第7話
「丸島さん、今日は竜田揚げ定食なんですね」
「うん。きつねうどんブームは過ぎたんだ」
几帳面に七三分けにされた黒髪に、レンズの分厚い黒ぶち眼鏡。くたびれているのか痩せた肩を少し落としながら席に座っていた丸島さんの隣には、後輩と思われる男性がいた。
お揚げの入ったみそ汁を啜ってから白米を片手に竜田揚げを頬張った丸島さんが、私の視線の先で美味しそうに目を細める。丸島さんの頭の上にいるお稲荷様も同様だ。
「お揚げ作戦、上手くいったな」
「ヨッシャヨッシャ!」
私の提案を取り入れたおきっつぁんの「副菜お揚げさん祭り」は無事功を奏したらしい。いつもよりもきつねうどん定食が出ることが少なくなり、私とおきっつぁんはキッチンでこっそりガッツポーズを交わした。
ヤエ婆ちゃんに言われた通り、お客さんをよく見る事を心がけようと思った私は、今日はホールを優先的に担当させてもらう事にした。年齢や性別といった客層だけではなく、お客さん達がどんなことを話し、どこから来ているのか知りたかったからだ。そんな中で、豚の生姜焼き定食を一番に頼んで凄い勢いでかっこんでいた男性が、「ほむやん! お勘定!」と五百円を取り出した。
「はーい、五百円でーす」
「今日も旨かった! また明日!」
「お待ちしてまーす!」
食べてすぐなのに、小さな車のキーホルダー付きの鞄を持ってどたばたと大急ぎで駆けていく男性を、私はぽかんと口を開けて見送った。
そんな私に、「ほらソラちゃん、速くテーブル片付けないと次のお客さんが入れないよ」とヒメ姉が急かしてくる。
「あ、ご、ごめん。すぐやる。……今の人、いつも忙しそうにしてるやんね」
「あー、
「二十分!?」
キッチンに皿を持っていきつつコソコソと話す私に、レジ側にいたほむやんが「遠くから来てくれてるんだよぉ」とにこやかに笑った。
五百円のランチを食べるために、一時間の昼休みの内、三分の二を往復に費やしてもここに来るのかと目を剥く私の後ろで、テーブル席の人の会話が耳に入る。
「そんで貯金、上手くいってるの?」
「いってるいってる~! ここでもりっと栄養たっぷりのを食べて、家で粗食。そりゃ財布も潤うってもんよぉ」
「白米おかわり無料なの有難いよな~」
若いサラリーマンの三人の男性が、大盛りのご飯を片手にそれぞれのおかずを頬張っている。
確かにワンコインランチで一汁三菜を出す『もえぎ』の定食は、栄養バランスもしっかりしていると定評だった。新卒のまだ薄給の人からすればお財布に優しいのもあるんだろうなと思った矢先、「猫元気になればいいな~」と三人の内の一人の男性がそんな言葉を口にした。
「……猫」
「お、新人さん。ソラちゃん……だっけ? 見る? 俺の猫」
「
貯金をしてて猫を飼ってるという木瀬さんが、私にスマホの壁紙を見せてきた。そこには金色と青色のオッドアイの白猫が映っており、あまりの美猫ぶりに「可愛い~!」と素の声が出る。
「だろ~! うちの姫よぉ。病弱な所がこれまた薄幸美人……美猫だろ」
「それで貯金、ですか」
「そーそー。こいつがどんな病気しても病院に連れてけるように、ちゃんと貯めてんの」
「彼女よりお金使ってるよな」
「よせやい」
あははと笑い声を上げる三人を前に、私は思わず目を瞬かせた。おきっつぁんから「鯖の味噌煮定食一丁あがり!」と声が上がったので、挨拶もそこそこにその場を持して定食を運びに行った。
「お疲れ~!」
「お疲れ様~」
早く帰る日だったのか、ほむやんとヒメ姉が二人揃って閉店後の店を出ていく。仕込みの最終作業に入ったおきっつぁんの横で、私は冷蔵庫で冷やしていたクッキー生地を取り出した。
「ん、次はクッキーにするのか」
「うん」
プレーンの生地とココアの生地。麺棒で伸ばして型抜きで丁寧に取り上げながら、オーブンシートの上に乗せていく。
「吹き出し?」
「面白いやろ。みっけたから
「ふーん。ていうか、お前がよく作ってた綺麗めなデザインのとは違うんだな」
オーブンシートに並べられたクッキーを目にしたおきっつぁんの言葉に、私は苦笑しながら頷いた。
私がよく作っていた綺麗めなデザインのクッキー――つまりケーキ屋で出すクッキーボックスや贈答品用のものは、綺麗な丸だったり花や葉っぱの形のものが多かった。プレゼントとして行き先が決まっているクッキー達の形は、オーソドックスなものに限る。そこから外れたものは受けないからだ。
だが、今回私はココア生地とプレーンの生地を両方使って、家で作るような素朴な可愛らしいデザインのクッキーに拘ってみた。
パンダや犬、猫など、動物を中心としたクッキーはそれぞれ表情を変え、笑顔のものや八の字眉、ちょっぴり泣いてる子もある。
吹き出しのクッキーと一緒に焼き上げ粗熱を取り、吹き出しクッキーの方にはアイシングを施した。いわゆるアイシングクッキーというものだ。
「『ごめんね』?」
「『いつもありがとう』もあるよ」
婆ちゃんにヒントを貰ってからお客さんを注視したこの一週間、私はお客さん達がなんで『もえぎ』に拘っているかを自分の視点で解釈してみた。
ワンコインランチはお財布に優しい。でも、それだけじゃない。もっと安く上げたいなら近くにコンビニだって色々あるし、究極自作の弁当を持参という手もあるのだ。それでもなおこの店に通うのは、安くて美味しくて、しっかりした栄養の取れる定食をお客さん達が望んでいるからだと私は思った。
そしてそう努めるのは、何も自分のためだけではない。
――いつも大急ぎでご飯を食べて出ていく山尾さんは三児のパパで、昼食代用に貰っている小遣いで浮いたお金でおもちゃを子供達に買ってあげるのが好きだった。
――病弱な猫を飼ってる木瀬さんは、猫が病気にかかってもすぐに病院にかかれるようにしっかりと貯金をしていた。彼女さんより猫優先で、彼女さんがちょっとむくれているとかなんとか。
――きつねうどん地獄から解放された丸島さんは、奥さんと土日におでかけデートをするのが趣味だという。そこでいつも美味しいコーヒーを奢ってしゃべるのが楽しいのだと言っていた。
昼食を安く上げても健康志向で、そう在る事を心がける人達。それが、定食屋『もえぎ』のお客さん達なのだ。
一家の大黒柱として働く人が、長くずっと健康に働けるように、好んでこの店にやってきていたことを私は知った。
「お客さん向けのスイーツじゃ駄目やってん」
アイシングクッキーに文字を描きながら、私は見守ってくれているおきっつぁんに語る。
「お客さんのその先を見んと。お客さんを笑顔にするだけやない。皆や。お客さんのその先にいる、家族も友達も恋人も、皆笑顔にせんと」
「ソラ……」
「ここに来る人らは、自分も大事にして、他人も大事に出来る人やから。だからきっと神様にも好かれるんやね」
「!」
驚いた顔をするおきっつぁんに、私は悪戯っぽそうな顔で笑った。
だって、働いていたら分かる。丸島さんにつく神様も、山尾さんにつく神様も木瀬さんにつく神様も。ずっとずっと、一緒なことを。
「好きな人と、神様は一緒にご飯を食べたい。この『神様の台所』は、それが叶う場所なんやろ?」
「…………」
おきっつぁんの顔に、ほどけるような笑みが浮かぶ。
そうしてガシガシと強い力で頭を撫でられ、「お見事!」と腹の底から大きく出した声で褒められた。
「一つ正解だ!」
「ひ……一つ!? まだあんの!?」
「あるぞー。でも、ソラの言ったのは根っこの大事な所だからな。全部正解でもいいぐらいだ」
「えー……」
「ま、ともあれまずはそれを仕上げろ」
「大丈夫だ」とおきっつぁんが腕を組む。
「この
「これ、一つ貰えますか?」
次の日、レジ横に並べていたアイシングクッキーとコーヒーのセットを、丸島さんが指さしてそう言った。
丁度その時皿洗いをしていた私は、ほむやんに呼ばれてあわあわと駆け付ける。
「お、おひとつですか! 色々デザインがありますが……」
「あぁ、この『いつもありがとう』で。妻にあげようかなと」
「愛妻家ですね~。じゃ、俺この『お疲れさま』クッキー貰おうかな」
「あ、ありがとうございます!」
「会社の丸川さんにあげて、脈チェック!」と意気込む後輩に、丸島さんが「下心は見抜かれますよ」と窘めながらクッキーを片手に出ていく。
ぽかんとした顔で見送る私の前に、今度は木瀬さん達が立った。
「俺、この『ごめんね』クッキーがいいな。一緒に会計いい?」
「あ、ま、まいど!」
「あはは。東京で久々に聞いたよそれ」
「えっ」
まさか関西の人!? と驚く私に、木瀬さんが言葉を続ける。
「俺、神戸出身なんだよね~……って言うと」
「ほら出た神戸市民の選民思想!」
「兵庫県出身って言え兵庫県って!」
「って言われるからヤでさぁ! もー、兵庫県でけぇんだって! 北と南で違いすぎるの!」
「だから神戸って言ってるだけ!」と言いつつ会計を終えた木瀬さん達が店を出て行った。
呆気に取られる私の前で、今までの不景気が嘘だったようにクッキー達が売れていく。キッチンのおきっつぁんに思わず目を向ければ、「言ったろー?」と親指を立てられた。
『うちのお客さんがどこから来てるか。どんなお話をしているか。そういうのに一度耳を傾けてみなさい。世間一般の客層の視点じゃなく、うちのお客さんをよく見るの』
婆ちゃんの言葉が、頭に浮かぶ。
きっと私の店の失敗は、そこにあったんだと自覚した。
受賞歴を振りかざすことなく、お客さん自身を見ること。流行りや客層でスイーツを選ばず、お客さんのその先を考えること。
お客さんが欲しいものではなく、お客さんが誰かにあげたいと欲するものもよく考えること。
駅チカバトルなんて、土俵にすら立てていなかった。一番大事なこのことを、私は見失っていたから駄目だったとようやく分かった。
閉店した『もえぎ』の店内で、売り切れたスイーツボックスを見ながら私はちょっと泣いた。
「ソラちゃん、良かったねぇ」
「やったねソラ~!」
ヒメ姉とほむやんと手を取り合って飛び上がって喜び、背を押してくれたおきっつぁんに「ありがと~!」と声をかけた。
「ソラのお菓子は美味しいから、きっとこれだけ売れたらリピーターだって出来るよぉ」
「『もえぎ』のお客さんも、広告効果でさらに増えるかもねぇ。お弁当頑張らないと」
「その時はさすがに二人にも手伝って貰うからなー」
「えー!」と声を上げる二人に私はくすくすと肩を震わせる。
「大丈夫、私もちゃんと手伝うよ」
「助かる! 甘くはすんなよ?」
「あほ! お菓子ちゃうねんからするかい!」
ケラケラと笑う三人に、盛大に突っ込みながら私も満面の笑みを浮かべた。
自分のお店は潰れたけれど、パティシエの夢は、私のスイーツで皆を笑顔にしたいという夢は、まだ潰えていない。
その再生の一歩を、私はこの定食屋『もえぎ』で、今一度踏み出したのだった。
神様の台所 佐藤 亘 @yukinozyou_satou
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