空の絵筆:後編


時生とは、それから随分と親しくなった。本の貸し借りをしたり、博物館に行ったり、水族館に行ったり、ミュージカルを観に行ったら世界史にハマったり、そして空を彩る家族の話をしたり─それは中学生になっても、高校生になっても変わらなかった。

時生は数駅先の進学校に進んだ。進学校といっても「この地域の中では」という話だ。あいつはそれこそ東北で一番偏差値が高い高校にだって行けると教師に太鼓判を押されていたし、本人もそれを望んでいた。でも、あいつの親はそうではなかった。

あいつの実家は歴史ある工場で、親も、兄貴達も、一番頭が良くて器用なあいつが継ぐことを期待していた。


「お前、会社継ぐのわ? 」


何となく、こいつは学者とか教授になるんだと思っていた。ふたりでいるときはいつも虫や星や動物の話をしていた。こっそり幾つかの大学のサイトを眺めていたのも知っている。


「ん、継ぐ。まあ親父が現役のうちは従業員だけど。チヒロは大学行かねの? 」

「行かね。まあ宝くじ当たったら……いや、何でもねわ」


無人駅のベンチで白い息を吐きながら話したのは、高校3年生の冬だった。おれは何気なく視界の端にちらつく雪虫に手を伸ばそうとした。すると時生が早口でそれを制止する。


「ダメや、雪虫は人の体温でも弱っから」


赤く霜焼けになった指が離れ、雪虫は本物の早雪のように風に流されて、やがて見えなくなった。


「チヒロもさ、むかし大学行きてえって言ってねかった? 博物館とか美術館で働きてえからって」

「……んな金ねえわ」

「奨学金とか」

「別に……借金してまで勉強してえわけじゃねえよ。大体、おれもそろそろ稼がねとや、じいちゃんたちに無理させらんねし」


おれの家は貧乏というわけでもないけれど、金持ちではなかった。大学は金のあるやつ、もしくは将来金を手にするやつが行くところだ。少なくともおれはそう思ってる。

図鑑にかじりついていた子どもの頃は違った。星でも土偶でも恐竜の骨でも美術品でも、好きなことだけ一生追いかけて生きていけるような気がしてた。でもそうではない。

おれは多少好奇心が強いだけの凡人だ。どんな仕事をしたって、都会に進学するためにかかる費用を稼いで取り戻すことなんて出来ないだろう。そういう計算が出来るくらいには大人になった。


「そっか」


時生は、電車が来るまでなにも言わなかった。



おれは20歳を過ぎても、博物館で子どもに混ざって恐竜の骨を眺めたり、その辺にいるカエルを捕まえて同僚に見せびらかしたりしていた。

おれは見た目も中身も、大人になり損なった。特に声なんて随分と高い音域で声変わりが終わってしまって、それを何度もからかわれた。下品な野次を飛ばされる度、皆クスクスと笑う。それはたまらない屈辱で、笑う奴らをみんな殺してやろうかとさえ考えたくらいだ。下ネタで笑うなんて高校生までだと思ってたけど、大人になってからの方が、そういう笑いにもならない嫌なからかいは増えた。


おれは、ファミレスで安いランチを食べながら、虫や星の話をするほうが好きだ。


あるとき職場で、空のカミサマの話をしてみた。雑談の流れで、勢い余ってしてしまったと言う方が正しい。

結果は自明、笑われておしまい。場は逆に面白いくらい白けて、「やっぱ不思議ちゃんだなや」と言われた。やっぱりってなんだ。


「はあ……」


帰り道、職場近くの公園でたばこを吸うことが日課になった。見上げた空には星が転々と散っている。

働いてから、時生とは疎遠になった。たまに町で会って立ち話することはあるが、それだけだ。

時生は有能な後継者だった。SNSを使って積極的にマーケティングを行い、先日は東北の地方局とはいえテレビの取材を受けていた。

すっかり大きくなった上背を伸ばし、低くなった声で、理路整然とインタビューに答える姿。それは地に足をつけた大人そのものだった。レクで手加減せずに相手を泣かし、空のカミサマについて雄弁に語っていた、生意気で夢見がちな子どもはもう見当たらない。

おれは時生に聞きたいことがある。いつか聞こうと誓っている。でもきっと、おれが望む答えは得られないと思った。



「お、チヒロ。久しぶり」


ある冬の日だった。地元の八百屋の前。突然背中を叩かれたおれは猫みたいに飛び上がった。


「なっ、な……驚かせんなよ」

「驚かせてねえよ」


時生は白菜が入ったレジ袋を引っ提げて、白い息を吐いた。また背が伸びたようで、視線を合わせると首が痛かった。


「なあ、少し歩くべし。最近あんま会ってねかったし」


人の気も知らず、時生は子どもの頃のようにレジ袋を振り回して歩きだした。断る理由もなかったので、おれは大股でそのあとに続いた。いい加減聞くべきことを聞くべきだとも思ったのだ。


「おい、早い! 歩幅考えらい! 」

「ん? ああ悪い」


時生は僅かに歩調を緩めた。


「…………テレビ、見たよわ」

「テレビ? あー、うちテレビねえからオンエア見れてねえんだよな、アレ」

「まだ買ってねえのかよ」

「地デジになったとき買いそびれてそのまま。知ってっぺ? 」


不思議と会話は弾んだ。毎日駄弁っていた頃のように、言葉が飛び交って止まらなくなる。疎遠になった時間を切り取って、学生の頃と今を繋げたような感じだ。

でも、おれの口は本当に言いたいことを言い出せない。当たり障りのない雑談が続いていく。嫌だなと思った。こんなのは会社の休憩室と変わらない。子どもの頃こいつと話していたときはもっと楽しくて、もっと時間が早く流れて、もっと─


「時生」


寒さでかさついた唇が、ようやく名前を紡ぐ。もう何年もその名を口にしていなかったような気がした。

時生は振り返って、言葉の続きを待っている。おれが今振り絞った勇気になんて少しも気づいていない。


「……きょ、今日の空、誰が塗った? 」


痛いほどに心臓が鳴った。ずっと聞きたかった、馬鹿みたいな問いかけ。灰色の重たい雪空の隙間から微かに日が差した。

こいつがあの夢物語を忘れて、「何それ?」と返してきたら、おれたちはもう、空を眺めて語り合ったときには戻れないだろうと思った。


「んー……」


時生の首が傾く。九九を思い出すときの子どものような仕草のあと、淀みなく答えた。


「家族全員? 多分雲の白いとこだけチビが塗って、灰色の濃淡あるとこは兄ちゃん、日が差してきたとこは光の筋が難易度高えから、父ちゃんと母ちゃんだな」

「……は」


おれは小さく吹き出した。


「好きだな、その話。ガキかよ」

「面白いからいいべや。お前だって好きなくせによ」


彼はニヤリと笑った。満点のテストを受け取って、教師にたっぷり褒められたあとに教室の皆を振り返ったときの顔だ。


「……あ、あそこ雪降ってる。そういや雪ってどうやって降らしてんのや」

「筆の先っぽに絵の具つけてプーってやってる」


筆先に息を吹きかけるジェスチャーを見た瞬間、思わず笑い声が漏れる。


「ギャハハ、汚ね〜」

「ばあちゃんとかに言われねかったか?雪は汚ねから口さ入れんなって」

「あれそういう意味なのわ?」

「んだんだ(うんうん)」


雪がちらつく。雲が流れ、やがて眩い日が差し込む。幼い頃から何度も見た景色だ。しかし一日として同じものはない。

当然だ。毎日毎日、4人のカミサマたちがこの空を彩っているのだから。





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空の絵筆 伊勢谷照 @yume_whale

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