一敗塗地

眼閃


 古瀬雲雀コセヒバリは七つ離れた兄と二人暮らしをしていた。別に両親が死去したわけではなく、ただ海外赴任で長年家を空けているだけなのだ。


 ヒバリは両親についてあまり知らない。両親と時間を過ごせたのは彼が産まれてからたったの六年だけだったからだ。


 記憶も顔を脳内補完が出来ない位にはぼんやりとしており、また彼らについてもっと知りたいと願う程の思い入れもなかった。


『両親』はただ兄と自分が何不自由なく暮らせるためにお金を稼いでいる大人、といった認識でしかない。


 それに比べてカガリは──兄は幼い頃から、両親が『居なくなった』頃から、ずっとヒバリの世話をしていた。家政婦はカガリが十八になるまで雇われていた。ヒバリは彼女の名前をとっくのとうに忘れた。


 家政婦の手の届かない小さな雑務はカガリが引き受けていた。二階建ての一軒家は一人が管理するにはあまりにも大きすぎる為、兄は善意でそうしていたのだ。


 時折カガリは家政婦の代わりに料理を作ることもあった。不馴れな料理も不器用なりに鍛練を積みつづけ、今では友人宅で出されれば何度かおかわりするだろう程度には腕が伸びている。


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「先に風呂入っとけよ、まだ唐揚げ揚がってないから」


 カガリは毎週金曜日ヒバリの好物を振る舞ってくれるが、ヒバリにとって兄の手料理ならなんでも好物だった。だがそれを言えば献立を考えるのが大変になるだろうと、心内に秘めていた。


「わかった」


 兄の背後に回り、両腕を腹に手を回しながら抱きつきヒバリはそう返した。ただじゃれているだけだと兄は特に気にしてはいなかった。


 ヒバリは二階へと上がり、自室へと向かった。着替えをクローゼットから取り出したががすぐさま入浴に進みはしなかった。ヒバリには内密に続けている習慣があったのだ。


 足音を出来る限り抑えながら隣室の前へと向かい、ヒバリはドアノブに手を掛ける前に下の階へ耳を澄ます。


 何かが揚がる音とそれに被さる兄の甲高い声がくぐもって聞こえてきた。油が跳ねてきたのだろうか、そんな考えを脳の隅に置きながらハンドルを回した。


 カガリの部屋はどれだけ言い繕っても『綺麗』とは言えないものだ。学習机にはソーダの缶が四缶ほど放置されていたり、出しっぱなしの参考書の横には辞書や漫画、別の科目の参考書が六冊ほど積まれている。


 回転椅子の座席にはどういった薬かの判断はつかないが空の包装シートが三枚と二つだけ開いた一枚があり、椅子の背には黒い上着がかかっていた。


 床には行き場を失ったアルバムやゴミ箱に投げ入れようとして失敗したであろうちり紙が放置されている。絡みに絡んだ無数の黒と白の充電コードは、一度は開放を試みたとでも言わんばかりに中途半端に伸びたコードが塊から飛び出ていた。


 ヒバリは兄の部屋を片付けたいと常日頃思っていたが、自分が兄の部屋を行き来しているという事実を悟られない為に不干渉を決め込んでいた。


「俺の部屋は勝手に掃除するのに」


 なぜ自分の部屋にそこまで無頓着なのかが気になりながらも、ヒバリはベッドの上に座る。皺の伸びたシーツと今朝起きた状態でくしゃくしゃの羽毛布団を軽く撫で、ヒバリは上半身のみを倒して顔を布団に押し付ける。


 兄の匂いがする。いや、するように感じる。昨日洗濯したばかりだから兄の匂いが染み込んでいるわけがないのだが、恒常的に兄の体をくるむ布団は実質兄そのものだろう。ヒバリはそう自分の中で支離滅裂な理論を繰り広げながら布団を両腕で抱き締めた。


 このまま眠ってしまえれば、そんな思考を挟みヒバリは元々丸まっていた布団を出来るだけ同じ形に直してから部屋を後にした。


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 風呂上がりは相変わらず頭がぼんやりとする。タオルで濡れた髪をいい加減に乾かしながらヒバリは一階へと降りた。


 カガリは茶碗に白米をよそっていた。ヒバリが降りてきたことに気づくと目線を彼に寄せ微笑みかけた。ダイニングテーブルの中心には大皿に盛られた唐揚げが鎮座しており、両端には小皿と味噌汁が一杯ずつ二人分置かれていた。


「丁度良かった、お前も揚げたてが食べられるな。湯加減はどうだった?」

「普通」

「そりゃそうか」


 他愛のない、ちょっとした会話もヒバリには心地よく聞こえた。兄は白米の盛られた茶碗を二杯持ち、それぞれを味噌汁の隣に一杯ずつ置いた後席に着いた。ヒバリは兄の一挙手一投足をぼうっと見つめながら遅れて兄と顔を合わせるように座る。


『いただきます』と二人共に手を合わせた。カガリはヒバリが料理に手をつけるのをうきうきとしながら待っていた。それを察したヒバリは唐揚げを橋でつまみ一口頬張る。


「…美味しい?」

「うん」

「よかった。沢山食べるんだぞ」


 カガリは満足そうに鼻孔から息を吐いて笑った。


 ■────────────


「俺、大人になったら兄さんと結婚したい」


 四年前──ヒバリがまだ十二歳だった頃、十九のカガリに向かってそう言った。子供の戯れ言だとまともに受け入れず兄は弟の頭をそっと撫で、いつかしようなとはぐらかした。


 ヒバリはすでに思春期へと入っていた。一言一言に含まれたのは子供ながらの純粋な気持ちと、新しい言葉を知ったからと兄に知識をひけらかしたい等の稚拙な理由ではなかった。


 それは全て真摯に受け止めてほしい本当の気持ちだった。自分のことをまだ子供だと思っている兄を前に、ヒバリは少し苛立ちを覚えていたのだ。


 元々喋ることをあまり得意としなかったヒバリは、今まで友達といえる友達が出来たことがなかったのだ。仏頂面で話し掛けられない限りは自ら口を開くことをしなかったヒバリは純粋で活発で、気力と未来への希望に溢れていた小学生とは変わっていた。


『…ヒバリってさぁ、いっつも一人だよな』

『ずーっと静かでおばけみたい』

『前髪邪魔そうだよね、目が隠れちゃってる』

『じゃあ切っちゃおうぜ!ムカつくし』


 突拍子もない、好奇心と『ムカつく』という幼稚で乱雑な動機がなにも知らないヒバリに襲いかかった。


 給食を食べ終え昼休みに入った頃、教師が教室に背を向け職員室へと向かったその刹那。


 ヒバリは四人の同級生に床へと押し倒された。四肢はそれぞれ一人ずつに押さえつけられ抵抗も出来ない状態で、前髪を切ってしまおうと案を出した男子生徒がヒバリにまたがりながら工作用の小さなはさみの刃を向ける。


 天井の照明と外からの日光が反射し白く光る二対の刃は、まだ幼いヒバリのまぶたを固く閉じさせる程には驚異的なものだ。


 眼閃が見えた。一秒が無限に感じた。まぶたの上にふりかかった『何か』の正体の候補が一つに絞られるのに時間はかからなかった。ザクザクとはさみと髪の交差する音はその仮説を確かなものにしていた。


『多少ましになったんじゃねー?』

『キャハハ!もっと切ろうよ!』


 純粋で、それでいて悪意に満ちたけたたましい声。生え際すれすれまでの長さでジグザグに切られた髪は額とまぶたの上に散乱していた。ヒバリは閉じたまぶたの隙間から涙を滲ませていた。


 教師はヒバリのことを気に掛けたことがなかった。元々内向的で滅多に意思表明をしないヒバリの気持ちを汲み取ろうとするのは無駄だと判断したのだ。


 前髪のことはヒバリを見ていなかったせいで変化に気づかなかったのか、はたまた知りつつも対処するのが億劫だったのか…それか、掘り返すことで彼に傷をつけてしまうと判断したのか──後者一択は幾何学的な確率だが──その一切に触れなかった。


 信用できる人はいない。誰にもなにも言えない。その日から彼は不登校になった。鋭利なもの…それこそ削られたばかりの鉛筆でさえも心に残った傷を抉り返してしまう程に脆くなった。


 そんなヒバリの唯一味方をしてくれたのはカガリだった。前髪を不器用なりに出来る限り綺麗に切り揃え、学校にはもう行きたくないと溢すヒバリの意思を尊重してある程度の勉強を大学終わりに教えたのだ。


「大丈夫だからな。ヒバリの為ならなんでもするから」


 ヒバリはカガリの抱擁を受けた。幾分か体格の大きい兄に優しく包み込まれると自然と嫌なことを全て忘れられたような気がした。ヒバリは兄の背中に手を回し服を握る。


『放したくない』


 まるで自分がいつでも手放せる側だとでもいうように、ヒバリはそう心の中で何度も繰り返した。


 ────────────■


「兄さん、今日は一緒に寝たい」


 時刻は午後十時を回っていた。十六となれば兄弟であろうが相当仲睦まじくない限り同じ寝室を共有するのも抵抗がある時期だというのに、ヒバリはそれどころか感情にあまり出さないだけで兄にべったりだった。


 カガリは目を見開き何度もヒバリとなにもない空間を交互に目配せする。どう返せばいいのかを考える内に言葉が詰まり、半開きの口から出る言葉はたどたどしく簡潔なものだった。


「…俺、と?」


 ヒバリはなにも言わず頷き兄の顔を見つめた。黒よりも黒いそこ目に屈服したのか、カガリは苦笑と共に『わかった』と返す。


「電気消すから先に上がっててくれ」


 ヒバリは兄の言いつけに倣い一足先に二階に上がる。兄の寝室へ一日に二度以上行くのは久しいもので、しかも合意の上でとのことで、緊張と共に心臓の鼓動を高めていた。


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 自室から持参した枕を片手にベッドに腰掛けながら部屋を見渡す。兄の枕が置かれた方向と向き合って設置された壁掛けテレビの下には据え置きゲーム機とコントローラーを置いたラックがあった。そういえば昔はよく一緒にゲームをしたなと追想に浸る。


 最近、兄は大学の講義に着いていくことが難しくなってきたと愚痴ってくることが増えた。そういえば過疎っていたからと所属していたサークルがここ数週間一気に活発になったらしく、帰りが度々遅くなっている。


 疲弊している兄を玄関先で迎えるのも無理強いして自分の娯楽に付き合わせるのも心苦しいものだ。ヒバリも自分なりに出来ることをやっているのだが、ある日軽い夕食を作っていると兄に怒涛の勢いで止められて以来なにも出来ずにいる。『あまり無理はするな』と言いたいのはヒバリの方だった。


 今日は珍しく全てが噛み合って自由時間があったため、ヒバリとしてもこの機会を逃すことは出来なかったという所もある。


「そろそろ寝るか、お前は壁側だったよな?」

「うん」

「よし、暑かったら冷房もっと強くするから言ってくれ」


 壁に身を寄せるヒバリを見ながらカガリはそう声をかける。部屋の電気を落としベッドへと潜った。セミダブルのベッドは成長期の男と成人男性を抱えるには少し小さかったものの、ヒバリにとってはそこまで苦痛ではない。むしろ兄と体を密着させる理由になっているため感謝している。


 カガリの体はヒバリの背中に向いており、さながらヒバリを後ろから包むような体勢だった。決して意図的なものではないが好都合だと考えている内に体温と羽毛布団の暖かさに眠気を誘発される。だがヒバリには『どうしてもやりたいこと』があったのだ。今ここで寝るわけにはいかなかった。


 すうすうと兄の寝息が耳元に響く。ヒバリは念には念をともう五分程様子を見ていた。


 兄が起きている様には感じず、今だと言わんばかりにゆっくりと身体の向きを変える。窓から差す月光が照らす兄の寝顔は、暗夜に覆われながらも思わず引き込まれてしまう程に精巧でたっといものだった。


 ヒバリは布団の中兄の手を探った。ゴツゴツと、骨張った手に自身の指を絡め、微かに開いた唇へ軽い接吻を施す。それは三秒にも満たないものだったが、今まで生きた十六年の全てを塗り替える程に脳が強く長く記憶した。別に檸檬レモンの味はしなかった。


 唇を離したヒバリは兄の閉じたまぶたをじっと見つめ、手を繋いだまま胸元へと顔を潜らせ就寝を試みた。


 ────────────


 土曜の午前三時過ぎ、カガリは目を覚ました。二年前からカガリは朝早く──早すぎる位の時刻に──目を覚ましてしまう。藁にもすがる思いで星に願ったことだってあった。


『休日くらいは何の気兼ねもなく眠りたい』


 当然といえば当然だが、この願いが無視されている事実にはもうずっと前から慣れっこだった。だが奇跡が起きて一度くらいはじっくりと眠ってみたいとも思っていた。


 呼吸を胸元で感じたカガリは、弟が自分に顔を向けながら眠っていることに気づいた。まだまだぼやけた意識を目覚めさせようと起きき上がろうとすると何かが右手に絡めとられている感覚にたじろぐ。


 空いた左手で布団を軽くめくると、そこには弟の左手があったのだ。弟の寝相が悪いだけなのだろうかと、現実逃避に似た解釈で自身を納得させようとする一方でヒバリがかつて放った言葉が呼び起こされる。


『兄さんと結婚したい』


 …きっとこれはただの偶然だ──カガリは無理矢理そう自分に言い聞かせながら額から滴り落ちた冷や汗を拭い、左手を解放して自室を後にした。


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 カガリは暗いキッチンで一人放心していた。冷蔵庫から出しグラスに注いだ麦茶は片手に覆われたまま、一口もつけられずに四半刻しはんときをカガリと共に虚無で過ごした。


 グラスを置きダイニングテーブルの一角に突っ伏しながら、脳内に数多の思考を駆け巡らせる。知恵熱からか頭痛が引き起こされた。


 弟について、単位について、趣味を楽しむ時間が殆どないことについて──そういえば趣味は一体なんだっただろうか。自分が心の底から楽しんでいた『何か』は記憶から消えていた。


 ヒバリはこんな兄を持って不幸せだ、兄は自分自身も満足に幸せに出来ないんだから。いつかヒバリも自分も自立をしないといけない。


 だがその過程で挫折する様を見たくないからと思い込み、実際は身近の人に幸せになって──抜け駆けされたくない、そんな志から自分を必要としてくれるヒバリをこうも引き留めているのかもしれない。


 でも、ヒバリもそれでいいんじゃないか?かつてのトラウマは今こうして高校へ通うことさえも阻止しているのだから。


 ──きっとトラウマだけじゃない。それだけは確かだ。


 カガリはグラスを置き、テーブルに突っ伏しながらぐしゃっと自身の髪を掴む。泣きたかったのにどうにも涙はでなかった。


 ────────────


 午前八時、ヒバリが目を覚ます。隣にいた兄は何処にもいなかった。温もりもそこにはなかった。兄が寝そべっていた側へと身を転がし、枕を抱き寄せながら昨晩の自分の行動を思い返す。


 あれは好奇心から、なんて純粋な動機ではなかった。ヒバリは自分の欲求を満たしただけだった。それがただただもどかしくもあった。兄は自分のことを『そういう目』では見ていないなんて事実は痛い程実感している。


 ヒバリは四年前に取り付けた『約束』を忘れたことがなかった。男性は法律上十六で結婚できるとネットで調べたこともあった。血縁、しかも同性では到底無理だという情報は無視していた。


 覚めない目を擦りながら下の階へ降りキッチンへと足を運ぶと、兄のカガリが朝食を作っている光景が目に広がった。


「おはよう」


 兄はフライパンに乗った目玉焼きをターナーで返しながら弟に視線のみを向けて言う。


「早起きだね」

「…まあ、今日はやることたくさんあるから」


 早起きといっても、まさか深夜三時に起きているとは思わない。きっと起床時間は六時か七時くらいだろうと推し量り、ヒバリはそう声をかけた。兄はそれに合わせ適当に取り繕った。


「兄さん」

「あぁ、どうした」

「今日一緒に公園行こうよ」


 ヒバリが自発的に外へ行こうと持ちかけるのは珍しいことだった。カガリは調理の手を止めずにこう返す。


「じゃあ、着替えてこい」


 パジャマ姿で外を歩けるわけがない。自身の衣装に目配せしたヒバリは上の階へと着替えに戻った。


 ヒバリは自身の外見に自信がなかった。兄と違い幼稚さを彷彿とさせる輪郭、不機嫌じゃないというのに伏せた目に癖のついた真っ黒な髪。口元だけは兄に少し似ている気がした。鏡の前で目に被さるまでに伸びた前髪の毛先を軽く触ってはため息をつく。


 外行きには季節関係なしにこぞってパーカーと黒パンツを着る。外出の機会があまりないからファッションには無頓着なのだ。別に自分のことを誰かに見てほしいというわけでもないので同じスタイルを突き通すのが苦痛というわけでもない。


 思っていたより時間がかかっていたのだろうか、下の階へ戻るとすでに朝食が出来上がっていた。兄はインスタントコーヒーを啜りながら目玉焼きを乗せたトーストを食べ進めている。


「何時に行きたい?」

「兄さんに任せる」

「なに言ってんだ、お前が行きたいって言ったんだろ」

「じゃあ、九時」


 時計を見ると時針は八時をゆうに超えており、九時に寄りつつあった。分針と合わせ二十分はまだ猶予がありそうだ。ヒバリは自分の分の朝食を大皿から取り分け兄の向かい側へと座った。


「コーヒーって美味しいの?」

「最初は美味しいとは言えなかったけど、今はないと生きていけない位だな」

「それってカフェインのせいでしょ」

「それは…そうだけど」


 カガリはコーヒーを飲み始めた頃ミルクを多めに入れて飲んでいた。コーヒーを飲む意味をあまり感じられない程に砂糖もいれていた位には甘党だ。だが大学に上がってから急にブラックを飲み始めた。


『朝に一杯しか飲まないから中毒ではない』と言い張るカガリを見ているヒバリは心配が積もりに積もっていた。


「そろそろ行くか、着替えてくる」


 ヒバリが食事を終えた時を図ってカガリがそう声をかけた。そういえば兄はまだ寝間着だったなとヒバリは追想した。少なくともヒバリにとって兄は寝間着のまま外を出歩ける程に端麗だった。


 階段を上る足音が遠ざかると同時に飲みかけのコーヒーに目線が向かう。ヒバリは兄が着替えている合間にそれを手に取り口にした途端表情が苦渋に歪む。だがどこか満足げだった。


 ────────────


 時刻は九時過ぎ。散らばる雲がアクセントになっている青空の下で古瀬コセ兄弟は自然に満ちた公園へと足を運んだ。道なりに生えた木々が作る影はひんやりと心地のいい場所だ。


「なあヒバリ、やっぱり暑くないのか?」


 兄のカガリは白の襟付きシャツの第一ボタンを開けて着崩している。それに比べると茶色と黒で染め上げられたヒバリは夏という時期も相まってかえって不自然だった。


「別に」

「それならいいけど…袖くらいは捲ればいいと思うんだが」

「大丈夫だって」


 あまり暑さを感じない本人の性質と自身の肌を出来る限り露出したくないからといった理由でヒバリはパーカーやハイネックを好んで着ていた。ハイネックは夏場では流石に首が締め付けられるので着用頻度はパーカーの方が高い。


 休日でもあまり人が訪れない公園。ここには自分と兄しかいないと辺りを見渡し再確認したヒバリは『ちょっと座りたい』とベンチを指しながら歩み始める。兄は一足遅く弟の後を追った。


 カガリは思うところがあるのか、先に腰を下ろしたヒバリと少し距離を離して座った。ヒバリはそれに気付き不満げな様子で距離を縮めるべく体を滑らせる。


「……兄さん」


 兄を呼び掛ける声は無機質で、それでいて内に潜めた感情がその一言の中で揺れ動いていた。ヒバリの目線は兄のみに向かっている。今、世界には自分と兄の二人しか存在していないとでも言うように。


 カガリはなにも言わずヒバリに顔を向ける。どこか凍ったような声色に動揺しているようで、目は少し見開いていた。


「好きだよ、ずっと」


 ヒバリはカガリの肩に手を乗せ身を乗り出した。その言葉に一瞬怯んだカガリは遅れて反射的に後退りをするも、無防備だった二秒が全てを終わらせた。


 ──触れるだけの、軽いキス。ここだけ切り取れば初々しく甘酸っぱい。


 カガリの目は酷く揺れていた。嫌な汗が一滴頬を伝う感覚も、唇に残る違和感も、自然と荒ぶる息遣いも。微笑みを貼り付ける弟の顔は不気味で未知のものに見えた。


「放したくないな」


 ヒバリは気持ちの悪い位に柔らかな声にそう言い、両腕を兄の肩の上に回し抱きつく。まるで大きなくまのぬいぐるみにじゃれるような言動を、カガリはなにも出来ずに受け止めていた。


 脳内が真っ白になりながらカガリは弟の本心を認めざるを得ない状況に入っていた。四年前の告白も、手を握っていた状態で起きた今日の深夜も、度々意味もなく背中から抱き締められてきた日々も。


 今さっき起きたことも。


 ヒバリは兄である自分を『そういう目』で見ているのだと。


 天地がひっくり返っても喜ばしいこととは言えなかった。ただただ喉奥から何かが込み上げてくる感覚で、全てが気持ち悪く思えた。十六年の間見ていた弟を弟だと思えなくなっていた。


 ずっとずっと抱えていたんだろう、この感情を。そして今爆発してしまったのだ。


「兄さん、もう帰ろっか」


 ────────────


 カガリはその日からヒバリに恐怖心を抱いていた。純粋だった弟はもういないんだと、同じ屋根の下に生きる者として本能的に恐れていた。眠りにつくのも難しくなり、講義中や家事に勤しんでいるときに度々意識がぼうっとすることが増えた。


 ヒバリはなにも変わっていなかった。唯一変わったのは、兄へ全てを打ち明けて前より開放的になったくらいだ。


 あの日から二週間が経つ。ヒバリは変わらずカガリを抱擁していた。珍しく、正面から。


「ヒバリ…」

「なに、兄さん」


 カガリの喉から出かかる『俺が悪かったから、もうやめろ』なんて懇願。弟はビー玉よりも透き通った目を差し向け兄を見上げていた。そんな目で見つめられれば良心が狂ってしまう。


「なんでもない」


 本心を飲み込み代わりに吐いた嘘。


 ヒバリは拒絶させることを恐れている。それと同時に兄として、弟が長年抱いていた本心を真っ向から折ることを恐れている一面もあったのだろう。


 自分はヒバリへ拒絶の意思を吐けないのに、どうしてヒバリだけ──


 汚い。自分は汚い。自分も弟も、穢れているんだ。


 ────────────


 時刻は午前零時八分十四秒。


 弟はこの時間ならもう既に寝ているだろう。


 カガリは学習机の前に座り込んで一枚の紙に執筆している。最後の一文を書き終え右下に読点をつけた。紙を二階折り畳み、それを持ち一階へ降りて塩を文鎮にカウンターの上に置く。


 カガリは木製の包丁スタンドから一本のキッチンナイフを取り出す。タオルで刃を巻いて一旦カウンターに置きポケットの中を再確認した。前よりも効力の強い、最近服用し始めた睡眠薬は入っていることが確かになった後ナイフ

を手に取り玄関から外へ出た。


 どこへ行くかは決めていない。ただ、出来る限り遠くへ。


 知らない道だけを通り、三十分も歩くと薄気味悪い路地裏に通りかかる。少し足を踏み込むだけでなにも見えなくなる程闇に満ちたこの細長い空間に価値を見いだしたカガリは、持参した睡眠薬を三錠取り出しそれを飲みながら『水を持ってくればよかった』なんて最後には相応しくない気の抜けた思考を繰り広げた。


 刃に巻き付かせたタオルをその場に放り路地裏へと自身を蝕み込ませていった。


「やっぱり、薬を持ってきてよかったな」

「……死を恐れる本能が鈍ってる気がする」


 ふわふわと眠気に教われながらもカガリは地べたに座り込み、腿目掛けナイフを刺した。脳をつんざく痛みが生への渇望をまた蘇らせようとする。


 浅い呼吸を繰り返す。喉の奥から鉄の味がする。なにも見えない暗闇は涙で更に歪んでいく。


 カガリは動くことを拒む腕に無理強いしナイフを取り出させ、先程刺した傷より少し上を再度刺した。灰色のスウェットパンツに赤が更に滲んで行く。コンクリートに血が広がっていき、小さな溜まりを作った。


「──行動力がある内に出来てよかった。」


 ■────────────


 ヒバリは目を覚ました。時計の針は七時を指していた。


 珍しく早めに起きれたと自分を褒めながら一階へ降りる。普段はいるはずの兄の姿はそこになかった。


 まだ寝ているのだろうか?ヒバリはまた二階へ戻り兄の部屋の扉を開けようとした。


 鉄の突っかかる音が聞こえた。今までカガリは一度も部屋の鍵を閉めたことがないため、ヒバリの中で不信感が実り始めていた。


 再度一階へ戻り、先に朝食でも作ろうとキッチンへと歩く。先程は見逃していたが塩の下になにか紙が挟まっていることに気づいたヒバリはそれを開き内容に軽く目を通す。


 兄の手書き文字の中、とある一文にヒバリは紙に込めた力が更に強くなり親指を中心み皺が走る。


『怖くて、消えたかった』


 その文を凝視してからまた兄の置き手紙を一文字一文字噛み締めながら読み返した。


雲雀ヒバリ、お願いだから。俺はお前のことを弟としてしか見れなくてごめん。でも辛かった。お前は俺にとってはずっと弟で、それ以上でもそれ以下でもなかったんだ。

 いや、そういう訳じゃないな。俺はお前の世話をしてどこか優越感に浸ってたんだ。俺は幸せじゃないから、俺がいないとなにも出来ないお前を見て平静を保ってた。

 前心療内科に行ったことがある。そこで担当の人からうつだって言われて薬を処方されてさ、でもあんまり効果がなかったんだ。

 でも怖くて、消えたかった。

 自分のことを気に掛けるのが難しくなっているって担当の人にも言われたよ。きっとそうなのかもしれないし、お前の世話と同時に自分を満たしてたってところもあるかもしれなくて。

 ごめん。』


 古瀬篝コセカガリについてのニュースがテレビに流れたのは四日後だった。ヒバリはそれを上の空な意識の中目に写し、兄の上着を抱き締めていた。


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