでもあるなら、そのリスクは避けたい。だから、別に仕事など強制されるイベントがなにもなく、それでとりあえず生活ができているなら、部屋の中で地底人から身を守ったり拡大させないようにしたりすることが最善なのではないか、という気持ちがないといえば嘘になる。でも、それではあまりに申し訳がたたない。大して情熱を持って取り組んでいないこと、生きるために仕方なくしていることにやむを得ず命をかけ、休日を快適に過ごすとかやりたいことなどに影響を与えてもなお、鮎子や由依は自らを優先するわけにはいかないのだ。いってしまえば私も外には出ているが、それよりも断然リスクは高い。


『おはよう、窯倉さん。昨日はあなたが欠勤したせいで大変だったんだから。今日はきっちり働いてもらいますからね』


 まだ働いていたころ、祖父の一周忌で仕事を休んでその翌日出勤した私に、二十も歳の離れた上司はそんな嫌味をぶつけてきた。なんでも、進めていたある仕事の根底を揺るがす大規模なミスが発覚し、出勤していた社員総出で終電間際まで修正作業をおこなったのだという。

 普段めったに残業など発生しない職場だったため、余計に不満が募ったのだろう。彼女のように直接私に悪意をぶつけてくる人こそいなかったが、他の上司たちもその日はずっと私に恨みがましい視線を送ってきていた。きっと、あれも同じだったのだ。いくら身内の死にまつわる用事だったとしても、上司たちにとっての仕事が終わった後の時間は同じくらいの重さで、重要なものだったのだ。いくら「こうするのが最善だから」「いちばん合理的だから」と言われたところで、納得なんてできるはずがない。だって、自分以外の人間は、どこまでいっても他人でしかない。もちろんそれは鮎子と由依にとっても例外ではない。心のどこかでこの無職がよ、お前はいいよな、と思っていても、私はそれを糾弾できない。


 だから、大きな脂の膜がいくつも浮いた鍋から私は目を離すことができなかった。しかし、それは鮎子の声であっけなく破られる。

「なにいってんだよ舞美。あ、どうせあれでしょ。自分はふたりほど大変で辛い立場にいないからとかうじうじ考えてたんでしょ」

「別に気にすることないよ。まあそう思ってないとはたしかに言い切れないかもしれないけど。でもそれってしかたないんじゃないかな。舞美のせいじゃないよ。地底人とか、今まで積み上がってきた負債みたいなものとか、後はそうだな、わたしのクソ上司みたいな人やネットで日本語によく似た意味不明な言葉を使ってる人とか? とにかく、そいつらのせいだよ」

「で、でもさ。その人たちだって、きっとなにか事情があるんだと思うのね私は。だってそうでしょ。例えば、今ここで私が自分のぬれせんべいを粉々にして、このもつ鍋の中に入れ始めたらどう思う。嫌でしょ」

「ま、まあ」

「そうだな」

「でしょ。私も鮎子も由依も、もちろん嫌だな、食べたくないなって感じる。でもきっと『種』なんて熱いところに入れたら絶対に百パー死ぬ、問題ない、って考える人もいると思うんだよ。自分の思考とか、後は経験にもとづく考えとかによって。でも実際それを見たら、私たちはその人に文句を言うよね。理論が違うから。そういうことなんだよ。人の考えや行動に積極的に介入するってことは、責められないと思う。ましてや、今みたいに自分の生き死にがかかってるなんてときは。でも、私はできればそんなことをせずにいたいよ」

 これは自分の問題だ、己で作り出したゾーンなんだ、だから他人の領域やぶつかり合う壁を侵したり破壊したりせずに、それをひっそりと守っていたい。そのうえで、別の人の境界と部分部分で溶け合ったりやわらかく受け流したりして、要素をゆっくりと共有していきたい。そう思ったが、口には出さない。久しぶりの楽しい時間に、これ以上私個人のよくわからない考えで水を差すのは嫌だった。


「なんてね。私はそう思ってるだけ。無職が偉そうにごめんね」

「だから、そう自分を下げないでって舞美」

「そうだよ。ま、とりあえず飲もう。まあ、なんとなくわかるし」

「うん」

 由依が店員を呼んでいるのを聞きながら、中身が少なくなった鍋の中に浮く脂を菜箸でいじる。いくつかの小さな円が大きなものと融合していくさまを見ていると、思わず笑みがこぼれた。


 そのとき、テレビの画面に『地底人発生 若者が広げている可能性』という大きなテロップが表示された。ほどなくして日本地底人研究所の所長が記者会見をしている映像に切り替わると、彼の会見をバックにアナウンサーが淡々と原稿を読みあげていく。若者は行動範囲が広くて出歩く機会も多く、また地底人による被害も擦り傷程度のものになることがほとんどのため、気づかず広範囲に地底人を広げてしまっている可能性がある、だからより一層の自粛を、命を守るためにお願いします。だいたいそういう意味の言葉が、長々と垂れ流された。


「あーまたこういうやつ? はいはい、悪いのはどうせ若者ですよっと。毎月手取り十四万で自粛するほどの金があるかっつうの」

「お前らが変なことばっかりするからこっちもびくびくしながら仕事してんのにね。ていうか遊んでんだろうがよ普通に。パチンコとかクルーズとか行きやがって。わたしたちだってローマとかナイルとか行きたいよー」


 身をかがめ、鮎子と由依がひそひそ話を展開する。通路を隔てて隣のグループがちょうど四十から六十代くらいに見える男女の集団だったため、そちらに聞こえないよう気を使ったのだろう。しかし、そちらのグループもビールやもつ煮込みを胃に流し込みながらテレビの画面を注視していた。どちらも、お互いのことは視界に入っていない。

 本当に、そう思ってる? 私の中で、誰かがぽつりとつぶやいた気がした。昨日食べたケーキを、今まで自分の機嫌をとるためにしたあらゆることの感覚を、手当たり次第に思い出していく。

「やっぱだめだな最近の若者は」

「馬鹿ばっかだよまったく。おれたちの迷惑も少しは考えてほしい」

「いいよね、この子たちは自分たちが軽症で済むと思ってるから。なんかね、今日私の部下の子が『こんなご時世ですので会議は回数を抑えたほうがいいんじゃないですか』とか『テレワークとかうちの会社もやってほしいですよねー』とか言ってたから喝入れちゃったわ。わたしらみたいなベテランはともかく、あんたみたいな経験の浅い若手が出社してこないで仕事のなにがわかるっていうのよ」

「タレワーク、テレワーク? だっけかね、あんなのしたってサボるだけだよね。だいたいなにができるっていうのかな。あんなのせいぜい事務仕事くらいだろ」

「インターネットなんか不安でしょうがないもんな、実体がないから」

「こんなこと許したら、二言目には『もっと休みください』『給料上げてください』とか言い出すぞ」

 湿った高笑いが響く中、店員が追加のビールや炭酸入りのお酒らしき液体が入ったジョッキを持ってやってくる。

「ありがとう」

 彼らの中で唯一聞き耳を立てているだけだったおじさんがそれを受け取り、ビールの人、レモンサワーの人、と声に出しながら配っていく。胸元にはすっかり見慣れたぬれせんべいがあったが、器や机につかないよう身をかがめたり体を引いたりしているのは彼だけだった。他の人のそれは、取り皿の口をつける部分にひっかかったり、無造作に外されて机上に置かれたりしていた。


 なにあれ。鮎子がその形に口パクをしてから笑顔を作る。無言でジョッキを打ちつけあうと、少しだけ胸のもやが晴れていくような気がした。気がした。そう、言い聞かせる。

「あれでも舞美は擁護するの」

「まあほら、皆が皆あんなわけじゃないじゃん。きちんといろいろ勉強したり思いやりを持ったりしてる人もいるんだし。だから私たちもそうならなきゃ」


 本当に、そう思ってる? また、あの声が響く。言っているそばから言葉がぐらぐらと揺れているような気がした。新しく運ばれてきたビールを半分ほど飲み干したころには、ニュースの内容もグループの話題もとっくに違うものに変わっていた。私はほっと胸をなでおろす。昨日の真夜中にネットで見かけた漫画が面白くてね、という話をしている由依たちの会話に混ざろうと、体の向きを変える。その瞬間、カーディガンのポケットに突っ込んでいた携帯が振動した。


「あれ、今日面接予定だった会社からだ」


 トイレに立つことを申告するときのように、軽くふるまったつもりだった。でも、私たちの共有する空気へ、送られてきたその文字列は大きな波紋を作った。

「舞美、飲も」

「そうしよそうしよ」

 鮎子たちのやわらかな声を透過し、隣の席のばか騒ぎが聞こえてくる。一度は潜行していったはずのなにかが、ゆっくりと足元から携帯を握る指先へと這い上がってくる気がした。気がした。もう、思い込むことはできない。


『窯倉 舞美様 お世話になっております。株式会社トッケイヤモリプロダクツ 採用担当の新谷と申します。この度は、弊社にご関心をお寄せくださり、誠にありがとうございます。今回の採用についてですが、地底人の発生拡大の影響により、一旦、採用活動を見合わせることになりました。弊社は通年採用を行っておりますので、また次の機会にご応募いただければと思います。多くの企業から弊社に興味をお寄せくださったことを感謝すると共に、窯倉様のより一層のご活躍をお祈り申し上げます』















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