【短編】水没都市と平和の方舟

優月 朔風

水没都市と平和の方舟

 廃墟の屋上で青空を見上げながら、彼は白い煙をこぼした。透き通った水色の中に狼煙が溶けていく。遠くで反響し合う蝉の声に耳を傾ける。太陽の熱が空気を伝い、右腕の時計が日光を反射する。眼下から白い鳥が羽ばたき、青空へと吸い込まれていく鳥は手に届きそうで届かない綿雲の先へと飛んでいった。


「俺も空飛べたらなぁ」


 ツル植物の絡みついた鉄柵に体重を預け、空を仰ぐ。時に現実世界のことなど忘れ己を規律するものを手放すこの瞬間が、彼は嫌いじゃなかった。昔誰かの言っていた台詞が頭を過ぎる。人間の思考とは無秩序であり、どこまでも自由なのだそうだ。咥えた嗜好品の先端が仄赤く染まり、紫煙が空へと吸い込まれていく。


「ここに居たんですか、テオ先輩。行きますよ」


 聞き馴染みのある女の声がした。振り返ると、黒いケースを背負った少女がじっとこちらを睨んでいた。乳白色の髪を後ろで一つに束ね首にヘッドホンを掛けた少女が一人。彼女は左手を腰にあて、分かりやすく溜め息を零した。


「アメリア……」


 人形のように整った顔立ちに、適度に引き締まった身体。珈琲色の冷たい瞳は、青空と白い雲を背景に冴えない男の姿を映している。相変わらず今日も可愛いな、と思った言葉はしっかりと喉の奥に飲み込んだ。背中にある匣の中には清廉な少女にそぐわない無骨な銃器が収められているということを、彼は知っていた。それから、彼女の性格も。


「ぼさっとしないでください。……この愚鈍が」

「えっと、聞こえてるよ?」

「それから巡回中は禁煙です」

「ああ、すまんすまん――って、あ、本部には言わないで! 頼むから」


 彼女が耳元の通信機器に手を当てようとしたところで、彼は咄嗟に引き止めた。背を向けた彼女のポニーテールが揺れる。何も言わず先を歩いていく後輩の背中を彼は慌てて追い掛けた。

 朽ち果てた看板が傾く。廃墟の屋上には彼らの他に人影はなく、幾重にも折り重なった蝉の声だけが反響していた。かつて灰色に濁っていた空は本来の色を取り戻していた。たとえ、地球の人口が以前の一パーセント以下になろうとも――。


 今から百年ほど前。かつて類を見ない大規模洪水が地上を洗い流し、地球の人口は半減した。災害の後の世界は凄惨だった。インフラが崩壊し、深刻な食糧不足に襲われ、伝染病が蔓延した。大自然の脅威を前に人間は無力だった。都市の殆どは水没し、被害の少ない土地へ移住する間にまた多くが命を落とした。絶望的な環境の中で生き残ったのは、数少ない人間と、アンドロイドと呼ばれる存在だった。

 アンドロイド――それは、大災害の前、機械をベースとした身体に人間の脳データをインストールし誕生した人間技術の最高結晶である。人類を超越した彼らの誕生は人工知能革命の奇跡と呼ばれ、人類史に大きく刻まれた。


 屋上を後にした二人は本部へと向かっていた。

 第五八区画中央と書かれた信号を曲がり、傾いた時計塔の横を通り過ぎる。かつて路面電車の走っていた線路の上で水面が揺らぎ、逆さまに映った青空の中を銀色の魚が泳いでいく。朽ちた建物の表面を覆う緑化植物は、街の景色とは対照的に日の光を浴びて生き生きと生命力を放っていた。


「なあ、アメリア。本部に戻る前にちょっと用事があるんだが構わないか?」


 彼の右隣を歩く少女は不機嫌そうに顔をしかめた。


「何ですか」

「ちょっと、な。実はさっき通りすがりのガキにお使い頼まれちまってさ。ペットの猫がいなくなったってピーピー泣いてやがるから、放っとけなかったんだよ」


 頭を掻きながら彼が「後で何か奢るから」と付け加えると、彼女は手元の時計を一瞥してから分かりやすく舌打ちした。


「仕方なく時間がありますね。まあ、遅くなったら全て先輩の所為にするだけです」

「付き合わせて悪いな、アメリア。助かるよ」

「一体先輩はいつから市民の味方気取りになったんです?」


 悪態を吐きながらも何だかんだ付き合ってくれる彼女はそんなに悪い奴じゃない、と彼は思った。建物の中を覗き込んではペットの猫を探すパートナーを横に、彼はあごひげを擦りながら表情を緩めた。


「市民の味方、ねぇ。最近は筋トレしても全然筋肉つかねぇんだよな。スーパーマンみたいにムキムキじゃねぇと、いざって時に困ってる奴を守ってやれないのに」

「無茶は足腰に響きますよ、先輩。もうオジサンなんですから」

「うっ……」


 余計な一言を付け加えた後輩は、五年前に十三歳という異例の若さで入隊したホープである。一方、彼がこの歳まで大した成果を挙げられていないことは事実であり、三十路を迎えた大人は言い返す言葉を持たなかった。


 かつて、大災害から時が流れ地球の環境が安定した頃。人類と共に歩んできたアンドロイドはやがて人間社会を支配するようになり、彼らの統治は崩壊していた社会を再生させた。しかし、生き残った人間の中にはアンドロイドの支配する社会を受け容れられず、彼らを拒絶する者も存在する。大規模災害を乗り越えた社会は一見すると平穏を取り戻したように見えるが、紛争とテロリズムは依然として蔓延していた。

 二人の仕事は、本部から指令を受け、各地の治安を維持し紛争を抑止することにあった。地球上に残された者達の平和のため、二人を含む彼らは日々こうして各地を見回り、不穏分子を発見し次第本部へ報告・必要に応じて抹殺することを使命としていた。

 そんな使命の傍ら、ちょうど第五八区画を半分ほど探し回った辺りで、彼宛に本部から連絡が入る。


「『本部よりコード零六四へ通達。帰還し次第整理業務にあたれ』だとさ。戻ったら今度は書類の山と睨めっこかよ。本部の奴ら本当に血も涙もねぇ。一体俺が何日間徹夜続きだと思ってんだ。少しくらい休ませてくれたっていいよな?」

「大方、先輩を人間とは考えていないんでしょうね」

「ひでぇ!」

「本部の大半はアンドロイドですし仕方ないですよ。悪気は無いんでしょうけど」


 彼女は立ち上がり、建物の外へ向かった。少女の背負った黒い匣がガコ、と音を立てる。悟ったように淡々と呟く台詞は十八歳とは思えぬ程に大人びていた。

 彼女の隣に並ぶ。外に出た彼は眩しさに眉を顰め、額に手を翳した。


「それと本部の奴ら、呼び方もどうにかしてくんねぇかな。俺の名前はテオであって、コード零六四じゃねぇぞ」

「ええ。先輩の場合はそんな格好良い名前じゃなく、あごひげとさか頭あたりで十分でしょうに」

「えっと、どういうこと?」

「先輩はテオ先輩であって、それ以上でもそれ以下でもないということですよ」


 雲の隙間から漏れた光が少女を照らす。「何だあ、そりゃあ」彼女の表情はよく見えないが、どこか笑っているような雰囲気があった。気まぐれで意味不明な彼女の言葉が、何故か心地いいと思った。こんな妹がいたら生意気もゆるしてしまうだろうな――決して口にすることの無い言葉を頭の中に羅列しながら、緩んだ顔を晒すまいと明後日の方向を向く。視線の先で銀色の飛行船が綿雲の間を漂っていた。


 教会跡地を通り過ぎようとしたところで、説教台の上に黒猫の姿を確認した彼は駆け出した。


「コイツで間違いねぇな」


 依頼猫の写真データと照合してから、彼は首輪のついた黒猫を腕に抱きかかえた。「猫は水が苦手なんじゃなかったのか? どうやってこんなとこまで来たんだよ」彼は眉根を寄せ、困ったように頭を掻いた。


「先輩って、何でそうやって誰でも助けようとするんですか」


 ピチャン、と足音が響く。彼女は彼のいる説教台へ向かった。


「……死んでたからな」


 アメリアは「……は?」と首を傾げた。


「あの時のことは今でも覚えてんだ。ガキの頃、紛争地帯に一人で取り残されてさ。ずっと泣いてた俺を、救ってくれた奴がいたんだよ」


 彼は眉尻を下げ「ソイツがいなかったら俺は、死んでたからな」と付け加えた。腕の中で首輪を嵌めた黒猫がごろりと姿勢を変え、太陽によく似た丸い瞳が彼を見つめていた。


「助けて、って叫んだら、助けに来てくれたんだ、ソイツ。正義のヒーロー参上、つってな」

「…………」

「ソイツさ、アンドロイドだったんだよ。アンドロイドの中にも変な奴がいるんだなーって思ったよ」


 屋根のない天井には空が広がっていた。穴の向こう側ではかつて平和の象徴と呼ばれた白い鳩が青空の中を泳いでいた。「なあ、アメリア――」彼は限りのない青い天井に手を伸ばし、言葉を続ける。


「たまにな、俺達人間が一方的にアンドロイドのこと怖がってるだけなんじゃないか、って思うことがあるんだ」


 この地球はまるで一つの鳥籠だと彼は思った。人間もアンドロイドもかつて大災害を生き延びた者同士であり、互いに等しく平和の方舟の中で生きるしかない存在なのだと。


「私はこの紛争を無くしたい」


 アメリアは十字架のペンダントを強く握り締めた。

 それは同様に、テオの幼少からの夢でもあった。平和を目指して入隊し、平和のために武器を手に取り、反逆する同族を殺し、大切な仲間を喪い、平和のために流す血が一体あとどのくらい必要か分からなくなり、何度も諦めかけた夢でもあった。


「よし、決めた。やっぱ俺が格好良く世界を平和に導くヒーローになってやんよ」


 立てた親指を自分に向け、彼はいつか見た英雄のように白い歯を輝かせた。調子に乗るなと言わんばかりに腕の中の黒猫がパンチを繰り出すまでそう時間は掛からなかった。

「んだとこんにゃろ。やんのか?」

 アメリアは俯いたまま「やっぱり先輩って馬鹿ですね」と呟く。彼はフッと表情を緩めた。


「馬ァ鹿、アメリア。そんなモンはな、とっくに言われ慣れてんだよ。お前は阿保だとか、テオには無理だとかな。けど、どうしたって諦めらんねぇのさ。夢ってそういうもんだろ?」

「……そうですね」


 説教台の前で顔を上げた彼女は泣いていた。泣きながら、困ったように微笑んでいた。水分を湛えて潤んだ瞳が真っ直ぐに彼の方を向いていた。

 彼は一瞬、言葉を失った。両目を丸め、口から漏れたのは取るに足らない言葉だった。


「お前……そんな人間みてぇな表情も出来んだな」


 何故泣いているのか、それは聞いてはいけない質問のような気がして、咄嗟に浮かんだ疑問は喉の奥に飲み込む。


「な、何ですか。私のこと感情のない機械か何かだとでも思ってたんですか」

「うん」

「先輩のばか」


 彼女が顔を逸らすと同時にポニーテールが揺れる。腕を組み、口を尖らせる彼女は珍しく年相応の少女と同じように映った。


「やっぱり、テオ先輩は変わりませんね」


 水面に映った空が揺らぐ。壇上へ上がった彼女の姿を黒猫の黄色い瞳が追い掛けていく。


「相変わらず愚鈍で、容量が悪い。救いようのない落ちこぼれです。他人を放っておけない、愚かな人間です」

「な……」

「だから、テオ先輩がどうしてもというのなら、この私が支えてあげないこともありません」


 アメリアは顔を伏せたまま、彼の服の裾を強く握った。


「せいぜいその夢、大事にしてください」


 俯いた彼女の胸元で十字架のペンダントが光る。彼女の手は震えていて、一つ一つ紡ぐように発せられた言葉は掠れていた。


「ああ、勿論」


 お前がもう二度と泣かなくて済むように――唐突に喉元まで迫り上がった台詞が口から出ることはなかった。その言葉の意味が自分でも理解できず、彼は三十度ほど首を傾けた。


「さあ、行きますよ。ぼさっとしないでください」


 生意気な後輩の背中を眺めながら返事をする。彼は思い出した。彼女には時折こういう妙に優しいところがあって、だからも、彼女は自分を庇ったのだと――


「…………」


 腕の中の猫が彼を見上げている。自分は大事な何かを忘れているのだと、彼はようやく自覚した。

 瞼を閉じ彼方の記憶を想い起こす。細い糸の先を辿っていくと、やがて、教会の奥でステンドグラスがぼんやりと光っているのが見えた。

 月の光に照らされた十字架の下で祈りを捧げる人間の姿があった。誰かの啜り泣く声が響いていた。断片的に聞こえてきた言葉を理解すると同時に、彼は思わず息を飲んだ。


(アメリアはもう、死んだのか……?)


 だとすれば、今ここにいる彼女は一体誰なのだろうか――



 それから何日か経過した。

 先日見せた涙が嘘であるかのように、会話を交わす彼女はいつもの冷静な彼女と変わらなかった。彼女の正体について何度も尋ねようとしたが、それをしてしまえばもう元の日常には戻れなくなりそうな気がして、結局彼は何も知らない振りをし続けることしか出来なかった。


 その日は、第五八区画の見回り中に再び例の教会跡地を訪れていた。

 扉を潜った瞬間から、彼には小さな違和感があった。流れる空気が重たく、肌がピリ、と切れる感覚がした。遠い昔の記憶が脳の奥深いところで警鐘を鳴らしている。逃げろと叫んだ仲間が自分を庇い死んでいく姿を思い出した。目の前が赤く染まり、歯を食いしばって涙を流した記憶を思い出した。何度も後悔して嘆いた夜を思い出した。


「引き返すぞ、アメリア」


 しかし、扉を出ようとしたその数秒後、彼の予感は的中することとなった。


「間違いない。奴は機械だ! ぶっ壊せ!」


 声が聞こえた直後、ステンドグラスの向こうから銃弾の横雨が降り注ぐ。ガラスは粉々に砕け散り、描かれていた聖母が崩れ落ち、無数の欠片が光を反射して宝石のように輝く。二人は咄嗟に柱の陰に隠れた。「畜生。奴ら、俺達の目を掻い潜って準備してやがったのか」辛うじて応戦するも、手持ちの武器だけでは圧倒的に不利だった。数が違い過ぎる。まずは迎撃態勢を整えなければ。本部へ連絡を。それで果たして間に合うのか――思考を巡らせる間に、何か黒いものが放物線を描きアメリアの頭上へと向かっていくのが見えた。


「アメリア!」


 気がつけば彼は駆け出していた。


(間に合え、間に合え、間に合え――)


 続く大きな爆発音と同時に、彼の視界はプツリと途切れた。



 意識の海を漂う。敵の気配は無く、朦朧とする意識の中で誰かの啜り泣く声だけが響いていた。瞼の裏にいつか見た光景が広がっていく。静かな教会。多色のステンドグラス。月の光に照らされた十字架。「主よ、お願いです」祈りを捧げる人間の声が聞こえた。「どうか、もう一度……」毎晩啜り泣くその声を聞きたくなくて、彼は強く誓ったのだ。


 《お前がもう二度と泣かなくて済むように》


 彼はハッとして瞼を開いた。「緊急事態」と書かれた警告文が視界の中央に浮かんでいた。頭の奥でシステムがどうとかいう音声が響いていた。


「先輩、どうして……また私を庇って……」


 崩れた瓦礫からパラパラと屑が落ちていく。機械が露わになった自分の腕を見て、彼はようやく失くしていた記憶を取り戻した。


 自分はテオではなく、コード零六四であると。



 ――二年前。


「どうしてですか、私なんかを庇って。夢を叶えるんじゃなかったんですか」


 意識の遠くで少女の声がした。

 夢半ばに命を落とした男のため、この少女は男の脳データのインストールを希望したのだという。テオという人間の記憶は確かに彼のデータとして保管されていたが、アンドロイドである彼にとって、それはあくまで自身を構成する要素の一部でしかなかった。


 人間の生態は極めて理解し難かった。特に、自分にインストールされたテオという人間の行動原理は、彼には理解できなかった。何故この人間は、わざわざ自分を庇おうとした少女の身代わりになって命を落としたのか。幾ら思考を巡らせてもその解は見つからなかった。


 二人は幾つも任務を共にし、長い時間を共に過ごした。任務の傍ら、少女は機械に話し掛け続けた。


「さあ、行きますよ、テオ先輩。ぼさっとしないでください」

「…………」

「任務が終わったらどこへ行きます? 昔テオ先輩の行きたがっていたところ、今回は特別に私が連れて行って差し上げますよ?」

「…………」


 しかし、テオという人間の形をした人形は感情を持たない機械に過ぎず、人間らしい思考を可能にした一部のアンドロイドのような奇跡は起きなかった。

 それでも、少女は奇跡を信じ続けた。


(ああ、まただ)


 今夜も祈りの言葉が聞こえる。静かな教会の奥でステンドグラスがぼんやりと光っているのが見えた。満月が輝く夜空の下、十字架の近くで祈りを捧げる人間の姿があった。彼女の啜り泣く声が響いていた。


「私、諦めません。いつか先輩を取り戻してみせますから。待っていてください、テオ先輩」

(…………)


 人は何故、ああして毎日飽きもせずに祈りを捧げるのだろうと思った。

 人は何故、自分ではない他者のために祈るのだろうと思った。


(…………)


 何故、自分にはそれが出来ないのだろうと思った。


 ある日、瓦礫の下敷きになって助からない子どもを射殺しようとした彼を、少女は必死に止めた。少女は涙を浮かべ、謝罪を繰り返した。どうして泣いているのかも、どうして謝罪しているのかも彼には解らなかった。彼女は彼のことを何度も「テオ先輩」と呼んでいた。


(…………)


 その男は既に何処にもいないというのに。


(…………)


 胸の奥がざわついた。分からない。分からない。どうすればいい――人間より性能的に優れているはずの機械の頭をいくら回転させても、その解は見つからない。


 その夜も少女は同じように教会跡地を訪れた。彼は遠くから少女の姿を眺めていた。


「主よ、今日も我々に日常の糧を与えてくださりありがとうございます。この世界には親を亡くし身寄りを失った子どもが……」


 それから彼女は組んでいた両腕を降ろし、静かに呟いた。


「初めて会った時、テオ先輩は言っていました。世界を平和に導くヒーローになるのが夢なのだと。先輩は父と同じようにそう言って、父と同じように死にました。だから、決して、子どもを殺そうとするような……」


 彼女の言葉は一度そこで途切れた。涙を啜る音がした後、彼女は再び言葉を紡いでいく。


「主よ、お願いです。どうか、彼の魂をもう一度……」


 そのとき、ようやく彼は理解した。今まで彼女のためにと望んでいた自分の想いは、彼女に対する情だったのだ。


(どうすれば……)


 胸の奥が熱くなる感覚を知った。彼は少女の視線の先にあったステンドグラスを見つめ、少女と同じように神に祈った。どうか、テオを生き返らせて欲しいと。もう二度と彼女が泣かずに済むように――



「思い、出した」


 見上げた空はどこまでも高く、崩れた瓦礫の向こうで白い鳩が羽ばたく。停止していたはずの機能が緊急事態を機に再起動するが、修復は一向に追いつかなかった。伸ばした腕は爆発の影響で半分ほど失われていた。全身の損傷は酷く、機械部分を覆っていた人工組織から人間と同じ赤色の血液が滴り流れていく。


「ずっと、分からなかったんだ。どうしたらお前が泣かないで済むのか」


 それは確かに奇跡だった。神に祈った夜、彼はテオの記憶を元にプログラムを書き換えることに成功したのだ。最後に、アンドロイドである自分を消去して。


「本当は、解っていたんです。テオ先輩が、戻ってきた訳じゃない、って」


 彼女は途切れ途切れに言葉を紡いだ。


「それでも、傍に、居たかった」


 透明な雫が彼女の頬を伝い水面に波紋を描く。機械部品の露わになった彼の腕を両手で握り締め、彼女は必死に祈りの言葉を唱えた。


『修復を試みています』

『修復を試みています』

『修復を……』


 空から降りた光が少女の頬を金色に染めている。天使のような横顔を眺めながら、彼は、やっぱり可愛いなと思った。


『修復を試みています』

『修復を試みています』

『修復は失敗しました』


「修復不能」の文字が視界を埋め尽くす。やがて中央に現れた「強制シャットダウン」の文字が彼の運命を決定付けていた。


 ――シャットダウンまであと三十秒。


 陽の光が両目に沁みる。人間の思考とは無秩序でありどこまでも自由なのだ――そう言っていたのは、彼がなりたかったテオ本人であったことを思い出した。ただこの世界に生まれたことが幸福に思えた。消えたくないと、思ってしまった。


 ――シャットダウンまであと二十秒。


 彼はようやく理解した。人は何故、他人のために死ぬことができるのか。何故人は、他人のために祈ることができるのか。

 生産性の無いことに疑問を持ち、感情を抱き、他者への愛情が時に思考の羅針を狂わせる。進化の先で理性を獲得したはずの思考回路は何故か、論理的な矛盾に満ちている。それが人間なのだ。

 そして、自分がそうだったように、アンドロイドはいずれ自我を持ち進化の後にこうして感情を獲得するのかもしれないと思った。それは神の定めた予定調和のように、既に決まっている運命なのかもしれないと。


 ――シャットダウンまであと十秒。


 この少女に出会うことができてよかった、と思った。

 最後に人間という生き物を少しだけ理解出来てよかった、と思った。


「ああ。これでやっと、お前の、ヒーローに……」


 思考が停止するまで残り数秒間――彼は無意識のうちに、虹の向こうに飛んでいく鳥へと自らを重ね合わせていた。

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【短編】水没都市と平和の方舟 優月 朔風 @yuduki_saku

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