第8章 捌冊の魔導書
帝国における特殊魔導書の興りは、およそ百八十年前と浅い。その始まりは、帝国の華であった一人の英雄が若くして亡くなったことにある。彼の輝かしい功績は詩や歌によって語られ、培った技術は騎士団へと受け継がれていたのだが、石碑や伝承ではなく彼のその〝魂〟を、本として直接残せないかと、魔術機関が考案したのが特殊魔導書だった。
魔術機関とは、帝国が認めた八人の大魔術師からなる、魔術師たちで構成された、魔術に特化した研究機関で、魔術に関することならば何でも取り扱う。政治とも関わりを持ち、帝国女王の次に権力を持つとも言われる機関だ。
魔術機関は編纂魔術と呼ばれるものを生み出し、その若くして亡くなった英雄の魂そのものを原作として、インクとペンを使うことなく製本したのだ。若き英雄の魂を直接書き記した特殊魔導書は、過去に活躍したどの英雄たちの伝記や自叙伝の中身よりも重厚だった。若き英雄が語ることなく秘めていた美しい矜持、肌を刺すような緊張を感じさせる行軍の日々、末端の兵士にかけて回ったあたたかい鼓吹の言葉たち。編纂魔術によって書き出されたその内容の生々しさは、読む者を夢中にさせた。それをきっかけに、帝国内で活躍する、あるいは活躍した偉人たちの行いは、特殊魔導書へと編纂された。「自我のようなものを持ち、自らの意思で飛び回る」特殊魔導書を連れて歩くことが、一部の上流貴族や中流魔術師までは一般的となるまで普及し、帝国領土内では時折、特殊魔導書を連れて歩く貴族や魔術師の姿が見られるようになった。特に魔術師界隈では特殊魔導書に自動速記機能などをつけて、助手や秘書として重宝されている。特殊魔導書によって守られたものは多く、魔術機関の生み出した編纂魔術は各学問などにおいて非常に大きな功績を残した。
そして八人の大魔術師もまた、生み出した編纂魔術を使い、自らが持つ魔術式やこれまでの功績を各々に書き記した特殊魔導書を連れ歩いていた。
しかし八人が持つ八冊の特殊魔導書は、何者かの手により破壊され、失われてしまう。
全ては改竄者と呼ばれるものの仕業だった。
消炭色の竜——ゴーレムを前に、改竄者はフラスクボトルのインクを宙へと撒いた。いい加減、あの青年とのじゃれ合いを止めなくてはと気を引き締める。おまけにこちらの体力も魔力も、青年との魔術合戦で少し消耗している。
咆哮する砂のゴーレムに、改竄者はインクを数百本の黒い矢に変え、一気に射る。
ゴーレムは尾や翼を振るい、砂嵐を巻き起こして矢を退けるが、すべてを回避することは出来ず、いくつかの矢が砂の体を射抜いていた。
改竄者は矢を回避しようと暴れるゴーレムを、少し離れた位置から座って眺める。
(大したものだ)
改竄者はぼんやりと魔術式によって動くゴーレムを見ながら、まだ幼さの残る青年の顔を思い出す。あのぼさぼさの鉄黒色の髪に包まれた頭の中に、いったいどれほどの知恵や魔術式が詰まっているのだろう。
そして改竄者を見る、狂気を孕む好奇心に満ち溢れた、あの蘇芳色の瞳。
もっとその頭の中を覗いてみたい。
その欲望と好奇心に引きずられるかのように、まるで無計画で、非合理的で自傷的な戦い方をしてしまったと、改竄者は少し後悔する。
はて、自傷的とは……と、改竄者は心の中で首を傾げた。
この復讐のために長い時を過ごしてきたというのに、いったいなぜだろうか。
黒い矢を容赦なくゴーレムに射ち込む。ゴーレムからだんだんと魔力が失われていくのを感じる。
青年の次の手を見たいがために、こんな怪我まで負って。油断をすれば命の危険もあったというのに。空間転移魔法の移動先は無作為だが、触媒を探そうと思えば探せるにも拘わらず、特にそれをやろうともしない。
そして殺そうと思えば、あの青年の細い体など捻り潰してしまえるのに。
(それをしないのは——)
ゴーレムが地に倒れ、砂に返っていく。
(この復讐を、止めてほしいのだろうか……)
改竄者はゆっくりと立ち上がった。左太腿の傷が痛む。魔導書の改竄に予定外の索敵、戦闘、思案に耽ってしまい、手当のことを忘れていた。長く生き過ぎて、惚けたのか。改竄者は深くかぶった外套の奥で再びため息をつく。
改竄者の索敵魔法はなかなか青年の影を捉えることが出来ていなかった。早く捕えて蘇生魔法を解呪し、とどめを刺さなければならないのだが。
それにしても、破壊する予定の魔術書が目障りだ。
青年の手助けをしているのだろう。まるで人間のように、あの青年の名を呼んでいた。
復讐の発端となった魔導書に対して、あの分厚い表紙をもっと切り刻んでおくべきだったかと、つい思い返してはため息をついてしまう。
それに釣られて、あの日の記憶が蘇る。
ともに特殊魔導書を編纂したはずの、魔術機関の魔術師八人の記憶が。
その記憶が、改竄者の燻っていた復讐の火種に鞴となって吹き込んでいく。
改竄者が拳を握る。上質な黒い革手袋が、ぐ……、と音を立てた。
リシャルトは次の改竄跡へと向かっていた。未だ残る鳩尾の痛みに耐えながら、雪の降る平原を走る。走りながらリシャルトは、これまでに改竄者に与えた攻撃でどの程度の痛手を負わせられたかを考えていた。右肩を掠めた傷など気にも留めていない様子だった。脇腹の損傷は回復しているに違いないし、左太腿の裂傷も、大きく損傷を与えたかに思うのだが、あまり堪えていないようだった。残りの魔力でこの改竄跡を修復すれば、また改竄者は来てくれるだろうか。いい加減に改竄者も、こちらとの追い掛けあいに飽きているかもしれない。リシャルトの集中力も根気もまだまだ持つし戦闘も望むところだが、まとまった睡眠が欲しいところだった。しかしそんな余裕はない。改竄者の魔力や体力をあとどこまで削れば、リシャルトが勝てるぎりぎりの勝負に持ち込めるか、ひたすらに考える。己の好奇心に任せて戦っていたら、こちらの体力と魔力が枯渇して死んでしまうだろう。
「リシャルト、先回りされている」
ヘルトラウダが言った。その声音はやはり穏やかに変わりない。
リシャルトは長く息を吐く。そして次の戦略を口にした。
「今度はこちらから攻めに行こう」
改竄跡は突如雪原に現れた崖のようにその口を開いていた。白い雪の上を、黒いインクが汚している。
新雪を巻き散らし、魔法による破裂音や轟音、拳による打撃音を響かせながら、ふたりの戦いはより苛烈になっていった。
リシャルトは雪に足を取られるたびに属性魔法攻撃で改竄者の追撃を退け、改竄者も被せるように黒い矢で畳みかける。身のこなしはやはり改竄者の方が身軽で、雪に足を取られることなくこちらを攻めてくる。リシャルトは左から飛んできた黒い矢を転がり避ける。外套の端が千切れ飛んだ。
「君は雪国出身なの? 随分と歩き慣れているみたいだけど!」
体勢を立て直し、追撃してきた矢を叩き落としながらリシャルトが改竄者に呼びかける。しかし改竄者は何も答えない。矢を放ちながら距離を詰め、リシャルトに容赦なく拳を叩き込んだ。リシャルトも応戦し、飛んできた拳を払い落として雷の属性魔法を炸裂させる。できた隙を見逃さず、すかさず外套の顔面目掛けて右の拳を放ったが、ひらりと身を躱され、腕を掴まれそうになる。まずい、とリシャルトは鞭のように体をしならせ左の拳を改竄者の脇腹へと再び叩き込んだ。改竄者はそのまま脇腹でリシャルトの拳を受け止め、腕を掴むと——
「う…っわ⁉」
リシャルトを背負い投げた。その体が雪に叩きつけられる前に、改竄者は後ろに跳躍してリシャルトから距離を置くと、黒い矢を数十本同時に放つ。リシャルトも負けじと体勢を整え、火の属性魔法で分厚い壁を作り、黒い矢を焼き切った。
「君と話がしたいんだ……! 少し時間をくれないかな!」
炎の壁が晴れるや否や、リシャルトが言い切った瞬間、懐に飛び込まんとする改竄者の姿が目に入った。これだけ命を懸けた殴り合いをして、どの口が言うのかという話だが、リシャルトはどうしても改竄者と話をしてみたかった。
(ですよね……)
容赦なく殴りかかってくる改竄者に、リシャルトは悲しげに笑うと、再び戦いに集中した。
それから小一時間は殴り合ったあと、リシャルトは殴られた鼻を抑え、鼻血を垂らしながら空間転移魔法で再び戦線を離脱したのだった。
態勢を整えたリシャルトは改竄者の前に立ちはだかり、薬効で底上げした魔力に物を言わせ、改竄者の体力を削りにかかっていたのだが。戦いながら感じていた違和感の正体を、リシャルトは感じつつあった。
(こちらの技の出方を見ている……?)
体術も、操る魔術式も恐ろしいほどに精密で高度なのだが、死に至ったのはあの絞殺のときのみで、どれもリシャルトの致命傷とはなっていない。リシャルトがいったいどれだけの魔術を理解しているのか、まるで観察するかのような戦い方だった。改竄者に追いつこうと必死で、あまりそこに注意を避けていなかったが、最初に殺されたものを含めて七回戦目の今、忍び寄る影のようにじわりと腑に落ちていく。
(僕がどう戦うのかを見ているのか……)
しかしそれはリシャルトも同じことだった。改竄者の次の手や体の動き、攻撃の捌き方、派手な魔法は使わないが、緻密で無駄のない正確な魔術式。触媒も使わず、魔石を用いた体力の底上げや、リシャルトのように薬効での魔力の底上げをせず、体力、魔力とも繊細に微調整を行い、切り詰めながら戦うさまなどはたまらなく胸が躍った。
しかし改竄者のそれがどういう事かというと、本気を出してしまえばこちらのことなどいつでも殺せるか、あるいは本気を出しづらい何かがある、ということである。
改竄者が大量のインクを細かい粒に変え、それをリシャルトに向かわせる。避ける間もなくインクの粒に囲まれるリシャルト。その間にも黒い矢が飛んでくるため、手刀で叩き落とす。
改竄者が本気を出しづらい何かがあるとしたら、それはいったい何なのだろうか。
改竄者にとって魔導書ヘルトラウダを破壊することは絶対ではないのか。
魔導書を破壊することで達せられる、改竄者の目的とは何なのか。
周囲を円で囲むインクの粒を、水の属性魔法を使って取り込み無効化するため、リシャルトは思考しながらもルーンを唱えた。水の壁があっという間にリシャルトをぐるりと巡る。インクの粒が水の壁に取り込まれたが、異変に気が付いたリシャルトはすぐに最大威力の火炎魔法のルーンを唱えた。
細かいインクの粒が、針のように鋭く形状変化していき、練り込まれた改竄者の魔力によって水の壁をすり抜けてきたのだ。
リシャルトは斜めがけの袋に入ったヘルトラウダを庇うように抱き込み、外套でなるべく全身を包んで蹲った。インクの針と黒い矢が、リシャルトへ一気にめがける。
刹那、轟音と熱風を立てて今度は炎の壁が円を囲むように巻き上がり、インクの針と矢をその炎で焼き切った。休みなくリシャルトは空間転移魔法のルーンを唱えて撤退する。髪の先と外套が焦げ、嫌な匂いが微かに鼻を掠めていった。
リシャルトは朽ちた遺跡の石の柱に凭れかかるように座り、休息していた。右胸の傷口にあてがった麻の布は存分に血を吸い込み、さらに服へと滲んでいる。薬効の魔力も少ないため、回復魔法でその場凌ぎの止血のみ施したが、どこかで機会を経て適切な治療をする必要があった。
辿りついたのは熱波の吹く荒涼とした赤銅色の土地だった。あえてそうしているが、やはりここにも回復魔法に必要な触媒となり得そうなものは見当たらない。ちょうど柱が日陰になっているのだが、吹き付ける熱波は露出している肌や傷にひりひりと沁みる。ヘルトラウダは袋の中に入ったまま、索敵魔法を展開し、辺りの様子を伺っていた。
(改竄者が特殊魔導書を破壊する理由はなんだろう……)
何度か巡った考えを、リシャルトは反芻する。
(こちらの蘇生魔法を解呪して、僕を殺してしまえばいいはずなのに、明らかに手を抜いている理由は、優しさか……それとも情けなのか)
リシャルトは逡巡し、指先を口元に添える。
(改竄者は、特殊魔導書の破壊を迷っている……?)
(それは何故——)
改竄者の動機が気になり、やはり一つの思いがより明確になる。
(改竄者のことが知りたい)
魔術や体術のほかに、どんな知識を有しているのか。どのような思いでこの行動を起こしているのか。そこに至る理由は何なのか。
「動けるかな」
思考はヘルトラウダの静かな声で遮られた。
「どっち?」
「東だ」
ヘルトラウダは袋の中から栞だけ出して、方角を指し示す。
「すぐだよ」
「それは助かる」
リシャルトは笑って、背筋を伸ばしながら立ち上がった。袋からポケットへ、中身の入った薬瓶を一本忍ばせる。深呼吸をすると、リシャルトは東へと駆け出した。
秘色の霧に覆われ雨が降る、濡れた黒い大地。リシャルトは胸から血を流し、横たわっていた。ひゅう……、という浅くゆっくりとした息遣いから、だんだんと体温が失われているのがわかる。
八回戦目の決着は、早く着いた。
少し離れた位置から、リシャルトの命が尽きようとしているのを静かに眺める改竄者。改竄者の体からも、雨に混じって血が滴っているが、痛みに反応している様子は全く感じられない。
リシャルトの腹のあたりに被さる外套が蠢くと、体の下敷きになっていた袋から、濡れるのも構わずにヘルトラウダが出てきた。
「……」
改竄者の纏う空気が僅かに張りつめる。ヘルトラウダはその空気を感じ取り、しかしあえて改竄者に言葉を発した。
「頼む、彼を見逃してやってほしい」
リシャルトの体をゆっくりと、蘇生魔法の燐光が包んでいく。庇うようにヘルトラウダは閉じた本体を呈した。
「その声で、喋るな」
静かで穏やかに聞こえるのに、外套の下から発せられたその声には明らかな嫌悪が込められていた。
改竄者は外套を揺らす。
「その青年に伝えてくれ。次は本当に殺す、と」
改竄者は空間転移魔法のルーンを唱えると、その場から姿を消した。
「……」
ヘルトラウダはまるで呆然と立ち尽くすように、その場に浮遊したままだった。
やがてリシャルトとヘルトラウダは燐光に包まれ、光の飛沫となって消えていった。
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