静麗の舞

羽間慧

静麗の舞

 鶏が鳴く前に、舞を踊っていた。雑巾を薄絹に見立て、池の精のように優雅な波紋を描く。稽古場の床は、振付け次第で空にも戦場にも変化する。私は白鳥や将軍を演じた後で、使用人達のあくびを聞いた。


 朝餉の完成まで時間はかかるものの、稽古場の戸を誰が開けるか分からない。冷水の入った桶に手を突っ込み、大慌てで雑巾がけをした。鞭で打たれるのはまっぴらごめんだ。


「たるんでおる! 宴まで一月とないのだよ。明玉めいぎょくの身に着けるものは、準備できているのだろうな」

「はい。金葉きんよう様」


 衣擦れの音が戸の前でやんだ。私は部屋の隅で跪き、首を垂れる。使用人に二人がかりで開けさせたのは、継母の金葉だ。次期当主候補の明玉を生んだ、文官の娘。私の母亡き後に、使用人同然の扱いをした張本人である。柳を思わせる体の中には、長女を先に身篭った側室への嫉妬が渦を巻いていた。


『生まれた時間は明玉より先でも、妾の子は卑しき身。皇帝の寵愛を受ける資格はない。せいぜいかく家のために一生を尽くすことだ』


 行儀見習いという体裁で、七つのときから十六に至るまでこき使われていた。手が荒れても軟膏は支給されず、誕生日のご馳走や贈り物は明玉だけに与えられる。家族揃って食事をしたのは、はるか遠い記憶になっていた。


 地方に赴任している父が官吏を辞さない限り、金葉の女主人としての力は増すばかりだ。彼女の機嫌を損ねないように振る舞うしかない。


「人払いを」


 金葉の声に私は頭を下げたまま、退出しようとした。


「そなたは残っておれ。稽古前に話がある」


 雑巾がけの跡が気に食わなかったのだわ。

 鞭の衝撃に耐えるために、私は足に力を込めた。


「これから話すことは他言無用であるぞ。明玉が風邪を引いたのじゃ。此度の宴は、そなたに任せよう」


 私は顔を上げた。金葉の後ろにいるはずの、明玉と彼女の師匠がいない。


「演目は春霞姫しゅんかき。身代わりの顔を隠すのに都合がよいだろう。今から特訓だよ。そなたに稽古をつけてこなかったが、明玉の舞を見させているからの。素晴らしい手本となったはずだ」

「承知いたしました。必ずや金葉様のご期待に沿ってみせましょう」


 私の心は弾んだ。指定された演目は、父を射抜いた母の十八番だ。桃の花を見に山へ訪れた皇帝が、一夜限りの恋をする物語だった。顔を隠した女性は農民だったとか、旧王朝の生き残りではないかとか多くの解釈がある。それゆえ、舞う人によって素朴さや妖艶さの度合いに違いが出やすかった。ぼんやりと思い出せる母の舞を、なぞるだけでは物足りない。自分だけの春霞姫を造りたいと思った。


 朱を引いた金葉の唇が緩んだ。本当の母のように。





 宴の舞台は、演目と同じ郊外だった。久々の車に、酔わないか心配になる。私は乗り込む前に大きく息を吸った。


「お姉様。わたくしが風邪を引いたばかりに、ご迷惑をおかけいたしました」

「明玉、無理をしてはいけないわ。まだ安静にしていなくては駄目よ」


 見送りをしようと渡り廊下へ出る妹に、私は駆け寄った。昨日治ったと聞いたが、顔色に赤みはない。体を冷やすのはよくないと言うのに。思わず一緒に遊んでいたころの言葉遣いになってしまった。


「こんなときに言っていいものではないと分かっているのだけど。私、とても嬉しいの。明玉の衣装があんまりにも素敵すぎるから」


 胸元から腰までの曲線が浮き出たドレスは、春霞姫の若さを強調していた。首元は詰襟で覆われ、大きく広がる裾は魚のひれのようだ。顔を隠す布はきめ細かで、かげろうの羽を彷彿とさせる。触れてしまえば息絶えてしまいかねない、頼りなげな恋の相手。使用人としての役目を押し付けられた私に、幻術がかかったようだった。


「どうかお願いね。お姉様」


 私の手を包む明玉を、抱きしめたかった。結い上げられた髪を自分で直すことができたならと後悔した。霧が晴れないうちに、妹が命を狙われていると理解させられたのだ。


 山道で車は止まり、賊が出ましたと御者から囁かれた。


「明玉様、お逃げください。あやつらの手にかけられる前に早く」


 長年郭家に仕えていた者達が、動かぬ山と化していた。地面を濡らす血潮に、全身の力が抜けていく。そんな中、大きな斧を振るう男と視線が合った。夏でもないのに、生温かい感触を覚える。私は腹から声を溜めて一礼した。


「私は郭明玉。芸事の家門に生まれたからには、相応の舞を披露してみせましょう」


 天衣をまとった妻が、夫と子らに別れを惜しむ舞を見せる。各国に散らばる伝説ならば、賊の足を止めることができるはずだ。


 涙を拭うように手を動かし、私は崖から飛翔する。


「これで大金が手に入るぜぇ! 金葉様には頭が上がらねぇや!」


 賊だと思った男の雄叫びに、慣れ親しんだ声が呼応した。宙に留まる力のない私は、落下する一方だ。

 死ぬことよりも、舞に何の価値もないことが口惜しい。


「我の手を掴め。静麗せいれい


 川の水面に、女人と見紛う青年が降り立った。鋭い爪と金の目は、絵巻物で見た龍神の証だ。


「人の子が離れた山里に、よう参った。眠っていた水の精が、我を起こしてくれたのだ。我の前でそなたの舞を見せてくれ。そなたを害す者が、この地を踏むことは二度とない。どうか安心しておくれ」


 私は龍神の手を掴んだ。波打つ銀の髪からは、桃の香がした。


「あなたの名前は?」

天佑てんゆう

「天佑。あなたのために、私は舞います。妹としてではない、私の舞を」


 見せたい相手がいるのは、こんなにも幸せなことなのね。在りし日の母に負けないように、私は水面に足をつける。どこからともなく笛の音が響き、ゆらめく舞台に華を添えた。

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静麗の舞 羽間慧 @hazamakei

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