2:四月一日の夜
「森に……!?」
僕が思わず大声を出してしまい、先輩に咎められそうになったがこの部屋では此処にいる以外の人には誰も聞こえない防音仕様だと思い出してくれたのか、まあいいやとぽつりと零した。いや、少しもよくないけれど。
「でも近付くなと言われてるんですよね? あそこは誰も立ち入ってはいけないと何度も釘を刺されてるのに」
「勿論あたしも聞かされてる。だから今日の夜に実行するの。今日なら先生達も始業式の準備に忙しいし、寮長も部屋のメンテナンスや会議で夜の見回りにまで余裕がない。唯一外に出られるチャンスよ」
つまり人目のない就寝時間を狙って、こっそり寮の非常口から出る魂胆らしい。どうにも不可解だった。
僕達は今年度の春から高校二年生に、先輩は高校三年生になる。つまりあと一年待てば先輩は不自由な施設から出て外に行けるのに、今このタイミングで規則を破る理由がない。どうして僕達にこの話を持ちかけてきたのだろうか。
「でも先輩も三年生になるじゃない? だったら今森に行くのはやばいんじゃ……」
0778も僕と同じ事を考えていたようで、先輩を気遣い心配していた。普段から僕の胃に負担をかけさせておいて知り合いを気遣えるんだな、とこっそり毒づいたのは内緒にしておこう。どうせ、もう少し僕にも気を遣って欲しいとお願いしたところで0778は知らぬ存ぜぬを貫く。
「ずっと気になってたのよ、救急車のサイレン。あれ、此処で生きてきてずっとそんなの聞こえてなくて。車だって通りかからないぐらいなのに」
「確かに僕も気になってました。最近はもう誰もいつもの事だって気にしなくなりましたけど」
「担任の先生に聞いても分からないと言うし、こないだ思い切って就寝時間にこっそり部屋から抜け出してサイレンの音が聞こえる場所まで探したの」
この先輩、凛とした佇いからして大人しそうに見えて意外と行動的である。0778と気が合いそうだなと思いつつその先の言葉を待つと0778が興味深いとばかりに目を輝かせていた。
「外に行ったんですか?」
「いえ、廊下で窓際までぐるりと回って。それでね、音は一階の非常口の近くの窓の前で途切れてた」
一階の――僕達が過ごす寮棟の非常口。普段は万が一の時にしか立ち入る事のない場所だ。僕達は体を気遣ってエレベーターを使う為、わざわざ体力が消耗する非常階段を使わない。
そして非常口近くの窓の向こうには――噂の大きな森がひっそりと佇んでいるのが見える。つまり僕達が暮らしている白い施設は立ち入ってはならない森と割と近い位置にある。
「サイレンと、立ち入り禁止の森と、噂話。何かがあるとしか思えないのよね」
目を細めて楽しそうな声色で微笑む先輩の表情は確かに「生きて」いた。それが何だか眩しくて、印象的に見えて僕の乾いた目に焼き付いていく。
僕達を含めて施設にいる子達はありふれているであろう娯楽を知らない。故に、退屈そうに息をしながら淡々と過ごす日々に慣れきって感情を動かす方法を忘れてしまうのだ。まるで機械の様に生きているみたいだと、そう錯覚する程に。
「私、行ってみたいな。0523も行くでしょ?」
小さな子供みたいな高い声に顔を向けると0778が悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見ていた。こうなると止めても止めなくても0778は楽しいことを探しに行く為に突っ走るのだろう。恐らく此処に連れてこられた時点で「行かない」という選択肢はこちらに無かったと思う。
「……仕方ないな。でも行くなら見つからない程度にお願いしますよ、先輩」
「勿論。そう来なくちゃね」
今日の夜の予定についてわいわいと話す先輩と0778の声を聞きながら、僕は溶けかけた氷を斜めに傾けながら麦茶を口にした。
何だかんだで僕も、普段とは違う景色を渇望していた。
*
度々窓の向こうで雷鳴が響く寮の部屋にて、読書をしながら時計の針が就寝時間の午後十時に差し掛かろうとしていた頃、扉を控えめにノックする音が二回聞こえたと同時にガチャリとレバーが下がり、隙間が広がっていく。
白いパジャマを着た0778がこそっと僕に手招きをした。同じく白系統のシャツにグレーのスウェットパンツを履いた僕は椅子から立ち上がってなるべく音を立てずに歩きながら、部屋を出て0778と共に広い廊下を静かに移動する。雷の音を聞きながら酷い雨が降りそうだな、とぼんやり他人事の様に暗くて見えない廊下の窓を横目で眺める。
朝、先輩と0778が二人で楽しく立てた作戦によって用意した小さな懐中電灯はしっかりと0778の手にある。そういえば小さい頃に二人で手を繋いでこっそり部屋を出て廊下を歩いてたら寮母さんに見つかって怒られたっけな、と一瞬だけ懐かしく思いつつ誰もいないことを願いつつ、あの頃みたいに手は繋がなかったけれど二人並んで寄り添い、非常階段の方へ近づいた。
決行は今日の夜だと言っていたが本当に実行する気なのだろうか。雨降りそうだけれども。
どうやら入学式の諸々の準備や会議で誰も見回りに来ないというのは本当だったようだ。スリッパを脱いでそっと音を立てずに一階まで降りると既に降りていたパジャマ姿の先輩がうろきょろと誰かいないか確認しつつ、待っていてくれていた。
人差し指を口元にあてながら、先輩は片手で非常扉のドアノブをゆっくりと慎重に回す。その先にあるのは何なのか、0778も僕も、先輩でさえも知らない。
キイ……と小さく鳴った音に緊張感が増すも、先輩は迷いなく前に押して灯りもない真っ暗な景色を目の前にして既に履いたスリッパを脱いで裸足で一歩外に進めた。それに0778も続き、最後には僕が出て扉を閉める流れだ。
「気を付けてね。音立てずに閉めて」
先輩の小さな声に頷き、ゆっくりと閉めると冷たい風が頬を撫でて、規則的な雷の音が鳴ったと同時に思わず声を出しそうになったのを堪えた。
三人の見つめる先には先の見えない暗い一本道。その道を歩くと森まで辿り着くというが、人が通るので精一杯で、森に繋がる道を救急車が通るのは無理がありそうだった。それに暗くてよく見えないが、救急車が停められそうな場所は何処にもないように見える。
「本当に少しだけですからね、雨降りそうですし」
「分かってるってば」
「雷で一応分からないとはいえ、二人とも声は抑えてね。とりあえず行くよ」
先輩が0778から懐中電灯を借り先導を切って歩き出した。僕達は先輩の背中を見つつ誰かに見つからないか警戒しながらだが、そろりそろりと小石一つも蹴飛ばさないように慎重に湿った地面を歩く。
緊張感と共に今、僕は外にいるという実感が風の音と共にじわりと向こうから歩いてきているような気がして、思わず先輩と0778を交互に見た。懐中電灯の灯りに包まれた二人の表情はこれまでに見たことのない形をしていた。言葉にするならはっきりと表情にするにはぎこちなく、何かに怯える様に強張っているものの、期待をしながら形のない探し物をする表情に近い。
今、僕達は施設にいる子達よりも一歩先の冒険をしている。そう思うと「誰かに見つかったらどうしよう」という恐れよりも高揚感が勝っているのを僕は確かに感じていた。
聞こえるのは風に揺られる木々の騒めきだけで、特に動物が住んでいる形跡は今のところ見かけない。もう少し森の中まで入れば分かるのだろうが、噂通りに忠告に従うのならばそれ以上は深入りしていけないだろう。
先輩が手に持ったライトが視線の斜め上に移動する。そこには、随分ご立派な樹木に括り付けられた古びた黄色い看板に「立ち入り禁止」と真っ赤で大きめの字体の下に黒い文字で「あなたの大切なものを失わないように」と目に入りやすく書かれていた。
「あれ? 何かあるね」
「石じゃないですか?」
看板は経年劣化が入っていて文字の所々が掠れていて、夜中に見る物としては不気味だ。僕がじっと黒い一文を見つめている間に、先輩と0778は看板の下の湿った地面に視線を向けていて何かを目にしたようだ。
その時、今までで一番大きい雷が光って鳴り響いた瞬間、僕は噂の話を頭の中で思い浮かべた。
呪われた森の中に入ると、二度と帰ってこれない。
夜中になると森の奥からいない筈の人の声が聞こえる。
あとはそうだ。確か――
嫌な予感がして、二人が見つめる先に目線を合わせると信じ難い光景がそこに在った。
看板の下にはぐるりと丸い形に置かれたいくつもの小石にはまるで飛び散った返り血が張り付いていた。囲んだ小石の真ん中には細かく切り刻まれた服の一部に、腕や足、胸部、など様々な部位があらぬ方向にあちこちに纏められて、乱雑に捨て置かれている状態だった。
見た所、一人分のものではなく複数人の体の一部が壊れた玩具の様に、一カ所に重なっている。
「――バラバラ死体……?」
小さく呟く僕の横でヒュッと0778が喉から叫びそうになった声を手で必死に抑えている。先輩もどうしていいか分からず死体から目が離せないようでライトで死体を照らしたまま凝視しつつ、立ち尽くしてそこから一歩も動かない。これは――殺人事件なのではないだろうか?
少なくとも噂の一部は本当だったのだ。度々聞こえていた救急車の音はこれが原因なのか、どうか考える暇もなく混乱している。0778はすっかり動揺していて死体から目を逸らしているようだ。
ふと僕は服とは言い難く、血で汚れた切れ端にも等しい服に目がいく。汚れていない色に注視すると灰青色の袖らしきもの、ライトブルーのラインが入ったチェック柄の布、ボロボロになって解けかかっている暗めの赤い、血に似た色のリボン、黒い布の一部に見える。暗赤色のリボン以外の布の色、質感に何となく覚えがあるような……――
「……とりあえず戻りましょう。今見たものは、忘れてちょうだい」
緊張しきった先輩の声が森の入り口の前で、小声にも関わらず静かに響いたような気がした。
でも、これが本物ならよくは知らないが、きっと全国ニュースになる殺人事件だ。大人達に報告するべきではないのか?
「せ、先輩、でも……」
僕の疑問を慌てた0778が代弁するかの様に先輩に縋っても、先輩は首を横に振り、小さな子供を諭す素振りでつらつらと話す。
「まずあたし達が勝手に抜け出した事を知られないのが先。今後のことはこれから考えて、一旦この事は三人だけの秘密にするの」
本物にしろ、そうじゃないにしろ、人の死体が転がっている。大事になるであろう出来事を施設の中だけで生きてきた僕達だけで抱えきれるのだろうか。
不安を抱えつつ、今は先輩の提案に頷くしか他はない。0778も異論はなく無言で同調した。
また雷が響いたと同時に小雨がぽつぽつと降り始める。これ以上服が濡れない様に時間をかけて僕達がそれぞれ施設の自室に戻った時には、既に雨音が酷くなっていた。
それまで誰も何も言わずにいたのは、誰にも見つからないように配慮していただろうけれど少しでも現実逃避していたのかもしれない。
布団に潜っても朝になるまで目にしたあの光景が忘れられず、死体のことばかり考えて一睡も出来なかった。それに、あの服の切れ端の色。灰青色、黒色。そしてチェック柄の布。
――見間違えでなければ、僕達が着てる制服に似ていた。
名も知らぬ僕達よ 源彩璃 @minamo_0
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