忘れられない
うたた寝
第1話
1
大学の卒業を控え、学生時代ずっと一人暮らしをしていたアパートの解約日が迫ってきているため、私は退去の準備をしていた。ゼミの教授からは大学院への進学も薦められはしたが、私は断って就職をすることにした。
社会人になるまでの猶予期間である春休みの間は一度実家に戻ることになる。社会人になるタイミングで家を出るかは決めていない。就職先は実家からも通える場所にあるので、親が出て行け、と言わない限り、しばらくは実家から通おうとは思っている。
実家に送る物とこちらで捨てていく物に部屋の荷物を分けていく。退去前、という理由を抜きにしても、私の部屋は物が少なく片付いている。元々、大学に通っている間だけ借りる部屋、と割り切っていたので、退去時を見据えて荷物を極力増やさなかった。レイアウトもほとんど入居時のまま。生活に必要最低限の物だけ部屋に揃えたような形だ。
実家通いをしている友人からはせっかくの一人暮らしなのに勿体無い、とも言われた。一理あるとは思う。せっかく自分しか住んでいない部屋なのだから、自分の好きなようにレイアウトを組めばいい、というのはごもっともな意見だろう。実際、実家に帰れば家族の都合もあるから、好き勝手できる貴重な期間ではあっただろう。
だけど、私は変なところで現実主義なのだろう。どうせ退去時に戻さなきゃいけないしな、というのが頭の片隅にあったから、それを戻す手間や引っ越しの手間などを考えると、入居時から部屋のレイアウトを弄るのも、物を増やすのも抵抗があった。たまに衝動が抑えられない時は、動画で他人の部屋を見て落ち着いたりもした。
その甲斐あって、と言いたく、荷物の整理は比較的早く終わった。もう少し掛かるものかと思っていたが、物を買う時でさえ、実家に持って帰る物、こっちで捨てていく物、を考えながら買っていたから、今更その仕分けに迷うこともなかった。
今部屋に出ているほとんどの物は、大学を卒業するまでの間、この部屋で生活するのに必要な物だけ。残りの物は段ボール箱に詰められ、床に貼ったマスキングテープの境界線で処分する物、持って帰る物に分けられている。
唯一、まだ分けられずに残っているのが、押入れの中にしまってある、一つの箱。
他の物は引っ張り出し終え、広くなったスペースにポツンと置かれている。長いこと開けてはいないが、定期的に箱を掃除してはいたため、埃に塗れている、というようなことはない。
中身は分かっている。箱にも収納されている。そのまま持って帰るのも容易だし、そのまま捨てていくのも容易だ。
後は、決めるだけ。
ミニマリストというわけではないが、やはり物は増やさないに越したことはない。不用意に物を増やすから、こうやってしがらみが出てきて迷うことになる。
使わない物のスペースに家賃は払わない、1年使わない物は捨てる、色んな収納術の本に似たようなことが書いてあり、私もそれを参考にして物を捨てるようにしている。あの箱の存在はこの2つの定義にしっかりと違反している。
捨てようと思ったことは何度もある。実際、捨て掛けたこともある。
ゴミ捨て場まで置きに行った。部屋にも戻って来た。けど、その後、部屋の外から聞こえてくる車の音がやけに大きく聞こえた。近くを車が通る度、心臓の鼓動が大きくなって、気が気じゃなかった。ゴミ収集車が来たら処分されてしまう、そう思うと居ても立っても居られなくて、私はゴミ捨て場に走って戻り、捨ててきた物を回収してきてしまった。
それほど物に執着を持たず、要らないと思えばすぐに物を捨ててきた私が、どうしても捨てれない物。
それは元カレとの思い出。
貰ったプレゼントも、一緒に撮った写真も、連絡先さえも消せはしない。
それとなく友人に、別れた後ってどうしてる? と聞いてみたところ、売れる物は売り、後は捨てると言っていた。逞しい友人だと思う。私にはとても真似ができない。
未練がましいと思われるだろう。否定はできない。いや、ただ未練がましいだけなら何の問題も無いと思う。ただ、私の場合は問題だ。
私にはもう、別の彼氏が居るのだから。
にも拘わらず、昔の彼氏のことを忘れられないでいる。
大事な思い出だから、そう自分に言い聞かせてる。今はもう別れてしまったけど、それでも本当に心から好きだった人と一緒に過ごした、かけがえのない大切な思い出だから、と。
だけど、本当は気付いている。思い出にはできていない、と。今も、そして恐らく、これからも続いていく。
口に出すことは憚られる。
だから心の中で言うことにする。
私は今でも、カレのことが好きなのだ。
2
出会ったのは高校生の時だった。
何かロマンティックな出会いがあったわけではない。多くの高校生が経験しているような普通の出会いだった。あえて少し珍しいかもしれないことを挙げるとすれば、それが私の初恋で、初めての恋人だったことくらいだろうか?
好きになったきっかけはよく覚えていない。優しかったか、面白かったか、そんなようなありきたりな理由だった気がする。
高校2年生の終わりに、私から告白した。後にも先にも、多分人生で一番勇気を振り絞った時だったように思う。緊張のあまり、『好きです』のたった4文字も噛んだような気がする。その後の『付き合ってください』は喉につっかえて出てこなかった。
初めての告白にしても酷いものだったと自分でも思うが、告白の返事はなんとOKだった。初めての告白で、初めてOKを貰って、初めて彼氏ができて、不思議なテンションになってその場でカレに抱き付いたような気がする。
大学も将来なりたい職業のこととかは考えず、カレと一緒の大学に行きたい、という理由だけで進学先を決めた。そのせいで後の就活に苦労することにはなるのだが、当時大学を選ぶ上で、それ以上の理由など必要無かった。
そうして一緒に入れた大学で、恋人と一緒にキャンパスライフ。本当に夢の時間で、凄く楽しかったことを覚えている。
しかし、大学3年目のある日、私は彼と珍しく喧嘩した。いや、珍しく、と言うよりは、初めての喧嘩だったかもしれない。それくらい喧嘩した覚えが無い。
喧嘩のきっかけはもう覚えていない。何かとても大切なことだったような気もするし、とてもくだらないものだったような気もする。
売り言葉に買い言葉で口にしてしまった、『別れる』という言葉。どこかで甘えがあったのだろう。そう言えば、慌てて謝ってくれる、そんな風に思っていたのかもしれない。
だが、現実はそうではなく、軽はずみで口にしてしまった『別れる』という言葉をカレは否定してくれなかった。『分かった』と、彼は肯定してしまった。
言葉で成り立っていた二人の特別な関係はたった一つの言葉で赤の他人へと戻った。
何度謝ろうと思ったかしれない。だが、どうしても一歩が踏み出せなかった。自分から『別れる』と言ってしまった手前、自分からそれを撤回するのには抵抗があった。
そうこうしているうちに、カレが新しく彼女を作った。
酷くショックだった。裏切られたとも思った。分かってる。私のただのワガママ。カレは何も悪くない。別れたのだから新しい彼女を作っても何の問題も無い。
けど、カレがあまりにもあっさりと新しい彼女を作るから。私と付き合っていたあの時間が何の意味も無かったかのように思えた。別れて、次の恋に行けてしまう程度の、そんな普通の恋愛だったんだな、と思い知らされた。
その腹いせもあったんだと思う。向こうが新しく彼女を作ったのに、自分だけ彼氏を作れないことが、自分だけが二人が特別な関係だった時を引きずっているようで、酷く惨めに思えたのかもしれない。
大学のゼミの男子に端から声を掛けた。普段着ないような露出の多い服を着て、男子に意図的にボディタッチを繰り返した。あえて、カレの視線に入るようなところで。
もう彼方のことなんてもう何も気にしていませんよ、という私なりの強がりで、私なりの精一杯の当てつけだった。
いや、違う。本当は、ヤキモチを焼いてほしかった。私が他の男子に話し掛け、色目を使っていることに嫌な顔をしてほしかった。
だけど、カレの目には私は映らなかった。
気にしないどころか、見てもいない、という感じで、カレは平然と私の前を横切った。
傷付いたのは私の方だった。
それからは彼氏を作ることに必死だった。行ったことも無い合コンにも行ったし、街でナンパ紛いなこともした。人の集まりには必ず顔を出して、男性が居れば必ず声を掛けた。
周りから見れば、いや、今自分で客観的に見ても、必死過ぎて引いてしまうくらいだったろう。男遊びが好きな女子、そんな風な噂も耳に入ったように思う。けど、当時の私は気にしなかった。ちゃんと耳に入っていたかも怪しい。
早く新しく好きな人を作りたかった。新しい彼氏を作りたかった。元カレのことを過去にして、思い出にして、忘れてしまいたかった。元カレのことが今でも忘れられない惨めな自分を終わらせたかった。
そうまでして作った念願の彼氏だったのだが、結果的には、忘れるどころか、カレのことをより強く意識することが増えた。恋人としての行為を繰り返す度に、違う、コレじゃない、という違和感がずっと残った。
手を握られても、思い出すのはカレの手の感触だった。
キスをされても、思い出すのはカレの唇の柔らかさだった。
抱き締められても、思い出すのはカレの温もりだった。
どこに居ても、何をしていても、カレのことが常に頭を過り続けた。
カレのことが忘れられなかった。
3
今の彼氏に不満があるわけではない。
好きか、嫌いか、と聞かれれば、好きと答える。
だけど、好きか、嫌いか、の二択で聞かれなかったのであれば、多分、普通、と答えるだろう。
自棄だったんだと思う。そんなことを言っては今の彼氏に失礼ではあるが、きっと誰でも良かった。その中で彼が一番初めに告白してくれた、というだけの話。
別れるきっかけも探せないまま、今までズルズルと関係を続けてしまっている。自分から彼に近付いた手前、明確な別れる理由も無いまま、自分から別れると告げるのは憚られた。振ったら傷付くだろうな、ということも容易に想像がつく。私はほとんど、彼への同情で付き合いを続けていた。
何より、彼の目を見ていると、昔の自分を思い出す。本当に私のことを好きなんだろうな、というのが伝わってくる。
嬉しい反面、自分の好きより遥かに大きい好きであることが分かるから息苦しくなる。
思えば、カレもそういう気持ちだったのかもしれない。
私の好きの気持ちが大きく、それが重たくて、でも好きで居てくれる人を自分からは振れなくて、そんな時、私が自分から『別れる』と言い出した。私としては言う気の無い言葉を言ってしまったけど、カレからすれば、言ってほしかった言葉だったのかもしれない。
薄々は分かってた。私のことが好きで付き合ってくれたんじゃない。タイミングの問題だった。私が告白した時、たまたまカレに彼女が居なく、断る理由が無いから付き合ってくれただけ。
それが悪いとは言わない。同じことをしている身だ、というのもあるし、結婚するわけでもないのだ。とりあえず、くらいの軽い気持ちで交際したとしても、責めれるものではないと思う。
けど、私は、カレとの将来を考えていた。結婚、そんなことも考えてた。あの日、喧嘩をしないで、今も交際を続けられていたら、そうなっていたのだろうか?
いや、もし、当時のカレが今の私と同じ気持ちだったのであれば、恐らくそうならなかったのだろう。今の私が、今の彼との将来を考えられないように、当時のカレも、当時の私との将来を考えられはしなかっただろう。
彼は一緒に暮らそう、と言ってくれている。大学卒業まで交際を続けているのだから当然の流れなのかもしれない。結婚、という言葉も視野に入れているかもしれない。彼の人生設計に私が組み込まれだしているのが分かる。
それが、怖い。
私は彼を愛せるのだろうか? 彼と一緒に生きれるのだろうか?
私の中にはカレが居る。
彼と居る時も、居ない時も、カレはずっとそこに居る。
いつかカレが迎えに来てくれるのではないか? そんな起こりもしない夢みたいなことを考えている。
私はカレのことが好きで、カレのことを好きな私が嫌いだ。
忘れられない うたた寝 @utatanenap
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