美醜の揺らぎ〈四〉
幼女に手を引かれてやってきたのは、大学に隣接している[生態観察植物園]だった。
『温室ビニールハウスの超巨大版施設』とでも言うような透明な強化ビニール素材で外界と仕切られた空間は、その内部を一年中一定の温度と湿度に保つために最適化されていた。
屋根は開閉式となっており、晴れの日は空いていることも多い。
このドーム内には、温帯地域から寒帯地域までの様々な植物が区域ごとに植えられていて、僕も授業のない土日の昼間に散歩しているお気に入りの場所だった。
身長120センチほど、小学校低学年生くらいの幼女に手を引かれながら歩いていると、四方八方の通行人から、異常な数の視線が集まってきた。
――「じゃあ、わたしのおうちにつれてってあげる!」
という彼女の言葉を信じて、手を繋がれてみたはいいものの、このままでは彼女の家を見つけるよりも先に、僕が警備員に通報されてしまいそうだ。
「ここだよ、わたしのおうち」
幼女が指を差していた場所には、何も植えられていない芝生地帯があった。大学の一番小さな教室くらいの広さはあるだろう。
「えっ? ホームレスってこと?」
「いま、まわりにだれもいないから、はいっていいよ」
そう言って、幼女は何も無かったはずの空間を指で摘まむと、その透明な垂れ幕を上にめくった。
「なに……これ……?」
空間が正方形に切り取られ、幼女の手によってめくられている。まるでそれは、異世界への入口のようだった。
その垂れ幕の奥は暗くなっていて、中が見えない。
「はやく! はやく!」
屈んでいた少女に続いて、僕もその暗がりの中へと、四つん這いになって入っていく。最初に手に触れたのは、布のようなもので、その下には固い板が敷かれていた。
全身を内部に入れて、目を暗闇に慣らす間もなく、天井に吊された暖色ランプの明かりが点いて、空間全体が照らされた。
「なんだこれ?」
原っぱの上に一面鮮やかな絨毯が敷かれており、内部はテントのようになっていた。メタルラックが置かれ、テーブルや椅子が置かれ、ハンモックが吊されていた。
いや、テントといっても二人とか四人用の小さなものではない。草原の遊牧民の家族が八人くらいで生活しているような規模の、とてつもなく大きな構造物となっていた。
一番高い天井部分まで3メートルほどある三角錐の形状になっていて、テントの黒い金属の骨組みに、暖色の電球が何個か吊されていた。
「あり得ない……」
なんでこんなに大きな居住ユニットが、まったく人目につかないようにして隠れていたのか?
再び外に出て確認すると、この構造物の素材が透過して、向こう側の風景が映っているのがわかった。
「おそとでないで!」
少女の声に従って再び中に入るも、僕の頭は混乱しっぱなしだった。
こんな非科学的な、あるいは超文明的なガジェットがあるなんて、まったくもって信じがたい。
「ずっとここで暮らしてたの?」
「うーん、ここにはにかげつくらいかな? いつもいどうしてたから」
「家族は?」
「いないよ。うまれたときからユラギだけ」
「そうなんだ……」
ホームレスにしては、かなり豪勢な暮らしをしているように見える。よく見たら、電気ストーブまであるし。
「はいこれ、さいきんのわたし」
手渡されたのは、24インチほどのタブレット端末だ。
その画面に表示されていた写真を、幼女の小さくて細い指が横にスワイプしていく。
「これがきのうで、これがおとといで……これがお兄ちゃんとはじめてあったひのしゃしんかな」
[セルフィー]というアルバムフォルダには、このテント内で撮影したであろう無数の自撮り写真が保存されていた。
様々な髪色と髪型、様々な服装の蝶々ユラギ――おそらく僕がこの数週間のうちに出会ってきたであろう蝶々ユラギが写っている。
そして何より――
「顔が……全然違う……」
「そうだよー。だからいったでしょ?」
写真を何回も見返してみる。何色もの髪色のユラギが、何パターンもの髪型で、何種類もの服装で、同じポーズ――両手を胸元で裏返し、重ね合わせた蝶のシルエットを思わせるようなポージング――をして写っている。
マスクを外した彼女の顔には、それぞれ別人と言っても過言ではないほどの差異があった。目が釣り上がっていたり、丸かったり、鼻が高かったり低かったり、肌の色も日焼けしたり真っ白だったり、そもそも顔の骨格が異なっているようにも見えた。
すれ違う人の顔がどれも似たように見えてしまい、識別するのに苦労している僕でさえも、それらの顔の違いはハッキリとわかるものだった。
『触角』らしき癖っ毛は二本立っていたものの、たしかにこんなに違った容姿になるのなら、同一人物だと思う人はまずいないだろう。
もし蝶々ユラギがマスクをしていなかったら、僕は彼女を見つけられなかったかもしれない。
「これ、本当に毎日顔が変わってるの?」
「かおだけじゃないよ。かみのいろもながさも、たいかくもかわるし、においもせいかくもかんがえかたもかわるんだ。だからユラギはひとりぼっち。みんなユラギをみつけてくれない」
「そんなこと……」
『あり得ないだろ!』という叫びが、喉の手前まで湧き上がって来て口から飛び出しそうになったのを、懸命に堪えた。
髪が長くなるのはわかる。服だって着替えれば変わる。メイクなんて、変わりすぎるくらいに顔を変えてしまう。
でも、人間の骨格は毎日劇的には変わらないし、見た目の年齢だってそう変わるものじゃない。
昨日の三十代の女性が、この、目の前の――どう見ても小学校低学年生くらいの――幼女になっているなんて絶対にあり得ないし、人類史上で見ても起きたことはないだろう。
「信じられない?」
「うん……。でも、もし本当にそんなことが出来るなら、観てみたいとは思うよ」
「よかった」
そんな若返り――あるいは成長や老化――が毎日繰り返すなんて到底信じられない。それなのに僕は、彼女の言葉を全否定できなくなっていた。
なぜなら僕は、すでに科学的論理の適用できない魔法の世界へと、一歩踏み入れてしまっていたからだ。このオーパーツ的透過迷彩テントの存在が、僕の合理的知性の適用を妨げていた。
「どんな風に変わるの?」
「あさになると、ムズムズするの。だから、あさまでここにいてくれる?」
「野宿か……。いつもここでどうやって寝てるの?」
「そのハンモック。でもきょうは、ねぶくろでねる」
「じゃあハンモックで寝なよ」
「でも、ハンモックだと、ヘンタイちゅうにでられなくなるし……」
「ヘンタイ?」
「あたし、ぜんぶうまれかわるから……。あたしのヘンタイ、ぜんぶみていてほしいから!」
『ヘンタイ』というのは、昆虫などの生理機構である『変態』のことを言っているのだろう。そんな劇的な身体変化が、これからこの幼女の体に起きるのなら観てみたい。
でも、こんな幼い女の子と二人きりで野宿するというのは、さすがに気が引ける。もし他の誰か見つかってしまったら、僕はどんな弁解をすれば無実を証明できるのか、全く想像もつかなかった。
「ねぶくろかしたげる」
「いや、家から自分のを持ってくるよ」
幸いなことに僕は一人暮らしで門限はなかったし、今日は月曜日でスーパーでのバイトも休みだった。
自転車で一度帰宅して、カロリーメイトブロックを二本食べ、シャワーを浴びて着替えてから家を出た。
正直な話、このときの僕はまだ、彼女の言葉を完全には信じていなかった。それでも僕は再び、夜の七時にこの場所へと戻ってきていた。
『蝶々ユラギ』と名乗る幼女と一緒に、夜十時頃までひたすら様々なトランプゲームをしていると、彼女はあくびをしながら瞼を擦った。
「眠くなってきた?」
「うん……でもまだトランプする……」
「また今度遊んであげるから、今日はもう寝ようよ」
「うん……」
幼女は床に置いていた500mlペットボトルのポカリスウェットを両手に持つと、底まで届く長いストローでそれらを飲み干した。
床にはすでに三本の空のペットボトルが三本置かれ、未開封のものがさらに二本置かれていた。
「ヘンタイがはじまったら、おこしてもいい?」
「いいよ」
「あとね、ヘンタイしてるとき、てでつかまるものがほしくなるから、てとかうでをにぎらせてほしいの」
「いいよ」
「ありがとう。それじゃあ、おやすみなさい」
幼女は寝袋の中に入って横になると、コードのスイッチを押して、天井のランプを消した。
消灯後、寝袋の中で眠れないなりに目を閉じていた僕は、いつの間にか寝落ちしていた。再び目が覚めたのは、苦痛に耐えているような呻き声が聞こえてきたときだ。
「ウウゥ……ウア……ア……」
ランプが点灯し、寝袋から這い出てきた彼女が付けたのだとわかった。
左腕のスマートウォッチを見ると、時刻は朝の五時三分。
「はぁ……。はぁ……」
完全に寝袋から出てきたユラギの呼吸が、だんだんと荒くなっていく。
ユラギの右手が伸びてきたので、横向きになった僕が、下に潜っていた右腕を差し出すと、ユラギの右手に、続いて伸びてきた左手にも腕が掴まれた。
「はじまった……。みて」
ユラギは目を瞑りながら――体の内側から生じている何らかの感覚に苛まれるのか――眉間に深く皺を寄せ、体を丸め込んで苦しそうにしていた。
掴まれた僕の右腕が、彼女の体液のようなものでヌルヌルになっていく。
ユラギの服が透けてきているのは、彼女の全身から体液が吹き出しているからだろう。
横向きになった全身が、寝袋の上で痙攣しながらうねっている。体液によって透過した服の袖が張り付いた腕を見ると、血管が浮き出ていて、筋肉が呼吸をするように伸縮を繰り返しているのがわかった。
いつの間にか顔面は真っ白になっていて、それから間もなく、全身がモゾモゾと動く白い塊に変化していた。
目の前で、信じられないことが起きている。夢にしてはあり得ないほどの解像度の高さで、その変態は起こっていた。
その神秘に十分ほど見惚れていると、彼女の背中のあたりからピリピリッという破裂音がして、皮膚と同化して透過した服が、手前側へとめくれだした。
僕が少し身を起こしてその中を覗くと、脱皮しつつあったユラギは、素肌に半透明のレインコートのようなものを纏っていた。
痙攣する動きが少なくなってきた頃には、すでに身長は一回り近く伸びていた。
ユラギが僕の腕から手を離して上半身を起こすと、髪ごと頭皮がゴッソリ剥がれ落ち、その中からまた新しい頭が現れた。中から出てきた髪は、緑がかった水色――初めて彼女を目にしたときのような、シアンのミディアムウェーブヘアだ。
その頭の前面にあるはずの顔はドロドロに溶けており、灰色の泥でも顔中に塗りたくったかのようなノッペラボウになっていた。だがその顔面をよく見ると、両目と鼻と口のところだけ小さく穴が空いている。
彼女はしばらく何も言わずに、置かれていたポカリスウェット500mlペットボトルを両手で持つと、底まで届く長いストローで飲み干していった。
「はぁぁぁ、しみてくぅぅぅ……」
漏れ出た声は、すでに幼女から発せられていたキーの高い声ではなくなっていた。かと言って、昨日の色っぽいお姉さんのように落ち着いた声でもなく、僕と同年代の女子集団から聞こえてきても違和感の無いような、かわいらしい女の子の声に仕上がっていた。
五本全てのペットボトルを空にしたところで、全裸に半透明のベールを纏ったような姿のまま、彼女は立ち上がった。
そして、ドロドロとした灰色の粘液で覆われたノッペラボウは、立ち上がれずにいた僕に右手を差し伸べてきた。
「来て」
身長160センチほどにまで成長した彼女に手を引かれながらやってきたのは、天から斜めに刺さっていた光の柱の根元だった。三角錐状になっているテントの天井の中央部には、マンホール大の丸い穴が開いており、そこから陽の光が差し込んでいた。
水色の癖っ毛が風に靡き、爽やかなシトラスの香りが周囲に漂ってくる。
「これが私の、最後の変身」
立ち止まり、向かい合わせになったノッペラボウは、僕の両手を掴んで離そうとしない。
その灰色の面が日光に照らされていくと、ドロドロとした粘膜の層がズルズルと下に落ちて、隠されていた素肌が露わになった。光を反射して輝く色素の薄い肌は、潤いに満ち満ちていた。
「私の顔を、見て」
その目が大きく見開かれた。瞳は髪の色と同じく澄みきった水色で、南の島の海を連想させるものだった。
その鼻は高く、まっすぐとした鼻すじで、かといって大きすぎず、厳かにそびえ立っている。
しかしユラギの容貌的変化は、それで終わりではなかった。
その肌は、陽の光を受けながら、さらに色艶を纏っていった。薄い皮膜が幾重にも肌を覆っていき、その顔の中央から輪郭に向かって何層も生成されていく。
唇には紅の線が何本も引かれ、彩度の異なる赤によってその光沢が増していく。
瞬きをするたびに、睫毛の一本一本が長く、太く、天に向かって反り返りながら伸びていく。
目元に黒い線が伸びて、その大きな瞳をさらに印象深いものにしていく。
「どうかな? 綺麗に仕上がってる? 変な顔になってない?」
「うん。綺麗だと思うよ」
それは僕の主観的感想であるとともに、客観的事実であるようにも思えた。
顔を構成する各パーツは左右対称に配置されていたものの、不自然なまでに整いすぎた美顔からは、親しみよりも、恐ろしさを感じてしまった。
きっと僕は――人間の顔をほとんど覚えられない僕でさえ、人混みの中に埋もれた彼女の顔を、視界から一瞬で見つけ出せるだろう。
「気持ち悪くなかった? 私の……変態」
湿っていた皮膚のような服が乾いていくにしたがって、それらは次第に色付いていった。
今は、素足の上に黒いロングパンツを履き、黒いブラウスを着て、肩周りには黒と水色のレース生地のスカーフを羽織っているのが明確にわかる。
その肩先から下に伸びた薄手の生地が、風を受けてそよいでいた。それはまるで、オオルリアゲハの羽を思わせるような、黒いフチ取りに彩度の高い青という配色で、光を透かしながら輝いていた。
「これほど心が動かされたのは、初めてナミアゲハの羽化を見届けたとき以来だよ」
毒を持つ生物種には特有の警告色がある。
僕は蝶々ユラギの水色の瞳を見つめながら、彼女の孕んでいる毒は何かと想像した。
「変わってしまう私を、変わらずに見つけてくれる人を、ずっと探してたんだ」
誰にも見つけてもらえない孤毒。誰からも理解されない孤毒。誰かを必要としても助けてもらえない孤毒。
蝶々ユラギもまた、僕の瞳の奥を覗きこんでいた。
きっと僕は、人生の最果てへと辿り着いたその瞬間に、この記憶を思い出すことになるだろう。
永遠すら感じてしまうような数十分間の光景は、僕の生命観を根本から書き換えてしまった。
これは僕と〈蝶々ユラギ〉と名乗る知的生命体との【ファーストコンタクト】であり、それと同時に、僕が明確に【初恋】だと認識する出来事でもあった。
「見ぃつけた」
そう言われて初めて僕は、僕もまた彼女によって見つけられたのだと――彼女によって観察されていた対象だったのだと――知った。
蝶々ユラギの変態 犬塊サチ @inukai_sachi
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