無力な私の生きる理由
@C07
親友は私の胸の中に
夕日が沈むアスファルトの道を、私は一人、あてもなくさまよっていた。少し前まで二人で通っていたはずの道は大切な思い出で溢れているはずだった。一緒に寄ったコンビニ、初めて会った駄菓子屋、並んで座った公園のベンチ、何の変哲もない場所なのに、全部がキラキラ光っていた場所。
でも、今は違う。一人になってからは、何を見てもただの物でしかなくて、何を食べても当たり前の味で、何を聞いても不協和音でしかなくなった。
こんな日がずっと続くんだよねと、私はポケットの中にある二つの指輪を握りしめながら、この世を去った親友に思いを馳せる。
もう一度あいつと会えたら、それ以外なにもいらないのに。モノクロに歪んだ世界で私は毎日そう願っていた。そして今日も、私は心をどこかにやったまま、いつもの交差点に差し掛かった。
瞬間、全身を真っ白な光が包み込んだ。同時にけたたましい轟音と激痛が私の全身を襲ったかと思うと、いつの間にか私の体は地面に叩きつけられていた。何が起こったかもわからないまま、意識が薄れていき、視界が徐々にボヤケていく。朦朧とした世界で、私は走り去る車の背中と、道路脇に佇む藍色の目をした少女の姿を見た。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
陽気な暖かさが肌を照らす放課後の教室で、少女は一人、窓際にある自分席から外を眺めていた。無限のように広がる青と白の空、町を覆うようにそびえる山脈、その中で生活する人々の営み。小さく仕切られた窓の向こうには少女の生活の全てが映し出されていた。
「かーなッ!」
静かに外を眺める少女[今井いまい 香奈かな]の机に勢い良く手が置かれる。聞こえてきた声の方に目を向けると、そこには長い黒髪を持った少女のウキウキ顔があった。
「ま〜た空見てんの?」
いたずらに笑う少女[星乃ほしの ミライ]はそう言って首を傾げる。まるで子供のように無垢な表情に香奈の顔が自然と穏やかなものになった。
「別に、ただぼーっとしてただけ」
曖昧に言葉を濁して、香奈は窓の外に視線を戻す。机に置かれたカバンの上で頬杖をつき、どこにもないところに視線を向ける。その視界の隅には下校を始めた生徒たちの姿がちらほらと映っていた。
「えーまたそれ。香奈毎日ぼーっとしてない、暇人なの?」
ぼんやりとする香奈の後ろでミライの訝しげな声が聞こえてくる。放課後に窓の外を眺める香奈に、ミライは毎回同じ質問を投げかけ、その度香奈は同じ返答を繰り返している。なんの進展もない会話を繰り広げていることに香奈は思わず笑みを溢した。
「無意味に慌てる必要はないからね。ゆっくりするときはゆっくりするのに限るのよ」
緩んだ頬に手を当てたまま、香奈は知ったふうな口でそう答える。窓から入った暖かい風が短い茶髪を優しく撫で、香奈の心を吹き抜けていく。その気持ちよさに、香奈は瞼をそっと閉じた。悠々自適な香奈の姿にミライはニヤリと口元を歪めた。
「ふ〜ん、でもさぁ、あんまりぼーっとしすぎると脳細胞死んじゃうよ?」
笑いが混じるミライの声に香奈は目を閉じたまま笑みを深めた。その楽しそうな声音はまるで、私に構ってください、という自白のように香奈には聞こえた。
「お気になさらず。私がいくら馬鹿になっても、誰かさんの頭が悪い分、私は賢く見えてるはずだから」
振り返った香奈がお望み通りといわんばかりに、皮肉を乗せた言葉で笑いかける。ミライの藍色の瞳と香奈の緋色の瞳が交わされると、ミライはここぞといわんばかりに目を細めた。
「そっかぁ、そしたらその誰かには感謝しなきゃだね。私が代わりにお礼言っとこうか?」
してやったりとしたミライのニヤケ顔に、香奈は思わず視線を逸らす。そして、込み上げる笑みを必死で抑えながら、顔を見せないようにカバンを手に取った。
「それじゃああんたは、その誰かにお礼言っといてね。私は先に帰るから」
繕った平静と共に香奈は半笑いの口調でそう言い残すと、教室の出口へ足を進めた。
「あーごめん! わかった! 私が悪かったからー!」
スタスタと帰ろうとする香奈の背後でミライの弱々しいわめき声と、バタバタとした足音が聞こえてくる。やがてその足音が香奈の隣まで近づくと、ムッとした顔のミライが香奈の視界端に入った。
「コンビニでも寄って帰ろっか」
不機嫌な顔を浮かべるミライに、香奈は穏やかな顔で提案する。しかし、ミライは顔をムッとさせたまま、香奈から視線を逸してしまった。
「行かないの?」
そう言って香奈は微笑みながら首を傾ける。まるで答えがわかっているようなその口調にミライの頬が少し膨らんだ。
「……いく」
顔を背けたまま、ミライは不機嫌に返答する。その言葉に満足した香奈は顔を前に向き直し、二人の下校路をゆっくりと歩いていった。
コンビニでお菓子を買った香奈たちはそのまま下校路の坂道を登っていた。既に日は傾き、学校を出たときに広がっていた青空には薄いオレンジ色のグラデーションが浮かんでいた。
そんな薄茜色の空の下を歩くこと数分、香奈たちは広々とした公園へと辿り着いた。ブランコとベンチがあるだけのほぼ空き地のようなその公園は、下校途中に香奈たちがよく立ち寄る場所だった。二人は公園内のベンチに腰掛けると、コンビニで買ったお菓子の袋を開け、足の間に挟んだ。
「機嫌、治った?」
道中、ずっとふてくされ顔を浮かべていたミライに香奈は微笑みかける。その視線の先にいるミライは既に開けたお菓子を口の中に頬張り、幸せそうに目を細めていた。が、香奈の視線にギクリと顔を豹変させると、口に入れていたお菓子を慌てて呑み込んだ。
「まぁ、お菓子買ってくれたし、今回は許してあげる」
「それはありがと」
急拵えの平素顔に香奈は素直にお礼を伝える。そして、香奈も買ってきたお菓子を口に入れると、淡い夕日色の空を見上げた。薄茜色に染められた白亜の建物、お子様味のチョコレート、遠くで聞こえる車の音。毎日のように見ている物、食べている物、聞いている音のはずなのに、そのどれもが優しく尊いもののように香奈は感じていた。
「またぼーっとしてるの?」
空を見上げる香奈の顔をミライは上目遣いで見つめる。その顔は教室で見せた笑顔ではなく、妙に神妙なものだった。
「別に、そうじゃないけど。たださ……」
そこまで言って香奈は口を篭もらせた。頭に浮かんだのは他愛もない言葉のはずだった。ただ今の幸せを願う恥ずかしい言葉なだけのはずだった。なのに、
「楽しいなぁって」
浮かんだ言葉をかき消すように、香奈はミライに微笑みを向けた。ミライは、そっか、とだけ言って微笑むと太ももに挟んだお菓子に目を落とした。妙に落ち着いた様子のミライに香奈は不思議な目を向ける。自分に向けられた微笑みがどうにも作り物のように香奈には思えたからだ。不思議のままに夕日と黒髪で隠されたミライの顔をの覗き込もうとしたその時、二人の間を遮るように強い風が吹き荒れた。煽られた茶髪に、香奈は反射的に目を瞑る。
やがて二人の間を遮る風が収まると、香奈は閉じていた目をゆっくりと開けた。すると、視線の先に見たことのない黒いスーツ姿の人が視界に映った。黒いシルクハットと烏の嘴くちばしを模した仮面で顔を覆ったその人物はただその場で佇み、香奈たちの方を向いていた。
「ご歓談のところ、失礼いたしますよ」
どこから来たかもわからないそれは香奈の視線に気づくと、被っていたシルクハットを胸に当て香奈たちに軽くお辞儀をする。そして、ハットを再び被ると香奈たちの方へ足を進めた。
「今井香奈さん、で、間違いないですね?」
「人違いじゃないですか?」
正面に立った異様な風貌に香奈は咄嗟に嘘をつく。声から男であることはわかったが、それ以外のことは一切わからなかった。
「そう警戒しないでください。私はこんな身なりですが、怪しい者ではございません」
大袈裟に手を広げ、男は香奈に釈明する。いかにも怪しいその様子に香奈は怪訝な顔をしたまま、ミライの方に目を向けた。男の方に向けられたミライの顔は、まるで感情を失っているかのような冷たいものだった。
「私にどんなご用件ですか?」
語気を強めた口調で香奈は男に尋ねる。その鋭い目線に男は悪びれた様子もなく、ただ平坦な声で答えた。
「いえ、用件と言うほどのものではありません。ただ伝えに来ただけです」
男の言葉に香奈は眉間に寄せたシワを寄せる。仇を見るような視線を向ける香奈に、男は作業のごとく言葉を続けた。
「このままの生活を続ければ明日、あなたの存在はこの世界から消滅します」
「……は?」
男の言葉に香奈の口から思わず言葉が漏れる。あまりにも簡素で唐突な言葉に、香奈は自分の目が丸くなる感覚を覚えた。しかし、それでも男は話を続けた。
「急な話で申し訳ないことは承知の上です。しかし、事実である以上、私にはこれを伝える義務があります」
「いきなり何言ってんの?! 意味わかんないんだけど、なんなのあんた!」
唐突で突拍子のない男の話に香奈は勢い任せに立ち上がり、言葉をぶつける。男の言葉に信用する要素など何一つない。しかし、香奈の心はその言葉が真実であると認めていた。
「私は何でもありません。ただ伝えるだけです」
香奈の怒声に男はあくまで冷静に答える。一方で香奈はその声を聞くたびに不快感が増すばかりだった。
「ただもちろん、あなたにも選択の権利はあります」
睨む香奈を尻目に、男はくぐもった声で話を続ける。香奈の目がより鋭いものへとかわり、邪魔者を見るような顔で耳を傾ける。
「明日中に、あなたの宝物を提示してください。それがあなたにとって本当に宝物であるならば、あなたは消滅の運命から免れます」
男の言葉に香奈は拍子抜けしたように視線を緩めた。宝物なんて、一つしかない。そう思った香奈の視線が自然と横に座るミライに向けられる。
「それでいいのね。だったら簡単よ! 私の宝物は——」
「おっと」
勢いのまま答えようとする香奈を仮面の男が遮る。嘴の先で立てられた人差し指に、香奈はまた不快な表情を浮かべた。
「提示できるのは一度だけです。二度目は受け付けておりませんので、そのつもりで」
不服そうに顔を歪める香奈を諭すように、男は警告する。一度も何も、こんなのもう決まっているでしょ。香奈は心でそう断言するも、肝心の口は何故か頑なに発言することを拒んでいた。まるで自分の中にある何かが自分の思いを否定するような感覚に、香奈は奥歯を噛み締める。
「安心してください。私はいつでも、どこにでもいます。御用があるときは来て欲しいと思うだけで結構です」
顔を歪める香奈に仮面の男はそう言うと、ゆっくりと公園の入口へと歩き始めた。男の影が香奈前を横切り、香奈の顔に影を作る。と、男は公園の入口に差し掛かった辺りで足を止め、香奈たちの方に振り返った。
「あぁそうだ。あなたが私を呼ぶ以上、私が誰であるかを知る必要がありますね」
単調な声が再び公園に響く。男は革製の黒い嘴を再び香奈たちに向けると、紳士的に姿勢を正した。
「私のことは[裁定者さいていしゃ]と呼んでください。では」
そう言って男は帽子を被ったまま軽く頭を下げる。そして、その場で踵を返すと、今度こそ公園から姿を消した。後に残された香奈は消えた男の姿を頭に浮かべながら、空虚に拳を握りしめるしかなかった。その後ろで心配そうに見つめるミライの姿になど気づくはずもなかった。
仮面の男と会った翌日、香奈はコンビニの前でミライと待ち合わせていた。目的は香奈の宝物を探すこと。それは男との会話の後、ミライが提案したものだった。
「香奈ー!」
コンビニの前でケータイを弄っていた香奈の背後から明るい声が聞こえてくる。声の方に視線を向けると、膝上まである白色のスカートにピンク色の上衣を身に纏ったミライが手を振りながら駆け寄っていた。その光景に香奈は思わず息を呑んだ。
「香奈、どうしたの? またぼーっとしてる?」
喜びと無念に戸惑う香奈をミライは不思議そうな目で見つめる。空の色と藍色が混ざった瞳が香奈の揺れる緋色の瞳に映し出された。
「なんでもない。行こっか」
混濁する感情をごまかすように、香奈は足を無理やり動かし始めた。後ろからミライの声と駆け足の音が聞こえてくる。が、それで香奈が足を止めることはなかった。自分の中に湧いた理想と現実の差をかき消すために、香奈は足を動かすしかなかった。やがて後ろから聞こえていた足音が隣まで並ぶと、茶化すような声が聞こえてきた。
「ところでさぁ、どこに行くつもりなの?」
早い足取りの香奈にミライは意地悪に笑って問いかける。もちろん、逃げるように歩き出しただけの香奈に行く宛などなかった。ミライのニンマリとした笑顔はそんな香奈の状態を見透かしているかのように優しいものだった。
「じゃーあッ! とりあえず、あそこにでも行ってみる?」
香奈の正面に飛び込み、ミライは上目遣いで顔を覗き込む。行く場所なんて決まっているとでも言いたげなミライの態度に香奈は疑問を浮かべる。少し前ならいざ知らず、今のミライが行きたいと思う場所に香奈は見当がつかなかった。香奈が疑問のまま立ち尽くしていると、痺れを切らしたミライは香奈の手を取り、アスファルトの道を強引に進み始めた。
ミライに連れられて歩くこと数分、香奈たちは坂道の途中にある駄菓子屋に辿り着いた。そこは小学生の頃よく寄っていた場所であり、香奈とミライが初めてあった場所だった。
「懐かしいね」
ガラス戸の奥に見えるお菓子を見ながらミライは楽しそうに呟く。小学生が五人も入らない広さで、駄菓子よりも唐揚げが人気だったちょっと変な駄菓子屋。ここが香奈たちにとって大切な場所だということは間違いなかった。
「入ってみよっか」
そう言うや否や、ミライは香奈の手をとって駄菓子屋の中に入る。中に入ると、ガラス越しに見えていたチョコレートやスナック菓子から漏れた匂いと、ほんのりとした香ばしい匂いが二人の鼻を刺激した。コンビニでもあるはずのお菓子なのに一つ一つが鮮やかで、不思議な古風さを醸し出していた。
「かーな! お菓子もいいけど、ここに来たらやっぱりこれでしょ?!」
卓上のお菓子を見る香奈の肩を叩き、ニヤニヤ顔のミライが冷蔵庫を指差す。そこには、唐揚げ一個50円、フライドポテト一袋100円、と書かれた手書きの価格表が貼られていた。決して綺麗とはいえない走り書きの字に香奈は思わず笑みを溢した。そして、そわそわと許しを求める子供のようなミライに向けて、小さく首を縦に振った。
「やったー! じぁあそういうことで、おじさーん! 唐揚げ六個とフライドポテト一つ、お願いしまーす!」
ミライの言葉に店主はコクリと頷くと、奥にあるフライヤーで唐揚げとポテトを揚げ始めた。漂っていた香ばしい匂いがその存在を増し、二人の食欲を刺激する。油でベタついた唐揚げとフライドポテトを分け合いながら食べた記憶が、香奈の脳裏に浮かんだ。
「あー! 見て見て香奈! これ懐かしいね!」
懐旧に浸る香奈の横からミライの元気な声が聞こえてきた。声のままに視線を向けると、そこには玩具付きお菓子の箱を持ったミライの姿があった。一欠片のガムにプラスチック製の指輪が同梱されたその箱は昔、香奈がミライのために買ったものだった。
『ずっと一緒だからね!』
ベッドの上で笑う少女の顔が香奈の頭を過ぎった。毎日通った病室で見た笑顔。嬉しかったはずの言葉に、ずっとなんて無理だ、と言ってしまった記憶が香奈の頭に蘇る。嘘でもいいから、そうだねって言った方が良かったのかな。頭に浮かぶ記憶に呟きながら、香奈はただ目の前のお菓子を見つめた。
「香奈?」
微動だにしない香奈にミライは首を傾げた。
「ねぇ、ミライはどうして、私と一緒にいてくれたの?」
香奈の唐突な言葉にミライは首を傾けたままキョトンとしたのが顔を浮かべる。ミライと会ったころの香奈は、何に対しても無関心で、毎日を惰性で生きているだけだった。何もしたくない、関わりたくないと思っていただけの自分は取っ付きにくいだけのつまらない人間だと、香奈は自覚していた。しかし、ミライはそんな香奈と毎日一緒にいてくれた。大切な時間を割いて、毎日話しかけてくれていた。それが香奈には不思議だった。
「どうしてって、一緒にいたかったからだけど」
返ってきた言葉はただそれだけだった。なんの答えにもなっていない、ただ返しただけの言葉。しかし、その言葉を聞いた途端、自分の口角が上がるのを香奈は感じた。そして、そうだよね、と内心で納得しながら香奈は自己嫌悪に顔を歪めた。
「香奈、ほんとに大丈夫?」
黙り込む香奈にミライは心配そうに顔を覗かせる。藍色の瞳の中に情けない顔をした緋色の瞳が映し出される。純粋な瞳に映る自分の顔は酷く醜いもののように香奈には見えた。
「う、うん、大丈夫だよ! 大丈夫……」
頭に浮かぶわだかまりを振り払うように香奈はミライから視線を逸らす。と、不意に向けた視線の先に唐揚げとフライドポテトを持つ店主が映りこんだ。
「はいよ。唐揚げ六個とフライドポテトね」
「あ、ああはい、ありがとうございます」
店主から差し出された商品を反射的に受け取ると、香奈は慌ててその場を離れようとする。現実から逃げるように、自分のから目を逸らすように香奈は急いで体を回し、店主とミライに背を向ける。が、勢い任せに体を回転させたせいで、体が左右に大きく揺れ、崩れるように前の方へと傾いていった。
「香奈!」
倒れていく香奈にミライは急いで手を差し伸べる。が、転倒寸前だった香奈を支えることはできず、そのまま一緒に地面へと倒れ込んでしまう。
「いっ、たくない?」
地面の感覚とは違うフニフニとした感触に香奈は間の抜けた声をあげる。下を見ると、そこにはピンク色の服に身を包んだミライの胸もとがあった。
「ミライ! 大丈夫!?」
色々考えていた香奈の頭がミライの安否でいっぱいになる。頭は打ってないか、骨は折れてないか、そもそも生きているのか。半泣き状態になりながら香奈はミライの肩を鷲掴む。
「あぁはは、大丈夫だよ。香奈が軽くて助かったよ」
苦笑いを浮かべるミライの言葉に香奈は、良かったぁ、と声を上げてミライの胸にへたり込んだ。その拍子に香奈の頭がミライの胸に押し当たり、ミライの心臓の音が聞こえ…………。
確かめるように香奈はミライの胸に耳を押し当てる。しかし、どれだけ耳を澄ましても求めている音が聞こえてくることはなかった。わかっていた現実を目の前に香奈は静かに下唇を噛み締めた。
「だけどさぁ、香奈」
胸に耳を押し当てる香奈の前からミライの困った声が聞こえてくる。声の方に目を向けると気まずそうに苦笑いを浮かべるミライの瞳と目があった。
「できたら、早く退いてくれると嬉しいかなぁって」
暗くなった緋色の瞳を見ながら、ミライは言いづらそうにお願いする。その口調は何かを迷っているかのように揺らいでいた。
「あぁ、うん。そう、だよね。ごめん」
そう言って立ち上がると、香奈はミライの方に手を伸ばす。倒れ込んでいたミライは伸ばされた香奈の手を頼りに立ち上がると、優しく笑ってみせた。
「ありがとう。香奈」
微笑むミライに香奈は首だけで返事をする。裁定者と名乗った男とあったときと同じ感情が香奈の中に蘇る。自分の願いが否定されている感覚。それは今の香奈にとって不快なものでしかなかった。
「唐揚げとポテト、落としちゃったね」
香奈がその場で立ち尽くす中、起き上がったミライは床に散らかった唐揚げとフライドポテトを拾い上げ始める。目の前で動いているミライの背中に、香奈の拳が強く握られた。
「次、どこ行こっか」
散らかった唐揚げとポテトと拾い上げたミライが、黙り込む香奈に優しく語りかける。しかし、香奈は俯いまま何も答えようとはしなかった。
「じゃあ、また私が決めるね」
ミライは静かにそう言うと香奈の手を取り駄菓子屋を後にした。
その後、時間のある限り香奈たちは思い出の場所を巡った。しかし、何処に行っても、何を話しても香奈の俯いた顔が上がることはなかった。そして日が落ちかけた夕暮れ時、香奈たちは最後の思い出の場所を訪れていた。そこは昨日も寄った、ただ広いだけの公園だった。ミライは辿り着くや否や、昨日座ったベンチに香奈を座らせ、その隣に自分も腰を降ろした。
「1日って経つの早いね」
茜色の空を見上げながらミライはそう呟いた。横では項垂れた香奈が地面に顔を向けている。
「宝物、見つかった?」
消沈する香奈にミライは優しく話しかける。あやすようなその声に香奈は小さく首を横に振った。
「私、このまま消えた方がいいのかな。そしたらきっと……」
そこまで言って香奈は口ごもる。これ以上先の言葉は今まで一緒にいてくれたミライのことすらも否定する言葉だと香奈には思えた。香奈の消え入りそうな弱音に、ミライは困ったようにもう一度空を仰いだ。
「それは私にはわからないかな。決めるのは香奈だからね」
諭すミライに香奈は奥歯を強く噛み締める。本人の意見を尊重するミライの優しさが香奈の自己中心的な心に突き刺さった。
「そうよね。私がどうしたところで、あんたはいないんだし」
八つ当たりするような口調で香奈はそう吐き捨てる。あるはずのない今日、来るはずのない明日、いるはずのない親友。香奈が目をそらし続けていた現実は、この世界でも否応なしに突きつけられる。その現実と理想の狭間に香奈はこれ以上耐える自身が持てなかった。
「ねぇ、ちょっと聞いていいかな?」
下を向いたまま黙り込む香奈にミライが問いかける。
「香奈はどうして、私と一緒にいてくれたの?」
その問いは駄菓子屋で香奈がミライに向けたものだった。衝動のまま香奈は顔を上げ、少し赤くなった眼をミライに向ける。その香奈の惚けた泣き顔に、ミライはくすりと笑ってみせた。
「確かに最初は私からの話しかけたけどさ。でもそのあと私、ずっと病院にいたでしょ」
それは現実のミライの話だった。心臓が弱くて、ずっとベッドから出られないまま亡くなった、香奈がこの世界で目を逸し続けていた本当のミライの話。聞きたくないことのはずなのに、香奈の耳はミライの声から離れようとしなかった。
「さよならなんて、いつでもできたはずなんだよ。だって私、ベッドから動けなかったんだもん。でも、香奈はそうしなかった。みんなが私から離れていく中で、香奈だけは、ずっとそばにいてくれた」
「そんなの当たり前でしょ! だってミライは私の──」
そこまで言うと香奈は苦虫を噛み潰したように言葉を詰まらせた。ふざけあった日々が、笑いあった日々が、喧嘩していた日々が頭を過る。そして、二度と言葉を口にしなくなったミライの寝顔が脳裏に蘇る。その上で、これより先の言葉を口にする権利は、今の自分には無いように香奈には思えた。目の前にある現実から目を逸らすように香奈は視線を横に向ける。
「ホント暇人だよね、香奈って。こんな私のために」
顔を歪める香奈に、ミライは笑顔のまま自嘲混じりに悪態をつく。その言葉に香奈は黙ったまま大袈裟に首を横に振った。親友の言った優しい自嘲が香奈の胸を締め付け、拳を強く握らせる。
「香奈、あのとき言ったよね。ずっとなんて無理だって」
日が落ちていく空を見上げながら、ミライは語るように話を続ける。
「でも、私は違うと思うよ。離れてても、死んでても、私たちはずーっと一緒だって思うんだ。だって」
そこまで言うと、ミライは香奈の頭をそっと自分の胸もとまで引き寄せた。思いも寄らないミライの行動に香奈は幼児のように目を丸くした。
「こうやって心臓が鳴ってなくたって、私、香奈のこと感じるもん。見えなくても、会えなくても、香奈はずっと、私の中に居続けてるんだよ」
「…………」
それは、ズルいよ。そう言おうとした香奈の言葉は、嗚咽に飲まれてミライに聞こえることはなかった。胸を貫く痛みに奥歯を噛み締めながら、宙ぶらりんの腕をミライの背中に回す。
あぁわかった、私の宝物。胸に巣食う温かい痛みに、香奈は静かに微笑む。そして、覆っていたミライの手をほどくと揺らぐ視界に映るミライに悪態をついた。
「何よそれ。もう死んでるくせに」
緋色の瞳を揺らめかせながら、滲むミライを見つめる。
「あっはは。まぁそれはそうなんだけどね」
バツが悪そうに言葉を濁しながら、ミライは苦笑いを浮かべた。気まずそうなその表情に香奈の口からクスリと笑いが溢れた。と、香奈の笑いに釣られるように、困った顔をしていたミライの顔にも自然と笑顔が浮かび上がった。消えていく夕日の中で、時間の限り、二人は意味もなく笑いあった。それは、これから今までの時間を埋めるような、これから来る幸せを願うような、楽しい笑い声だった。
「宝物は見つかりましたか?」
笑い会う二人の間に、聞き覚えのあるくぐもった声が響きわたった。香奈が声の方に目を向けると、烏の仮面を被った男が公園の入り口で佇んでいた。
「実物が無いんだけど、それでもいいの?」
突然現れた裁定者に香奈は悠然と言葉を向ける。ベンチから立ち上がった夕日色の視線は目の前にある黒色の影をしっかりと見据えていた。その表情に裁定者は大袈裟に手を広げると、声高に香奈の問いに答えた。
「構いませんよ。宝物のあり方は人それぞれです。それと、わざわざ言葉にする必要もありません。世界はあなたの想いから、裁定するだけですので」
「そう。じゃあその裁定結果とやらはどうなの?」
裁定者の言葉に香奈は単刀直入に返す。そのまっすぐとした言葉に裁定者は満足げに首を立てに振った。その仕草はつまり、香奈が宝物を見つけたことの証明であり、この理想が終わることを意味していた。
「ええ、先程、あなたへの裁定は下されました」
裁定者がそう言うと、香奈の周りが眩しい光に包まれ始めた。同時に体の輪郭がボヤケていき、指先から徐々に感覚が薄れていく。
「夢から覚めなさい、今井香奈。あなたはまだ終わっていい人間ではありません」
裁定者の言葉に香奈は仕方なさそうに口角を上げた。初めから終わらせるつもりなんてなかったくせに、と内心で悪態をつきながら、消えかけている自分の手に視線を向ける。
「香奈!」
未練と決意が混在する香奈の後ろから、潤んだ声が聞こえてきた。振り返ると、ベンチから腰を上げたミライが藍色の瞳を揺らしながら香奈を見つめていた。震える足を必死に抑え、こぼれそうな涙を笑顔で誤魔化している様子が香奈からでも見て取れた。そして、ボヤケる視界を勢い良く拭うと、消えていく香奈の両手を取りギュッと握りしめた。
「ずっと、ずーっと、親友だからね!」
重たいなぁ。涙が伝う明るい笑顔を向けるミライに香奈はそう思いながら笑いかける。これからあるであろう面倒ごとの数々を思い浮かべながら、夕日のグラデーションがかかった藍色の瞳を見つめる。そして、無理やり笑ってみせているミライに小さく頷くと、握られていた手を強く握り返した。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
目を開けると、見知った天井が私の視界に映りこんできた。薄灯りに照らされた真っ白な壁と、目に悪い白色の人工光。それはかつてあいつと一緒に過ごした場所と同じ光景だった。視界を少しだけ下に落とすと吊り上げられた真っ白な左足が見えた。次いで真っ白になった左腕と点滴が繋がれた右腕が視界に映る。そして、右手の中にはさっきまで握りしめた二つの指輪の感触があった。
戻ってきちゃったんだ、と私はため息をつくと、意味もなく窓の外に頭を向けた。冷たい灰色が広がる冬の空には、所々陽の光が漏れ出ている。
「私も、人のことは言えないか」
藍色の空を見上げながら、私は夢で聞いたあいつの最後の言葉を思い出す。私は、あいつのことを一生忘れない。自分のことを顧みず、二度も私を救ってくれた親友、星乃ミライ。今の私があるのはあいつのおかげて、これから私が生きていけるのはあいつが助けてくれたからだ、と私は思っているから。
だったら、あいつに笑われないように生きるしかないよね。だってあいつ、私のことずっと見てるんでしょ? ストーカーじゃん。
夢で会った親友に勝手な悪態をつきながら、私は微笑みを浮かべる。そして、右手の中にある宝物の欠片を確かめながら、私は静かに目を閉じた。吹きすさぶ風が木々を揺らす音と共に、ウグイスの小さな声が私の耳に届いていた。
無力な私の生きる理由 @C07
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