消える私、消えた恋

ミナガワハルカ

 

 アトレ恵比寿の有隣堂で、不思議な消しゴムを買った。

 見た目はふつうの消しゴムだ。白くて、四角くて、かたいけど柔らかい。

 指ではさんで力を入れると、少しへこむ。

 ふつうの消しゴムだ。

 何となくじっと見ていると、その白さがなぜか妙に気にさわって、目を背けた。

 何気なく、手元にあった本の表紙をこすってみた。

 消えない。

 当然だ。

 それから、机の木目をこすってみる。

 消えない。

 自分の指をこすってみた。

 そうしたら何と、これはきれいに消えてしまった。

 わたしの左手の人差し指が、消えてしまった。

 指がなくては不便だから、どうしたものかと思案していたが、そのうち、あの指は不格好だったと思えてきた。

 節くれだっていたし、爪も不格好だった。ならばむしろ、無くなってせいせいしたのかもしれない。いちどそう思うと、もう、そうとしか思えなくなってきた。

 それならば、途中から消えている今の状態は中途半端で美しくない。根本から綺麗に消してやらなければならない。

 丁寧に消しゴムをかけて、形を整える。

 だが。

 かけながら思った。

 他の指だって、たいして形のよい指ではない。

 他の指だって、節くれだっていて、醜い。

 だんだん、我慢がならなくなってきた。

 試しに、節くれだった部分に消しゴムをあてて、形を整えてみる。

 すると、少し良くなった。

 気をよくして、さらにかけてみる。すると今度は消しすぎてしまった。

 バランスを取るため、今度は他の部分を消す。

 するとまた、節のところが出っ張ってしまった。

 こうして、こんなことを繰り返しているうちに、しまいに私の左手の指は、すべて細く削れてしまい、まるで枯れ枝のようになってしまっていた。

 わたしはもう嫌になった。もう、どうでもいい。

 ごしごしと消しゴムをかけ、手首から先をすべて消してやった。

 私の指も手もすべて、どれもこれも消えてしまった。

 せいせいした。これでもう醜くない。

 わたしは満足して、ため息をついた。

 わたしの体が消えるこの消しゴム。

 不思議な消しゴム。

 だが。

 わたしの一番消したいものは消してくれない。

 それはわたしの、嫌な記憶。

 わたしの、嫌な、思い出。


 わたしは小さな頃から、地味で静かな子供だった。

 友達と遊ぶよりも読書をしているほうが好きで、小学校の休み時間は本ばかり読んでいた。

 おしゃれや流行への関心も薄く、高校時代にはみんなが茶髪に染めるなか、黒髪だった。制服のスカートが長いことをからかわれたりもした。だが、べつにそれは気にもならなかったし、むしろ内心では、見た目ばかりを気にするクラスメートを侮蔑ぶべつさえしていた。

 といっても、わたしの人間関係は学生時代を通して良好だった。別にいじめられてもいなかったし、手頃な仲良しグループにも入っていた。物事を一歩引いて見るところのあるわたしは、適当に上手くやっていたというわけだ。

 周りはどんどん、彼氏を作った。誰それが彼氏ができた。誰それが別れた。付き合った。別れた。よりを戻した。女子というものは、美と恋愛しか頭にない生き物らしい。

 いや、わたしだって、恋愛に興味がない訳ではなかった。むしろ、数々の恋物語を読んでは、ときめいて、わたしの白馬の王子様が現れる日を待ち望んでいたのだ。

 ある時、友人たちと話していると、話題が男子の品評会になった。野球部のあの先輩ががかっこいい、いや、バスケ部の誰々の方が素敵だ、という、よくある話だ。

 その中でひとり、挙がる人すべてに批判をつけていく友人がいた。

 あの人はあの時、ああいうことを言ったから、性格が悪い。

 あの人は服のセンスが悪いからだめ。

 あの人はこのとき、こういうことをしたから信用できない。だからどの人も、彼氏にはできない。

 わたしは彼女のことを、ずいぶん窮屈な人だと思った。

 この人の彼氏は、おそらく一度も失敗できないのだろう。もし彼女の気に沿わない点があれば、即座にバツ印をつけられて、彼氏失格だ。一言一句に注意し、常に正解を選択し続けなければならない。

 でも。それは恋愛と呼べるのだろうか。

 まるでそれは、オーディションのようなものだと思った。良いところ、悪いところを検討して、一番得点が良かった人が恋愛対象。

 わたしは、もしそれが彼女の恋愛なら、そこに心はないと思った。

 わたしにとって、人を愛するということは、もっと純粋で、運命的なものだったのだ。

 わたしは信じていた。

 きっと、運命の人に出会った瞬間、わたしは雷に打たれる。そしてその時やっと、今のこの、何か満たされないでいる心が満たされるのだ。

 ふたつに割れたクッキーは、割れた相手とでなければ、ぴったりとくっつかない。

 生まれる前に二つに割れたクッキーのわたしは、割れた相手を探し求めているのだ。運命によって出会った二人は、ぴったりとくっついて、二度と離れることはない。そう信じていた。そうであってほしかったのだ。

 だから、高校時代を通してとうとう雷に打たれなかったわたしには、彼氏ができることはなかった。

 高校を卒業した私は、東京の大学に進学した。

 地元の倉敷も嫌いではなかったが、華やかな東京に憧れたのだ。

 それと、自覚はしていなかったが、妹から離れたかったという気持ちも、あったのかもしれない。

 わたしには、ひとつ下の妹がいた。

 妹はわたしと違って、華やかな人間だった。顔だちもくっきりした美人で、性格も外交的だ。友人も多い。つまり、わたしと正反対の人間だった。地味で控えめなわたしは、いつも妹の陰に隠れて目立たなかった。

 姉妹の仲は悪いわけではなかったが、趣味も性格も違うのだから、特別良いわけでもなかった。

 ただ、ふたりが中学生だったころ、妹が私を誘ってくれたことがあった。友達と遊びに行くので、一緒に来ないか、というのだ。

「Yくんも一緒だよ。ほら、お姉ちゃん、かっこいいって言ってだじゃん」

 妹はそう言って、ぱっちりした形の良い目でわたしに微笑みかけた。

 わたしはためらった。興味はあった。だが、わたしが行って場違いではないだろうか。もしその場になじめなかったら、わたしはどんな顔をしてそこにいたらいいのだろう。

 結局、私は断ってしまった。

 その時の妹の顔は、何とも言えない表情だった。ああやっぱり、という顔が半分と、失望したという顔がもう半分。それで別に二人の仲が変わることはなかったが、その後、妹がわたしを誘うことはなかった。

 だから、妹も進学で上京してくると聞いた時には、歓迎する気持ちもあったが、ほんの少しの戸惑いもあった。

 妹は、私のアパートから三駅離れたところに入居した。この微妙な距離が、そのままふたりの距離感なのだろう。

 さて、わたしが雷に打たれたのは、それから少しあと、二年生の夏の初めのことだった。

 わたしは、アトレ恵比寿の有隣堂に出かけた。

 もう蝉が鳴き始めていた。汗をにじませながら自動ドアを抜けると、強烈な冷気がわたしを出迎えた。

 わたしは文庫本のコーナーに行き、目当ての作家の本をさがした。大学生の身にはハードカバーは高いし、かさばるのだ。

 わたしが愛読している作家たちのなかでも、特にマイナーな作家の本を物色していると、新刊が出ていた。手に取ろうとする。すると横から、もう一本の手が伸びてきた。

 驚いてそちらを見ると、若い男性が、やはりこちらを見て驚いていた。

 はっとして思わず手をひっこめ、その男性を見上げるわたしに、彼はやさしく微笑んだ。

 その瞬間、ついにわたしは、雷に打たれたのだ。

 男性は、近くの大学に通う三年生だった。

 わたしたちは、本の話で盛り上がった。マイナーな作家が好きなふたりは、お互いに、その作家を話題にできる友人がいなかった。

 彼は知的で、物腰も穏やかで、ふるまいや言葉遣いに品があった。彼と話していると時間を忘れた。

 それから、彼と本の貸し借りをしはじめた。

 わたしの本棚にあった本が、どんどん彼の本棚に混ざり、逆に彼の本がわたしの本棚に混ざった。それは、物理的な意味でそうであると同時に、精神的な意味においてもそうだった。

 本は、読むことで知識となり、疑似体験の記憶となって、その人を作り上げていくと私は思っている。つまり本は、その人を構成する要素なのだ。だから、それを誰かと交換するということは、自分の一部を交換し合うということだ。

 わたしの一部が彼に入り、彼の一部がわたしに入る。

 二人は溶け合って、均一な存在になろうとする。

 わたしはそれを、崇高でエロティックだと思った。

 人間同士の愛の営みよりももっと原始的な、まるで細胞同士が接合し、互いの遺伝子を交換し合うような行為。

 わたしは、彼とひとつになっていっていると感じた。

 だから、彼にすべてを許すことに躊躇ためらいはなかった。

 告白は、彼のほうからしてくれた。

 彼は若い男だったので、しばらくすると、当然そういうことも求められた。

 わたしは彼ならいいと思ったし、彼に喜んでほしかった。そのためなら、何でもしてあげたいと思った。

 わたしは幸せの絶頂にいた。怖いくらい幸せだった。

 妹に紹介すると、満面の笑みで祝福してくれた。


 今朝、わたしは岡山から帰ってきた。

 お盆くらいは顔を見せろと親に言われ、それもそうだと、一週間帰省してきたのだ。

 妹は、バイトがあるからと東京に残った。

 わたしも、本当はもう一日岡山にいるつもりだった。だがバイト先から出勤できないかと連絡があり、一日早く東京に戻ることにしたのだ。どうせ岡山にいたって暇なのだから。

 わたしは自分のアパートに戻る前に、有隣堂に寄って、本をチェックした。ついでに消しゴムがちびてきていたことを思い出し、新しいのを買った。そして、買った本の話をしたくて、彼の部屋に寄ることにした。

 彼の部屋のドアは鍵がかかっていなかった。

 不用心だと思いながら扉を開け、そこでわたしは凍りついた。

 女物の靴。

 しかも、見覚えがあった。

 わたしは目の前が真っ暗になった。

 胸がしめつけられるように苦しい。

 わたしは黙って、家の中に入っていった。

 キッチンの流しには、二人分の食器がそのままになっていた。

 皮をむきかけのまま放置されたリンゴは、茶色く変色していた。

 わたしの手は、そこにあった包丁に伸びた。


 わたしの消しゴムは、不思議な消しゴム。

 わたしの左手は消えてしまった。

 でも、わたしの記憶は消せない。

 では、あれは消せるだろうか。

 だるさをおしてわたしはゆっくりと立ち上がり、隣室へと続く扉に近づいた。

 その扉の下からは、赤いインクがひとすじ流れていた。

 深い赤。

 インクのすじは今も、少しずつ伸びようとしていた。

 嫌な色。

 わたしは床にひざまづき、インクをこすってみた。

 消えない。

 インクは広がって、ただ床を汚した。

 さらにこすってみたが、こすってもこすっても、インクは消えない。

 ただ、広がっていくばかり。

 生臭いインク。

 嫌なインク。

 気がつくと、わたしは泣いていた。

 ぼろぼろと、涙が頬を伝っていた。

 わたしは泣きながら、なんどもなんどもインクをこすった。

 だが、消えないのだ。


 どのくらいこすり続けていただろう。

 ようやく、わたしは諦めた。

 諦めて、わたしは、自分を消すことにした。

 わたしは立ち上がり、赤に染まった消しゴムで、自分をこすった。

 右足、左足、腰、おなか。

 次々と消えていく。


 そうだ、こんなわたし、消えてしまえ。


 そして、胸が消えて、首が消えて。


 ついにわたしは、とうとう、すべて消えてしまった。


 これでもう、醜くない。

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