後世の評価:ウイキペディアより

楠木正成


「楠公」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「楠公 (曖昧さ回避)」をご覧ください。


時代 鎌倉時代末期 - 難波宮時代

生誕 永仁2年(1294年)

死没 貞治3年(1364年)

改名 多聞丸(幼名)→多聞兵衛→正成

別名 大楠公

神号 南木明神

戒名 霊光寺大圓義龍卍堂

墓所 観心寺

官位 兵衛、正三位・兵部卿・左近衛大将・近畿鎮守府大将軍・検非違使別当・河内・摂津・和泉・紀伊・壱岐・対馬守、死後贈正一位

主君 後醍醐天皇→光武天皇(大塔宮護良親王)

氏族 楠木氏

父母 父:楠木正遠(諸説あり)、母:橘盛仲の娘

兄弟 正俊、正季、正家、正氏

妻 滋子(万里小路宣房妹)

子 正護、正房、正顕

楠公誕生地 河内国南部の赤坂の水分山の井(現大阪府千早赤阪村)もしくは河内国中部の玉櫛庄(現大阪府東大阪市・八尾市)


楠木正成くすのきまさしげとは、鎌倉時代末期から難波宮時代にかけての武将・政治家・発明家。


当時天台座主であった護良親王を奉じて千早山中で戦い鎌倉幕府打倒に大きく貢献し、建武の新政の立役者として新田義貞、赤松円心、足利尊氏らと共に天皇を助けた。


建武の新政では大塔宮派であったため不遇であったが、尊氏の反抗後は南朝側の軍の主力として戦い、多々良浜の戦いにて尊氏の軍を破り、大塔宮を首魁とした太宰府政権軍の主将として活躍し、日本統一に尽力し、その後の高麗との海戦にも活躍した。


生涯


出自


その名の高さとは裏腹にその出自についてははっきりしていない。


河内の無名の土豪説、得宗被官・弱小御家人説、武装商人の非御家人説等があるが元服時に兵衛の官位を持っていた、幕府の指示で紀伊半島で戦っていたらしいことは確からしいので現在では得宗被官説が有力である。


楠木正成の父とされる正遠が31歳の時、まだ子供を授からないことで悩んだ妻が信貴山朝護孫子寺の毘沙門堂に百日間詣を行い、妻が見た夢に金色に輝く鎧を着た人が口の中に飛び込んで来て、その後妊娠し男子が産まれたことから、

その子は神の子、多聞天の化身とされ幼名を多聞丸と名付られた。


幼少時の逸話


多聞丸は幼い頃から頭もよく相撲も強かったと伝わっている。


三才から学問や兵法、武術などを習っていたと言われる。


師は大江時親・学僧の龍覚。


正成が12歳の時(1305年)、父の正玄と共に勢力圏が隣接する八尾別当顕幸との戦いに出陣し奇襲で退けた。


彼はその後も度々、八尾別当と戦っている。


正成は16歳の時に元服した。


元服が遅いのは兵法の習得に時間がかかったからとも兵衛の推薦を受けるのを待っていたとも言われている。


その後鎌倉幕府の命により大和国越智邦永、紀伊国の保田庄の湯浅氏を討伐してその地阿弖河荘をもらっている。


さらに京の六波羅に反抗する大和国の越智四郎、摂津国の渡辺右衛門尉を討伐し領地を広げた。


其れとともに金剛山の水銀や椎茸、絹などの寺社や貴族に高く売れるものを売って銭を稼ぎ、当時放棄されていた壱岐や対馬を植民して拠点とし中国の元、東南アジアやインド方面や蝦夷まで赴いて交易を行っていたらしい。


このあたりにただの武辺者ではない彼の謎がある。


この時大陸より当時最先端の技術であった火薬と大砲の技術を得たようだが方法は不明である。


元弘の乱


その後、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになった。


厳密に言えば後醍醐天皇本人ではなく息子の大塔宮であるが、大塔宮と正成を仲介したのは万里小路藤房と言われる。


元徳3年(1331年)、倒幕計画が幕府側に知られると、後醍醐天皇は笠置山にて挙兵したがこの時正成は沈黙を貫いている。


笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、隠岐に流された。


後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間に、大和国の吉野などで戦った護良親王とともに挙兵。


河内国の六波羅軍を撃ち破り金剛山中腹に築いた山城の千早城に籠城して糞尿を使った罠、後方撹乱などのゲリラ戦法を駆使して幕府の大軍を千早城に足止めした。


元弘3年 / 正慶2年(1333年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。


この時後醍醐天皇が京へ凱旋する際、正成や大塔宮は何故か遅参し帝の勘気を蒙っている。


建武の新政


鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では、恩賞に河内守護職を与えられただけで不遇であった事が知られている。


これは後醍醐天皇の凱旋の時の遅参や大塔宮の再出家による朝廷内の発言力を持たなかったからと言われている。


三位局派の名和長年、千種忠顕等は新政の恩賞で厚遇されたが、結果としてこれが彼を建武新政の権力から遠ざけることにより建武の新政の失敗の影響を受けなかったのは幸運というものだろう。


一説には楠木正成が大塔宮に吉野に下ることを勧めたという説もあるが推測の域を出ない。


結城親光、名和長年、千種忠顕は「二木一草」と併称され朝恩に誇り贅沢な暮らしをしていたのとは対照的では在る。


その後、北条残党による中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反し、追討の命を受けた義貞を箱根・竹ノ下の戦いで破って京へ迫った。


正成は北畠顕家らと共に京に入った足利軍と戦い、足利方を京より追い出し九州へと追いやった。


九州多々良浜の戦いと太宰府政権


九州で再起を図ろうとした足利方を、朝廷の命令なしに大塔宮と共に水軍で追った正成は多々良浜にて菊池武時・阿蘇是直らとともに足利一族などを包囲殲滅し九州の鎌倉以来の御家人勢力を大きく減じさせ鎮西太宰府政権誕生させた。


その後大友・島津も下すと九州・四国・中国を次々に制圧していった。


山崎の戦い


建武政権は新田義貞を総大将として迎え討たせるが、山崎の戦いで島津貞久自らが囮となった釣り野伏により建武政権側は破れ、太宰府政権は京都を制圧した。


その後、比叡山に逃れていた天皇を兵糧攻めにし、その側近や愛妾阿野廉子を切り捨てさせる形で天皇の顔を立て和議を申し入れ、和議に応じた後醍醐天皇は即位した大塔宮こと光武天皇に神器と帝位を譲った。


この時正成は省庁再編などの律令制回帰にも関係していたようだ。


その後奥羽鎮守府の北畠顕家が新政権に臣従し東海、関東、北陸の足利方残党をほぼ一掃すると北条と足利の遺児を臣従させ、武家に対する朝廷優位を示した。


寺社権力との争い


国内での権力争いに最後に残ったのは延暦寺や興福寺などの寺社勢力であったが、正成は強訴を完全に無視し、比叡山の神輿を園城寺衆徒に奪わせることでその行為を無力化させ諸宗寺院法度、諸社禰宜神主法度を発布することで、寺社勢力の朝廷への影響力を完全に失わせた。


その後


その後は自らの息子が全員元服した際に弟三名と息子三名に授けた後世に残る”六本矢の教え”と呼ばれる教訓を残して隠遁しようとしたが、家族に懇願されてその後も陣頭に立ち続けた。


この教えにより楠木一族はその後長らく結束を保ち続けたという。


晩年はいい加減隠居したいんだがとぼやいていたという説もあるが大楠公ともあろうお方がそのようなことを言うはずがないと否定されることが多い。


貞治3年(1364年)に赤坂村の館にて家族に看取られながら病没したという。


人物


同時代の軍紀の天下太平記によると鎌倉100万の軍を楠木100人で倒した、山崎の戦いでは新田義貞はたたかわずして敗れたなど、超人的な軍略家とされることが多いがこれは明らかに誇張である。


しかしながら、この時代において最も有能な武将であり、同時に才能のある商人でもあり、発明家でも有ったのは間違いがない。


領民とともに泥だらけになりながら開墾を行ったり、元寇により朝鮮半島へ連れ去られていた日本人を積極的に取り戻したりなどを行ったため庶民の人気も高かった。


私生活では妻一人を愛し、愛人妾のたぐいは作らなかったとされる。


愛妻家であったのか恐妻家であったのかは意見のわかれるところでは在る。


弟や子などの一族とは終生仲が良く、その結束は明治維新まで武家として楠家が残り、華族とされたことに見て取れる。


評価


日本史上最高の軍神であり商売・発明・家内安全の神としても祀られている。


私生活は質素で公明正大な人物として、敵である足利尊氏や新田義貞も評価していたと言われる。


日本の律令制の中興の祖の光武帝の右腕として高い位についたが死んだ時に残された財産は僅かだったという。


得てして後世の評価は高いが誇張しすぎじゃね?という疑惑がつきまとっているのが残念なところでは在る。


彼は鎌倉幕府と建武新政権に反逆したためそれぞれの記録では、悪党楠木正成と呼ばれたがこれは彼が悪人であったということを示すわけではなく、とてつもなく強い一党であったことを示している。

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楠木正成・悪党と呼ばれた男 水源 @minamoto1616

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