第3話


当日、二日酔いの頭を抱えて妻の運転する車に母と乗り込んだ。

道すがら一軒コンビニに寄った。およそ二時間のドライブのお供の最後の一杯を買う為にだ。

妻もそのつもりだったらしく「さあどれにする」なんて聞きながら財布を構えている。俺は迷わずウイスキーのポケット瓶を一本選んだ。これは夫婦間だけの言葉なのだが、俺たちはこの瓶の事を「御守」と呼んでいた。俺がこれを持っているだけで、まあ正確には一口、二口、最終的には一瓶飲んだ頃、一番調子がよくなる気がするからだった。


結果として、飲めなかった。もはや胃が「御守」すら受け付けてくれなかった。

道中ずっと気を使いながら「いいじゃない、ただ寝てれば看護師さんが全部面倒見てくれるんだから、仕事のことも考えなくていいし、天国よ」なんて俺と同じくらい不安そうな声で盛り上げてくれる母の声と、時折目的地を示してくる無感情なカーナビの音をずっと聞いていた。


「ここが最後だね」と運転席の妻が言うので、病院直前にもう一軒だけ寄ってもらうことにした。ワンカップを一本だけ買って、半透明なキャップをゴミ箱に捨ててから店外に出る。

入り口から少し離れた所に設置された灰皿の前まで歩き、改めて右手に持った瓶を見つめた。アルミニウムで出来た蓋を半分ほど開け折り畳んでから一度アスファルトの上に置いた。ポケットから煙草を取り出し、微かに震える指で火をつけながら、今度は左手でワンカップを取り直し、しげしげと眺める。

いつか魂の水だと笑いながら口に運んだ液体はその日と変わらずに澄んでいた。紫煙を肴に少しづつ飲み始めると、半分ほどだが今度はどうにか収まってくれた。一度抜けた魂が体の中に戻って来た気がする。と同時に、どこにでもいる一目で分かるアル中が完璧に出来上がった。


「残りは今度こそ短いドライブの最後のお供にしよう」


そう思って二人の元に戻ったが、ドリンクホルダーに刺さったままのソレを俺が飲み干すことが出来ずにいる間に、車は高台の病院に着いた。


思いのほか足取りは軽かった。病院に着いて最初にしたのが記念撮影だった。

もともと予約制だったので、手続きは滞りなく進んだ。簡単な検査を俺が拍子抜けしながら終えている間に、付き添いの二人は先に主治医との簡単な質疑応答を終えていた。


「それでは網倉学さん、こちらにご着席ください」

眼鏡をかけた四十歳くらいだろうか、見ると名札に副医院長の名札をつけた男が背もたれの付いた回転いすをこちらに向けて見上げてきた。まっすぐな瞳に多少怯んだが、一礼をして妻の隣に腰かけた。

「では網倉さん、あなたはどうなりたいですか?」

「随分といきなりな質問ですね」

「ええ、ストレートにお聞きします」

俺は一瞬だけ考えたが、深く考えるより先に自然と言葉が出てきた。

「普通の酒飲みになりたいです。」

隣で付き添いの二人が一瞬だけ息をのんだのが伝わる。

「普通の酒飲みですか?」

「そうですね。毎朝九時から六時くらいまでちゃんと働いて、時には残業とかもして、そのまま同僚と飲みに行って、上司の悪口で盛り上がって、みたいな普通の酒飲みです」

実際俺の回りの酒好きは皆揃ってそういう人間ばかりだし、かくいう俺もほんの少し前まではそうだったはずだ。

「なるほど。ちなみにどのくらいから飲み始めましたか?」

「それは初めてお酒を飲んだ時ということでしょうか?」

「そうです」

そう聞かれて、俺は言葉に詰まった。初めてアルコールというものを身体に入れたのは、たしか小学五年生くらいの時だろう。家族で旅行に行った際に、車酔いした俺に父が、これをキャップ一杯飲んでみろとくれたウイスキーだった。

実際初めて飲んだその液体は、どんな酔い止めの薬よりもよく効いた。一瞬で胃に火が灯り、それまでの不快感が消えうせ、急に全てが楽しくなったのだ。思えば「御守」のルーツはここからだったのかも知れない。


「十一、二歳くらいですかね。初めて口にしたのは。後はまあ学生の時に、飲み会とかくらいですかね」

「それ以外の時はそれほど飲んではいなかったと」

「そうですね。常飲、って言うか毎日晩酌するようになったのは二十二歳あたりですかね。やっぱり働くようになってからかな。ストレスってだけじゃないとは思いますけどね。何か付き合いとかも増えましたし」

「うーん。かなり親密ですね、お酒と。無くなったら寂しいですか?」

「そうですね。やっぱり寂しいとは思いますよ。なんて言うか、友達みたいなモノですから」


そうなのだ。アルコールは楽しい時も辛い時も一緒にいてくれて、最終的に俺を明日へと送り出してきてくれた気の良い友達みたいなものだったのだ。


「友達ですか。なるほど。分かりました。他に何か不安な事はありますか?」

「やっぱり長期にわたって家族と会えなくなるのは不安ですよね。あと今後どういう生活になるのか、とか」等と考えるうちに急にえも知れぬ不安が増してくる。


「先生、すみません。とりあえず煙草を一本吸ってきていいでしょうか。ちょっと一回落ち着きたいので」


この病院は昨今では珍しく院内にも喫煙所があり、売店で煙草も売っていて煙草は吸えると事前に妻から聞いていた。


「あ、煙草も持ち込み禁止」と、その妻がバツの悪そうな顔をこちらに向けた。


話が違う。


「なんでだよ。煙草はいいんじゃないの?売店でも売ってるんでしょ?」

「それは隔離終わって、本格的な入院になったら先生の許可のもとってこと。これ言うとやっぱり止めるっていうと思って」との言葉に思わず苦笑いしてしまう。

「先生、不安な事だらけではありますが、がんばりますので最後の一服は駄目でしょうか」

俺は駄目もとで交渉してみることにした。

「いいですよ。ではごゆっくり」

意外なほどにあっさりと医師が頷き、近くにいた看護師がいいんですかと確認しながら壁のキーボックスを開け「こちらへどうぞ」と早足で歩きだす。喫煙所も鍵付きなのかと、ここでも想像の違いに戸惑いながら慌てて付いて行った。


無機質な廊下の一番奥、鉄製の扉の外には先客がいた。白髪の目立つ老婆が短い階段の段差に腰かけながら煙草をふかしていた。軽く頭を下げ、なんとなくあまり関わりたくないタイプの人だな等と思いながら、ゆっくりと最後の一本を味わって診察室に戻った。

「では入院の準備に入りましょうか。付き添いのお二人はこちらへ」と、三人は隣の部屋へと移動していく。その間に俺は数名の看護師に囲まれた。


俺よりも十歳ほど若い看護師に右手を出すよう指示される。なにかと思いながらも従うと、前触れもなく白いバンドを巻いて止められていた。あのよく野外のフェスなんかで巻くやつだ。彼女が書いたのだろうか。随分と可愛らしい字で俺の名前が書いてある。

「次はボディチェックね」と、取り急ぎポケットというポケットを調べられた。ベルト、時計、貴金属などもここで全て取り上げられるらしい。

「じゃあ後は眼鏡で終わりね。せんせーい」と隣室の主治医を呼びながら、俺を隣室に促した。


「ではこれから隔離病棟に移ります」


主治医が付き添いの二人に告げる。予定している計画では最速四か月。もう暫くは会うことすらままならない。

「ハグでもしとく?」

俺の虚勢に笑って答える二人に「行ってきます」とだけ伝えて診察室から一歩踏み出した。

「網倉さん。眼鏡預けてください」

そうだった。忘れていた。


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