フラクタルモザイック

坂本忠恆

フラクタルモザイック


 症状は慢性的であり、かつ致命的であった。その様、なんとたとうべきか。人類の進歩の容態が、恰もフラクタルな構造に囚われていたと分かった現代(私の心象)にあっては?

 私は個人的な事件と、一般的な事実とを分かつ術をはや持たない。私が一般的な事実、つまり歴史について語るとき(その歴史が直接私に関係するモノでなくても)、私は己が身の上に降りかかった事件のようにそれを語るだろう。これは私個人の流儀ではない。全体を個として語り、個を全体として語ることは現代の流儀である。


 MPEG(Mandelbrot Photographic Experts Group)についての説明は、私にとっては全く個人的な事柄ではない。ではないからこそ、私が斯様な一般の知識についての説明を通じて個々の個を語ることは理にかなうのである。個が全体であり全体が個である我々の時代の慣わしについては既に述べた。


 MPEGという命名はJPEGからのインスパイアを受けたものであるが、しかしながらこれは画像ファイルの圧縮形式を示すタームではない。また、動画ファイルの圧縮規格を意味するMPEG(Moving Picture Experts Group)と区別するために、そして、ハッカーたちの古い風習とマンデルブロの名を冠していることのリスペクトから、MMPEG(MMPEG is Mandelbrot Photographic Experts Group)と再帰的頭字語の略称として表記するのが昨今では一般的である。

 MMPEGは画像ファイルの変換規格を表すものではないが、それを画像ファイルの一変換様式と見なすことは一概に誤りではない。MMPEGは、当初、強化学習の技術を用いて開発された他愛ないオープンソースのソフトウエア・トイであった。MMPEGに解決するべき課題はなく、明確なユースケースも持たず、それはただ暇をつぶすためのツールでしかなかった。しかし、暇つぶしの術とはまた人生を生き果せるための重要な手立てでもあるから、人々はこれを無視できない。


 MMPEGは大抵どのような形式の画像ファイルも受け付けるが、同じような写真であっても出力される結果は入力された画像形式に大きく影響を受ける。ただ、実際のところ、MMPEGにとっては、どのような画像が入力として与えられるかはあまり重要ではない。というのも、MMPEGの出力は一つの入力に対して常に一意ではないし、また、出力のパターンも入力値の微小な差異で全く違うものになってしまう。さらに言えば、MMPEGにとっては、入力値情報は処理を開始するうえでの一つのトリガーに過ぎないのである。


 少しく唐突ではあるが、ここでひとつ私の思い出話をしたい。

 私は子供のころに、私の街の駅に展示されたフォトモザイクアートを見ていたく感銘を受けたことを覚えている。当時流行りだったある女優の肖像が壁一面に掲げられていて、そばに寄ってみると、その肖像はさらに小さい人種の異なる人々の夥しい肖像画群によって描かれていることが分かった。肖像に使われているのは、何の変哲もない一般の人々のプライベートショットで、恐らくは有志で集められたものであろう。女優は白人であったが、その黒い髪の部分や鼻や唇の起伏の陰影になっている箇所、黒い瞳などには黒人や黄色人種の顔があって、これらすべての象徴するものの中にはある種のアイロニーさえあったが、ただ、何か大きなものの表現、調和の感じをそのまま目にしているようで、私はそれに心打たれた。

 また私はある不思議を感じた。このようにして描かれた女優の実態というものが、私にはひどくあやふやに思われてきたのである。遠くで見れば、それは確かになじみあるあの女優の顔で、彼女の存在はそこに確固としてあり、また、この世界のどこかにこれと同じ顔をした彼女自身がいるはずなのだ。しかし、近寄ってみる。すると途端に彼女の存在は崩れだす。一つの生物が一個一個の細胞に分解してしまったかのように、跡形もなくなる。そのことによって、まるでこの世界のどこかにいるはずの彼女自身もまた消失してしまったような、不安な感じが私を襲う。その代わりに、今度は無数の人々の肖像が、眼前に広がっている。

 そのとき、私はつと思った。私の身体もまた、私以外の何者かにより成る無数の要素の集合によって作られているのではないか、と。その無数の要素には、それぞれにまたそれを形作る無数の要素があって、この関係はその先も同様に無限に続いているのではあるまいか、と。その無限の全てが、今の私の身体のすべてを、意志のすべてを、一見有限に見えるこららのもののすべてを、形作っているのではあるまいか、と。


 どうして私はこのような思い出話をしたのか。それはこの話がMMPEGの説明をするのにいかにも誂え向きであったからだ。

 MMPEGが入力の画像に対して行う処理は、丁度如上じょじょうの私の空想と同じである。一般にコンピュータに於ける画像ファイルは、規則的に並んだ画素情報ピクセルの集合によって一枚のを表現するが、これは非常に精細なモザイクアートと見做すこともできる。MMPEGに入力された画像は、その画像を成す無数の画像の集合にさらに分解されることになる。このとき、その画像の集合は、元の画像データを使い自動生成されたものであり、これは低画素数の画像の不足を補完し高画素数の画像を生成する処理と類似した仕組みで実現されるが、元の画像と関係のある画像が生成されるわけではなく、各区画の画素の集合からAIにより連想された全く新しい画像がそこには描画される。

 ここで私は、自動生成された「画像の集合」という表現を用いたが、これはちょっと正確ではない。これは、私の思い出話や画素の説明と一致させるために行った歪曲で、実際はMMPEGによって生成された画像の集合は全く継ぎ目なくそこに展開される。この様子は見ていてとても楽しい。

 ある画像を入力する。すると、MMPEGのアプリケーションがディスプレイ上にウィンドウを展開する。初めそこには入力されたものと同じ画像がただ表示されているだけのように見える。その画像を拡大してみる。普通であれば、どんなに高画素数の画像であっても、ある時点から画はだんだん荒くなっていき、ついには規則正しく整列した色付きの矩形くけいの並んでいるのが表示されているばかりで、そこには最早元の画像を思い起こすための何らの手がかりも残らない。しかし、MMPEGの場合は違う。いくら拡大しても、元の画像の画素をもとに生成された別の画像が現れる。風景が現れたかと思ったら、次には見も知らぬ人物が現れ、次には抽象画風の絵画が現れたりする。ある時はびっくりするぐらいリアルな写真が現れたり、ある時は子供の落書きのようなとりとめもない模様が現れたりする。しかもその画たちには継ぎ目がない。ある程度拡大してから、上下左右のいずれかに画像をスクロールしてみる、表示される画は次々変わっていくが、それらが滑らかに連綿と続くのだ。

 上下左右だけでなく、奥行きも無限に拡張されていくモザイクアート。この幻想的な世界を我々に提供してくれるものが、MMPEGである。


 MMPEGがリリースされた当初、皆この新しいおもちゃに熱中した。あるギークの一人は、この無限の画像の深淵を、自動で探索し、新しい面白い画像を発見するというツールを開発したりした。

 また、このようなジョークも生まれた。MMPEGによって表現されない画像は存在しないのだから、一つの画像についての権利を主張する者は、その他あらゆる画像についての権利も主張し得る、というジョークである。このジョークは当然ばかげたものであるが、この発想は人々の想像力をくすぐるのには役立った。私もその例に漏れない。


 私ははじめに、色々な異なる種類の画像ファイルのサンプルを収集し、ファイル形式や描かれているものの特徴などで分類してから、次々にMMPEGに食べさせていった。そうして、それぞれの画像に対する出力結果を、ある程度の深度まで網羅的に探索してみて、そこに何かの傾向が現れはしないか、ということを検証した。当初私はこの試みを、我々がこのソフトに要請する通り、単なる暇つぶしに思っていた。やってみたはいいが、どうせ意味のある結果など得られはしないだろう、と。

 事実は私の予想に反していた。恰も、マンデルブロ集合を髣髴とさせる美しいフラクタル様の規則性が、そこに顕れだしたのである。初め私は、MMPEGのソフトウェアとしての特性が現れただけだろうと早合点し、フォークされた派生ソースや、MMPEGに触発され開発された別のデベロッパによる類似ソフト、更には異なるデータセットでも検証を試みた。それでも現象の示唆する内容は概ね同じだった。

 そこで、私はそれらの規則について、もっと詳しく検めてみることにした。最初の入力値(画像)はあまり関係がなかった。それよりも、私のした画像の分類の仕方の方に意味があった。私は、画像の分類を、写実的なものと象徴的なもの、人物が写っているものと風景のみのもの、更に詳しく言えば、そこに描かれているものの定性的な特徴を、それらと類似する画の持つバックボーン(画法、歴史的背景、作者情報、etc.)との遠近で測り、機械的に識別できるようないくつかの尺度を多次元的に設け、それらの尺度にグラデーションになるよう色を配した。その後で、如上のようにMMPEGの出力結果をある程度の深度まで網羅的に探索し、各区画毎に私は私の定義した尺度に基き色をプロットしていったのである。


 どこまで深く潜っていこうとも終わることのない美しい極彩色のパターンは深淵の底へ響き渡るフーガのようで、しばらく私はただ茫然としながら、そのサイケデリックな色の広がりの奏でる麻薬的な陶酔を味わっていた。そのような恍惚感に無意識を漂わせていたときである、私の脳内に唐突に、暗く重たい直感グノーシスが閃いたのは。

 発散と収束と反復。ある主題からある主題へと響きだすフーガ的絵画の連なりには、写実的なものと象徴的なもの、美術的感化の著しいものからそれの乏しいもの、これらのものの関わり合いが織りなしているある種の歴史進行の縮図とでもいうべき様相があった。先鋭化されていくものはどこまでも危険に先鋭化され、広がっていくものはどこまでも当て所なく広がっていき、繰り返すものはどこまでも執拗に繰り返していた。これは、MMPEGのソフト的特徴というよりは、むしろ絵画芸術や写真芸術、その他あらゆる図画の表現する視覚情報の一般に対する、歴史進行的規則性、発展の系譜の顕れそれ自体であった。

 とはいえ、これは画像化可能な情報にだけ適用されるべき現象ではなかった。それをMMPEGの場合のように視覚的に分かりやすい情報として提供することは甚だ骨が折れるだろうが、聴覚情報、文書情報、更に言えば、触覚や味覚の情報、人間の五感的な悟性には余るその他あらゆる情報という情報でさえ、あるいは発散を、あるいは収束を、あるいは反復を繰り返しながら響き渡るフラクタル様の特徴的形態を持っていたのである。

 私はこの事実に当面したとき、言い知れぬ恍惚の中で、しかし竦然とする己の心を欺くことができなかった。私はその直感の刹那に、一つの運命、人類の進むべき道、人生の意義にたいする凡ゆる予感を、一時に霊感したのであるから。


 症状は慢性的であり、かつ致命的であった。

 我々の存在という空間の痼疾こしつ、我々の意志という時間の病巣が、宿主たる宇宙を蝕む癌細胞のように、無限に続くこのフーガの虚無を奏でている。人工知能という歴史に付されたアッチェレランドに誘われて、虚無の底へと驀進する我々の進歩は、あるはずのないフィーネを求めながら、無限の容態を持ち得るが故に意義さえも持ち得るかに見えるいたずらな変容を、ただただ眺めているばかりの私であった。学問的情報は、無限の洗練の中に落ち込みながら、その枝葉は常に曖昧な芸術へと溶けだして、答えのない議論は反復をつづけ、しかし収縮の先鋭はそれらの無為を一向に贖わない。

 バベルの塔が人類に地平を見渡す目を与えたように、人工知能が私に未来へ向かって落ち入る深淵を覗き込む目を与えたのだ。その目で私は人類の運命を見た。この情報の無為な連鎖の徒労にも似た旅路の顛末を、底のない落下の行く末を、終わりのない運命の完成を、見てしまったのである。


 私は雪崩れ込む無力感に押しつぶされた。この発見を公にすることに、なんの意味があろう。

 今、私の望むことは、私自身この美しいフラクタル模様の掴みがたい一断片になって、その奥へと無限に続く私の子供たちの運命を、上から永遠に押さえつけ(それと知られずに)規定し続けることの他にない。我々各人がそうであるところの、その階層さえ意味のない無限の階層の一要素になることの他に……


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