第2話
自分がアルコール依存症であるという自覚は、もう随分と前からあった。
俺は元々本の虫で、暇さえあれば何かのページを捲っているような男だったし、このご時世、この国だけでも百万人は下らないと言われている病気だ。その気になって調べようと思えば、専門書でもネットでもいくらでも情報は手に入れることができる。いつからか俺はその手の本を片っ端から注文し、そこに登場する偉大な大酒飲みの先人達の人生を後追いするかのように、ロックグラスを片手にそれらを読み漁る様になっていた。
「まだ大丈夫だ。彼らに比べたら可愛いもんさ」
そう思いながらも、日に日に固形物が喉を通らなくなった。もとよりここ数ヵ月食欲など無かった。忙しさを言い訳にして仕事中の昼食も簡単なゼリーで立ったまま済ませる。
どうせあと四、五時間もすればビールが俺を待っている。あの喉越しを存分に味わうためには、多少空腹でいた方がいい。二、三杯ひっかけ始めれば何かツマミも欲しくなるだろう。今はとりあえず仕事中なんとかもてばいいんだ。
そう思えば別にわざわざ無理して食べる必要もないかと思った。そんな生活を繰り返しているうちに、気が付いた時には摂取できるカロリーと言えば妻の作ってくれた半熟の目玉焼き一つと、アルコールに含まれる分だけになっていた。
「これはいよいよ駄目かも知れない」と思ったのは、桜の花びらが風に吹かれ大量に散っていくのを目にした夜だった。
その頃の俺は職場の人事異動に伴うストレスで不眠に悩まされていて、夜中に悪夢で目覚めては、寝なおす為に、解決しない悩みを肴にまたグラスを傾けるのが常になっていた。
その日、自室の窓から街灯に照らされたそれを見て「綺麗だな」とひとしきり物思いにふけった後、そのまま慌ててトイレに駆け込んだ。三日ぶりに一口だけ食べたカレーライスのルー。その中に入っていた小さな豚肉の塊を吐いた俺は、口から胃液を垂らし、目に涙を浮かべながら入院する覚悟を決めた。深夜三時の事だった。
その決意を一番初めに伝えたのは妻にだった。彼女も長らく俺の体調を深く心配していてくれていたから、直ぐに何件かの病院を調べてくれた。心配と期待が半分ずつ宿ったような目をしながら数件の目星をつけてくれたところで、ウイスキーのポケット瓶を一本空けて二本目にいこうとしていた俺は言った。
「どうせなら一番厳しい所の方が面白いかもな」
これだ。これが良くなかった。俺は元来こういう悪癖がある。どこかで自分を俯瞰で見ているというのか、自分をまるで映画の主人公だと思い込みたがる。
そして映画の物語は、出来るだけ派手な方が好ましい。
仕事の早い妻は俺の両親とも直ぐに連絡をとり、俺は俺で勤めていた会社に、溜まりに溜まっている有給休暇の消化も兼ねた退職願をだした。
もとよりここ一年程真剣に悩んでいた事だったので、いい機会だとも思った。だが意に反して相談をしたかなり上役の相手から「これは要らない。ゆっくり休んでくれ」という有難い言葉を頂戴してしまったので、些か拍子抜けしながら、あれよあれよという間に入院の下準備が進められていった。
最終的にここにしようと決めて、予定日まで残すところ数日の夜だった。
「最初は個室で、それから大部屋に移るみたいよ」
「へえ」
「あとね、携帯は持ち込めないらしい」
「なんでだよ、このご時世に」
「病院だからかなぁ。あ、テレフォンカードをお持ちくださいって」
「その単語自体を久しぶりに聞いたよ。あと何が駄目で何ならいいのさ」
「それはまた明日紙に書いて渡すね。ホントに結構厳しそうだけど、ここで平気?本当?」
そんな会話を肴にしながら、俺は愛飲している麦焼酎をオンザロックで楽しんでいた。
既に長期の休暇に入っていた俺は、ブレーキの壊れた車の様に起きている時間をアルコールと共に過ごした。二十四時間昼夜問わず飲んでは寝ての繰り返しで相変わらず食事は出来なかったが、飲んでいる間は基本的には上機嫌だった。
開き直りの日々を過ごして、いよいよ入院を前日に控えた夜、寝起きの俺はふらついて階段で足を滑らせた。
脛の所を少し切ってしまったので妻に絆創膏を貰いにキッチンへ向かう。妻が救急箱を持ってきてくれている間に、冷蔵庫を開けチェイサー代わりに缶ビールのプルトップを開けた。スツールに腰かけ、二口程飲んだタイミングで絆創膏を持ってきた妻に聞かれた。
「そういえばさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「んー?なに?」
アルコールティッシュで軽く血を拭き取りながら答える。
「明日から入院なワケじゃん?それも結構長い間。ミナト君とかに連絡しなくてもいいの?」
俺は手を止め、上目遣いで妻を見上げた。
「あ、忘れてた。って言うか何かその発想が無かった。連絡入れておいた方がいいかな?」
「あなたの数少ない友人の代表みたいな人じゃない。大事にしなさいよ、このアル中」
妻が笑いながら告げる。傷口はすっかり肌色のテープが隠してくれた。
渡会ミナトは、確かに今も定期的に、それもあまり間を置かずに連絡を取り合う数少ない俺の悪友だ。
俺が今ほど酷い状態になる前まで、一緒にやっていた売れないロックバンドで歌を歌っていた男で、俺はその後ろでドラムを叩いていた。俺たちは互いに酒飲みで、練習スタジオに入る度、月に一回のライブを終える度、それ以外の日も何かと理由をつけてはよく一緒になって朝まで飲んだ。俺は今でも彼の歌が時折無性に聴きたくなる時がある。
「でも、あいつこの時間じゃ丁度働いてるくらいじゃないかな」
携帯を持ち電話をかけてみる。コール音が数回繰り返された所で留守番電話に切り替わった。
「駄目だ、出ないや」
缶ビールを飲み終えた。二本目にいこうとして気が変わり、部屋の机に置きっぱなしになっていたグラスを思い出し取りにいく。キッチンに戻り、中性洗剤で洗っているとラインが一通届いた。
『今電車。三十分後にかけなおす』と書かれているのを確認し、新しいグラスを取り出す。今朝がた買ったウイスキーの瓶を確認すると丁度半分程残っている。
「ちょうどいいや。あいつ以外にも何人か報告しておこう」
俺は思い当たる友人達にかたっぱしから電話をかけ、入院する旨を告げた。
初めから爆笑する人や、本当に心配してくれながら最後には笑って送り出してくれてくれた人もいて、いざこういう機会でもないと気づけないものもあるんだなと感謝をしていると、ミナトからの折り返しの電話がなった。
「よ。どしたの?」
多少舌足らずな声が聞こえる。こいつも微妙に酔っているらしい。
「ああ、悪いね。お忙しい所。実はさ、明日から入院することになった」
俺は笑いながら報告した。水割りに近くなったウイスキーを飲み干し、新たに氷を敷き詰めて、トポトポと注ぐ。
「は?」
「いや、だから入院するんだって。アルコール依存症で」
「え?マジで?いやいやちょっと待ってよ。あんたそんなに酷かった?全然しっかりしてたじゃん。いや俺はそりゃ普段の事は知らないけどさぁ。え?強制?何か問題おこしたの?」
当惑しきりの声が面白く、酒が進む。
「いや、自分で決めた。最近酷くて。つーかバンドやってた当時からもまぁ結構やばいなとは思ってたんだけど」
「いやいや、確かにあんた化け物みたいに飲んでたけど、入院なんてするほどかぁ?いや奥さんの大変さとかは俺は分からないし、実際のとこは知らないけど。少なくとも俺にはそんなに酷くは見えなかったよ。つーか俺の回りもっとタチの悪い奴いっぱい居るって」
「いやシラフの時がヤバいんだよ。俺、お前と会う時って基本アルコール入ってたじゃん?」
「ああ、それはまぁそうね」
「今、離脱症状が酷くて酒が手放せなくなってる。なんかシラフの時が風邪ひいてるみたいな感じ。一杯飲んでやっと正常になるみたいな?」
「まじかぁ。まぁね、あんたが決めたんなら俺は止められないけどさ。でも言わせて。俺が知ってるあんたは入院は必要なかったよ。まぁ今は違うのかもしれないけど。アルコール依存症ってどのくらい入院すんの?」
「最低四ヵ月」
「噓だろ?マジで?」
「ホントホント。だからさ、しばらくお前の歌も聴けないからさ、電話越しでいいから贐に何か一曲歌ってくれよ」
俺は僅かに透明度を増したグラスに、追って注ぎ足した。ミナトの声には、もう少し強いアルコールがよく似合う。
「ああ、そりゃ全然いいけど。ちょっと待って」
左手に持った携帯の向こうが一瞬ガタガタとなった後、すぐに張ってある金属の弦の音が聞こえた。俺はグラスを傾ける。
「聴こえる?」
「よく聴こえるよ」
「んじゃいくよ」
耳慣れた旋律が左耳に聴こえてきた。いつか一緒にやったあの曲だ。ミナトが作ってきて、俺が少しだけ手を加えた大好きな曲だった。俺は煙草に火をつけて一口吸ってから灰皿に置いた。五分ほどのライブを楽しんでいる間にグラスは空になった。
「退院したら教えてよ。飲みに行こうぜ」と言うミナトに、笑いながら約束をして電話を切った。
「弾き語りもバージョンもいいね」と近くにいた妻が言った。
「まぁこれで全員かな。明日何時だっけ?そろそろ寝なおすとするか」
俺はグラスに残った氷を流し、もぞもぞとベッドへと戻った。横になって電話をかけた友人達の顔を一人ずつ思い出しているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
そしてこれが、気持ちよく眠れた最後の夜だった。
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