第9章  これで玖(きゅう)回戦目

 お前の好奇心はまるで腹の満たされない怪物のようだ、と魔術学院で何人もの教授や同級生に言われた。

怪物か、とリシャルトは考える。

生まれて物心ついてから今まで、完全に満たされることのないこの好奇心は、自分という檻の中に閉じ込められた怪物なのか、あるいは本当に、自分は好奇心の怪物なのだとしたら。

リシャルトはどちらの自分でも、それを最後まで愛そうと決めた。この好奇心が怪物であったとしたら、物心ついてから今の今まで、自分を見捨てずともに知識の海を深めてくれた善き友人と言える。ならば命の尽きるその日まで、その怪物とともに好奇心を満たすような餌をたくさん与えよう。自身が怪物であるならば、本能のままに好奇心を満たす知識を追いかけようと。

 どちらであったとしても、それは紛れもなく、替えの利かない自分自身なのだから。

 本の虫と揶揄されても、リシャルトは人と関わることも諦めなかった。本の中だけでは得られない知識や経験が、そこにはあるからである。それに何も、世界が自分を揶揄する人間ばかりではないことも、リシャルトはよく理解していた。

 良くも悪くも、世界は自分の欲深い知的好奇心を満たす可能性に溢れている。

 そしてリシャルトの欲深い餓えた好奇心の怪物は、特殊魔導書ヘルトラウダとの出会いでさらなる変貌を遂げる。

 今の彼には死さえも、好奇心の対象となりかけていた。

 雨に打たれ、感覚が薄れる中。蘇生魔法を解呪されるのはいつなのか、この魔導書内で体感しているものがすべて本物だとしたら、蘇生魔法で目覚めない本当の死とはどのようなものなのかと思案する。

これはきっと〝いけないこと〟なのだろう、と死にかけの頭にまどろむようにやんわりとした制止の言葉が浮かぶ。

ふと、腹の下で下敷きになっていた袋が蠢く。ヘルトラウダだった。一体どうしたというのだろう、改竄者に一矢報いてくれるのだろうか。


(それはちょっと、おもしろいかもしれない)


 笑いの代わりに口からごぼり、と血を吐く。


(今死んだら、ヘルトラウダも消えてなくなってしまうのか)


 体の感覚は最早ない。目も随分と霞んでしまい、改竄者とヘルトラウダの姿もぼやけた像にしか見えない。


(改竄者のことも、知ることなく……)


 意識が、眠りに落ちる前のようにずるりと滑落する中で


(やっぱり……。まだ、死にたくないな)


 好奇心の怪物は〝死〟から手を引いた。

 匂いがする。草と土の香りだった。二、三度その匂いを胸に吸い込み、リシャルトはゆっくりと目を開ける。


「おはよう、リシャルト」


 ヘルトラウダの声が降ってくる。

 どうやら自分は本当の死を免れたらしい。


「また、見逃してくれたんだ」


 小さく呟くと、リシャルトはゆっくりと起き上がり、ヘルトラウダに挨拶を返した。

 今回の死因となった胸の傷を見る。蘇生した後はすべての傷や衣服の穴も元通りとなるため、軟膏を塗った細かな傷も、右胸に受けた矢の傷も綺麗になくなっている。薬瓶の入っていた袋の中身は空っぽで、ポケットに忍ばせていた薬瓶もすっかりとなくなっている。

 目的を果たして来い、というドリカの言葉が過ぎる。そしてすぐに、雨の中での冷たい死の恐怖が蘇った。


「一矢報いてくれたの?」


 恐怖を打ち消すかのように、リシャルトは冗談めかしてヘルトラウダに尋ねた。


「……その声で、喋るなと、言われた」


 ヘルトラウダから返ってきたのは予想外の答えだった。


「どういう事だろう?」


 リシャルトが口元に手を添える。


「わからない……」


 それから、とヘルトラウダは続ける。


「きみを見逃すように頼んだのだけど。後を追えば次こそきみを殺すと言っていた」


 その言葉にリシャルトは僅かに表情を曇らせる。受けた胸の傷からして、改竄者の発言に噓はないかもしれない。

 リシャルトが抱いていた死への興味はあの雨の中の一時で、〝恐怖〟へと変貌していた。

だがそれ以上に、リシャルトには失いたくないものがあった。

ヘルトラウダの存在である。

たった五日と少しの旅路だったが、リシャルトはただの特殊魔導書だったヘルトラウダの存在を、本以上の、まるで戦友のように感じていた。もちろん読み物としての興味も失せてはいない。そしておそらく、「本としての体裁」を気にするヘルトラウダの言動からしてリシャルトのことは改竄者を排除するために利用しているに過ぎない。

それを除いたとしても、ヘルトラウダはリシャルトと同じ気持ちではないだろう。


(たとえそうだったとしても——)


リシャルトは口元から手を放し、拳を握る。


「僕は、君に消えてほしくない」


 ヘルトラウダをまっすぐに見つめて放った言葉。


「……なんだって?」


 特殊魔導書ヘルトラウダを僅かに動揺させた。


「だから、君に消えてほしくないんだよ」


「きみ、いくら本の虫とはいえ……。こんなところまでそれを存分に発揮することはないだろう」


 ヘルトラウダの穏やかな声に、呆れの色が微かに混じっていた。


「そう、じゃなくて……いや、まぁ……」


 リシャルトは困ったように鉄黒色の髪を軽く撫でつける。


(まぁ、伝わらないよね……)


 蘇芳色の目を苦笑に細めた。


「……きみがそう言うだろうと思って、索敵魔法は展開している。ここから四キロほど行けば改竄者に会えるよ」


 ヘルトラウダはページをぱらぱらとはためかせた。


「僕、君が好きだ」


 リシャルトはヘルトラウダを見てふにゃりと笑った。


「それは光栄だ」


 ヘルトラウダの穏やかな返事には、何の感情も籠っていなかった。



 改竄者は自らの吐く血に咽こみながら、古めかしい石造りの廊下を歩いていた。魔力と体力を温存するため、雨の降る荒れ地で青年から受けた傷は碌に治療もしていない。簡単に止血を施した程度だ。


(あぁ、まただ)


 改竄者は目を閉じる。


(私はまた、自傷的な戦い方を——)


 壁に備え付けられた燭台は橙色に石造りの廊下を照らす。改竄者の歩く跡を小さな血の滴が濡らしていく。青年の邪魔が入らなければ、こんなにも体力と魔力を消耗することはなかったのに。すんなりと復讐を終えたそのあとはこの国を出て、まだ見ぬ世界を体が朽ちるまで旅をしようと考えていたのに。

 もしかしたらこの青年が——とつい力を抜いてしまう。


(旅立ちには時間がかかりそうだ……。下手をすれば、魔導書内から脱出する体力も魔力も残らない可能性が……)


 今後の顛末を想像する中、改竄者はずっと、ある思いが胸に浮かんでいることに改めて気が付く。


(私は……なぜあの青年がまた後を追ってくるのを期待しているのか)


 自嘲気味に笑おうとして、口から少量の血を吐く。

久しぶりに好奇心を擽られるような青年の戦い方は、改竄者の灰色に鈍麻した心を突き動かした。まるでおとぎ話の続きをせがむ幼子のように。かつて愛し重んじていた自らの好奇心は水を得た魚のように、長年かけて備えた計画をあっという間にめちゃくちゃにしていった。

改竄者の中で復讐を望む心と、息を吹き返した好奇心は激しくぶつかり合った。

 しかし復讐の備えをしながら静かに怒りを燃やし続けた日々に、改竄者は疲れていた。

 最後の備えをする頃には、もはや静かに怒りを燃やす心は改竄者の中で遠い過去のものとなり、乖離していた。それでも成し遂げようとこうして血を吐きながらも歩むのは、静かに怒りを燃やす己が足を動かせ、戦え、破壊しろと囁いてくるからだ。


(乖離しているとは言え、静かに怒りを燃やすのは紛れもない過去の私だ——)


 そんな自分に少しの憐れみを感じた。


(復讐を果たせば、私(おまえ)の心は穏やかに晴れてくれるか?)


 何度も自身に問いかける。怒りを忘れろとは言えないし、忘れることも出来はしない。

ただ、その怒りを宥めるように寄り添うには、あまりにも静かにあの日の出来事を今の自分も憎み過ぎていた。

きっと復讐を成し得たとして、そこからの自分はあの出来事をなかったことには出来ないし、思い出しては静かに怒り、憎むだろう。

復讐をせずとも、嵐と凪、それを繰り返していつしか薄らいでいくのを、これもまた過ぎ去るだろうと、怒りや憎しみと連れ添っていくのだ。

それが人の生なのだと、わかっているはずなのに。


(静かに怒りを燃やす私は、私をじっと見つめ返してくる)


——あの〝魔導書〟を野放しにしていいのかと。


その静かな怒りと憎しみの言葉が、今の改竄者の体を動かしていた。

そしてそのたびに願う。


(聖女神❖よ……。いや、誰でもいい)


 口の端から顎を伝い血が滴る。


(どうか、私を、止めてはくれないか——)




 リシャルトは見覚えのある城下町を駆け抜けていた。帝都の大通りだった。


「なんだか懐かしいや……」


 賑わう通りを横目に、リシャルトは走る。帝都に入ったのは魔導書内を彷徨う日数も含めて三週間前か。碌に観光もしていないが、遠い日のことのように懐かしく思った。

 ヘルトラウダが示す先は、国立大図書館だった。思えば豪奢で巨大なこの建物の意匠も、帝国の観光名物なのだが、中身の蔵書に夢中でこれもまともに見ていない。


「リシャルト」


 ヘルトラウダが名前を呼ぶ。


「改竄者に言われたあの言葉、あの意味を考えていたのだけど」


 リシャルトは静かにヘルトラウダの次の言葉を待った。


「私の、この声は、改竄者のものだ」


 リシャルトは蘇芳色の目が驚愕の色に染まり、見開かれる。


「じゃあ、君を執筆したのは——」


 執筆者が特殊魔導書を改竄し、破壊するなど聞いたこともなかった。しかし現にそれは、改竄者がヘルトラウダの執筆者であるならば、目の前で起こっている。走りながらリシャルトは、斜めがけの袋の肩紐を握る。


「多少の誤差は出るが、特殊魔導書の声は原作となった者や、その多くは執筆者のものになる」


 ヘルトラウダは袋の中から言った。リシャルトはまだ、改竄者の声をまともに聞いていない。首を絞めあげられたあの時も、意識がもうろうとしていたため聞き取れてはいなかった。


(本当に改竄者がヘルトラウダの執筆者だとしたら)


 リシャルトの蘇芳色の目が、笑むように細められた。


(たくさん、話がしたいな)


 自然とリシャルトの足は速度を速めていた。





 大図書館に入ったリシャルトは、その異様な光景に戸惑った。必ず賑わっているはずの一般市民にも公開されている階には衛兵はおろか、人っ子一人おらず、静まり返っていた。ここからは改竄者による妨害魔法が張り巡らされているらしく、ヘルトラウダの索敵は無効化されているが、床に小さく続く血の跡を、リシャルトは見逃さなかった。血の跡の先は、特殊魔導書を保管している地下書庫へと続いていた。


「ここは私の最後の砦だ。自動防衛機能に改編を加え、僅かな時間にしかならないが足止めをしている」


「急ごう」


 慣れた地下書庫への道のりを、リシャルトは駆け抜ける。改竄者がその場で立ち止まったのか血の跡はところどころ大きくなっている箇所も見られた。回復魔法で治療する余裕もないのだろうか……と、どこか暗い違和感を覚えつつも、リシャルトは走り続けた。



 改竄者は特殊魔導書が施した進路妨害の魔術式を叩き壊し、地下書庫への長い階段を壁伝いに降りていた。魔導書のくせになんとも小癪だ、と改竄者の顔に呆れたような笑みが滲むが、かすかに開いた口から漏れ出るのは苦し気な吐息のみだった。


 ——早く歩いて


(あぁ……)


 ——早くしなくては、あの青年に止められてしまう


(そうだね)


 静かな怒りを湛え、憎しみを火にくべる自分に、投げやりに返事をする改竄者。

 ようやく階段を降りきると、幾重にも施錠と封印魔法を施されているはずの重たい鉄扉が、改竄者が放つたったひとつの魔術式によって、音を立てゆっくりと開いていく。二階建てのその部屋には、壁面に及ぶまで本棚が配置されているのだが、どの書架にも特殊魔導書の姿はなかった。深く息を吸い、吐き切ると、改竄者は背を正して空の書架の間を、まっすぐに、まっすぐに歩いていく。


「待って」


 改竄者のその背中に、聞き覚えのある、心のどこかで待ち望んでいた声が、ぶつけられた。

 ひた、と改竄者の歩みが止まる。


 ——歩け


 再び改竄者はゆっくりと歩き出す。


「待って、お願いだ!」


 青年——リシャルトは駆けだす。改竄者は静かに書架を左へと曲がる。斜めがけにしたリシャルトの袋の中で、ヘルトラウダが身動ぎした。


(いよいよ、見られるのか)


 ただの本であり、それ以上でもそれ以下でもないはずなのに、ヘルトラウダは僅かに緊張する。


(私がほかの魔導書たちのように書架に並べられなかった理由が、まさか改竄者にあったとは)


 これまでの道のりで、ヘルトラウダは自身の出自について話すことはなかった。改竄者を排除して、大図書館の司書や魔術機関へ報告すれば嫌でも知ることになるからだ。しかしもうひとつ、ヘルトラウダには理由があった。それを知ったところで、リシャルトであれば好奇心のままにその真相を確かめようとするだけだろうが、ヘルトラウダは、これまで本として世に出回ることのできなかった、触れられず読まれなかった自分を、恥じていた。

 そんな特殊魔導書の自我の戸惑いを無視して、改竄者とリシャルトは進む。

 特殊魔導書ヘルトラウダが封印されていた場所へと。




 改竄者が立ち止まったのは、いちばん突き当りにある大きな書架の前だった。


「止まれ、青年」


 改竄者は振り返らず、後を追ってきたリシャルトを穏やかに制止した。ふたりの間に一定の距離が保たれる。リシャルトはそれに従い、じっと改竄者を見た。黒い外套は相変わらず、持ち主である改竄者を守るように張り付き、その髪の一本すら見せてはくれない。しかしリシャルトにとって、改竄者の見た目などどうでもよいことであった。どうしようもなく、リシャルトは目の前の人物への好奇心を抑えきれずにいた。

 そしてそれと背中を合わせるかのように、死の恐怖が沸き上がってくる。


「私の言葉は、この青年に伝えたのか。魔導書——」


 穏やかな改竄者の声。リシャルトの耳が何度となく捉えてきたこの声は、間違いなくヘルトラウダと同じものだった。しかしその穏やかな声音は、静かで深い、海のような怒りを湛えていた。


「……」


 ヘルトラウダは袋の中で栞を揺らすだけで、答えなかった。答えられなかった。

その声の中の怒りはすべて、自身に向けられたものだったからだ。


「……僕が、僕の意志で、ヘルトラウダに頼んで導いてもらったんだ」


 リシャルトは一呼吸ずつ、ゆっくりと、ヘルトラウダの代わりに返事をする。死の恐怖を握りつぶすかのように拳を握る。


「僕は、君と話がしたい」


 その言葉を、蘇芳色の瞳でまっすぐに捉えた改竄者に投げた。


「……」


 投げた言葉に対する返事はなかった。まるで改竄者の足元に、届かなかった球のように、リシャルトの言葉が転がっているようだった。


「ヘルトラウダを執筆したのは、君なのか?」


 次の言葉は、改竄者の肩を少し揺らした。その反応を、蘇芳色の瞳は見逃さなかった。

改竄者がゆっくりと振り返る。


「きみはいったい、何が目的なのかな」


 穏やかな声で、外套の奥からリシャルトに問う。改竄者からの問いに、リシャルトの蘇芳色の目が輝いた。


「君を、ここから連れ出して、事の真相が知りたい——」


 再びリシャルトは拳を握る。


「ヘルトラウダに、消えてほしくない」


 改竄者は黙したまま、リシャルトの言葉を聞いていた。


「君にも、消えてほしくない」


 リシャルトは沈黙する改竄者を蘇芳色の瞳で捉えたまま、自分の願いを、言葉にして伝えた。

 改竄者が本気を出さない理由のひとつ、出せない理由のひとつ。


「僕は、君を、殺さない」


 リシャルトの蘇芳色の瞳が力強く、言葉とともに訴えた。

 痛いほどの沈黙が、空っぽの書架が並ぶ書庫に流れた。改竄者に出会ってからリシャルトが覚えた違和感、そこから彼が読み取ったのは、自らの死を望む改竄者の意志だった。

耳鳴りすら覚える沈黙の中、リシャルトのその言葉は改竄者の鈍色に褪せた心に、一滴の雫となって小さな波紋を広げた。たった一滴のその言葉が齎した波紋は、あたたかく、染み渡るような熱を持って、憎しみの水底で静かに怒りを燃やす、もう一人の自分にも届いた。


「……その魔導書は、そんな名前ではない」


 あたたかな言葉の波紋を打ち払うように沈黙を破り、怒りの籠った穏やかな声音で、改竄者の唇が動く。


(あぁ……。もう、どうすることも出来ないのか……)


 怒りを鎮めたい自分と、その怒りに痛いほどの理解を示す自分。


(私は怒り、憎しんでいる——)


 改竄者は血の味のする唾を、言葉が止まるようにと祈りながら飲む。


(だが、それも——、紛れもない私だ——)


 目を閉じ、ゆっくりと開く。改竄者の唇が、次の言葉を発するために、開かれた。


「魔導書の名は、〝異国の魔術師フェイルケ〟」


 言葉は止まらず、外套の中で血のにじんだ唇が形を変え、声を発する。


「私はフェイルケ。故郷の名はヘルトラウダ」


 改竄者——フェイルケは、再びリシャルトに背を向けた。


「魔導書の執筆者ではなく、〝原作にされたもの〟だ」


 フェイルケの手が、空っぽの書架に伸びる。その縁を掴むと、手前へと力を込めて引いた。

 扉のように開いた先にあったのは、書庫の壁だった。その中心、人の目線の高さに四角く掘られた穴が、真っ黒な口を広げていた。フェイルケはその中に腕をのばす。

 袋に納まる魔導書の真名を知り、改竄者の名前を知り、また改竄者フェイルケは執筆者ではなく、自身を原作にされたものだと言った。並べられた言葉がリシャルトの頭をぐるぐると巡る。フェイルケの背中を見ながら、リシャルトは一つの答えを導き出した。


(魔導書、ヘルトラウダは誰かに作られた?)


(何のために——?)


 リシャルトの思考を止めたのは、穴の中から分厚い鋼鉄で出来た箱を引きずり出す耳障りな音だった。フェイルケは片手で引きずり出したその箱を両手で持つと、自身とリシャルトの間へ放り投げた。書庫に硬質な音が響くが、その音で箱の中身が空だということが分かった。


「その魔導書は不完全な状態で製本され、そしてすぐに、ここに封印された」


 フェイルケがリシャルトに向き直る。


「私と話をしたいのだろう。なら、この魔導書の真実を聞かせようか」


 黒い外套が少し首を傾げて問いかける。

リシャルトは外套の奥の声に、ゆっくりと頷いてみせた。

ことのはじまりは、今から百八十年前に遡る。

ひとりの旅の魔術師が帝国を訪れ、とある英雄の夭折の式典に巡り合わせた。魔術師は不老不死の秘術を研究するため、魔術の盛んな都市を巡っていた。この帝国に長期滞在するため魔術を使い日銭を稼いでいた魔術師は、その腕の良さから、この国最高峰の魔術師が集う魔術機関へと招待される。そこから持ち掛けられた相談は、若くして亡くなった英雄の魂を直接本に出来ないかというものだった。悲しみに暮れ、悩む八人の大魔術師たちの相談を旅の魔術師は快く引き受けた。なぜならその魔術は旅の魔術師の故郷で一般的に使われているものだったからだ。魔術師は魔術機関が抱える研究をいくつも手伝い、完成させた。その合間に、旅の魔術師は自身の体を使い、不老不死の研究も行っていた。残念ながらこの帝国で得られたのは不老と長命の体のみであったが、ここで得られる知識がなくなると、魔術師は旅立つ用意を始めた。魔術機関はその旅立ちを惜しみ、ささやかな晩餐会を開いた。八人の大魔術師と、旅の魔術師の、九人で。

そしてその晩餐会で、旅の魔術師は毒を盛られ、倒れてしまう。

 八人の大魔術師の目的は、旅の魔術師フェイルケの持つ、魔術やその知識、すべてだった。

大魔術師たちはフェイルケの亡骸から特殊魔導書〝異国の魔術師フェイルケ〟を作り出したのだった。

フェイルケが齎した、編纂魔術によって。




黒い外套の奥から語られる、フェイルケの言葉に、リシャルトは目を見開いた。

じわりと、嫌な汗がにじむ。


(僕が学んできたこの帝国の歴史の中に、嘘と偽りがある——)


これまでに本で読んできた、異国や近隣諸国、自国の歴史を記した書物においても、すべてが正しく間違いなく記されていると限らないことは、リシャルトもよく理解している。だが自身が暮らす帝国領土内の、それを統治する帝国の歴史に、自身が疑わず信じてきたものに嘘偽りがあるとなると、その驚きは隠せない。


(僕が信じたこの帝国の歴史に、嘘偽りが——)


袋の中にいるヘルトラウダも、自身が本として不完全なままだと言う事実にことに驚きを隠せなかった。


「もうわかっているだろうけれど。私は長命なだけであって不死ではないから、完全に毒が回る前になんとか体を仮死状態に持って行ったんだ。あの八人の腕が悪くなければ、私の魂は完全に特殊魔導書にされていた」


 驚くリシャルトたちに引き続き穏やかに言葉を続ける。

あの大魔術師八人を、この国の偉人たちを、フェイルケは〝腕が悪い〟と言い放った。


「今わの際に彼らの目的に気が付いて、魂に防衛魔法をかけたから、彼らは完全に私を本にすることは出来なかった。私の情報の、上澄みを掠めとっただけ……、唯一褒められるのは、特殊魔導書に付与した自動防衛機能の魔術式かな。これは、解くのに時間がかかってしまったからね」


それからは共同墓所に埋葬され、三日後に息を吹き返したフェイルケは身を隠しながら、復讐の機会を窺っていたという。土葬された理由も、魂の防衛魔法さえ解呪できれば特殊魔導書の再編纂が出来るからということだった。


(なんて、悍ましいことを……) 


 自国のことだからこそ、リシャルトはあまりのことに頭がくらくらとした。先ほどから穏やかに真実を語るフェイルケの声音に、静かな怒りと濃い憎しみの色が滲んでいるのも頷けるほどの、人権を無視し、魂を冒涜する行為に。若くして亡くなった英雄のような悼みや称賛のない、私利私欲のため、これまでのフェイルケの優しさを踏みにじる編纂行為。


「きみが信じている魔術機関の大魔術師たち、代替わりをしているけれど……きみはあれについてどう思う」


さらにフェイルケが穏やかに言った言葉に、リシャルトは、それはあくまで自身の想像に留めておいてほしかった、と固く目を閉じた。

フェイルケの不老と長命の術を使い、八人の魔術師は生き長らえている。


「私の魔術の上澄み部分だ。このまま待てばおそらく不完全な術を使った代償で、彼らにとってはよくないことが起こるだろうね」


「よくないことって……」


「不完全な魔術式による肉体の腐敗だ。姿かたちも魔法で誤魔化しているけれど、近いうちにぼろが出るだろうね」


穏やかだが、酷く冷たい声音だった。しかし当然のことをフェイルケはされている。思うことは枚挙にいとまを問わないし、軽く混乱すらしている。だがリシャルトは、そのうちの一つを掬いとる。乾いた唇を湿らせてから、リシャルトは、ゆっくりと唇を動かした。


「魔術機関は、然るべきところで、正しく裁かれるべきだ……」


その言葉にフェイルケは黒い外套を揺らし「この国の、法で?」と問う。


「そうだね、それが正しいだろう、揉み消される心配がなければ」


 フェイルケはフラスクボトルを取り出す。


「この国は信じられるかい? リシャルト……」


 リシャルトは唇を硬く結ぶ。フラスクボトルの蓋が開いた。


「異国の人間の、私の言葉は。誰が信じてくれるだろう」


 フェイルケが、フラスクボトルの中身をぶちまける。

 中身は黒いインクだった。

リシャルトは目を見開く。


「フェイルケ、僕は——」


「きみと戦うのは、これで九戦目か」


 フェイルケがリシャルトの言葉を遮った。

詠唱もなしに、インクは宙に舞いながら黒い矢となってリシャルトに狙いを定める。


「死ぬのは怖くないかい、リシャルト——」


 書架の並ぶ隙間を、右へ、左へ縫うように、リシャルトは駆ける。曲がり切れなかった黒い矢が書架に刺さり、木屑を巻き散らす。散らかった木屑を、リシャルトは魔力を込めてフェイルケに放つが、薬で底上げしたときのように複雑な魔術式はもう使えない。少しでも魔力を温存するため切り詰めるが、そんな魔力で仕掛ける攻撃は陽動にすらなっていなかった。


(せめて近づかないと)


 リシャルトはフェイルケの様子を伺う。こちらについてきながらも、距離を保って黒い矢を操っている。操る矢の本数が減り、精度などが少し落ちているように思えるが、油断はできない。リシャルトは書架の間を、フェイルケへめがけて矢を避けながら走った。フェイルケへの距離を縮めたリシャルトは瞬時に身体強化魔法のルーンを唱え、拳を繰り出した。フェイルケがそれを手で叩き落とし、リシャルトの顎へ掌底を放つ。既のところリシャルトは避けるが、足を滑らせて態勢が崩れた。フェイルケの右足がリシャルトの左足を踏み砕こうと振り下ろされる。身体強化と特性付与の魔法を重ねがけられた右足は、石の床を割った。ぎりぎりで避けたリシャルトは後ろに飛ぶが、フェイルケの懐へと飛び込んでいく。正直言って、勝てる見込みはリシャルトにはなかった。それでもフェイルケを止め、正しい方法で魔術機関に、フェイルケに行った冒涜を詫び、この国の魔術発展の歴史を改竄した罪を償ってほしかった。

そして何より、正しい方法でフェイルケを救い、守りたいと思った。


(勝たなくてもいい……。何とか動きを封じて、取り押さえられないものか)


 そう願うが、隙は伺えない。互いに拳を振るい、躱し、また振るい、躱し、矢を避ける。刹那に身体強化魔法を重ね、掌底を放つ。避けられ、相手の拳が頬を掠める。反撃するが避けられる。


(フェイルケ、僕は——)


 遮られた言葉の続きを、頭に浮かべる。


(君の力に、なりたいんだ——)


 ぐ……、とリシャルトは蘇芳色の瞳に力を込めた。

 本当の力を発揮せず、そこで生まれた隙によってリシャルトに殺されようと、自らの死を望んだフェイルケの苦しみに、リシャルトは完全に寄り添えないだろうし、癒すことも取り除くことも出来ないだろう。その怒りと憎しみは、リシャルトの想像では間違いなく計り知れない。だが、今まで信じてきた国の歴史に大きな過ちがあると知り、その被害を大きく被り冒涜を受けたフェイルケの苦しみを知ってしまった今、リシャルトを自身の死に利用しようとする以上に、その優しさから本気で手を下せないフェイルケに、好奇心でもなく同情でもなく、純粋に湧き出す感情は止めようがなかった。

どうしようもなく、リシャルトはフェイルケの力になりたいと思った。

祈るように身体強化魔法のルーンを唱え、再びフェイルケの懐へ飛び込む。

しかしリシャルトの放った拳は空を捉え、無情にもフェイルケには届かなかった。リシャルトは歯を食いしばる。ここで負けては、フェイルケも、ヘルトラウダも、魔術機関の罪も、すべて闇の中に消えてしまう。



「——ッ‼」


 リシャルトは手を伸ばす。

 掴んだのは黒い外套の端だった。離すものかと握り込み、思い切り剥ぎ取る。

 相手に少しでも動揺を与える手立てとして。


「……——‼」


 リシャルトの蘇芳色の瞳が、大きく見開かれた。

 黒い外套から最初にこぼれ出たのは、白銀に煌めく亜麻色の長い髪だった。次に露わになったのは、形の良いはっきりとした眉の下の、吸い込まれそうなほどに深く澄んだ、静かな夜のような漆黒の瞳。乾いた血で薄汚れていても、それすら美しいと思わせる白磁のように透明感のある肌。リシャルトが想像した通り、自分よりも年下で、息を飲むほどに美しく幼い子どもの姿が、そこにあった。漆黒の瞳はまっすぐに、動揺の色を一切浮かべず、冷たさすら感じさせるほど、リシャルトの蘇芳色の瞳を見つめ返していた。

 次の手に移らなければ致命傷を負うかもしれないというのに、フェイルケのその美しさはリシャルトの蘇芳色の瞳を離すことなく、彼の体をその場に縫い留めてしまった。

 刹那、無表情のまま、フェイルケが腰を落とし、拳を握って半身を引く。その拳が自分の脇腹をめがけて飛んでくることがわかっていても、リシャルトは外套の端を握ったまま動けずにいた。


「かはッ——」


 脇腹に拳を受けたリシャルトの体が書架を破壊し、木屑を巻き散らしながら食い込んだ。フェイルケが変わらず無表情で、リシャルトの脇腹から拳を引く。崩れた書架に凭れ込むリシャルトの体はずるずると地面に倒れるが、その胸ぐらをフェイルケが掴み、目線を合わせるように無理矢理に引きずり上げた。漆黒の瞳が鏡のようにリシャルトの苦悶の表情を映し出す。


「そろそろ死んでもらう——」


 そう言ったフェイルケの漆黒の瞳が僅かに、細く開かれた蘇芳色の瞳に射抜かれ、揺れた。


「うそ……だ……」


 リシャルトが胸ぐらを掴むフェイルケの手を、両手で握る。


「本気で僕を殺す気なんて、ないくせに……!」


 リシャルトの力強い叫びに、フェイルケは目を見開く。


「——‼」


 その一瞬の動揺で、リシャルトは雷の属性魔法を唱えた。

 咄嗟にフェイルケは手を離し、電撃を回避する。とはいえ、弱り切ったリシャルトが放てたのは小規模な電撃だった。リシャルトの体がぐらりと揺れ、地に立とうと踏ん張る。よろめきながら、少し驚いたような顔のフェイルケを、蘇芳色の瞳で見据える。


「…………う」


 小さく呻いたリシャルトは、フェイルケになだれ込むように倒れた。

思わずそれを抱きとめるフェイルケ。

抱きとめてから程なくして、リシャルトはフェイルケの肩で深い寝息を立て始めた。


「……」


 フェイルケはどうしたものかと考えた。

このままリシャルトの蘇生魔法を解呪し、殺して、引き続き特殊魔導書を破壊する魔力は——。

 もう、残っていなかった。

 残る復讐の手立てとしては、現実世界に戻って、物理的にヘルトラウダを破壊する方法しかない。

 リシャルトたちによる邪魔が入らず、魔導書内の滞在時間がこんなにも長引かなければ、復讐の意志がリシャルトへの好奇心に揺るがなければ。

 魔導書内で動き回るために、フェイルケの体は常にその存在を保つための魔力を放出していた。これが途切れてしまうと特殊魔導書の自動防衛機能によって正常な精神や肉体を保つことが出来なくなるからだ。これにはかなり膨大な魔力を要したが、リシャルトたちの妨害によって予想外に消費することになり、戦う力はあまり残されていなかったのである。


「どうして殺さないの」


 抱きとめているリシャルトの腰のあたりから、穏やかな声がする。


「……意地が悪いな。今の私に、そんな力が残っていないことはわかっているだろう」


 フェイルケは眉を寄せた。


「そうじゃなくて」


「……?」


 首を傾げるフェイルケに、ヘルトラウダは続ける。


「理由が、本である私にはわからない……。もちろん、私は本として死にたくないけれど」


 ヘルトラウダは斜めがけの袋から出てきた。


「どうして、今まで戦ってきた間にリシャルトを殺せなかったの」


 純粋な疑問を持つ子どものように、ヘルトラウダはフェイルケに尋ねる。

 たとえ魔力の残りが少なかったとしても、本気を出せば蘇生魔法の解呪をし、いつでも殺せた青年。

復讐を望む自身に無理矢理背を押され、それに疲れ、他者の——青年の手による死を望んだ自分。

死に魅了されていたフェイルケの心に、ふたたび色を蘇らせた青年。

この復讐を計画し始め、最後の備えをするようになってから、何度も自身に問い掛けた。ほかの道はないのか?と。復讐計画とは別に、大魔術師たちに正しく罪を償わせる方法も考えた。しかし静かに怒りと憎しみを燃やす自分を納得させることは出来なかった。乖離する自身の思いに惑いながら、とうとうここまで来てしまった。そんな自分の跡を、欲と好奇心に駆られたのもあるだろうが、フェイルケの思いを見透かして、青年——リシャルトは命懸けで追いかけてきた。そんなリシャルトに抱いていた思いが一つ、フェイルケの中ではっきりと形を成していく。

フェイルケは誰も殺したくなかった。己の魂を冒涜した、あの八人の大魔術師でさえ。


「……そうだね、それは」


 フェイルケがヘルトラウダを、漆黒の瞳で見据えた。


「彼と、話がしてみたかったから……かな」


 微かに苦笑しながら、フェイルケは自身の腕の中で眠るリシャルトを横目に見る。

 かつての自分と同じように、好奇心のままに生きる彼と、話がしたいと思った。

 死んでほしくない、とあんなにも必死に訴えかけてくれたこの青年を殺すことなど、フェイルケには最早出来なかった。

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