しゃがむ人

連喜

第1話

 子どもに対する猥褻表現があります。ご注意ください。


 俺が以前住んでいたのは私鉄の〇〇という駅で、東京都内なのにあまり栄えていなかった。駅の改札を出て左に曲がると目ぼしい店は何もない。数軒だけ飲食店があるけど、コンビニとかスーパーなんて気の利いたものは全くない。だからと言って住宅街というほど整然としているわけでもなく、どの家も古くて、金がなさそうに見えた。

 夜になると街灯もまばらで、人通りが少なく、女性には危ないのではと思うような土地柄だった。数年前には殺人事件もあった。亡くなったのは外国人女性で、どうして殺されたのかは知らない。そういう事件があったことを知らない人もいるだろうけど、何となく薄気味悪い町だった。そのお陰で家賃は都内にしては激安だった。


 あの夜。寂れた改札を出てすぐのところに、小さい人がしゃがみ込んでいた。どうやら男の子みたいだった。暗がりでも、さらさらした髪の毛が黒々として見えていた。体格的には小学校五年生くらいだろうか。小柄で華奢だった。まだ夜七時くらいだったけど、四月だからすっかり日が暮れていて寒かった。


 俺は立ち止った。そんな場所に一人で座っているなんてちょっと様子がおかしくないか。もしかしたら、具合が悪いのかもしれない。十中八九そうだろうけど、通りかかった人はみんな冷淡で、その子の前を素通りしていく。俺はいもしない誰かにいい所を見せたくて、その子に声を掛けた。迷子を交番に送り届けて、警察に表彰されたかったのだろうか。


「具合悪いの?」

 俺は屈みこんで声を掛けた。子どもは苦手だが優しいおじさんを演じてみた。

「はい…」

 蚊の鳴くような声を出して、その小さい人は顔を上げた。俺は息を飲んだ。


 見ると、シワシワのおじいさんだった。俺は口をあんぐりと開けたまま、声が出なかった。これは面倒な人に声を掛けてしまったと思った。おじいさんだとわかっていたら声なんか掛けなかったのに…。

 こんな風に地べたに座っているなんて、精神的に問題があるか、ホームレスに違いなかった。もし、体調が悪いとしたら、深刻な病気か何かで、病院まで付き添わなくてはいけないかもしれない。そしたら支払いはどうするんだろうか。

 俺は立ち去りたかったが、そんなわけにはいかない。その人に「何だこいつは」と思われたくなかった。俺はそういう小心なところがあるのだ。


「大丈夫ですか?」

 ぐすっ、とその人は鼻をすすった。顔に縦の皺が無数にあるが、子どものように顔が小さく、前歯が一本しかなかった。暗がりで口の中が空洞のように見えた。


「おなかが痛い」ちょっと高音のしわがれ声でそう言った。まるで金属をひっかいたような不快な声だった。

「え?」

「おなか痛い」

「え?」

 俺は戸惑った。そこの改札はエレベーターがないし、トイレは反対側の出口付近にあった。


「公園のトイレ行きますか?」

 俺たちが会った場所から百メートルくらい歩いた先に児童公園があった。じいさんは頷いて立ち上がった。その公園は何となく嫌な場所だった。遊具はどれもペンキがはがれていて、ロッキング遊具は昭和三十年代かと思うくらいに古めかしかった。普段から、子どもに見向きもされないような薄汚れた場所で、たまに通ると犬の糞が落ちて臭かった。


 ベンチでは昼間高齢の男性が寝ていて、側にはチューハイの空き缶やゴミが落ちていた。家賃が安い地域ということもあり、もともとマナーの悪い人が多かったのだろう。


 俺は爺さんを見捨てる訳に行かないので、その人がトイレに行くのに付き添った。隣に並んでみると身長が百五十センチに満たないほど小柄だった。ここまで小柄で華奢な老人がいるだろうか。妖怪なんじゃないかと疑うほどだ。こんな体に生まれたら恐らく長くは生きられないはずだ。そう思わせるような人だった。


「家は遠いんですか?」

 その人は何も答えなかった。多分、知的障害があるんだろう。または、耳が遠いのかもしれない。一緒に歩いていて、おぼつかない足取りから、七十五を過ぎているに違いない。


 道路の所々に配置されている街灯だけではよく見えなかったが、その人はまだ肌寒い時期なのに、妙に幅の広い格子柄の白いシャツを着ているだけだった。寒くないんだろうか?と思ったが、服を選ぶような知能を持ち合わせていないようだった。歩いている間は一言も喋らなかった。


「トイレですよ」


 俺は指さした。爺さんは前からその場所を知っているようで、すたすたと建物に入って行った。俺もその人の後ろから、建物の中に入って行った。中はしんと静まり返っていて、寒く、水洗トイレなのに妙に臭かった。掃除はいつ誰がしているんだろうかという感じだった。その人は黙って個室に入って行ったが、ドアを開けたままだった。俺はさすがに顔をそむけた。すると、なかからうんうんと唸る声がして来た。

 俺はこれ以上手を煩わすのが嫌で黙っていた。


「嫌だよ~。ボタン、取れないよぅ」

 その人は甘えるように言った。きっと頭が子どものまま成長が止まっているんだ。

「ベルト、外れない手伝ってぇ!!!」

 まるで母親に訴えるような言い方だった。俺は気味が悪いので黙っていると、その人は泣き出した。

「洩れる。えーん。えーん」

 俺は個室の中をのぞくと、両目から涙がいっぱいに溢れていた。知的障害の人なんだ。本当にかわいそうなことをしたいと思った。

 

 俺は仕方なくおじいさんのベルトを外してやることにした。床は汚いだろうけど、緊急事態だから、仕事の鞄を床に置き、個室の中に入って行った。すると、おじいさんが中で仁王立ちになっていて、腰を突き出したまま俺がベルトに触れるのを待っていた。俺はおじいさんの傍らに屈んだ。


 そのベルトは合皮の安物だったが穴がなく、オートロック式のバックルが付いていた。信じられないほどウエストが細いのだが、バックルが革に食い込んでいて、力を入れてもどうしても外れなかった。もともとそれは外れるようにできていなくて、固定されているのかと思うくらいだった。もしそうなら、おじいさんはズボンを下ろせないことになってしまうが。

「うぅぅぅ」

 おじいさんはうめき声をあげた。


 やばい…。洩らしてしまうかもしれない。俺は焦った。何度もそのバックルを外そうとして爪が取れそうだった。


「大ですか?」

「く、く…おなか痛い!痛い!洩れる!」


 俺はもうどうしていいかわからなかった。


「洩れる!」


 まるで爆弾を手渡された時のように、俺は慌てた。おじさいさんは自分は何もしないのに、体を左右に揺すっていてますます手元が狂った。

「外れませんよ」

 俺は手を離した。気が付くとおじいさんの股間がこんもりと盛り上がっていた。俺はすぐ両手を話して、個室から出た。今すぐ両手を消毒液に浸したかった。

 そういうことか。ゲイの人が男をトイレに連れ込むためにやっていたんだと気が付いた。

「洩れる!!!」

 俺はばかばかしくなって、トイレを飛び出した。今すぐじいさんを置いて家に逃げ帰りたかった。


 俺はいったん建物から出たものの、気が付くとカバンを床に置き忘れていた。今入ったら、あの人がズボンを下ろしているかもしれない。俺は躊躇しながら再びトイレに戻った。

 しかし、中はしんと静まり返っていて、さっきまで格闘していた個室は空だった。まるでホラー映画のような薄暗い蛍光灯の明かりに、俺の鞄が照らし出されていた。そう。おじいさんは跡形もなくいなくなっていたのだ。


 俺はほっとしてカバンを手に取った。そのトイレは出口が二つあるから、片側から出たんだ。俺は判断した。俺に気付かれて、おじいさんは慌てて逃げたんだろう。駅で男に声を掛けられるのを待っていたなんて、随分気の長い話だったろう。


 俺はカバンの中を確認したが、ちゃんと財布とスマホが入っていた。すりじゃなかったんだ…。取り敢えずほっとした。


 ***


 俺の家は安っぽい木造アパートだ。外階段で部屋への出入りが道路からは丸見え。六畳の和室で、風呂がついて、家賃は月一万八千円だった。一階に六十くらいのおばさんも住んでいるけど、住人は一人暮らしの男ばかりだ。鍵は普通のシリンダー錠で、空き巣なら簡単に開けられる。しかし、その心配はない。築五十年のボロアパートを狙う空き巣なんかいない。


 俺はギリギリネカフェ難民にならずに済んでいるような低所得者だった。なぜそんなに困窮しているかというと、仕事が歩合制で給料があまりに安いからだ。本当ならまっとうな会社で働けばいいのかもしれないが、一発逆転したくて怪しい学習教材を売る仕事をしていた。そんな風に現実から逃げているのは、昔、起業して失敗し、多額の借金があったからだ。自己破産しようかと思ったが、父親に保証人になってもらったので、どうしてもそれができなかった。


 いつも財布には千円くらいしか金が入っていない。あとは免許証、保険証、クレジットカード一枚だけだ。年会費無料のクレジットカードは格安スマホの代金を払うために持っているだけだった。バイトに励んでいた高校時代より金がなかった。


 俺はカバンの中に手を差し入れた。鍵はいつもそのポケットの中に入れてあった。ごそごそやってみたけど、鍵が入っていない。あれ?俺は青ざめた。

「ない!」

 まじかよ!嘘だろ?


 あのじいさんに取られたんだろうか。

 慌てて目の前の道路を見渡したが、じいさんらしき人はいなかった。

 もしかして、先回りして部屋の中で待っているんだろうか。


 試しに、恐る恐るドアノブを回して見た。

 

 鍵がかかっていなかった。

 腰から崩れ落ちそうになった。

 まさか…朝、鍵をかけ忘れたんだろうか。 


 相変わらず、アパートに面した暗い道は誰も通らず、静かだった。近くの部屋から明かりが漏れていて、テレビの音声がかすかに周囲に広がっていた。

 誰かにすがりたいが、普段、挨拶もしないような人を訪ねて行くわけにはいかなかった。


 俺はドアを開けて、玄関の電気を点けた。そこだけがオレンジの光で照らされていた。くたびれたスニーカーがいくつも脱ぎ捨ててあった。


 どうしよう…。


 俺は部屋に入って電気を点けた。

 しかし、カチカチいうのだが、明かりは灯らなかった。


 そうだ…。

 夜は電気をつけないで暮らしていたから、電球を変えていなかったんだ。

 スマホは会社で充電して来て、家に帰ってからは寝るだけにしていた。


 俺はしばらく玄関に立ち尽くしていた。台所の奥に和室がある。物音はしなかった。しかし、ふすまの向こうを覗く勇気はなかった。十五分くらい俺はそうやって靴を履いたまま立っていた。


 そう言えば夕飯を食べていない…。腹が減って来た。諦めて俺は部屋に入ると、カセットコンロで水道水を沸かした。夕飯はいつも即席めん。本当に惨めだった。起業してうまく行っている時は、主婦のバイトを3人も雇ったくらいだったのに。


 俺は怖くてたまらないので、ラーメンを食べても味がしなかった。汁にパンを浸して、さらに空腹を満たした。明日食べる物もないのに、無意識に食い過ぎてしまった。


 じいさんは和室にいる。そんな気がした。俺はその夜は台所で寝ることにした。玄関の鍵は閉められなかった。


 和室にあの爺さんが隠れている。俺が足を踏み入れた瞬間、わっと飛び掛かってくるに違いない。もしそうなったら、突き飛ばして、警察に連絡すればいいだけなのに、俺はその人に捕まったらもう終わりだという気がしていた。


 何時間も経った気がしたが、スマホを見るとまだ九時だった。朝までまだまだ時間があった。台所で歯を磨いて床に寝転んだ。寒いのだが小さく丸まって寝ることに決めた。できるだけ自分の肌で自分を温めることにした。


 寒いなぁ…。ぜったい風邪引くな。明日の約束は這ってでも行かなくてはいけない。今月はまだ一件も契約が取れていない。嘘ばかりを並べ立てて無理矢理契約を取る。そうしないと俺の給料はない。おばさんだったらデート商法とでもいくか。


 俺はそう思いながら、明日の段取りを頭の中で繰り返していた。相手は小学生の子どもがいる主婦の人だ。電話で話した限りでは、四十代くらいで、子どもが勉強しなくて困っているらしい。集中力がなく、小学校の勉強にもついていけないと言っていた。何と言って手懐けたらいいだろうか。息子と母親両方に気に入られるのはやはり難しかった。子どもがいるのに、お母さんを口説けるか?


 前みたいにLineを聞き出して、個人的に連絡を取ればいいんだ。ああいう世代の人は、旦那から顧みられなくなって、誰かに話を聞いてもらいたいはずだ。個人的に親しくなって、契約まで漕ぎつければ…それで、何回か契約を取ったことがあるじゃないか。どれもすぐ解約されたけど、それでも俺にインセンティブが入った。


 そんな風に別のことを考えていると、爺さんと会ったことは夢だった気がして来た。あれは俺の幻覚で現実じゃないんだ。隣の部屋には誰もいやしない。こんなに長時間、トイレにもいかずにいられるわけない。


 俺は眠さが勝ってしまい、怖いという気持ちが薄れてしまった。トイレに行った後、いつものように部屋に入った。何気なく押入れを開けて、布団を出して畳の上に敷いた。家具のない殺風景な部屋に、じいさんは隠れてなどいなかった。早くこうすればよかったんだ。俺は馬鹿々々しくて笑い出した。


 あんな小柄な爺さんが本当にいるわけがない。俺は栄養失調気味で、いよいよ幻覚を見ているんだ。そうだ。これからは仕事を掛け持ちしよう。賄い付きの飲食店がいい。


 俺は物凄く眠いのに、なかなか寝付けなくて、ずっと脳は起きた状態だった。すると、しばらくして玄関のドアノブがカチャっと鳴った。続いてギーっという音がした。そうだ。玄関に鍵をかけていなかったんだ…。俺は冷水を浴びせられたようになった。


 台所の木の床をひたひたと何かが歩いて来る。時々、何かが床に張り付くようでピシ、ピシッと音がする。素足らしい。


 あ、来る…。

 どうしよう…。

 すぐそこに、いる。


 俺は体が硬くなってまったく動けなかった。

 重くてどうしても、体を起こせない。


 やめろ。

 来ないでくれ!


 俺はぎゅっと目を瞑った。



 その瞬間、それは音もなく畳をすべるように俺の近くまで移動して来た。

 すぐそこにいるのが分かった。


 今、俺を見下ろしている。

 

 毛布を通じて何かが俺に触れているのが感じられる。


 小さな子どものような手だった。

 もう駄目だ。

 殺される。

 

 俺は諦めた。


 小さな手が俺の髪を触って、頭を撫でて、顔、首を指でなぞった。

 それから、その何かが毛布の中に滑り込んで来た。


 俺の腹の下をいやらしく触りながら、そいつは臭い息を吐いた。

 さっき、トイレで聞いた、しわがれていて、甲高い声だった。

「ほおら、もう痛くない」

 俺は恐ろしくて声が出なかった。

「ポンポン冷やすと、ちんちんもげるで温めないとな」

 

 俺ははっとした。


 あ、この声…。 

 その瞬間、俺は幼い頃に引き戻されていた。

 こんな夢を見たことがある。どこかの爺さんが布団に入って来て、俺をぎゅっと抱いて直に体を触って来た。

「お母さんに言ったらあかんよ」

 隣に母親がいるのに、俺はその人に体を触られていた。


「お母さん!」


 俺はありったけの力を込めて叫んだ。

 しかし、唸り声しか出なかった。


「お母さん!助けて!」


 ようやく大きな声が出た。

 その瞬間体が動くようになった。

 

 俺は全身汗だくになっていた。

 

 部屋にはカーテンがなく、断熱のためにエアパッキンを張り付けていた。その向こうから、少しだけ夜が明けかかっていた。外から新聞配達の人のバイク音が聞こえた。やっと朝だ。


 そう言えば、あの小さいおじいさんには昔会ったことがある気がする。

 俺のじいちゃんだ。

 時々家に来ていた。愛想もなくて、優しくもないのに、妙に俺に触りたがった。


 そう言えば、俺の手元には一枚の写真もじいちゃんの写真が残っていない。

 じいちゃんが死んだとき、母は葬式もやらず、位牌もなかった。

 遺骨もない。

 一体、どうしたんだろうか?

 

 じいちゃんにされたことが夢だったのか、現実なのかはわからない。

 夜中だし、昔から曖昧だった。

 ただ、その手の感触は今も覚えている。


「お母さん、会いたいよ」

 俺はつぶやいた。

 俺が自営業でうまくいっている時、母はまだ生きていた。

 これからは豊かに暮らさせてやる。

 そう言っていた矢先、火事で亡くなってしまった。


 俺はその朝決意した。

 その生活をやめることに決めた。

 これ以上、先が見えない暮らしに耐えられない。

 

 もう、返済を諦めて自己破産しよう。

 俺が苦労したのは両親が離婚したせいだ。


 俺は人の何倍も苦労したんだから、父は俺の借金を被ってくれてもいいはずだ。

 父は再婚して二人の子どもがいる。

 一人は大学にまで行ったらしい。

 

 父は自慢していた。

 「お前は高校しか出とらんのか。今の時代、男は大学くらいいかなあかん」

 そう言われた時、父を殺してやりたくなった。

 

 俺は明るくなった部屋を見渡した。

 床には、昨夜なくしたはずの部屋の鍵が置かれていた。

 キーホルダー代わりにしていた、お守りの鈴が付いていた。


 もしかしたら、昨日の朝、鍵をかけないで出かけてしまったのかもしれない。

 それか、じいちゃんが置いて行ったのだろうか。


 もう、どちらでもよかった。

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しゃがむ人 連喜 @toushikibu

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