第5話

俺の少ない人生の中でも入院という経験は二度ほどあった。

一度目は小学校高学年の頃、急性の虫垂炎で運ばれた。その時は特に苦労することもなかった。当時はまだ子供だったし、手術自体もそれほど難しいモノでもなく、これといった不安もなかった。

学校自体は嫌いではなかったので、早く退院して、またクラスメイトと遊びたいくらいに思っていた。二度目はそれから十年ほど経ってからだった。

まだ生活にも困窮していた俺は都内の安アパートで深夜急に呼吸が出来なくなった。一緒に住んでいた女性が慌てて救急車をよんでくれ、そのまま入院した。栄養失調からくる肺炎だった。当時昼夜なく働いていた俺にとって、病院での規則正しい生活は苦痛だった。夜の九時に消灯とは、と本気で思った。いつもならこの時間から働きに行く日もあったくらいだからだ。

未だ院内に喫煙室があった時代だったので、眠れない夜は頻繁に煙草を吸いに行っては、当直の看護師に「なんで入院したか分かってる?」とよく叱責をうけていた。それからまた十年余り、当然この病院でも消灯時間は決まっている。多少の不安にかられつつ、ほとんど空っぽの胃に今度は消灯前の薬を流し込んだ。


しばらくして薬効があらわれたのだろう。気づかないうちに俺は少し眠ってしまっていたらしい。鉄格子越しに見えていたはずの空は、薄いカーテンで閉ざされている。先程までの恐怖とは違う嫌な感じが胸の中に広がっていく。

一体今は何時なんだろう。そう思いながら慌ててそのまま横になることにした。寝ていろと言われているのだから、ただ寝ているのがゴールまでの一番の近道だと思ったし、それ以外に出来ることなど何一つ思いつかなかったからだ。だが何度眠ろうとしても一向に眠くならない。枕元ですっかり温くなったお茶を一口含み、俺は起きてしまったことを後悔した。睡魔というものが本当に存在するのならば、今すぐこの瞼の上に来てほしいと切に願った。


アルコール依存症患者の禁断症状というのは、一般的に入眠時に最も酷いのが来やすいと言う。禁断症状から逃れる一番手っ取り早い方法は、さっさと寝てしまうことなのだ。

俺は震えの出始めている手をカメラに向かって必死に振った。もはや目は完全に覚めてしまっている。導入剤でもなければ、とても眠れそうに無い。幸いと言っていいものか、俺は今までにも何度か長期の禁酒を自力でしたことがあったが、その時も禁断症状と言えばせいぜい悪寒と身体の震えくらいで済んでいた。俗に言う幻覚、幻聴の類を経験したことがなかった。


だが今夜ばかりは違った。すすり泣きながら、それぞれ違う女の名前を呼びながら謝り続ける女の声。

「うぅうぅ…痛い…痛い」と呻いては、時折怒鳴り散らす男の声。

擦れるシーツの音に、遠くの方では一定のリズムで遠雷にも似た音がする。


俺は心底恐ろしくなり、いつまで待っても一向に来る気配のない看護師を待ちつつ、薄い掛布団を頭から被り只々震えていた。差し伸べられた紫色の錠剤を二度ほど床に落としながら何とか飲み下すまで、俺はどのくらいそうしていたのだろうか。


「網倉さん朝のお薬ですよ」


俺は生まれて初めて自分の耳を疑った。つい今しがたまで震えていたはずではなかったのか。今もって尚、あの幻聴が耳に残っている。

「昨日は追加のお薬飲んでからは良く眠れました?」

四錠の薬を掌に置いてもらい、注いでもらった水で嚥下して答える。

「ええ、おかげさまで、まぁまぁ。ぐっすりって程ではないですけど。」


これだ。これが良くないとはわかっていながら、俺はこの悪癖を治せないでいる。


「じゃあ一応確認しますね?今日が何日か分かりますか?ここはどこですか?」


このわずか数分間の間で二度も自分の耳を疑うという機会を得ただけでも、入院したかいがあったというものだ。

なるほど、どうやら入院が必要なのはこの看護師の方らしい。どこをどう見て俺が認知症の患者に見えるのか。俺は苦笑いしながら、少し冷静になった頭で答えた。

「五月二五日、芝原病院かな」

「はーい。大丈夫そうですね。もうすぐ朝食お持ちしまーす。で、昨日は午後からの入院だったので出来なかったんですけど、今日から午前中の回診前くらいから点滴になりますね」

キビキビとした動作で持っていたバインダーに手早く何かを書き込んだ後、彼女は部屋を出て行った。すぐにまた例のガチャガチャという音がした。

「斎藤さーん、朝のお薬ですよ。起きられますか?」という彼女の声が隣室から届いた。


「ごめんなさいぃ。ごめんなさいぃ」と昨晩から延々と聞かされた女の声がそれに続いた。


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