空の絵筆

伊勢谷照

空の絵筆:前編


「なあ」


おれが通っていた小学校には、運動タイムというものがあった。2時間目が終わったあとの休憩20分間は、必ず外に出て遊ばなければならない。学校中を先生が見回って、中に籠ったままの生徒は連れ出される。

大人になった今となっては、成長期に適度な運動をすることや、スポーツを通してクラスメイトと交流することの重要性は多少理解できる。しかし子どもの頃は、屋根のない牢獄に放り込まれた気分だった。

球技や短距離走の成績は下から数えた方が早かったおれにとって、ドッチボールも鬼ごっこも楽しいものでは無かったからだ。それに身体が小さかったから、前を見ずに突っ走る上級生や、手加減なしにボールを投げてくる野球クラブの連中は嫌いだった。いや、嫌いというのはかっこつけた言い方だ。怖かった。


智尋ちひろ、となり良い? 」


2年生のある日のことだ。校庭の隅に植わったくぬぎの影に隠れて増え鬼の時間をやり過ごしているとき、不意に声をかけてきた奴がいた。

30人の同級生のひとり、名前は時生ときお。町の製糸工場の3男坊だった。

おれが生まれた町は山奥にある小さな町だけれど、子育て支援だの何だのが成功して、それなりに子どもがいる。しかも同じ名字の家が多いものだから、担任も子ども同士も下の名前で呼び合っていた。


「なにや急に」


時生は無口な奴だ。話しかけられなければ黙っているし、休み時間も大抵図書室で過ごしている。おれも本が好きだから本棚の隙間ですれ違うことはたまにあるけれど、特別に仲が良いわけではなかった。


「増え鬼やんなって。ぼくが入っとつまらねんだってよ」


言葉の内容とは裏腹に、時生はどこか誇らしげだった。こいつはとにかく運動神経が良くて、増え鬼では鬼になればひとりで10人は捕まえてしまえるし、逃げる側になれば日が沈んでも捕まることがない。


「昨日のサッカーんときもずるいって言われたんだ。何もずるいことなんてしてねのにや」

「健太たちのこと泣かしたんだべ」


前日のサッカーでこいつに12回のゴールを許した相手チームのメンバーが、何人も泣き出してしまったのはもう噂になっていた。


「あいつが本気でやれって言うからやった」


時生は結局おれの返事を待たずに、隣に腰を下ろした。


「うちのあにきも、泣くやつがバカだって。んだからぼくは悪くねんだ」

「どっちのあにきだよ」

「2ばん目」

「……どっちがどっちや、あいつら」

「おまえの上のあにきと同級生」

「あぁ~~……ヤンキーの方」

「んだ(うん)、ヤンキーの方」


時生の足にカミキリムシが止まる。細く長い触角をピクピクと動かしたそれは、細い足を枝か何かと認識したのか、のそのそと歩き出す。


「ゴマダラカミキリだ」


黒い身体に、胡麻斑ごまだらの名の由来となった白い点を散らした虫は、伸ばされた時生の指を触角でぺしぺしと叩く。


「胡麻でねくて、もっと綺麗なもんに例えてやりゃいいのに」


時生は右膝まで侵攻してきたカミキリムシから目を離して、左膝に頬杖をついた。眠たげな瞳に空の青が映る。


「例えば? 」

「星とか」

「ホシマダラカミキリってこと? もういそうだな、アフリカとかに」

「ルリボシカミキリってのは居んだけどな。青いから瑠璃星。んでも死んだら色が変わっから、そのまま標本には出来ねんだ」

「へえ」


時生は博学だった。運動神経が良くて身体も大きくて、勉強すら躓いたのを見たことがない。特に虫にはやたら詳しかった。でも本で得た知識ならおれも負けていない。


「本物の星とおんなじだな」

「星と? 」

「光る星は赤くて大きな星になって、火が消えると白くなんだって。星が暗くなるって、死ぬってことだべ? そのルリなんとかと同じだっちゃや」


核融合反応を終えた恒星はその熱を失って白色矮星となる。子ども向けの図鑑でそれを見たとき、おれはこれこそが星の命の終わりなのだと思った。


「ふうん」


気のない返事とは裏腹に、その目には光が宿る。珍しいと思った。なんでも出来るこいつは、算数の授業中も、体育の時間もいつも他人を少し見下している。静かな優等生の仮面を貼り付けて、ぎゃいぎゃいと騒ぐ奴らを馬鹿にしている。


「なあチヒロ、いいこと教えてやっから」


時生はニヤリと笑って、ずりずりと距離を詰めてきた。カミキリムシはいつの間にかその胸まで登っている。


「なにや? 」

「あのな、空見てみらい」


言われるがままに顔をあげる。鮮やかな夏の青空がおれたちを見下ろしていた。


「空の色って毎日違うべ? あれってな、色塗るカミサマみてえのが居て、その人らが筆で塗ってっからなんだど」

「………………はあ? 」


おれは思いっきり顔をしかめて、時生をまじまじと見つめた。何言ってんだオマエと目で伝えたつもりだったものの、その口は止まらない。


「カミサマは4人家族で、父ちゃんと母ちゃんと兄ちゃんと、あとおれらよりもチビの弟がいる。朝も昼も夜も、毎日みんなで空を塗ってんだ」

「……んでも夕焼けとかめんどくね? 雲の影とか、色とか。いきなり(とても)時間かかっど」


おれはこの荒唐無稽な話に乗った。増え鬼の鬼はまだここを見つけていない。ただ息を潜めているだけでいるより、完璧な優等生の突飛な話に付き合ったほうが面白いからだ。


「そういうのは、父ちゃんと母ちゃんが塗んのや。最近兄ちゃんも手伝い始めた。んでもチビはまだ雲のねえ青空しか塗れねんだ」

「へえ……したっけ、今日はチビも手伝ってんのか」


見上げた空には雲ひとつない。おれの頭の中に、絵の具まみれになって一生懸命青い絵の具で空を塗りたくる子どもの姿が浮かんだ。その周りには同じく絵の具まみれで絵筆を持った家族が居て、得意気な笑顔を見せる小さな頭を撫でてやっている。


「あの山の辺りの白い所は父ちゃん? 」

「いや、あれは兄ちゃん。あ、あそこのひこうき雲は多分父ちゃんと母ちゃんじゃねえと塗れねかな」

「夕方の入道雲はムズそうだから兄ちゃんも無理? てか兄ちゃんいくつや? 年」

「んー……」


時生は、おれが最近ようやく暗記した九九を思い出すときみたいな仕草をして、「人間だと17か8くらい」と答えた。


「へー、下のあにきとおんなじだ。あ、夜空ならチビも手伝えんでね? 真っ暗だし」

「チビは、夜は寝てる。兄ちゃんも」

「……たしかに」


時生が突然こんな話をした意味は分からなかったけれど、おれたちは予鈴が鳴るまで「空を描く神様の家族」の話で盛り上がった。やれあそこは誰が塗っただの、雪や雨もカミサマが降らしているのかどうかだの─大人どころかクラスのやつらにだって馬鹿にされそうな夢物語だ。


「あ」


いつの間にか時生の肩まで登ったカミキリムシが、不意に羽を広げて飛び立つ。真っ黒な背中に散る白は、こいつの言うとおり胡麻よりも星に似ている気がした。






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