第一章 unknown

1:0523と0778

 視界一杯に白くて何も見えない。僕は一体何処にいるのだろう。

 何処を歩いても障害物もなく、かといっても何もなく、一人取り残されたみたいだった。まるで亡霊のように、あるいは忘れ物を探す迷子のように、僕は何かを見つけようとしている。

 さあさあと風の音だけが響くばかりで、上も下も、空と地面の境界さえ分からない。霧の中に取り込まれたようだとぼんやりと霞む頭で考える。

 疲れて歩くのを諦めようとしたそんな時、頭の中で声が聞こえた。

 何を話しているかはノイズが混ざって聞き取れなかったが、悲しそうで今にも消えそうな声色だった。

 僕がその声に話しかけようとしたら、そこで目が覚めてしまう。

 ――そう、いつも同じ夢ばかり見る。


「おはよう、0523。その様子だとまた夢を見たみたいだね」

 ぼんやりと施設の食堂へ向かう途中で背後から声をかけられて振り返ると、毛先を緩くした茶髪の女子が悪びれる様子もなくにこりと僕に微笑んだ。一緒にご飯食べようと誘われてそのまま自然に二人で足を進める。

「0523」は一応僕の名前代わりの番号だ。正確的に言えば「No.0523」だが呼ぶには長すぎて「ナンバー」をつけずに数字で呼ばれる事が多い。これは他の皆もそうだろう。

 因みに僕に声をかけてくれた女子の番号は「No.0778」。前に「どうせならゾロ目がよかった」と気にしてなさそうな顔をしながらどうにもならない不満を僕に漏らしていたが、確かにキリの悪い数字だなとこっそり思っていたのは0778には話さないでおく。

「お前はどうなの?」

「全く」

 うーんと顎に手をやりつつ分かりやすく不思議そうに首を傾げる0778の言葉に僕も何となく思考を巡らせた。

 施設で育ってきた人達は顔馴染みだったり生活を助け合う長い付き合いの仲間が大半だけど、特に0778とは生まれた時に隣り合った新生児室の中で波長が合ったのかそれ以来いつでも一緒にいて、部屋も小学生の頃まで隣同士だったから陳腐な言葉を借りると一心同体。

 幼馴染であり親友であり血の繋がらないきょうだいのような存在だ。

 だから僕が昔から同じ夢だけを見続けている事は0778も知っていて、そして0778は僕と異なり全く夢を見ない。

 一度、単純に夢を見たけど覚えてないだけなんじゃないかと指摘したが、そんな事は全くないようで「一度でもいいから夢を見てみたい」と昔からよく分からない願望を抱えているらしい。


「これでも色々試したんだよ? 枕の下に見たい夢を書いたメモを入れてみたり、寝る前に考え事したり、わざと睡眠バランスを崩してみたりして」

「最後は駄目だろ」

「でも全然効果ないの。気付いたら朝だしつまんない」

 見た目は黙っていれば淑やかな女の子に見えるのに、好奇心が強く男女相手関係なく物事をはっきり言うので一部の人からは我が強すぎて関わりづらいと避けられてるそうだけれど、僕はそんな所が0778の良い所であり他の誰でも無い0778だけの長所なんじゃないかと思う。

「あーあ、退屈だな。もうこっそりあの森に行ってみない?」

 0778がそう言った途端に廊下ですれ違った人達が談笑していたのに、急に時が止まったみたいに固まる。僕が振り返る暇もなく、無言で僕達から距離を置こうと忙しなく歩き去ってしまった。時々さらっとこんな事も言い出すのも長所というよりは短所に近いかもしれない。思わず僕は0778を睨みつける。

「……こら、そういう話は食堂に着いてからにしろ」

「やば、怒られる。ごめんって」


 この街に広がってる噂話を知っているのは街の人達だけではなく施設で暮らす僕達も例外ではなかった。

 ただ僕達も含めて此処にいる人達にとって「あの森」は立ち入るどころか話題に出す事さえ禁じられていた。外の世界に出られない僕達にとって「外の話」は好奇心を刺激する代物であり、喉から手が出る程欲しい劇薬でもある。

 だから間違って施設の外に出ない様に語る事を禁じられた。教師達も施設長も僕達に関わる大人達も、街の噂話を口にしない。

 まあ、呪われた森とかバラバラ死体だとか物騒な噂ばかり広まっても気持ちのいい話ではないかもしれないけれど、それにしたって過剰反応にも程があるだろう。皆も律儀に守ってはいるようだけれど中には好奇心に抗えない人だっている。例えば、0778のような。

「聞いたのがさっきの人達でよかったな。これが大人の誰かだったら、今頃お前は朝食抜きでチャイムが鳴るまで指導室で正座だ」

「えー、0523は助けてくれないの」

 苺ジャム付きのトーストを口にしながらぷすっと頬を膨らませる0778の表情は高校生にしては幼かった。僕はコーヒーカップの取っ手を持ったまま、空いた手で0778を指差す。食事中に人を指差すのは行儀がなってないがこの際仕方ない。

「今まで何度かそれとなくフォローしてやっただろ。さっきのは流石に庇えない」

「気にしすぎだって。行くと行っても森の中に入る訳じゃないよ。ちょっと入り口ら辺までだから」

「外に行くのも禁止っつってるんだ。成人を迎えたら此処から出ていけるのに、わざわざ0778は規則を破るのか?」

 宥める様に声を潜めて話すと、0778は僕の言葉に考え込んでしまった。彼女はこうなると何も言わずに頭の中で反芻してどう返そうかと時間をかけて考えを巡らす癖がある。暫く沈黙が続いた後、ようやく口を開いた。

「そういうのなんか違くない?」

「何が」

「本で見たんだけど、学生は修学旅行で外の世界に行ったり、学校の中でイベントを開いてみんなで楽しい事を共有するみたいなんだって。……私達には想像もつかない事でしょ」

 どんな本を読んだのかは置いておくとして、確かに僕達は街の人と比べて特殊な生活を送っている自覚がある。


 街の人がどんな生活をしているかは大人から簡潔に聞かされていたがそれは成人した後の暮らしを学ぶ為であったので、娯楽だとか授業で教わらない情報は図書室と資料室にある本から自主的に得る。多分、0778は外の娯楽に興味があるのだろう。

「大人になってからじゃ中々皆と会えそうにないらしいじゃん。一人で経験しても面白くないし、どうせなら0523と会えている内に共有したいなって」

「……共有?」

「そ、共有。生きる楽しみ」

 そう言いながら楽しそうな0778の笑顔。僕は昔から変わらないその表情にいつも安心感を覚えていた。

 今もそうだ。僕達はお互いに無い部分を補う様に色んな感情を教え合っている。そんな顔をされる度に結局僕が折れてしまう。

 何も言えずにいると、どこからか救急車のサイレンが聞こえ始めた。だんだんと大きくなっていくかと思えばぷつりと途切れた音に食堂の雰囲気がガラリと変わって、戸惑いと困惑に包まれている。

「今の近くなかった?」

「たまたま通りかかっただけじゃない?」

「またかよ」

「朝から勘弁してほしー」

 此処最近、救急車の音が聞こえ始めていた。今日みたいに朝の時間だったり時には就寝時間だったり。大人達の大半はそれが何かは把握しているらしくこないだ一度担任に尋ねてみたけれど、自分も知らないとの回答を貰った。

 普通なら気にしないサイレンを、名も無い僕達は気にしている。今まで救急車どころか車の音さえ聞こえなかったのだ。皆最初は物珍しげに聞いてたものの、慣れてきたのか次第に飽きていっていた。

 でも、目の前にいる0778は違う。

「誰が運ばれて何処に行くんだろうね? 何かあったかな」

「向かうなら病院だろ」

「でもさ、こんなに頻繁に通りかかるかな」

「同じコースなら体弱い人が体調崩してるかもしれない」

 実のところ、僕も0778ほどではないが気にはなっていた。そんなに体調悪いなら一度運ばれてから入院するはずなのではないか。なら別の人が救急車を呼んだんだろうけれど、どうにもしっくり来ない。

「――気になる?」

 突如知らない声が上から飛んできて、僕と0778は同時に顔を上げて声の持ち主に視線を変えた。見知らぬ女子が腰くらいまである長い黒髪をさらりと流しつつ目を細めて僕達に微笑んでいる。

 シンプルに言うなら美人。綺麗に整った顔立ちはアイドルやモデルに向いてるかもしれない。

 そんなことを言ったら「そういうタイプが好きなの?」と0778にからかわれるだろうけれど。

「あ、先輩」

 どうやら0778の知り合いのようで、0778が無邪気な笑顔を先輩に向けた。先輩ということは僕よりも年上だろうと、僕達も胸ポケットに付けている学校指定の無機質な名札プレートをこっそり横目で見ると「No.0867」。0778と遠くも近い番号だ。

 全ての人を番号で覚えるのは苦手だから、自分よりも年上の人だと「先輩」「お姉さん」か「お兄さん」と呼べるから楽しいと0778が前に言ってたっけな。気持ちは分からなくもない。

「あの音はね、外に何かが起きてるサインなのよ」

「サイン……?」

 僕が訝しげにしていると0867……先輩は分かりやすく周りを軽く見渡しながら人差し指を口元に持っていく。

「此処じゃ何だから休憩室に移動しましょう。まずは朝ご飯食べてからね」

 この流れだと厄介な話に巻き込まれそうだ。こう言う時の予感は何となく当たるから避けたい。ただ0778は呑気に「はぁい」と返事して僕が呆れる間もなく手に持った食べかけのトーストを頬張り始めた。

 そうして僕達が朝食の時間を終える頃には、もうとっくに誰もが先ほど聞こえていたサイレンなど忘れてしまった様に、相変わらず談笑し出していた。


 先輩と共に移動したのは食堂の向かいにある休憩室。といっても人が多いからいくつか番号が割り振られていて、先輩が案内したのは三号室だった。先輩が扉に下げられてたプレートを空室から使用中に裏返してから部屋の中に入った。僕達も続くと入口前にいるだけでリラックス効果のある甘い香りがつんと濃く漂っているのが分かる。

 休憩室なら中から鍵をかけられるから誰かが勝手にこっそり盗み聞きするなんてことはなく、思う様に秘密の話が出来る。

 0778が真っ先にふかふかのソファに座り、先輩と僕も座ろうとするよりも先にテーブルに並んでいたコップを取って冷水筒から麦茶を注ぎ始めていた。最後に入った先輩が扉を閉めて鍵をかける。

「それで先輩? 外で何かが起きてるって話なんですけど」

「その前に、あなた達は森の噂話を知ってるのよね」

 知ってるも何も僕達の間では禁じられた噂話ってところだろう。0778が力強く頷いている。

「呪われた森だから一度入れば二度と帰ってこれないとか、夜中になると誰もいないのに森の奥から人の声がする噂でしょ? バラバラ死体が見つかるなんて物騒な噂もあったし」

 0778の「バラバラ死体」に少し引っかかるものがあった。確かにそういう噂があって立ち入り禁止になっているだろうけれど、今は深く考える時間じゃない。僕は0778が注いでくれた麦茶の入ったコップに目線を落としながら先輩に問いかけた。

「……もしかして事件が起きたとかですか? しかも人が死ぬような」

 僕の言葉に0778が軽く目を丸くして驚いた表情をしていたけれど、先輩は顔一つ変えずに涼しい表情で首を横に振る。

「少し違うけれど違わないかも、かな」

「どういう意味……?」

 きょとんと首を傾げる0778と疑問を向ける僕に対して、先輩はふんわりと悪戯っぽい笑みを浮かべて身を乗り出す勢いでとんでもないことを言い出した。


「それを確かめる為に――あたし達で森を見に行かない?」

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