カホンさんと幸せの意味

jima-san

カホンさんと幸せの意味

 僕には昔「カホンさん」と名付けた年下の友人がいた。彼女との思い出は僕にとって大切で、かけがえのないものだ。なにしろ僕は彼女の前でズルができないのだ。





 授業後に集めた彼女のクロッキー帳は白紙で、メッセージだけが書かれていた。

「先週の先生のコメント、人物画なのに『座っている椅子がいい』はひどいです。今回からこのクロッキーは拒否します」


 10年ほど前のことになる。

 事情があって無職となっていた僕は大学時代の先輩のつてで高校の美術講師を1年間だけ勤めることになった。進学率の高い高校で美術は選択科目、一学年につき一集団…ということは僕の授業は週に3コマだけだ。後は事務のためにもう数時間学校で勤務する。要するにほんの10時間程度しか働かないのだ。


 …授業の準備も最初だけは少々大変だったが、それ以外は進学校の選択教科、楽勝である。もちろんこれは僕が比較的スーダラ教師だったからだが、つまり授業の時間以外は一人きりの美術準備室でのんびりとコーヒーを飲んだり、読書したりの優雅な勤務とあいなった。


 現在の過酷な環境で勤務されている先生方には申し訳ないことだ。



 授業の冒頭で僕は5分間の人物クロッキータイムを設定した。基本的なものの形の取り方を教えたいこととウォーミングアップ、それに失敗を恐れず思い切って短時間で描き切るきっかけになればと考えたのだった。


 毎時間3名の生徒が交代でモデルを務め、思い思いのポーズをとる。他の生徒は椅子だけ持って周囲の好きなところに陣取り、5分間で最後まで描き切ることがミッションである。


 僕は基本この作品を授業終わりに毎回集め、とにかくひとことめて返却するのを習慣にした。だからこの5分間のスケッチはおおむね生徒に好評であった。

 どんなにつたなくても「体のひねりが出来てる。天才!」とか「手の描き方に味がある。いいじゃん!」とかコメントがしてあるから、きっと誰もが嬉しいことに違いないだろうと軽く考えていた。


 しかし、下手な褒め方は逆に傷つく生徒もいる。僕はそこのところがまだ甘かったのかもしれない。




 果穂かほさんという女生徒が真っ白なクロッキー帳とともにメッセージだけを書いて提出してきたのは、こんな5月のある日のことだった。


 それがつまり「『座っている椅子がいい』はひどい。今回からこのクロッキーは拒否します」であった。


 僕にも言い分はある。この時のコメントはつまり椅子とモデルの関係を指している。ちゃんと座ってる風に描くというのが意外と難しいものなのだ。何かバラバラになったり、体が浮いてたりすることも多いので、きちんとお尻と椅子がくっついて描かれているということが言いたかったのだが、それを一言コメントで言うのはなかなか難しかった。


 カホさんは短めの髪に大きな瞳、いかにも気の強そうなキリッとした眉毛が印象的な高校3年生だった。 


 その日の授業終わりに呼んで説明をしたかったが、その時間の後始末や教科係への次時の指示もあり、チャンスを逃した。



 翌週、彼女が美術室に入ってきたときに声をかけ、僕の思いを説明した。

「あのね。つまりそういうわけなのだけれど」


 理屈が通っていても、一度へそを曲げた生徒ってなかなか大変だ。

「言い訳に聞こえます。先生は不誠実です」

 とにかく彼女は今後のクロッキーは拒否すると言い張り、僕をジトッとした目で睨んだ。


 さて、どうしたものか。

「わかりました。でも今後まるまる全部のクロッキーを白紙では、僕も成績に反映させざるを得ないので、あなたが納得いくまで僕の助手をお願いしていいですか」


 僕の提案に彼女は眼を白黒させる。


「助手をやっていただけるのであれば、その働きを成績に含めます。お願いできませんか」


「…何をするんですか」


「クロッキーのタイムキーパーです。終了時間をみんなに伝えてください」


「それだけでいいんですか」


「はい。ただし、これでやってほしいのです」

 僕が取り出したのは『カホン』、南米の打楽器で、一見ただの四角い木の箱に見える。大きさは椅子くらい。


 ただの木の箱や椅子と違うのは、一面だけに丸い穴が開いていること、内側に弦が張ってあること。


 この楽器は基本この箱に座り、股の間で叩いて音を出す。叩く場所によって、いろいろな音が出るところがミソなのだ。


「よく意味がわかりません」


「3分前になったら、あまりうるさくならない程度に一定のリズムで叩いてください。ラスト10秒にはほんのちょっと強めに叩いてもらっていいでしょうか」


「…」


「いつもだと僕が音楽をかけたり、口で『あと1分』とか言ってますが、しばらくはあなたのカホンでいきましょう。いい感じで単調な音が鳴るのは、結構スケッチがやりやすいんですよ」


「…一応やります」


 いやがるかな?と思ったけれど、意外とすんなり承知してくれた。たぶん彼女も僕に本気で反抗する気はなかったのだと思う。落とし所が見つかればそれで良かったのだろうし、何より好奇心が強そうな顔を見破った僕の作戦勝ち?だ…と思う。



 ちょっと面白い光景となった。


 教室内で30数名の生徒が黙々とスケッチする中、彼女の叩くカホンがトントン…と響く。クスクス笑う生徒もいたけれど、すぐ慣れたようだ。最後の10秒、結構激しいドンドコドンドン!という音が響いて爆笑が起こった。彼女も照れ笑いをしている。


「先生、次は俺にカホンの役やらしてよ」

 何人もの生徒から申し出があったけれど、丁寧にお断りをした。


「一応、彼女に『嫌になるまで』とお願いしたので、次の機会をお待ちください」



 この彼女のカホンは3回で終了した。つまり『カホンさんの反乱』は3週間で収束したわけだ。


「先生がクロッキーの時、みんなのとこクルクル回って一言一言声かけてるの見て、私がわがまま言ってるなって思いました。すみませんでした」


 大変立派な謝罪があり、僕も謝った。

「もとはと言えば、雑なコメントで嫌な思いをさせたのは僕です。いいアドバイスをもらったと感謝していますし、いいタイムキーパーをつとめてくれてありがとう。カホンさん」


「カホンじゃなくて果穂かほです」


「ごめんなさい。嫌だったらカホさんに訂正します」


「…いやじゃないです」


 カホンさんはバレー部所属らしい男の子くらいの短髪をコチョコチョといじって、少しだけ照れているようだった。




 その後カホンさんはしょっちゅう美術準備室に現れるようになった。僕が学校に来る3日間の昼休みは必ず顔を見せる。その度、僕はあのカホンを彼女の椅子代わりにすすめ、コーヒーを振る舞った。


「さてはカホンさんは僕のことを好きになりましたね」


 彼女は一瞬固まり、それからプーッと噴きだして大笑いした。

「ぜ、全然それはありません。美術は大好きですけどね。美術準備室と先生のそばは落ち着くんです」


「…そうですか。でも変な噂が出ないように、一人で来るのは遠慮してください。来てもいいですから、友達を誘って何人かで来るようにしてほしいんです」


 彼女は一瞬表情をなくしたように見えたが、それからすぐ元の表情に戻る。


「わかりました。! そうします」


「何でそこだけ強めに言ったかな」


「そんなことより、いつまで私の名前はカホンなんですか」


「嫌だったらやめます。面白がって呼び続けてごめんなさい」


「…やっぱり、いいです。特別扱いの証拠だしね」




 しかし…その後もカホンさんは大概一人きりで準備室を訪れては、僕に注意をされ「はいはい」と生返事をするのだった。




 そんなこんなで日々が過ぎ、秋に部活を引退したカホンさんがまたクロッキー帳にこんなメッセージを書いてきた。


「先生。人は何のために生きるのですか」


 えらいことだ。なぜこの娘は僕などにこんな大層なことを聞くのだろう。美術のことや大学生活の云々とかならともかく「人生の意味」とは。


 僕はとりあえずクロッキー帳の返事にひとこと記入する。


「宿題にさせてください」


 この高校では2学期に教育相談と銘打って、どの先生にでも何の相談でもできるという地獄のような行事が用意されていた。


 カホンさんは次時のクロッキー帳にずいぶんうまくなった人物像とメッセージを書いて提出してきた。


「教育相談を楽しみにしています」




 美術準備室で僕とカホンさんは向かい合った。例によってカホンさんはカホンにちょこんと座っている。


「髪がだいぶ伸びましたね」


「何か自分でもちょっと不思議な感じです」


「本当に教育相談で僕を指名してくるとは」


「先生の不誠実な返事がいけないんです」


 カホンさんは最初の会話と同じセリフを、最初のときとは違ってニコニコ笑いながら言った。


「で、先生。人は何のために…」


「カホンさん」


「はい」


「僕はまだ20代で、この質問にお答えできるような人生経験を積んでいるとは言えません」


「そうなんですか。私には先生がすごく落ち着いた大人に見えます」


「…褒め言葉はありがたいと思いますが、過大評価です」


「…」


「えーと、だからね」


「えーと、はい?」


 いつもより慎重な僕と少しだけ思い詰めた顔のカホンさん。


「先生、私は美術系の大学へ進路変更したいのです」


「…今からですか」


「担任からも無茶だと言われました。両親も反対しています」


 僕には手に余るとしかいいようがない。


「…」


「私に才能はありますか」


「それを僕が判定することはまったく不可能です」


「美術の先生なのに」


「美術の先生だからです」



「私はイラストレーターになりたいんです」


「初めて聞きました」


「誰かに言ったのは初めてです」


 自然と僕はため息が出てしまった。


「浪人してでも大事にしたい夢ができたんです」


「まずはあなたがこれからどういう生き方をしたいのか、ご両親にしっかり伝えることからじゃないでしょうか」



「先生、幸せって何ですか。人は何のために生きるんですか」


「…質問が飛躍しすぎに感じます」


「私はそれを先生に聞きたいんです」

 芯の強そうな、そしてきれいな瞳がまっすぐに僕を見つめる。


「僕はずっと考えました。真剣に」


「はい」


「さっきも言ったように、まだ人生経験が不足しています」


「そうでしょうね」

 こらこら。


「そんな僕が考えたことでもよかったら、でいいですか」


「そんな面倒な質問したのは私です。先生、ありがとう」


「本当に面倒な質問でした」


 思わず二人でアハハハと笑い合った。



「僕が考える生きる意味は『遊ぶため』です」


「遊ぶ…ですか。何だか」


「何だか軽いでしょうか」


「そんな気もします」



「『本気で遊ぶ』ではどうでしょう」


「よくわからないです」


「例えば…将棋に藤井聡太さんという人がいますね」


「…はい」


「あるいは野球の大谷翔平さんがいます」


「何の話なのかな」


 僕もどう話そうか迷いながら話している。

「藤井さんが将棋していて、形勢が悪いからって相手がトイレに行った隙に駒動かしてズルするかな?」


「相手だって気がつくと思いますが、まあ、しないと思います」


「うん。大谷さんは試合で、もし審判のチェックがなくても、あるいは誰も見てなくても手に粘着物とか使うなんてズルはしないと思うんです」


「それは」


「それはたぶん、彼らがその競技をこよなく愛していて、ズルして勝っても面白くないからだと思います」


 カホンさんは納得して頷く。


「これはすごく幸せなことじゃないですかね」


「ズルできないことがですか」


「そう。ズルできないくらい愛しているものがある。ズルできないくらい本気で遊べるものがあるってことです」


「…」


「それはすごく幸せだと思う」


「…」


「だから、僕らはみんなそういうものを探して生きてるんだと思います」


「…先生にとって私は大切なものですか」


 頬を真っ赤にしたカホンさん、この質問の意味は…。 




「大切ですよ。当たり前です」


「どういう意味で…」


 僕は慌てて言う。

「僕もあなたと同じで、本当に大切にできるもの、生涯をかけて本気で遊べるものを追い求めています」


「先生にとってかけがえのないもの、ですね」

 カホンさんは真剣な顔で頷く。


「まだまだ何も言えない僕ですけどね」


「…」


「これからずっと一緒に…共に生きていけたらいいなって思うものが幾つかあります」


「それが何なのか、聞いてもいいですか」


「まず僕が心から愛する美術、それから…」




 冬が過ぎて、また春が来て僕の講師生活も終了となった。


 あちこちに営業したかいもあり、幸い広告会社からのオファーを受けて、まだまだきわどいところだけれど、生計のめどはギリギリ立ったのだった。



 『離任式』という行事があり、たった1年勤めただけの僕も体育館のステージに立った。何人かの退職、異動の先生と並んで生徒から花束をもらう。


 それぞれ自分が顧問だった部のキャプテンや担任したクラスの学級委員などゆかりのある生徒がプレゼンターとなる。


 誰が僕への…と考える間もなく、やっぱりカホンさんが僕の前に立った。


「立候補しました。でも先生、意外と人気なくて、すんなり私に決まりましたよ」


「…大きなお世話です」


 残念ながら美大には落ち、自身も春から東京の予備校に行くカホンさんがセリフとは裏腹に、真っ赤な目で僕を見る。

 花束を渡す段には顔をグシャグシャにして、握手はいつまでも僕の手を離さず困らせた。


「…また会えますか」


「きっと会える。だからビービー泣くなって」


「最後にようやく敬語じゃなくなった」


「…間違えました。お泣きにならないでください」







 さて僕は今、曲がりなりにもデザインスタジオを立ち上げ、細々とだが自分の好きなことを仕事にして生きている。


 誘惑はある。ちょっと使いたいフリー素材、何処かで見たレタリング、真似してみたいこのレイアウト…でもでもでも。ズルできないんだ。心からこの仕事を愛しているから。



「センセ、サボってない?」


「サボってません」


「ちょっとここに使うイラスト描いてみたんだけど」

 彼女は僕の横にあるカホンに座って、1枚のイラストを差し出した。


「座ってる椅子がうまく描けてる」


「懐かしい誉め言葉。いやいや…キャラクターを褒めなさいよ」


「もっとレタリングの字体と馴染ませて欲しい。やり直しだね」


「うう、センセは不誠実です」


「懐かしい捨て台詞だね」


「またダメ出しだあ」


「もうこの前のやつ、使い回しにしたら?」


「…ズルはしません」


「締め切りが近いですよ。カホンさん」


「ううう。センセのイケズ、見てなさいよ。超クールなの仕上げてくるから」



 髪が長くなって、すっかり女性らしさも身につけた?彼女だが、気の強さは変わっていない。


 あの教育相談の日、僕は彼女に告白した。


 僕に自立の目途めどがついたら、必ず迎えに行くので待っててほしいと。

 彼女はビックリして、泣き出して、それから「絶対絶対」と10回ほど繰り返した。


 もちろん僕は約束を守った。


 何しろ大切なものに対してズルしない、というのが僕の信条だ。

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