最終話-4.「旦那様。ここに至れたのは、全て、旦那様のおかげです」
――実は私も、同じ指輪をチヒロさんに渡そうと思っていて。
玄関口でたどたどしく紡いだ言葉が、どれほど、正確な音として形を成したかはわからない。
それでも、ハタノが遅れて出したケースにチヒロも察したらしく、互いに照れくささを隠すように顔を掻いた。
「……チヒロさん。どうやら、私達は同じ事を考えていたみたいですね」
「はい。それもまた、嬉しくあります」
チヒロがはにかみ、ハタノは今にも抱きしめたい衝動を堪えながら、妻をリビングへと招く。
いつも以上に心臓を高慣らせ、テーブル席で向き合いながら。
ハタノは自らの指輪ケースを、彼女にそっと差し出した。
「すみません。本来は私から差し出すべきでしたが、遅くなりまして」
「いえ。私も、旦那様にものを渡すという行為に、迷いがありまして」
「じつは、私もです。……でも、チヒロさんも同じ考えだと知れて、良かった」
本当に、似たもの夫婦だと思う。
指輪くらいさっさと贈ればいいと言われていたが、本当にその通りだ。
余計な心配を重ねた自分が、ちょっとだけバカみたいじゃないか……と、ハタノは苦笑を堪えつつ。
「ああでも、しまった。チヒロさん、ひとつ大きな問題が」
「何でしょう」
「指輪。私も、チヒロさんも、それぞれ二人ぶん購入したと思います。すると、指輪が四つになってしまいまして」
あ、と、瞬きをするチヒロさん。
プライベートではお互い抜けたままなのも、昔から変わらない。
けどまあ、その間抜けさも自分達らしくて良いと思うし……
チヒロさんの驚いた素顔を見れるだけで、旦那冥利に尽きるというものでもある。
と、チヒロさんが軽く、ぽんと手を叩いて、
「……では、片方は婚約指輪に。もう片方を、結婚指輪にしては、どうでしょうか?」
「え。違うんですか?」
「異世界の知識ですが、結婚指輪は『夫婦の証』として日常的につけるもの。対して、婚約指輪は『婚約の証』として、…………まあ、結婚を迎えるための決意を示すもの、だそうです」
「チヒロさん。いま間にあった空白は、何でしょう」
「いえ、その……お気に障ったら、申し訳ないのですけれど……」
もじ、と。
チヒロが、身を縮めるように恥ずかしがりながら。
「本来、婚約指輪は男性から女性にだけ贈るもの、と聞いたので」
「ぐっ。……私が先に渡せば、良かったですね……!」
すみません。すみません。
なんか本当に申し訳ない……本当、不器用な夫で……。
「い、いえ。旦那様が気にされることではなく。私はそもそも指輪などなくとも、旦那様を愛していますし」
「それは私もですか、なんというか……格好がつかないな、と。それに、順番がおかしい気もしまして」
「まあ……私達は身体から結ばれて、結婚して。そこからお互いを知り、好きになって……」
「最後に結婚指輪。しかも、妻から指輪を贈られる、と」
全てが見事に逆がだった。
普通は旦那が婚約指輪を贈り、結婚に至り、そこから身体を結ぶのが通常の手順だろうに。
本当、普通の人とは逆の道ばかり走っているなあと呆れつつ。――でも。
「……まあでも、チヒロさん。その方が、私達らしい気も致します。元より普通ではありませんし」
「……ええ。仰る通り、旦那様と私は、普通とはとても縁遠いようです。……そもそも私は、誰かを愛しく想うことなど、生涯ないと考えていましたし」
「私もです。仕事はそれなりに行えたかもしれませんが、誰かと家族になる感覚は、全くもってなかったもので」
「ええ」
「……」
「……ふふっ」
チヒロが吹き出し、ハタノもつられて笑ってしまった。
全てが逆。
おかしな夫婦。
でも、それで良いじゃないかと、ハタノは心の底から、素直に思う。
初めて顔を合わせた妻は草食で、仕事だからと初夜にすぐさま肌を重ね。
次の日、仕事だからと血塗れになって帰宅するような人だった。
対するハタノだって、人を切り裂く頭のおかしな医療を行い、周囲から爪弾き者にされていた異端者だ。
……でも。
だからこそ自分達はお互いを愛しく想い、歪な価値観をすり合わせることが出来たのだと思う。
それを喜ぶことはあっても、今さら、悲観することはない。
他人にどう見られようと、いま、自分達はとても幸せなのだから。
「……チヒロさん」
ハタノが席を立ち、チヒロの隣に腰掛ける。
ん? と小首を傾げる彼女の手を取り、その薬指をなぞりながら……
ハタノは高鳴る心臓を抑えつつ、柔らかな動作で、指の先を撫でていく。
「普通とは、逆の順になりましたが。……折角なので、すべて逆に行いましょう。まずは私から、妻チヒロに結婚指輪を」
「……はい」
チヒロが顔を赤らめながらはにかみ、夫婦の間に沈黙が落ちた。
妻の手を持ち上げ、銀の指輪をその薬指に通しながら――
確か、婚姻における決まり文句があったなと思い出す。
「結婚式の宣誓……何でしたっけ、チヒロさん」
「サクラさんの世界では、健やかなるときも、病める時も、喜びのときも悲しみのときも……と続き、命ある限り、ともに助け合うことを誓うそうです」
「ああ。帝国式であれば、皇帝陛下の神意のもと、永遠の愛を誓う、でしたか。……誓いますか?」
ハタノの誘いに、チヒロは僅かに考え。
「いえ」と、首をゆるりと振る。
「健やかなるときも、病める時も、私は旦那様の妻であり”勇者”です。必要とあらば、病む暇も悲しむ暇もなく、戦いに赴く。命など、生まれた時から賭けています」
「ええ。私の妻には、その方がお似合いですし、私の心情もそれに近い」
「はい。……異世界の神、あるいは皇帝陛下の神意とは異なるかもしれませんが、それが、私達夫婦のあり方ですので」
チヒロはこれからも、勇者として困難にぶつかっていくのだろう。
帝国を囲む社会情勢は、翼をもつ”勇者”を見逃すほど甘くはない。
治癒師として特別な技能を持つハタノだって、今後、大きな事件に巻き込まれていく可能性も十二分に考えられる。
永遠の愛など、いくら口約束を交わしたところで、明日にはどうなるか分かったものではない。
その認識を、お互いに共有し。
互いに明日も分からぬ身と知りながら、夫婦として叶う限り、相手を守り慈しむ。
誓うまでもなく、その身に刻まれた価値観そのもの――。
「……けど、旦那様。宣誓は必要ありませんが、代わりに、欲しいものがございます」
「何でしょう。チヒロさんの望むことなら、なんでも……」
と、ハタノが指輪を収め終えて、返すと。
妻チヒロはふわりと柔らかく、親愛に満ち足りた瞳で旦那を見つめ、お返しのようにハタノの薬指へと触れながら、耳元でくすぐるように。
「私に、愛しています、と」
「え」
「ただ、素直な言葉が欲しいのです。宜しければ、婚約指輪のついでに」
「それは……今さら、言うまでもなく、チヒロさんを愛し――」
「もっと」
「…………」
「さらりと流すのでなく、深く、愛しく……優しく、甘く、なによりも尊く、ささやいて欲しいのです」
私はあなたの妻ですから。
と、チヒロが銀に輝く指輪をハタノの薬指に滑らせながら、誘う。
寸分違わず収まったリングを見おろせば、不思議と……
ハタノとチヒロの間に、特別な何かが繋がったような気がして、妙にくすぐったい気分になった。
……ああもう、本当に。
本当にこの愛おしい妻は、どれだけ自分に愛をくれるのだろう。
もう十二分に満たされたと思っていたのに、彼女はいつだって軽々と飛び越え、乾いたハタノの心を際限なく満たしてくれる。
そんな妻に、ハタノは柔らかな眼差しを返して……
「チヒロさん。結婚指輪を薬指にするのは、かつて心臓に繋がる血管が薬指にあると信じられてきたから、だそうです。そして心臓は当時、感情を司る臓器とも呼ばれていて」
「駄目ですよ、旦那様。愛しい妻のお願いから、逃げては」
「……もちろん、医学的な根拠はなにもないのですけど、それでも迷信として……」
「めっ」
妻にぺちりと手の甲を叩かれ、観念するしかないなと思った。
……ちなみに、今の話には続きがある。
婚約指輪を左の薬指につけることで、相手の心臓を捕まえる――相手の心をつかまえるという意図がある。
そして既に、ハタノは指輪など無くともチヒロに心を掴まれている。
あとは、臆病な自分の勇気を、振り絞るだけだ。
ハタノはすっと、小さく息を吸って。
妻の頬に、触れながら。
「好きです、チヒロさん」
「…………」
むすっ、と感情豊かに眉を寄せ、頬を膨らませて抗議するチヒロ。
「……大好きです、チヒロさん」
「…………」
その怒った顔がちょっと可愛くて、ハタノが悪戯半分に続ければ、彼女はお返しとばかりにじゃれつくように、ハタノの頬をふにっとつまんでくいーっと引っ張る。
子供みたいだ。
けど、子供みたいに抗議してくれるチヒロが嬉しくて、ハタノはついに観念した。
「愛しています、チヒロ」
「っ……」
「世界中の誰よりも、あなたを。あなただけを、私は、心の底から愛している」
そのまま。
彼女に顔を見られたくなかったハタノは、自らを覆い隠すように、妻へ口づけを交わした。
日常的に行う、いつもの交わり。
柔らかな唇の感触も、その腕に抱き留めた華奢な身体つきも、いつもと全く変わりない……
はずなのに、ハタノは妙にどくどくと心音の高鳴りを覚え、もう一度口づけを交わす。
舌を絡めた濃厚なやり取りでもない、ただ唇を重ねるだけの優しい交錯。
それでも満たされる、滾るような恋の熱。
ああ。
本当に、自分は妻と結ばれたのだな……と、人生の着地点のひとつに至った達成感を味わいながら、そっと……唇を離す。
……見れば、チヒロも照れくさそうに。
それ以上の幸せを噛みしめたように綻んでいて、自分と同じなのだと気づかされる。
「旦那様。なんだか、ふしぎな気分です。いつもより幸せな気持ちになる、といいますか」
「私もです。身体を交えた時とも違う……妙なくすぐったさがありますね」
「ええ。もしかすると、これが、本当の夫婦というものなのかもしれません」
ただ指輪を交えただけなのに、まだまだ、夫婦には知らないことがある。
ハタノはまた一つ、大きな学びを得たなと思い。
けど、他人にこんな感情は明かせないし、明かしたくもない――この気持ちは、自分の心の中だけに宿る宝物なのだろうと感じて、ハタノはそっと心の奥底にしまい込む。
これは、夫婦の秘密。
愛し合った音と妻だけが感じる、愛と感情の宝物。
「……チヒロさん。まだまだ、夫婦というのは謎が多いものですね」
「ええ。ちょっとした行動でも、体験してみないと分からない事が、あります」
「はい。……ですので、これからも一緒に、学んでいきましょう」
ハタノに抱かれながら、ええ、と頷くチヒロ。
ハタノはチヒロと共に、これからも、夫婦として沢山の経験を重ねていく。
楽しい出来事だけでは、ないだろう。
幸せな出来事だけでも、ないだろう。
世界は悲劇に満ちていて、それらはある日突然、ハタノ達に牙を剥くかもしれない。
それは、ハタノが治癒師でなく、チヒロが勇者でなかったとしても、誰にでも起こりえる出来事だ。
でも。
たとえ現実が辛く、厳しくとも――
ハタノ達に出来るのは、明日の仕事をきちんとこなし、旦那として妻を愛し、毎日きちんと生きていくだけ。
夢をみているわけでもなく。
現実的な道筋として、それが最も、妻を幸せにできる道だというのが、ハタノの答えだ。
「チヒロさん。これからも、末永くよろしくお願いいたします」
「……こちらこそ。私より末永く、よろしくお願いいたします」
「しれっと私より先に亡くなる発言をしないでください。……いつまでも、決して、離しませんから」
涼やかな銀髪を撫でながら、ハタノは願う。
また明日。
明後日。
明明後日。
一週。
一月。
半年。
一年。
数年――そして、生涯。
自分の手が届く限り、どこまでも彼女を愛し尽くす。
そう力強く願いながら、ハタノはチヒロの背を撫で――
「旦那様。じつは今日、もう一つご報告が」
「え? ……もう、結婚指輪のご報告で、とても満足ですけれど」
まだ、何かあるのだろうか。
ハタノが離れ、最愛の妻を改めて見つめなおすと……
チヒロはその瞳に、妻としてだけでは収まらない、確かな”母”としての微笑みを零し……
「――子を、宿しました」
「え」
「昨日シィラさんの診察を受けて、間違いない、と」
すみません。
旦那様の診察を受けるのは、妙な期待をさせてしまうなと、思って。
チヒロが困惑と照れを交えながら、そっと、自らの手を柔らかな腹部にあてていく。
それは……。
それは。
「私と、あなたの子です。予定より早かったのか、遅かったのかは分かりませんが、確かに」
その指先が、彼女の腹を優しく撫でたのを見て。
ハタノは――
「……旦那様?」
「……いえ。すみません。その……なんと、言いますか……」
気づけばうっすらと、なぜか涙が溢れていた。
理由は、自分でもよく分からない。
そもそも、理由など存在しないはずだ。
自分達夫婦はずっと自らの子を望み、交際を続けていまに至るのだから、自然なこと。
にも関わらず、ハタノの中にまるで濁流の如く感情がわき上がり、噎せ返るような爆発をもって、頭から何かが突き抜けていく。
そう。純粋なまでに、――嬉しいな、と。
最初はただ、仕事として望んだ子。
けれど、今は。
愛しのチヒロさんが……私と、妻の子を。
「旦那様?」
「いえ。……すみません。私が泣くのは、お門違いだと思うのですが」
ハタノは震える涙を払い、唇を噛んで自らの感情を抑えようとした。
にも関わらず、どうしても栓を切ったかのように、止まらない。
どうしよう。どうしよう。
分からない。
けど、強固に抑えつけられた活火山が突然爆発したかのように、妙な感動があって……。
それは自分でも理解できず、でも、言葉にできない幸せを伴うもの。
ハタノは酷く混乱し、とくん、とくんと心臓が激しく高鳴り。
どうしよう、と慌てる最中――
気づけば、ハタノはチヒロにぎゅっと抱きつかれていた。
背中に手を回され、涙ぐむ子供を落ち着ける母親のように。
……。
「旦那様。ここに至れたのは、全て、旦那様のおかげです」
……。
「私が今、こうして旦那様との子を授かったのは、すべて。旦那様のお陰です」
「っ……でも。それを言うなら、私こそ、チヒロさんに、」
「ええ。お互い、そう思っているのかもしれません。でも、私から改めて言わせてください。――ありがとうございます、と」
私の前に現れてくれて、ありがとう。
私と結ばれてくれて、ありがとう。
私と、これからも一緒に居てくれて、ありがとう。
ありふれた言葉を耳にしながら、じんじんと、ハタノの心が溶かされていく。
ずっと昔に失った、誰かに対する深い愛情――
芯の底で凍てつき、存在すら認識していなかった何かが、音を立てて崩れるように。
「……こちらこそ」
ハタノは妻を抱きとめながら、自分もまた、陳腐な言葉を返していく。
ありがとう。
自分と共にいてくれて、愛してくれて、ありがとう……。
当たり前の言葉を、当たり前の形で口にする度、ハタノの中に噎せ返るような熱が走る。
そして、誓う。
――必ず、妻を守ろう。
そして、生まれてくる子を守ろう。
旦那として。
夫として。
親として。
治癒師として。
人として。
……いつか、二人の間に死別の時が訪れるとしても。
人が必ず迎える、最期の時まで。
自分の命ある限り、治癒師と親の職責において、これからも全力を尽くそう。
愛しい愛しい、あなたのために。
それが、自分が愛した不器用な”勇者”を幸せにする、唯一の方法だと――
今のハタノは、心の底から信じることが出来るのだから。
不器用”勇者”の幸せな契約婚 完
【完結】不器用”勇者”の幸せな契約婚 ―奥手で誠実すぎる二人は、最高に相性がいいようです― 時田唯 @tokitan_tan
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