おかげ犬
綾波 宗水
春来
―――君は恋をしているか。
里見はおもむろに口を開くと、柄に無く私へそう言ってきた。なるほど彼は文学をやるだけあって感性というものを低くみてはいやしないが、あくまでも理知的で、およそ浮いた話を自ずから切り出すようなやつではない。
―――いや今は特段、と私はひとまず答える。
―――そうかい………僕はね、打ち明けると幾たびか死にたいと思ったことがある。だけれども、あの時、幸福の絶頂を越したと思って錯覚した死期のようなものを、よくぞ無視したと今は自分の弱さを褒めたくもなるのだ。
―――言わんとしている事はよく分かるが、それは屈折だね。
―――そうだ、恋なぞ屈折に違いない。
春一番が吹いたのも数週間前だというのに、今夜は寒さがぶり返し、日中もさることながら、今や夜風が轟々と荒れている次第。
緊張状態を嵐の前の静けさと表現することもあるが、それは作劇上のまやかしでしかなく、やはり嵐こそ、人は怯えるものなのだ。
同室になって二年目の里見薫が今はじめて私に弱みをみせたのだ。あの傲慢とも違う、同級生で最も誇り高き男がだ。
彼をしてここまで脆弱にする恋と意中の相手に私は怒りすら感じつつあった。それと同時に、何かを決心したような彼の横顔をみて、言葉の選択を誤ったかと、己を責めもした。
―――なに、屈折でない人間関係などないだろうし、別に君を刺激するつもりは。
―――僕はね、その屈折には今まで耐えられなかった。自分を曲げることだと思ったからだ。今でもこの考えを捨てた訳でもない。しかし、かつてなく馬が合う、いや、それだとnuanceが伝わらんかもしれないが、ともかく彼女を置いて他に無いと思わないではいられないのだ。
デスクライトに照らされた彼の表情は、いつものように若者らしい晴れやかさはなく徹底された孤独の影が差したままだが、ふと女性的に見える瞬間もあった。
―――里見、今は大正の
―――確かにデカルトもカントもおよそこの混迷には程遠い賢人だ。しかしショーペンハウエルの方は。
―――もちろん無用の長物とは言わないさ。だが、我らが永田教授も、日露の折に悲惨小説を学生の身で精進したからこそ今の文壇の席がある。君の孤独と死生観はmodernではなくとも時代錯誤でもないはずだ。だからこそ、私は君が不安気なのを驚くのだ。
彼は一瞬面食らったような顔をして、窓の方へとそむけた。すきま風が気まずく通る。
―――まぁ、一杯飲みたまえよ、春日野先輩が進級祝いにくれたウヰスキーだ。高級品ではないが、今夜は馬鹿に冷える。
―――僕は君に礼を言わなければならない。
―――なに、友情というのはこういうものだろう。
―――いや、それにもう一つ僕はお願いしたいのだ。
すると里見は小さなグラスをあおって、引き出しから折り紙をとりだす。
そこは彼の私物の中でも一等大切な物が収められている段で、同室である私も詳しく中身を覗いた事はない、唯一鍵の付いた一番上の引き出し。
おそらくは二枚の折り紙でなされたと思われる、赤と白の綺麗な多面体が几帳面に織り込まれていた。
立体のそのものをまるで御物のように取り出すと、両手を出せと言わんばかりに差し出してきた。
―――今夜、僕は己の屈折を認める。そのためにも、君には是非ともおかげ犬になってもらいたい。
―――願いとあれば別に構わないが。
―――心外に思わないでくれ、あくまでも伝令でも使い走りでもないのを強調しておきたかったのだ。
―――それで、私はどこへ『お伊勢参り』すればいいのだ。
―――C子のもとへ。明日の夕方、まきびし坂の駅前にと。
哀しいかな、予感は的中していた。幸いなのは恋敵にならなかったことくらいだ。
―――いいんだな?
―――君が悩む必要はない。言っただろう、屈折だと。
C子とは確かに彼の交遊でも数少ない異性の友人で、女学生になるために里見が家庭教師を務めたことのあるお嬢さん。なるほど、確かに二人は仲が良い。
しかし、両親はいかに学生とは言え、里見という存在を許容するだろうか。
―――こいつも渡して欲しい。これできっと願は掛かる。
この多面体にいかなる意図があるのか知らんが、何かゆかりがあるのだろう。
いつ折っていたのかてんで記憶にないけれど、私には出来ぬ芸当ゆえ、ともかくはこの役目を引き受けることとした。
―――改めて礼を言うよ。あゝ僕は恋をしても良かったのかもしれないな。
翌朝、いざC子の宅へ向かい、玄関先で伝言を預かった旨を述べていると、なんと彼女は女学校を中退するとのことであった。
縁組だ。相手は彼女の父と同じ部署に務める官吏らしい。
よってたとえ世間からは戯れに見えようとも、折り紙でつくった多面体を受け取れぬし、夕方に男女二人で会うのもいかんとのことだった。
ばつの悪い想いをしつつ、さて里見へ率直に伝えて良いか幾度も逡巡した。そのうちに陽は真上から再び傾きだす。
仕方がない、あくまでも私が親友なのである以上、責任をもって伝えねばなるまい。
―――そうか、ならばそれは君が取っておいてくれ。
里見の孤独はそこには不思議と表れていなかった。
要らないとは言い難く、しばらく彼を部屋に残して、再び折り紙をもって外へと繰り出す。
街頭に照らされた多面体は、まるで彼の心のよう。
そのような事を思い浮かべていた折、折り目に何やら刻まれているのが目に付いた。
折り目にしては少し妙に文字のようで、さりとてインキも墨も用いてはいない。
さてはこれこそ彼の恋文かと驚いた拍子に風にあおられ、宙を舞い、そして来月からだというのに早速履いてきてしまった軍靴でもって蹴ってしまった。
とても脆い彼の作品の塵を払いつつ、こうなってはと、折り目を解く。
「愛すればこそ、死ぬことと見つけたり。」
ただ一言、爪か、あるいはインキをつけないままに万年筆で跡を付けて記されていた。
だがしかし、よしんば彼女に相手がいず、夕刻、駅前に現れたにせよ、この恋文を彼女はきっと気づかないままであっただろう。
急いで寮に戻ると既に鮮血にまみれた友の姿があるのみであった。
かの引き出しには、生活費と数枚の書類に、C子を教えていた時分の答案やtext、そして去年の桜の下で私と二人で映った写真とが開け放たれた狭間から見えていた。
おかげ犬 綾波 宗水 @Ayanami4869
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