第6話


相変わらず食欲は出ず、食事自体は出来なかったが、幻聴だと思っていたものが単なる隣人の禁断症状だと知ってホッとした半面、これから二十四時間付き合っていかなければならないと思うとウンザリした。

もしかしたら病院の選択を間違えたのかもしれない。そう思っていた矢先にガラガラガチャガチャという音と共に、一人の女性が入ってきた。


「網倉さんですね、今日から点滴です。よろしくお願いします」

生真面目な性格なのだろうか。随分と丁寧にお辞儀をして彼女は準備を始めた。


「二種類ありますので、だいたい二時間くらいですね」という彼女に、俺は現在時刻を尋ねた。点滴針を右手に打たれたところで、回診の主治医が来て様子を聞いて行った。主に頭痛と胃腸の事だったので正直に答える。胃腸薬がもう一種類増えるらしい。それだけを確認して颯爽と行ってしまう。と、同時に点滴も始まり女性も退室していった。逆の隣室では未だ顔も分からない男性が相変わらず何やら呻いていた。


点滴というのは退屈だ。俺は長らくそう思っていた。だが昨夜の疲れもあってか気が付けばすっかり寝入っていたらしい。二つ目に変えますねの一言に曖昧に返事をした記憶を最後に、いつの間にか今日のノルマは達成していた。点滴の針を抜かれる。ポツンと血が滲む腕にガーゼを当て尋ねてみる。


「この点滴って何日間くらいやるんですか」

「最低七日間ですかね」


想定していた以上に最悪だった。

と言うことは七日間はこの独房に籠っていなければならないのか。

そう思った俺の心を読んだかのように「でもそれより早く大部屋にいっても続けますから」と慰めるような言葉が飛んできた。

たくさん新しい人が来ますから、そんなに長くいる部屋じゃないですよ」と何故かドアの外で待機していた若い男性も言葉を添えてきた。



隣の女がまた泣き出した。

運ばれてきた昼食の御粥の湯気に吐き気をもよおしながら、何とか二、三口だけ飲み込んだ。食後の薬を渡しに来た看護師は「食べられないうちは点滴の日数も伸びますよ。頑張って」と励ましてくれたが、とてもそんな気力は無かった。

隣の男は自分で用を足すことも出来ないらしい。男性看護師の慌ただしい声が数人分聞こえた。


頭の働きが鈍い気がしたが、相変わらずすることもないので、昨日渡された書類に目を通してみた。大半が自分でも確認して署名した書類だったが、その中で二種類だけ引っかかるものがあった。


入院療養計画書というものと、まあこれは所謂ただの今後のスケジュール表みたいなものなので「思っていたよりも過密だな」くらいだったのだが、問題はもう一枚の入院に際してのお知らせの方である。その中の一文に


【あなたの入院は任意入院でありますので、あなたの退院の申し出により、退院できます】


と書いてあることだった。厳密にはその後に、正し特定医師の許可が必要といった文もあり、そこまででワンセンテンスなわけだが、俺の目はすっかりと前半部分に持っていかれてしまった。これはもしかしたら、四か月待たずに帰れるんじゃないかと思ってしまったのだ。


自分で入院を決めて、どうせならと言ってここに来たにも関わらず、実に身勝手で言い訳がましい話なのだが、思っていたよりトントン拍子で入院が決まり、短期とは言え妻とも離れ、仕事にしても本当に最低限の引き継ぎしかできなかった。

これで毎日検査だ何だのと忙しければ気も紛れたかもしれない。

だが現在、俺の震える手に残っているのは有り余る「暇」だけなのである。想像よりも過酷な環境に心が折れかけているせいもある。


「もしも一ヵ月早く帰れるならアレだけは」から始まって、それが飛躍していくのに時間はかからなかった。そして一度思ってしまった希望を断ち切るのは思った以上に困難だった。

気が付けば、そのうち機会があったら先生に相談してみようと、そればかりを考えるようになっていた。そしてその機会は思いもよらず早く来た。来てしまった。


最初の異変を自覚したのは入院してから何日目かの朝だった。

まるで前日遅くまで飲んでいた翌日の様に酷く頭が痛んだ。眩暈も酷い。

例によって鉄格子の隙間に置いてある温くなった水を飲もうと立ち上がった矢先、不意に足がもつれ左右の壁に一度ずつぶつかった。


思い当たる理由もなくふらつく自分に動揺しながら、ここ数日間のことをぼんやりとした頭で考える。

もともと環境の変化に強いと言えない俺は、確かに疲れがとれていないような気がしていた。もっとはっきりと言えば疲れていた。時間に追われるような事はなく、いつでも横になれる環境にいる。

特に点滴をうけている最中など横になっているしかないのだから、毎回いつの間にか浅い眠りに落ちている有様だった。それ以外の時間も薬を飲んでは、まるで景色の変わらない窓の外を眺めながら、まどろみの中を泳ぐようにすごしていたのだが、睡眠というのは累計で計算するものではないらしい。


とりあえずもう一度布団へと戻り、無駄なあがきだと頭の片隅で思いながら目を閉じる。朦朧としたまま何分くらいが経ったのだろうか。

いつになっても聞き慣れない金属音で瞼が開いた。俺は寝ていたのか。いや意識はきちんとあった様な気もする。ただ上手く頭が回らなかった。体を起こすことが出来ない。朝の薬ですよと、珍しく男の補助員を連れて入室してきた看護師から、薬の入った袋を横になったまま受け取った。瞬間、五粒の錠剤が滑るように掌に落ちてきた。


「ああ、もう袋のこっち側切ってあるので気を付けて下さいね。ちゃんと飲めますか?」と聞きながら水で満たされたプラスチック製のコップを手渡してくれた。

俺がそれを飲み干すのを見届けながら彼女が尋ねてきた。


「今日は何日で、ここはどこですか?」


何を聞かれているのか理解するのに数秒を要した。喉が渇いている。俺の呂律は大丈夫だろうか。


「ちょ、ちょっとだけ待ってください。あれ、入院したのが何日だったっけ?今日は、ええと。さ、三十日?場所は、アレです。病院です」

「何病院ですか?」

「あ、あれ、何だっけ。ちょっと度忘れしてしまったみたいで」


俺は初めて離脱症状で幻覚をみたと思った。


横になったままの俺を見下ろし、彼女は確かに微笑んでいた。

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