第4話


「ここは本当に何もないからね。ここにお茶二つ置いといたから」と金属の柵の外から声がかかった。見ると先程とはまた違う屈強な男がこちらを向いていた。

「本当にそうみたいですね」

俺はせんべい布団から腰を上げ、鉄柵のそばに近づいた。柵の隙間に二つの紙コップが置いてある。中には並々と茶色い液体が入っていた。

「いただきます」

喉の渇きに今初めて気がついた。こぼしてしまわない様に一つを持ち上げ、一気に飲み干すと、男が金色の薬缶から再びお茶を注いでくれた。

「で、僕はここで何をすればいいんですかね」と男に聞く。答えは至ってシンプルなものだった。

「食べて、眠る。あと、もうちょっとすれば検温の看護師さんはくるかな。主治医の先生と一緒に。あ、あとここは病室じゃないからナースコールとかないからね」

その言葉に俺は改めて辺りを見回す。

「じゃあ何かあったらどうすればいいんですか?」

「昼間は俺みたいなのが一時間に一回通るからその時に声かけて。そこのトイレもこっち側のこのレバーで流すからさ」

俺は思わずトイレを見下ろした。ここに出しっぱなし。タイミングが悪ければ一時間も自分の排泄物が。と考えた時に、食事はなるべく取らない様にしようと思った。

この部屋の作り全体が改めて酷く屈辱的に思えた。脳内に彼女の声が聞こえた。

「初めは個室でー」彼女の説明を責める気にはならなかった。おそらく事前に調べたホームページにはそう記してあったのだろう。ただ、俺の未熟な語彙力を総動員して言わせてもらえるのであれば、ここを個室とは呼ばない。牢屋だ。


「あと昼間はまだ巡回マメだからいいけど、夜になったら何かあったら窓に手を振ってね」

「窓?」

「見えるかな、あれ。あれカメラだから。そうしたら来るから。うちも人手不足でさ。じゃあよろしくね。頑張んな」


その後、俺が以前読んだ脱獄小説を思い出している間に、ガチャガチャと急な音と共にいきなりドアが開いた。

ノックという概念すらないらしい。ますますトイレには行けなくなった。入ってきた看護師と主治医は、俺の外傷の有無を確認し、問題がないと分かると血圧を測りながら、次は夕食を六時に、その三十分前に薬を持ってくると言った。

それとこれを読むようにと入院までの契約書の類と規約、今後のスケジュールを置いて行った。

そこで気が付いた。俺には時間を知る術がなかった。格子の外に少し大きめの時計らしきものがあるのは分かる。普段の俺ならば困ることもないのだろう。だが裸眼の俺には、そのぼんやりと歪み、分身した時計の針まではとても見えなかった。


地獄はここから始まった。


人間いきなり「何もするな」と言われても困るものだ。

世間一般では悪く言われがちな引きこもりと言われている彼、彼女らも別に何もしていないわけではないのだ。

彼らからパソコンなりゲーム機なりテレビなりを取り上げたとしたら、おそらく発狂するのではないだろうか。

それらは彼らにとって娯楽であり、また一つの世界でもあるからだ。

だが今の俺が置かれている状況は本当に「無」だった。


ここでそれらの物とは言わずとも、紙一枚、鉛筆一本あれば俺は存分に休暇という名目を楽しめることだろう。だがここで俺に命じられた任務は食べて寝る、それだけだった。

本一冊持ち込めない部屋で只々座っていても気が滅入るだけなので、開き直って横になってみる。次から次へと湧いてくる雑念をほどくために何度か寝がえりを打っているうちに五時半になったのだろう。看護師が夜のお薬ですよと錠剤が三粒ほど入った透明な袋を持ってきた。体を起こしソレを受け取る。

俺は割と何でも知りたがる性分なので、その一粒一粒の名前や効能や出来ることなら副作用くらいは聞きたかったのだが、というより実際聞いてみたのだが、返ってきた返答は「主治医に確認してみます」のみだった。


ちなみに、このやり取りはその後五回ほど続き最終的に俺の方から投げ出した。だが一つだけ俺にはどうしても聞かなくてはならない疑問があった。これだけは何としても答えてもらわなければならない。


「あの、この隔離って言うのは何日間なんですかね」

看護師は打って変わってマスク越しにもわかる程の素敵な笑顔をくれた。

「網倉さん次第ですね」

その顔を見て、冷水が背中を伝った気がした。

「え…三日とかですか?ヒマでしょうがないですね」

俺は努めて明るい声で話してみたが、返事は先程と変わらない簡潔なものだった。

「網倉さん次第です」

俺は黙って看護師を見返す。立ち上がり渡された薬を飲むためにもう一度鉄柵まで歩くと、完全に酔いは醒め、いよいよ興味より恐怖が勝ってきた。

どんな辛いマラソンにだってゴールテープは引いてあるのだ。

目視できずとも「ここまで行ければ終わりですよ」と教えて貰えれば、意外と走れるものなのだ。


俺次第。


では何を基準にそれは計られているのか。


その後届いた夕食に俺は一切箸をつけられなかった。


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