第7章 漆人(しちにん)の女神像

 黒い外套を揺らし、改竄者は壁に手を付きながらゆっくりと歩く。突如として破壊する予定の魔導書とともに現れた青年——リシャルト。改竄者の後を追い、改竄した一部分の魔術式修復までやってのけ、さらにはほぼ互角で戦闘をしてみせた。純朴で、器用そうには見えない見た目から想像しにくいのだが、彼と四度戦ってその実力は充分に知れた。


(次こそ本気であの青年を仕留めなくては、自分の復讐は成しえない——)


「ふ……」


 改竄者は脇腹の痛みに小さく呻く。立ち止まり、呼吸を整える。青年に掌底を叩き込まれた衝撃は、特性付与と身体強化魔法による強化をもってしても防ぎきることはできなかった。おまけに、短時間ではあるが回復魔法が効かないよう魔術式まで施されている。何かしらの薬で力を底上げしているようだが、魔法を操るその感性には舌を巻いた。戦えば戦うほどに新たな戦術を加え、こちらの魔術を真似る様子も、太刀筋を読まれる不快さも、改竄者には久しい感覚だった。


(今度はどんな技を見せてくるのだろう——)


 改竄者は考える。


(また、あの青年に会えるだろうか)


最後に放ったあの矢は、本当は心臓を射抜くつもりだったのだが。

 軌道は右胸へとずれた。

 もう一度、あの青年と戦いたいと、改竄者の好奇心が訴えかける。しかし復讐は絶対だ。

 改竄者が放った黒い矢は、特性付与魔法によって硬質化されたインクだった。並みの魔術師であれば、特性付与魔法を維持するか、ただのインクを漂わせ、高速でぶつけるだけでも精一杯だが、その両方を維持し武器にすることなど、改竄者には造作もないことだった。インクはフラスクボトルに入れて持ち歩き、補充は改竄した箇所から行っている。最も、これは護身用で補充する予定などなかったのだが。

 改竄者は再びゆっくりと歩き出す。脇腹に手を当て、回復魔法無効化の解呪を施す。内臓を握りつぶされるかのような痛みに耐えながら、改竄者は青年の次の出方について考える。

 改竄者が放った黒い矢にも、青年が苦しむような魔術式を施していた。

 体内に刺さった瞬間、矢が針山のように変化し、取り除くのに苦痛を味わい、治癒に時間を要するものである。





 リシャルトが意識を取り戻したのは、薄暗く冷たい大聖堂、七人の女神像が並ぶ大広間だった。

女神像の七人のうち六人は上半身が改竄跡となって真横に裂けており、そこからは溶け出した文字とインクが流れ出している。

そしてまるで凶兆を嘆くかのように、七人すべての女神像の目から黒いインクが涙のように滴っていた。

リシャルトが呻き声を上げる。右胸、鎖骨の真下辺りを、黒い矢がまっすぐに貫いていた。傷口からじゅくじゅくと血が流れ、リシャルトの服を濡らしている。

 リシャルトは生きていた。


「うあぁ……………」


 荒い呼吸で、痛みを堪え、やっとの思いで上体を起こす。


「いっ……」


 自らを貫くそれが、明らかにただの矢ではないことを、リシャルトは理解していた。


(これだけは、絶対に当たりたくなかったのになぁ……)


 痛みに耐えかね、目尻に涙を浮かべるリシャルト。


「形状変化の魔術式だね」


 ヘルトラウダの声が上から降ってくる。


「そう……、二回戦ったあとで気が付いた……」


 痛みを押さえ込むように、リシャルトは苦笑いで返事をする。


「今は改竄者も弱っている。残りの魔力で手当てに専念した方がいい」


 ヘルトラウダは栞を揺らしながら言った。それでなくともリシャルトの集中力は限界にきている。いくら薬効で魔力と体力を増強していても、集中力には限界があるので、休息を取らなければ魔法を発動し維持するのは困難だ。それに、身体強化魔法で守りを固めているとは言え、掠り傷や擦り傷、細かな切り傷も負っている。服も外套も、ところどころ穴が開いていた。


「ッ……さ、さすがに、そうだね……」


 掌底に込めた最大威力の打撃と、回復魔法無効化の術式を叩き込んだのと同じく、改竄者もこちらの守りを上回る速さで矢を打ち込んできた。矢の軌道がずれていなければ、確実にリシャルトは死んでいた。

 体を動かすたびに、内部で形状を変化し殺傷能力を高めた矢が傷口を抉る。リシャルトはポケットから麻の布を取り出すと、それを折りたたみ、口に銜えた。呻きながらもなんとか荒い呼吸を抑え、リシャルトは魔力を左手に集中させ、黒い矢を握った。矢が淡い燐光に包まれる。


「うぅうう……ッ」


 形状変化魔法の解呪をするが、針山のように広がった矢が動くたびに傷口が痛み、リシャルトは痛みに歯を食いしばり、布を噛み締める。そうでもしなくては集中力が切れて、解呪が半端になってしまうからだ。額を汗が伝い、眼鏡が床に落ちた。傷口から血が噴き出す。

 解呪には数十分かかった。背中まで貫いていた鏃を、傷口から抜きやすい単純な棒状に変化させると、矢が纏っていた燐光が消えた。

 針山の矢によって傷口の中はずたずただった。右腕に力が入らず、意識も朦朧としている。しかしリシャルトは再び深呼吸を何度か繰り返すと


「うッ………んうぅ……ぐっ」


 歯を食いしばり、息を深く吐きながら黒い矢を引き抜いた。


「——ッッッ」


 リシャルトの固く閉じられた目尻から涙が零れ落ちた。険しい表情が一瞬、苦しみから解放されたように緩むが、すぐにまた苦悶の表情に変わる。傷口の流血は止まっていない。

 次にリシャルトは布を銜えたまま再び左手に魔力を集中させ、傷口へとその手をあてがった。傷口は燐光に包まれ、ゆっくりと塞がっていく。くぐもった呻き声を上げながら自らの傷口を治療するリシャルトを、ヘルトラウダは黙ったまま見守っていた。辺りに敵の気配や改竄者の気配もなく、この隙に体を休めて次の戦いに備えてもらわねば。

 ヘルトラウダは索敵に集中しながら、その様子を引き続き静かに見守った。


「かはっ……」


 リシャルトが右胸の傷を治すのに小一時間ほどかかった。触媒にできるものがなく、薬効で底上げした残り僅かな魔力のみで傷口の内部だけを治療した。傷口が浅くなっただけで完治はしておらず、包帯を巻くなどの処置が必要だったが、そんな余力はなさそうだ。銜えていた布が口から落ち、リシャルトはどさりと冷たい大理石の床へと倒れ込む。大量にかいた汗が体を冷やしていく。しかしまだ気を失うわけにはいかない。リシャルトは薬効で底上げした最後の魔力を使って、小さな結界魔法のルーンを唱えた。寒さや暑さ、多少の攻撃から身を守れるものだ。


「お疲れさま、リシャルト。何かあればすぐ起こす」


 ヘルトラウダがリシャルトの上をゆっくりと旋回しながら言った。


「その時は……、たたき、起こして……」


 その一言を最後に、リシャルトの意識は深い眠りへと落ちていった。



索敵をしながら、ヘルトラウダはページをぱらりとはためかせる。ここまでの展開はヘルトラウダが予想した通り過酷なものであったが、この状況下で深手を負いながらも、リシャルトがこの戦いを存分に楽しんでいることは予想外だった。否、彼はまだ貪欲に求めている。彼にとってこれはただの戦いではなく、自らが学んできたことを試すまたとない機会と実験の場なのだろう。


(己の命がかかっているというのに、どうしてきみの眼はこんなにも爛々と輝きを失わないのか)


 ヘルトラウダもまた、そんなリシャルトに強い興味を持ち始めていた。


(本であり、それ以上でもそれ以下でもない自分が、人間に興味を持つなんて——)


こうして思考するこの自我のようなものは、特殊魔導書の執筆者の、思念の欠片ですらないかもしれないというのに。

どうせ死ぬならば、本を愛する者に読まれてから死にたい

ヘルトラウダの望みは、リシャルトによって叶えられた。

そして前代未聞の、読者を直接自身に取り込んで、体感をしてもらうという読み方も。

改竄されてしまった不完全な状態とは言え、ヘルトラウダにとってその体験は史上最高の喜びとなった。生まれて初めて、自身を本として、自身が望む最上の形で読んでもらえたのだから。

特殊魔導書とは言え、本として生まれたはずなのに封印を施された革紐で固く拘束され、特殊魔導書の書架に並ぶことなく、厳重な施錠がされた箱へと入れられ、理由もわからぬまま大図書館の壁に長年埋め込まれていたヘルトラウダにとって、誰かに読んでもらうということは、並みの特殊魔導書たちが抱くものよりも強い願望となった。改竄の被害に遭ったこと、改竄者の訪れにさえ、ヘルトラウダは僅かながらにも感謝していた。

だからこのまま改竄が進み、本としての体裁が保てなくなったとして、望みを叶えたヘルトラウダは充分満足だった。


(——満たされていたはずだったのだが)


(どうしてまだ、私は餓えているのだろう……——?)


ヘルトラウダは逡巡し、思考のその先へ進もうとしたが、やめた。


(自分は本だ。特殊魔導書だ)


(それ以上でもそれ以下でもない)


(執筆者に会えなくとも、たったひとり読者に会えただけで、よかったのだ)


ヘルトラウダはリシャルトを見守るのをやめ、索敵に全集中力を注いだ。



 四時間の睡眠から目覚めたリシャルトは顔を苦痛に歪めながら、目を開けた。蘇芳色の瞳がぼんやりと仄暗い天井を捉える。大神殿の天井画らしき色合いのものが見えるが、眼鏡をかけないことにはその詳細はリシャルトにはわからない。眼鏡の行方が気になるが、未だぼんやりとする意識でリシャルトは七人の女神像が並ぶ祭壇へと顔を向けた。輪郭が酷くぼやけて見えているため、その繊細な意匠は確認できない。


(——女神様……)


リシャルトは右胸の痛みに顔を歪めながら、黒いインクの涙を流す女神像に呼びかける。


「もう目が覚めたのかい? まだ眠っていても大丈夫だ」


 頭上からヘルトラウダの声が降ってくる。リシャルトは首を縦に小さく振ると


「怒らないでよ、ヘルトラウダ……」


 そう言って左手を動かした。血で汚れた袋を探り、薬瓶を取り出す。


「あぁ……、きみというやつは」


 穏やかな声音に、少し呆れの色が混じっているように聞こえた。リシャルトは苦笑してみせると


(どうか、僕を見放さないで——)


 祈りながら瓶のコルクを口で開けるリシャルト。

薬瓶を満たす赤紫色の水を、喉を鳴らして飲み干した。からん、と空き瓶が大理石の床に転がる。


「……」


 固唾を飲むように、ヘルトラウダは仰向けのままのリシャルトを見守った。


「——……よし」


 先ほどよりはっきりとしたリシャルトの声をヘルトラウダは聞き逃さなかった。

 運は、リシャルトを見放さなかった。


「強運だね」


 ヘルトラウダがページをはためかせる。


「はは、そうだね。あとでお祈りしなくちゃ……」


 痛みに顔を顰めながら、リシャルトは体を起こす。そばに落ちていた眼鏡を拾い、その近くに落ちていた麻の布でレンズを軽く拭うと、しっかりとかけ直す。空き瓶とコルクを拾うと斜めがけにしている袋にしまい、外套を外した。次に袋を地面に置き、上半身に着ている衣服をゆっくりと脱ぐ。


「いたた……」


 そっと血の滲んだ衣服を脱ぐと、少し痩せてはいるが、しっかりと鍛えられた上半身が露わになった。その体は改竄者から受けた切り傷や掠り傷、擦り傷で痛々しい見た目となっている。細かな傷ではあるが、特に腕や足は打撲のような痣も見られ、より痛々しい。身体強化魔法と属性付与魔法をかけていなければ、リシャルトの体はばらばらになっていたであろう。

 リシャルトは外套の裾を細く破り取ると、使用期限ぎりぎりの傷薬を袋から取り出した。コルクの蓋を取ると、舐めてもいないのに口の中に苦みを感じるほど、強烈な匂いが鼻を衝く。中身は半液体状の軟膏のようになっていた。それを四つに裂いた麻の布うち二枚に塗り付ける。残り二枚の麻の布でしっかり血を拭うと、矢が貫通した右胸と背中に軟膏付きの麻の布を貼り付けた。細く破り取った外套の切れ端で、襷掛けのようにしっかりと縛り付ける。結界で寒さを多少は防げているものの、やはり肌寒い。リシャルトは傷薬の瓶が空になるまで、体のあちこちに手早く軟膏を塗った。空になった軟膏の瓶も何かの役に立つだろうと、リシャルトは袋の中へとしまい込み、体の筋肉をほぐすため、柔軟運動をする。痛みを堪えつつ体が温まるまで柔軟をすると、リシャルトは上半身に着ていた服を纏い、袋を肩にかけ直して外套を羽織った。


「さて……」


 リシャルトは胡坐をかいて口元に指を添える。ヘルトラウダが何も言わないということは、改竄者はまだこちらに来ていないということだ。少しは余裕がある。

 薬瓶の中身はまたしても、先ほどと同等の魔力増強薬だった。温存するか、それとも一気に放って迎え撃つか。

リシャルトは思考を巡らせる。ドリカからもらった道具はもう薬瓶しかない。残り四本は効果の不明な薬が入っているが、次に飲んだとき、再びリシャルトに幸運をもたらすかどうかはわからない。

 早めに決着をつけなければ。やはり、工夫して積極的に相手の魔力と体力を削り取るべきだろう。

 そう思い顔を上げると、七人の女神像がリシャルトを見下ろしていた。眼鏡をかけて見る女神像の意匠は見事なもので、それぞれの像が慈悲深く微笑んでいる。インクの涙を流していなければ、リシャルトはその美しさと神聖さに純粋に膝をつき、祈ることが出来たであろう。

 女神像七人の上半身を真横に走る一閃の改竄跡。そこからもインクと、溶けだした本文と魔術式が、大理石の床へとどろどろと流れ出していた。こちらの修復もしなければ。しかしこの改竄跡は今までのものよりはるかに大きく、修復には時間を要する。今度はその最中に襲ってくる可能性も考慮したい。

 リシャルトは口元に添えていた手を床に付き、姿勢を正すと膝立ちになった。目を閉じ、手を握り合わせ女神像に礼も込めて再び祈る。


(どうかもう一度、力をお貸しください——)


 リシャルトは頭を垂れた。斜めがけの袋から薬瓶がかちゃりと音を立てる。


「……」

 

リシャルトは目を開け、ヘルトラウダを振り返った。


「……騒がしくするなら、女神にひと言断りを入れた方がいいだろう」


 ヘルトラウダは栞を一振りした

 大聖堂の広間に、空き瓶を割り砕く音が響く。

 リシャルトは三本の空き瓶を割り砕くと、特性付与魔法で追尾特性と鋭利さを付与し、浮遊魔法でその破片たちを自身の周りへ円を描くように撒いた。コルクは別の武器として使うため、取り出しやすいようポケットに入れている。

 ヘルとラウダを袋にしまい、これで修復にかかれる、とリシャルトは女神像に再び向き直った。神聖な大広間でどれだけ薬瓶を割ろうとも、女神像の慈悲深い表情は変わらない。リシャルトは崩れた魔術式の修復からさっそく取り掛かった。じわりと、改竄跡の裂け目が小さくなっていく。

ルーンを詠唱するリシャルトは、その裂け目から溶け出している本文の文字にも注意を向けていた。どこか引っ掛かりを覚える文字の形状。詠唱に集中する傍ら、リシャルトは知識の海へと足を踏み出す。

七人の女神像、宗教、▲教。

一番右端の、一人だけ上半身に改竄跡のない女神の名は聖女(せいじょ)神(しん)❖。その名前の綴り、神聖文字と呼ばれる特殊な文字。

リシャルトは魔術式の修復を四時間ほどかけて終えた。改竄者はまだ現れない。深呼吸をして、知識の海へと今度はより深く潜り込んだ。

 宗教関連の本も、リシャルトは何冊も読んでいた。歴史の本を読めば必ずと言っていいほど宗教は絡んでくる。リシャルトの住む帝国領土内で信仰されている宗教ならば、その聖書の内容はすべて暗記しているし、遠い異国の、伝承として伝わった宗教についての本の内容も覚えている。この大聖堂に訪れたことなどリシャルトは一度たりともないのだが、祀られている七人の女神像からして、帝国領土内で信仰されている宗教とほぼ同等のようである。そして聖女神❖、異国の宗教について書かれた本に、聖女神❖を絶対神として信仰する宗教があるらしいと記述があったのを思い出す。

 その宗教で使われるとされる神聖文字に、本文の書体はよく似ていた。


「リシャルト、改竄者が来ている」


 もう少しで読めそうだが——。

 リシャルトの背後で炸裂音とともに、リシャルトを守るように動いたガラス片が木っ端みじんになって弾けた。

 防ぎきれない衝撃でリシャルトが前に吹き飛ぶ。しまった、つい夢中になってしまった。受け身を取るのに失敗するが、体が吹き飛ぶと同時にリシャルトはガラス片に魔力をさらに注ぎ込む。大理石の床で尻餅を付きながら、リシャルトは次に飛んできた黒い矢をガラス片で止めた。改竄者がこちらに向かって一気に数十本の矢を放つ。体勢を整えたリシャルトは右へと駆け出すと、ガラス片で黒い矢を叩き落とした。黒い矢も追尾機能を持たされており、ガラス片と黒い矢が攻防を繰り広げながらリシャルトの後を追いかけている。改竄者がさらに黒い矢を放とうとするのを確認し、リシャルトはポケットから取り出したコルクを三つとも、強化された膂力で投擲した。高速で飛んでくる一つのコルクを手刀で叩き落とす改竄者。黒い矢の射出は阻止することが出来ず、容赦なくリシャルトへと飛んでくる。ガラス片がリシャルトを守り、砕けていく。遠距離攻撃ばかりでは埒が明かないと、リシャルトは意を決して改竄者へと駆け出した。それに応じるかのように、改竄者もリシャルトへと駆け出す。ガラス片が弾ける音とともに、破裂音が大広間に木霊した。リシャルトと改竄者の拳がぶつかり合い、離れ、またぶつかる。その間にも容赦なく黒い矢は何本もリシャルトを掠めていく。リシャルトを守るガラス片はより細かく砕けていき、きらきらとした霧のようになっていく。


(そろそろだ……——‼)


 攻防ともに手を緩めず、リシャルトは辺りに散るガラス片を確認する。攻撃に使えそうなガラス片はほとんど残っていない。改竄者が繰り出す次の攻撃、矢の軌道を読みながら、薬効の魔力に物を言わせ、隙を伺う。

 そして、その時は来た。

 待機させていた残り二つのコルクが、改竄者へ向かって挟み撃ちで飛んできた。すぐに後ろへ飛んで避ける改竄者。リシャルトはその隙を狙って、黒い矢を叩き落としながら粉々のガラス片を自身の前へ改竄者と隔てる壁のように集める。


「————‼」


 唱えたのは光魔法のルーンだった。閃光を受けたガラスの破片は、含んだ魔力によってぎらぎらと反射し、改竄者の目を眩ました。

 その一瞬の隙で改竄者の左太腿を、リシャルトが放った風塵魔法が裂いた。次に放たれた風塵魔法を、改竄者は既のところで転がり避け、水の属性魔法を放ち、すべてのガラス片を大理石の床へと叩き落とす。大理石の床に改竄者の血が飛び散る。しかし改竄者はまるでそれを意にも介さず、といった様子で立ち上がると、飛んできたリシャルトの拳を軽々と躱す。躱して、その腕を掴んで引き寄せると、リシャルトの鳩尾に雷属性の魔法を纏わせた拳を叩き込んだ。


「がぁッ……はッ」


 しまった、と思った時にはリシャルトの目に星が飛び散っていた。痛みに視界が明滅する中、無抵抗のままさらに鳩尾に同じ拳が撃ち込まれる。


(———逃げなければ)


 リシャルトは気を失うまいと歯を食いしばり、腹に力を籠める。増強した魔力に物を言わせ、特性付与魔法をより強固なものにした。そして


「———‼」


 ほとんど雄叫びのようにルーンを唱え、風塵魔法で改竄者との間に爆風を巻き起こした。改竄者はリシャルトの腕を素早く手放し、後ろへ飛んで衝撃を回避する。爆風で宙を飛んだリシャルトは落下しながら空間転移魔法のルーンを唱え、戦線を離脱した。

 空間転移魔法で次に辿りついたのは満月の夜更けに包まれた消炭色の砂浜だった。ざぶざぶと音を立て、墨色の波が寄せては返す。本来は波の音しか聞こえない静かなその浜辺に、不釣り合いなリシャルトの呻き声が響いた。


「ううぅ……ぐ」


 額に脂汗を浮かべ、体をくの字に曲げたリシャルトが呻く。


「リシャルト、改竄者が追っている」


 袋の中から残酷な事実を告げるヘルトラウダ。


「あ……は。あと、どのくらいでここに……」


 リシャルトは困ったように笑いながら呻いた。


「半時ほど。せめて回復するか、あるいはもう一度、空間転移魔法を」


「いや、半時あるなら……」


 ヘルトラウダの言葉を遮り、仰向けになったリシャルトは魔力を込めた左手を腹部へあてがい、回復魔法のルーンを唱える。残念ながら、触媒に出来そうな海藻の破片や植物、蟹などの生物は見当たらない。

さらに続けて砂浜へとリシャルトは右手をあてがい


「———……」


 消炭色の砂へと魔力を込め始めた。

 一通り思いついたことをやり終えると、リシャルトは改竄者を待った。鳩尾の痛みは若干和らいだが、走り回るとなると少し厳しい。回復にはもう少し時間が必要だろうが、今は時間が足りない。

 ざり……、と浜の砂を踏む足音が聞こえる。その音を聞いた瞬間、リシャルトは空間転移魔法のルーンを唱え始めた。

 改竄者のものだった。背後には黒い矢が数十本と浮遊し、いつでもリシャルトに放てるよう狙いが定められている。すぐに攻撃してこないのは、改竄者がリシャルトの仕掛ける罠に気が付いたからだろう。改竄者は矢を一本、リシャルトから少し離れたところへと射ち込んだ。

 それを合図に、リシャルトを守るように砂の壁が立ちはだかる。砂の壁は徐々に細くなり、全長十メートルはある竜型のゴーレムの姿へと変わった。


(これでもう少し足止めを……)


 空間転移魔法の燐光がリシャルトを包み込む。

 浜辺には改竄者と、リシャルトが込めた魔力を原動にしたゴーレムが残された。



 再び移動したリシャルトは腹部の回復魔法に専念していた。今度は石で出来た廃砦の中に辿りついた。


「きみ……この状況下でまだ実験をするなんて」


 袋の中に入ったまま、ヘルトラウダが言った。


「私が人間だったら、呆れていたことだろう」


「てことは、呆れてないんだ。じゃあ愛想をつかされる心配はないね」


 回復魔法によって徐々に元気を取り戻しているのか、おどけたようにリシャルトは目を細めて笑った。

 浜辺に仕掛けたのは、魔力を込めたゴーレムの魔術式だった。戦争で開発された魔術式だったが、今はゴーレム同士を戦わせる、帝国領土内で人気を博す闘技大会で親しまれていた。一般に流通し使われているのは殺傷能力を持たない魔術式だが、リシャルトが使ったのは特殊魔導書の書架から得た、攻城兵器型ゴーレムを生み出す、禁じられた魔術式である。


「きみの魔術の才能には目を見張るものがある。生きて帰ったら今回のことのあらましを魔術機関に話すといいだろう。間違いなくきみの才能を買ってくれる」


 ヘルトラウダの言葉にリシャルトは目を丸くしたが、次の瞬間には噴き出して


「あはははは、それは……、そんなことしたら、教授に大目玉どころか魔術学院を破門だよ!」


 言い終えてから、いてて……と腹を抑える。


「ふふ、でも正直僕も驚いてる……。僕はここまでできるんだ」


 引き続き、回復魔法に徹しながら


「僕は、どこまでできるんだろう……」


 ぽつりと呟く声に相反して、リシャルトの蘇芳色の瞳は爛々と、深い欲望の光で輝いていた。

 ついさっき増強した魔力は、もう半分も残っていない。

 リシャルトが魔導書ヘルトラウダの中で過ごした時間は、もう五日目となっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る